波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「365歩のマーチ」

2018-10-29 09:53:45 | Weblog
「幸せは歩いてこない。だから歩いてゆくんだよ。一日一歩、三日で三歩、三歩歩いて二歩下がる。人生は~」こんな歌が人生歌としてヒットしたことがあった。しかし人生はこの歌のように単純にはいかない。人それぞれに備わったものがあり、それを背負って生きているのだから。
私自身で言えば生まれつき「斜頸」で生まれ首が少し傾いている。このことは自分自身でコンプレックスであったし、もともとひ弱な体つきで男性的には恥ずかしいくらいであった。しかしそれなりに人並みに生きてくることができたのは、月並みかもしれないが「運」「鈍」「根」と言われるものに恵まれてきたのだろうと思っている。「運」があまりにも悪ければどんな道も開けなかったかもしれないし、途中で挫折していたかもしれない。
そして運を支える「鈍」つまり適当に頭の悪さが、あきらめと切り替えの知恵をつけてくれたのでどんな場面に置かれても深刻にならず切り替えができてきたような気がしている。私の知っているご夫婦でご主人が若いときから「釣り」が好きで、仕事にはあまり熱心でないために生活は、楽ではないが
どんなに苦しいときでも、深刻にならず、自分で工夫して切り抜けて泣き言を一つも言わず、いつも明るくしておられる方がいるが、人生には当にこんな
「鈍」が必要であることを教えられている。そしてもう一つは「「根」であろうか。つまり一時的ではなくその習慣を「根気よく続けることができる事」も大事であろう。つまり昔から言われる「運」「鈍」「根」が適当に備わっていれば人生は正常に成立するようである。
しかしこれらは表には露わに見えるものではなく、むしろ世間的には「鈍」はプラスの資質には評価されないし「根」が実に便利で有効な能力であるかを知っているのは、外部の人にはわからないことであり、内向きに隠されたその人の能力であることを他の人は知らない。
ことほど左様に人生はそれぞれに備わったものをいかに有効に生かして、人に何と思われようが、その才能を生かして生きていくかにかかっているようだ。他人の評価に惑わされることだけは決してしないことだと思う。

「新聞週間を覚えて」

2018-10-22 13:59:59 | Weblog
10月15日から20日までの1週間であった事をご存知の人はあまりいなかったと思うけど私にはとても気になる時期でもあった。
新聞は今でこそあまり重要な存在ではなくなりつつあるが、大きな役割を果たしてきたと考えていいと思う。
数年前まで毎日のように夕方になると玄関のインターホンが鳴らされる。出ると必ず新聞の勧誘で、手にサービス用の食用油か洗濯石鹸の箱をもって
自社の新聞の契約を迫り、期間限定でしつこく迫られ断るのに神経を使っていたことがあったことを思い出すが、それも最近はばったりなくなり、静かになった。営業方針が変わったのか、増販をあきらめたのか、余計な神経を使わなくて済むようになったことはありがたい。
確かに最近のPCやスマホの多機能化が進み、新聞を大きく広げて読む姿は何処にいても見ることはない。たまに見るのはギャンブルの専門紙ぐらいだろうか、それは同時に読者数の減少にもつながり新聞の発行部数の減少にもつながっていることだと思われる。
それに関連して新聞社が関係しているプロ野球球団の成績も元気がなくなりつつあることも加えて一つの大きな社会現象になっているような気がしている。しかし新聞の大きな役割はなくなったわけではない。
私にとっては毎日の日課の一部であり日々の楽しみであり、学習の一部でもある。日々衰えつつある学習能力を補いまた覚醒させ、新しい世界の動きをわずかづつでも取り入れ知らせてくれる貴重な知識源である。新聞から得られる学習は生活の一部であり、能力劣化の補充でもあるわけである。
若い人には新聞に変わる知識源を持ち学習するので不要になりつつあるかもしれないが、そのことによって必要な知識を失う原因にもなっていることを知るべきだと考えてもよいと思う。
特に現在の日本は世界的に重要な位置付けになっている。その影響は良くも悪くも大きく世界の動きに合わせて私たちの生活が左右されていると思っても大げさではない。その世界観を十分に養うためにも新聞は欠かせない気がする。
専門的な知識も必要であろうが、バランス感覚をしっかり身に着けて人生を歩むために新聞はいつの時代にも必要と考えている。

         「残されていた長靴」

2018-10-15 09:45:54 | Weblog
最近は電話で話すことはほとんど無くなった。ガラ軽からスマホに変わって電話をかけるのも聞くのも手順が変わり間違えることが多いのに、めったにかかってこない電話に戸惑うようになっている。そんなある日の日曜日の午後、電話がかかってきた。間違い電話かなと思いながら聞くと、女性の声である
家族以外に電話で話す女性はいないので戸惑ったが、聞くと「Fです、暫くです」という。すぐには思い出せないほどここ何年も話したことはないが、その女性が私の恩師の息子さんに嫁いだ方で80歳を過ぎてお元気であった。」話を聞くとなんでも教会のお掃除に月に何回かゆかれているそうで、先日トイレの掃除をしていたら一足の長靴を見つけ、この長靴だれが置いていったのかねとの話から「それはⅯさんの靴だわ」を教えられたというのだ。
つまり私がその長靴を置き忘れていたらしい。私自身はそれを聞いてすっかり忘れていたが、「そんなことがあったのか」置き忘れていたのかと恐縮していたら、それを聞いてFさんは私がトイレ掃除をしていたことをとても意外に思い感動したのだという。
それで電話をかけたんだと懐かしそうに話したのである。自らが奉仕とはいえトイレ掃除をしていることでその大切さを身をもって感じているからこそ、感じたことなのだろうけれど、普通はそんなことで電話などかけてくることはないだろうと思いながら、暫く懐かしく思い出話をしたのだが
電話を置いて暫くして、私はふと「もしこれが反対の話だったら」と考えてしまった・若いときからおしゃべりで余計なことを言っては相手につまらない感情を持たせる傾向がある私にとって、おしゃべりは危険な武器であったのだ。もし誰かが私の話したことで「心に傷を受けてそのことが何時までも残り
心を痛めていたら、又そんなことがあったら、それを私に恨みがましく言わないにせよ、私は大きな罪を犯していたことになるのではないか?」
そう思うと(考えすぎかもしれないが)逆もまた真なりかなと単純に喜んでもいられないと気付きを覚えたのである。
人は自分で思っているより繊細な面も多いし、自分が考えている通りに考えているわけでもない。(同じではない)同じ現象でも理解の仕方、考え方はそれぞれ違うのである。若いときは自分が思っていることが一番正しいとか、、自分の思っている通り、人も又思っていると考えがちだが、皆それぞれ同じ現象でも違うのだということをもう一度、反省を込めて考えてみたい。

「役に立つ存在」

2018-10-08 10:22:13 | Weblog
人は人生の後半(終わりが分からないので)になると、自分自身の人生を顧みるようになる。そして自分が何のために生きて何をして何の役に立ったのだろうかと不図考える時がある。果たして自分が生まれてこの世に生きていることが意味があったのだろうかとも思う。そんな時
それは言い換えると暗い夜道をただ一人で歩いて心細い思いの中にいる時、そばに誰かが佇んでいることが分かり、ほっとして安心することに似ていて
人は「存在する」だけでも知らずに人の役に立っていると考えてもよいのかもしれない。
私はこの年(83歳)になるまでに何回か「死」に直面する時を経験している。「死」といえば大げさかもしれないが「気を失い、意識がなくなる」ことを経験している。最初は5歳くらいの時で(その時の意識は今でもあるが)3階の物干し場から路地裏に墜落した時、落ちて立ち上がり、驚いて2階から降りてきた母親の胸に抱かれ、その瞬間に気を失ったこと。そしてもう一度は79歳の時、(ちょうどクリスマス)教会で祝会が終わり、お客様を見送り
休憩をするために集まろうとしていたことまでは覚えているが、そのあとのことは記憶にない。気が付いたのは救急車の中で名前を呼ばれて、目が覚めたように気づかされたときである。ほかにも立ち眩みやめまいで瞬間記憶が消えてエスカレーターから転がり落ちたこともあり、何度か危ない経験をしている。そのたびに大きなけがや後遺症の影響などを心配したが命はおろか、けがも最小限で済んでいまだに健在で生かされている。
人の運命は(人生)は自分で左右しているようで、そうではなく生かされ用いられていることがよくわかる。私ももしこの世で必要がなければ神のもとへすでに招かれていただろうし、この世での存在は消えてだれの記憶にも残っていない存在だろう。
しかしこうして家族とともにこの世にあって、少しでも存在することができる事は何か生きていることで何かに役に立っていることになることを知るべきであり、知らず知らずに何かをしているのである。今シルバーセンターの紹介で週一回の作業ができていることも幸せである。
そして突然古い知人からの電話や面談のお誘いを受けることの幸せをかみしめるのである。


「日々新たなり」

2018-10-01 10:46:29 | Weblog
「おーいМ君婆さんの様子がおかしんだ。」と隣からいつもの友人の爺さんの声がした。年寄り会の会食を何年か続けていたが、何年か過ぎるうちに一人減り、二人減りしているうちにその会も解散になっていたが、三人だけは一週間に一回くらい顔を合わせてお茶会をしていた仲良し組が続いていた。
「昨日夕方呼ばれて夕食のおかずを頂いて挨拶をして別れたばかりだったので気分でも悪くして寝込んでいるのかと思っていたら(一人暮らし)「台所で倒れて冷たくなっているんだ。今。救急車を頼んだところだ」という。日頃三人で話していると「お前さん達爺様を送ってからでないと私も死ねないからえねえ」というのが口癖なほど元気な人だったので、「亡くなった」と聞いても信じられたくて3年過ぎた今でも庭の向こうから「Ⅿさん、鍋持っていらっしゃい、今日はおいしいカボチャ煮たから」という声が聞こえてくる気がしてならない。
不思議なもので「人の死」は適当な「死に時」が備わっているような気がする。無理なく働き、遊び家族や友人の愛を十分に受けて、どうにか自分の暮らしが自分で何とか出来て体に良い食事と運動ができて、この世を楽しむことができて、いつか病気になったとしても「無理に生きようとしない」気持ちに自然になってくる気がする。つまり「無理をしない」し変に「気を回さない」ことが大事である。
わたしは60歳の定年を迎えてから血圧安定剤を飲み始めて20年を過ぎるが(心臓の安定剤、)等精神安定剤も飲んでいて医者にもかかっているが、時折検査で「数値が高いですよ」と言われても、何も言われても気にならなくなった。ある時医者が血液検査をしつこく進めるので、「この間したばかりですよ」と言ったらその医者のプライドを傷つけたようで「薬は今回限りで出しません。近くの医者に紹介状を書きますからそちらでもらってください」と不興を買い、病院を変えさせられたが、もう何があったも驚かない境地でもある。
毎日は計算されているようでもわからないことが多い。そして分からないほうが魅力があって楽しい気がする。世の中は全部わかっていてそのうえで規格通り進めていく人も必要だが、私はわからないで歩く道の楽しさを知り始めている。
そして最近はわたしの体力の無くなったことを知ってか知らずか、声をかけてくださる人も訪ねてくださる人もなくなった。偶に姪や従妹が様子を聞くように季節のはがきが来るくらいである。
サンタクロースではないが年に一度でも何が入っているかわからないプレゼント(物ではなく)で、出会いがあれば、それは素晴らしい出会いとなるだろうし、光栄なことでもあるのだが。…