波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「閑話休題」

2020-07-31 11:17:45 | Weblog
最近人に会うと「お宅ではコロナウイルスはどうですか」と聞かれることが多くなった。そう言われればコロナが始まって我が家でも変わったことといえば、嫁が作ってくれたマスクを外出の時には絶対欠かせなくなったこと、外出の出入り時は絶対に消毒が欠かせないこと、病院に薬を取りに行くときは体温の測定も欠かせないとか、うがいをするとか、日常生活で今までしたことのない事をするようになっている。今までにそんなことをしたことのない事をするようになって改めて思うのだが、果たしてこれで前よりも清潔になりお医者さんらしく病気にもかからなくなったのかといえば、そうでもないような気がする。つまり前と変わらなく思うし、これで大丈夫という安心感もない。多分気分的な安心感だけがあるだけのような気がしている。言い換えれば人間は生まれてこのかた誰でも罪を犯した人はいないはずである。」この場合罪の範囲もいろいろで殺人、放火、窃盗のような法的な対象になるものから手抜き、忘れてさぼり、不誠実な嘘をついたことなどの小さな罪までいろいろだが、心にやましいと思うことを持っていない人はいないと思っている。つまり果物で少し傷のあるものが香りが強く感じるのと似ている。
私は海外に行ったときは水を基本的に食前、食虫食後に飲まないようにしていたが、水を飲めば胃酸が薄まって菌を殺す力が薄くなるといわれていたからだが、たまに体に悪いものが入る時にそれを体内で薄める機能持ち合わせることも大事であろう。コロナを考えるときにそんなことを考えてみた。

「ウラジオストックの空に夢を」⑩

2020-07-25 11:12:50 | Weblog
義男は生まれつきひ弱だった。せいも小さく身体は貧弱だった。そのせいもあって兵役検査は乙種不合格で軍隊での採用はなかった。そんな体であったが、毎日の仕事ではかなり重いものも運ばなければならない。当時の運搬は車でなければリヤカーであったが、義男はこのりやかーで20キロの弁柄の木箱を載せ数キロの道を汗をかきながら運んでいた。それは彼にとってはハードな仕事であったが、それが精いっぱいの仕事であった。そんな毎日であったが。日曜日には二人の子供を連れて近くの教会へ熱心に通った。それはどんなお天気であろうと休むことはなく熱心に通った。クリスマスには一日中教会での奉仕につき、牧師と共に時間を過ごしていた。そんな日々を過ごしていたが、日本は戦争がはじまり仕事も次第にできなくなっていた。義男はある時この戦争が大きなものになることを察して身の回りの整理をすることにした。岡山の山内氏の許可を得て若いものも暇を出し、荷物も片付けるようにした。家具は早めに岡山の方へ送り出し、日用品の必要品だけを残していた。業務用の金庫は仕方なく置いてあったが、これは残るだろうと考えていた。船頭は日に日に激しくなり毎日が防空訓練と空襲警報の聯足であった。仕事どころではなく毎日の空襲に備えた落ち着かない毎日であった。そしていよいよ最後の時が迫っていた。義男は幼い男の子と妻を安全に守ることだけを考えていたが、よい知恵が出なかった。「どうすればたすかることができるか。?」

「世界への道」④

2020-07-23 18:12:45 | Weblog
新しい仕事についてから毎日の生活が変わった。それは仕事もさることながら日々新しい人との出会いがあることである。福島にいるまでの約30年は家庭だけの世界であり、家族だけの世界だった。当然そこで話すことも聞くことも僅かなことだけで、そこには何の発展もない。刺激も学びもなかった。そんな人生から全く新しい世界へと飛び立ったのである。毎日の出会い、毎日の出来事が新鮮であり、刺激であり、夢であった。そこには今まで自分が予測も考えも及ばない世界があり、そこから新しい刺激を受け学び、考え、進展があった。親会社へ行くこともその意味では大きな学びがあった・そして仕事が進むにつれて新しい世界は生まれるような気がしていた。台湾の仕事が始まるとそこから、海外からの新しい情報が入るようになった。アメリカ、ドイツ、イタリー。フランスから問い合わせがあり、新しい取引への交渉が始まった。自分では到底背負いきれない任務が次から次へと始まるのである。そこでⅮ社の国際事業部とコンタクトを取り、すべての交渉の取次ぎを委託することにした。さすがにエリートを取りそろえたグループで一人一人が素晴らしいタレントであった。私はその魅力に取りつかれて夢中であった。
自分が英語が堪能であり、それなりの経験と学力があれば、彼らともう少し対等に語り、仕事も進められるのだがと思いつつ、彼らの力を借りて日々の情報を進めていた。リーダーの部長は中でも優れた人であり、そのスタイルも洗練されてスマートであった。私は彼らと交わりを持っているときは、いつの間にか自分もその一人になっているような気がしていたのである。

「世界への道」③

2020-07-20 13:57:46 | Weblog
今まで考えたこともない世界への道が見えてきた。幸いお客さんの信用も少しづつ出来てきたが何より業界全体の需要が伸びているのが大きかった。何しろ車ブームで自動車の生産があがり、海外への工場生産が増加する。すると車一台に積載されるモーターが一台に8個使用される。そしてそのモーターにはマグネットが必ず必要とされる。そのマグネットの主原料を供給するのだから当然である。そんな時流に乗って、秋田、仙台、関東(栃木)、新潟、とその市場は次第に広がっていった。家庭を顧みる時間はなく、時間が出来れば親会社への顔出しとお付き合いが欠かせず、それを楽しみながら日々を暮らしていた。そんな毎日を過ごしていると次第に大切なことが守れなくなっているようだ。いつの間にか自分本位な勝手な行動に走り、大切なことも出来なくなっていた。それでも息子との時間は楽しかった。我が家での最初で一人の男とあって両親も喜んで、名前は父がどうしてもつけると言い張り、名付け親となり、娘も母の名前をそのまま付けられてしまう始末で何となく寂しかったが、これも家系として受け入れるしかなかった。銀座通いは次第に盛んになり、通う店も次第に増えてきた。それぞれ特徴があり、またそれぞれに美女が待ち構えている。酒を飲めない私は酔うことはなかったので常に冷静に行動はできたが、言動だけはそれなりにその場に合わせていた。
店内では昼間には決して見ることのないドレス姿の女性に囲まれ世間話や冗句で楽しめたが、何しろ上司が目を離さないので緊張が解けない。
それは帰りのハイヤーで見送りが終わるまで続くのである。

「ウラジオストックの空に夢を」⑨

2020-07-18 15:21:38 | Weblog
1923年に東京、横浜にかけて大地震が起こり、その結果、190万人の人が焼死するという、大災害があったことは、100年を過ぎる現在で葉」知っている人もあまりいないかもしれない。しかし関東大震災としての記録は現在でも大きなものとして残っている。義男はその頃敦賀で商売をしていたために、この災害に会わずにいた。山内氏が訪ねてきて仕事を頼まれたのは、東京が復興し始めていたころであり、その時東京にいなかったことは不幸中の幸いであった。「ベンガラ」という、初めて聞く顔料を扱うことに不安があったが、山内氏の真剣な頼みと東京の店を任されるという話は何もない義男には大きなチャンスでもあった。個人的にはソ連との貿易の仕事が夢であったが、家庭を持ち子供のことを考えると責任を感じていた。人一倍家族を大切に考えて、新しい仕事に取り組むことにした。焼け野原から新しい東京が生まれ始めていた東京へ戻ると早速、事務所を探し始めた。下町の安いところで便利がよいところと浜町付近を歩き、1階」は倉庫と事務所、2階は居
間そして3階は子供部屋の建屋を借りて報告をした。幸い教会も近いところにあり、公園や墨田側も近く、下町情緒の静かな場所であった。
義男は一人で始めたが、そのうちどこから聞いてくるのか、岡山の田舎から義男を頼って働かせてほしいと若者が出てくるので、手伝いをさせながら仕事を教えていた。弁柄は特別なもので最初は何処へもっていけば買ってもらえるか,わからない。山内さんも任せるとは言ったが、どこへ行けばよいかとはわからない。
義男は本を読んで、ペンキ屋さん、塗料やさん、、紙やさん、、糸屋さん、漆やさん、と少しづつお客さんを増やすことが出来てきた。

「世界への道」②

2020-07-16 15:43:15 | Weblog
台湾という海外への経験は大きな刺激と希望が与えられた。帰国してさっそく親会社へ報告、課長以下全員が興味と関心を持って耳を傾け聞いてくれた。b調質へも案内されてその時の様子を聞かれた。上場会社といえど海外との関係を持っている武将は特別であり、大半のスタッフは海外との関係はない。あるのは海外の鉱山のあるアフリカのニジェールとか、南米のボリビアとか、鉱山のあるへき地でしかなかったからエリートはいかない。そんなわけで私の話はかなりの興味と関心を持たれたことになる。帰国後本社にも報告したが、本社では技術の指導には消極的で協力する意思はなさ祖であった。私は個人的に親しくしている🅼市に相談をした。彼は珍しく興味を持ち、自分は会社とは関係なく個人的に協力したい「自分でできる事なら会社を辞めても行きたい」とまで言い出した。
私はその旨を伝えるとちょろこんで、「ぜひお願いしたい」となり、彼は会社を辞めて台湾の会社へ重役そして、迎えられてゆくことになった。この事件は社内としても大きな事件ではあったが止めることも出来ず、会社としては当社の原料を販売することで了解を取り、両社はこれからもよい関係を継続することになった。しかし🅼氏の行動は大胆でもあり、田舎の人とは思えない一大決心でもあった。彼には大きな夢があり、自分のできる事、自分の夢をかなえるためにはどんなことにも負けないという強い意志があったのだ。そしてこのことを契機に会社は大きな発展へとつながっていくことになる。

「世界への道」」①

2020-07-13 13:44:38 | Weblog
この話がきっかけで田舎の地場産業の会社が海外への道を歩み始めることになった。架橋の張さんの案内で初めて羽田から台湾へと行くことになった。無我夢中である。わずか3時間半で外国である。何もかもが刺激的であり、緊張感であり、感動的であった。空港に着くとまず日本とは全く違うにおいを感じた。其れが何であるか、全くわからないが独特の異様なにおいが鼻を衝く。後でわかったことだが、台湾で使われている様々な香辛料の入り混じった物のにおいということだった。(後日日本から出かけた人はこの匂いで着くや否や気分的に負けて何も口にできなくなってしまった人もいるが、現在では全く変わりないようです。)
静かで穏やかな雰囲気の町に降り立ち工場や事務所に案内され大歓迎を受けた。夜は台湾でも珍しい温泉郷へ案内され、歓迎の席を設けられた。その席には台湾のサービス女性まで付くというサービスぶりで驚かされた。私は全く初めての経験でどうしてよいかわからず、そのまま何もわからずすごしたが、これが台湾流の外人に対する特別なサービスらしい。いきなりの出来事で今でも忘れられない。然し好奇心を働かせて、いろいろと話を聞くことが出来た。そして彼女たちが働いているところまで押しかけてみたのである。ホテルは各階に女性が一人専属についていてお客の要件に何でも応えられるようになった居た。
私のフロアーにも中年の女性がいたが、なぜか日本が達者で便利であった。私は毎晩夜遅くまで接待を受けていたので、帰りのお土産を用意することを忘れて
出発の前夜遅く、その女性に土産を用意することを頼んで寝てしまったのだが、翌朝起きてみるとすっかり用意されていたのにはびっくりしたのである。

「ウラジオストックの空に夢を」⑧

2020-07-11 14:42:29 | Weblog
山内と名乗った男は玄関であいさつをし、手土産を置くと通され合間に座ると静かに話し始めた。この山内氏は同じ岡山でも西にあたる高梁というところのコメ問屋として商いをしていた。その商いは近郊だけではなくその北部にできた三菱金属の鉱山への専属の店でもあった。山内氏は若い時からその鉱山は商いを続けているうちにそこで採掘され製品になる「べんがら」の魅力に取りつかれ、何時しかこれを自分も扱ってみたいと考えるようになっていた・鉱山から町へ下る沿道にできた小さな商いではなく、これを機会を使って大量に製造し販売をして財を成したいとの考えがあった。その為に高橋を離れコメ問屋も譲り新しい土地を求めて県内を回り、工場を建てる許可を得るために奔走した。何しろ真っ赤な顔料を扱うだけに人の生活に影響があるために簡単には許可が下りず、くろうをしたようである。そして少し人里離れた山の谷あいの辺びな場所に工場を作ることが出来た。その製造は長年見てきた技術を持ってできたのだが、これを市場へ販売するのは全く別な仕事である。山内氏はハタと困ってしまった。「どうしてこれを売ることが出来るだろうか。作ることはできるが、これを売らなければ、お金にならない。」
そこで何とか販売をしてくれる人を探さなければと悩んだのである。するとある知人が岡山の神主のせがれで今、敦賀にいる🅼という人がいるが、いちどあってみたら」と紹介された。「岡山の人間で神主のせがれなら、悪い人間ではなさそうだ。一度会ってみよう」山内氏はとりあえずあって自分で確認すべく、岡山から通津がへと向かったのだ。

「新しい道」⑫

2020-07-09 15:47:42 | Weblog
人は成長と共に考え方が変わってくる。自分の生き方、自分の進む道が親や兄弟の影響から離れ自分自身の意思と希望で生きようとする、それが正しいか、間違っているかは別として自分の意志で言動が行われ、そしてそれによって生き方が新しく生まれてくる。私自身も親や兄の教育しつけ、指導の下に会った世界から自分自身の世界へと足を踏み入れたことになる。日々の行動はもちろん、会社の方針計画も含めて自分の行動は自分で決めていた。しかしそれは全てがよかったということではない。家庭を犠牲にして自分勝手な行動へと走ったこともあり、会社の方針にもどこまで耳を傾けていたかはわからない。縛られていた反動もあり、当時は自分の思うまま先輩の言われるまま、時間があれば勝手な行動に走っていたのである。当時は経済的にも少し余裕ができていたことも大きな影響があったと思う。そんな中で取引先に架橋と言われる台湾人の人がいた。彼らは日本へ単身出来てとても不自由な生活を辛抱して努力して財を成し家庭を作り、会社を始めていた。そして日本の技術を取り入れようとしていたのである。「🅼さん、台湾の会社から日本の技術を取り入れたいと希望が出ました。きょうりょくしてもらえませんか。」初めて外国からの話である。まだ日本では海外との取引は限られたところでしかなく(大手企業)小さな会社へは稀な話であった。それも個人的にである。私はこの話は誰にも話さず、どうしたものかとしばらく考えてみた。そして一番会社でも心を許せる🅼氏に相談することにした。勿論疑似ゆつ的なことは自分ではどうすることもできないがマネージメントはできる二人で力を合わせれば何とかなる。そんな思いであった。

「新しい道」⑪

2020-07-06 13:29:31 | Weblog
親会社との関係は仕事だけではなかった。それは交わりを持つことになった関係者の一人一人が個性豊かであり、自分にはもちえない優秀な知性と感性の持ち主ばかりであったことだ。関連会社の担当の課長のT氏とは交わりを持ち始めてから定年後までの長いお付き合いとなり、家族ぐるみの様々な関係を持つことになったが、一言でいえば「目にかけて頂いた」ということになる。仕事から遊びまでその時間は公私を持たずあったと思わえれる。長い期間では当然転族もあったがその先でも変わらず関係は続いた。T氏は関係会社の社長になり、当社の製品を今までと同じように取り扱うことになったのでその関係は変わらなかったのである。その言行録はその時々に聞かされ、自分にとってはとても参考になり、良くも悪くも従わざるを得ないところでもあった。その中でも麻雀とゴルフの回数は公私ともに多く、必ず自分の行く先では自分もお供をすることになっていた。おかげで普段は食べることのできない食事、遊び、などを経験することになり、個人ではとてもいけないような料理や場所へもお供することになったのである。時には公私混同もあるのではないかと思うこともしばしばであったが、そのようなことには少しも豚弱することはなかった。得意先訪問の土産物などは三越の最高級品であり、それも一つや二つではなく数種類が普通であった。
そんな流れの中で今でも忘れられないのは「囲碁」と「「歌」であった。お酒が入り、歌になると必ず裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていたその姿が今でも忘れられない。