波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

    泡粒の行方   第12回

2015-06-27 17:25:29 | Weblog
1945年3月(昭和20年)日本は最大の危機に面していた。分けても東京は連日の空襲の中焦土と化していた。欽二少年の家族も例外ではなく家族以外の人は皆、それぞれ安全なところへと返したが、母と弟は父親と家を守っていた。疎開で田舎に居る子供たちはそんな様子が良く分からず、あまり気にしないでいつものように過ごしていた。
そんなある日、父と母と弟が荷物を持って迎えに来た。「とうとう空襲で家が焼かれてしまった。これから田舎へ帰るので迎えに来ました。」先生に挨拶をしている。欽二は
ただこれで親と一緒に暮らせると言う思いだけで、ただ嬉しく思って戦争の怖さを想像できなかった。しかし、友達の中に親が空襲のさなか爆弾で焼かれ亡くなって、迎えに凝れなくなった人も居た。「これからどうするんだろう」とそのことだけはきになって心配をしていた。
帰りの電車の中で家族だけになり、「お家はどうなったの」と聞いた。父は空襲が続くようになる前に家の家事道具は田舎へ送り身の回りのものだけで生活をしていたらしい。
家は離れるわけにいかず、空襲のたびに防空壕や避難場所へ行ったが、最後の夜はそんな余裕は無かったらしい。「浜町公園へ行きなさい」と言われて母と弟はその夜公園へ逃げた、父は最期まで町会の人たちと防災に当たっていたらしい。別れ別れのまま空襲の夜を過ごしていた。翌日の朝公園をあち事と歩き母と弟が滑り台の影に避難しているのを見て
「助かった」と再会を喜び祈りをささげたとの事であった。
隅田川、明治座、学校、道路あちこちに累々と死骸が横たわる中を、夢中で迎えに来たらしい。そして家族は東京から岡山へと旅たったのである。
そこは父の勤めていた会社の本社があるところでもあり、父と母の田舎でも会った。
そこには会社の社宅があり、無事家族揃って生活が出来るようになっていた。
軍隊にいっていた兄も終戦とともに帰ってきて家族5人は無事に生活をすることが出来るようになった。

思いつくままに  「愛燦燦」

2015-06-24 09:23:59 | Weblog
退屈するとパソコンからユーチューブで音楽を楽しむことがある。ある日久しぶりに
美空ひばりの「愛燦燦」を聞いていた。彼女の歌も年代とともに少しづつ変わり、晩年には「川の流れのように」やこの歌のように人生を味わう内容になっていた
この歌は「愛燦燦とこの身に落ちて、僅かばかりの運の悪さをうらんだりして~人生って不思議なものですね」とある。いつの間にか口ずさみながらわが事のように自分の人生を振り返り噛みしめていた。人生の終わりに近づき最後に残るものはなんだろうか、人は各々命を与えられてその時そのときを夢中に過ごし時に喜び、時に悲しみ、はしゃいだり、悩んだり、不安になったり、落ち込んだりしながら生きている。
しかし、行き着く先は目に見えない大きな存在(神)の懐のうちにある。ただその事を信じられるか、信じられないかということになる。
そしてそれは何をもって知ることが出来るのだろうか。物質か、言葉か、権力か、身分か、備えられた環境か、それらは確かにその時そのときの喜びや幸せに繋がることだろう。しかし、それらはある時何かのきっかけで消えていくものである。
最後に残るのは形では表せない、目に見えない「愛」(神の愛)のうちにある事を知ることであろう。そしてその事を何処まで確信できるかであろうか。
そしてその事をどんなときにも忘れず何処まで追い求めてゆくことが出来るかであろうと思う。チルチルミチルが幸せの青い鳥を求めて生きた話、カールブッセの詩に詠われた
「山のあなたの空とおく、幸い住むと人のいう、ああ我人ととめゆきて涙さしぐみかえり来ぬ~」人は昔からこのように幸せを求めつつ生きて掴み得ないでいる。
幸せは身近にある。そしてそれは「愛」(アガーペ)として存在している。
それはいつでも、何処でも存在していることを知らなければならない。そしてその事を自覚したときに人は安定を平安として本当の幸せを覚えることが出来るのだろう。
しかし、そこに近づくには困難と試練と苦しみを伴うものということもしるべきだろう。
自分を犠牲にし、相手のために命まで惜しまないと言う覚悟も必要とされる。
人生はそれらの過程があることをしるべきであろうか、
「人生って不思議なものですね。」改めて考えさせてくれる。

泡粒の行方   第11回

2015-06-20 09:50:18 | Weblog
疎開生活は不自由さと貧しさで初めての経験であった。はじめはしょげていた子供たちだったが、その内順応してなれてきた。自由時間も多く、田舎の生活が珍しいことでそれなりに遊んだり、時間を楽しむことを覚えてきた。欽二少年もそれなりに順応していくことが出来た。元来明るい性格のようであった。ある日朝礼で先生から「今度の日曜日には皆さんのお父さんやお母さんが来ます。楽しみに待っていましょう。」と挨拶があった。
その時は思わず全員で歓声が上がった。我慢していたとはいえ、親との再会は彼らにとって何よりの喜びであり、楽しみである。やはり親に甘えたい年頃ではあったのだ。
半年も過ぎると村の学校へも一ヶ月に一回は行けるようになり、そこでは前と同じように教室で勉強が出来た。それは寺で机を並べてするのと違い、やはり気持ちが違ったた。運動場も広く、そこで村の子供たちとボールを使って遊べることも楽しかった。
牛乳運び、夏になると肝試し大会と今まで経験したことの無い生活は新鮮でもあった。そして「父兄面会日」がやってきた。子供たちは朝からそわそわと落ち着かなくていた。やがて親たちの乗った車が着き、荷物持ったそれぞれの親が車から降りてくる。
そして子供たちとそれぞれ自由時間を楽しむことが出来た。中でもお昼の時間は賑やかだった。思い思いの場所でそれぞれが風呂敷を広げ鞄から持ってきた食べ物を出している。
それは親が子供に食べさせてやりたいと用意した愛情の現われでもあった。
欽二少年は父親と母親と幼い弟とに挟まれていた。良く食べていたお寿司の味はわすれかけていた家を思い出し、あんこの甘い味は始めてわすれられない味であった。
(後日その事を母親に聞いたところそれはサツマイモとゼラチン味の甘味料だったが)
おなか一杯に食べて楽しい時間はあっという間で親たちは食事が終わると帰っていった。
中には親のくることが出来ない友達も居て、先生が変わりに特別な弁当とおやつを与えていた。こうして面会日は終わるのだが、その翌日には必ず何人かがおなかを壊していたようである。こうして疎開生活は続いていたが、戦争は次第に激しくなって東京も危険が迫っていた。

思いつくままに   「隣人への愛」

2015-06-17 09:43:45 | Weblog
週末に見る「寅さんシリーズ」の映画は私の楽しみの一つになっている。
昔、封切りを待ちかねて最初から見ているのではじめてみるのではなく、分かっているはずなのに何度見ても初めてのように新鮮で感動を覚えるのは何故なのかと思いを馳せてみる。そこには現代の世の中では見ることが少なくなりつつある他人への(隣人)愛が自然と表現されていることだと思う。
一般に言われている人間的な好き、嫌いの段階から、いつの間にかそれが失恋と言う状況になりながらその過程で寅さん(架空?)と言う人間を通じて人間の本来の愛をそこに生み出していく。ヒロインの女性はその境遇やおかれた環境で誰かにすがり助けてもらいたい気持ちを受け止めてくれる人間を求めて頼る。そこに寅さんと言う人物を得て人間としての真実の真心に触れて引かれていくのである。
作者はこの寅さんを通じて人間としての大事な真心を教えようとしている気がしてならない。現実にはない状況を作り、このような人物がいてその場を用いることが出来れば
世の中は明るく、また殺伐としたぎすぎすしたことにならないと言うことを教えているのだろう。日々のニュースを見ながら大事な事を忘れて生きている自分を忘れないようにしなければと思わされている。
梅雨の晴れ間と言う言葉があるが、今年の梅雨は今までのイメージと違い、男性的というか、熱帯性というか、さらおっとしてきた。確かに気象状況も変わりつつあるようだ。
アジサイも終わり、夏近しという季節になってきた。
日々新たにと言いたいところだが、あまり変わり栄えのしない毎日の中で、多くの恵みを様々な本の中に見出している。
そして読み終わった本の中で読み返すほどにその書かれた内容の理解が変わることもあり、その深さを知ることもある。
つまり読む側の心構えで伝わり方が違ってくるのである。不思議と言うか、深さがあることを知らされている。

    泡粒の行方    第10回

2015-06-13 10:12:39 | Weblog
疎開の宿泊地のお寺に着くまではまるで遠足か旅行にでも行くような浮き浮きした楽しい気分で一杯だった。然し荷物を置きいろいろと先生から注意事項や指導を受けているうちに気持ちがだんだん暗くなっていくのが分かった。
家に居たときは何でも好きなことが出来て、好きなものを食べさせてもらいしたいことが出来た。ここでは規則、規則と言われ自分でしたいことや食べたいものがひとつも無い。
欽二は生まれて始めて自分で思うようにならない生活を経験することになった。と言っていまさら帰ることもできない。親に会うことも出来ない。誰も助けてくれる人も居ない。そうでなくても身体も小さくいじめられるタイプだったので、誰かに何かを言いつけたりすることは出来ない。何でも黙って我慢するだけであった。
こうしてお寺での疎開生活が始まった。東京の親のことは先生から説明があるだけで詳しいことは分からない。先生は東京も毎日空襲があり、落ち着かない日が続いていると話してくれたが、ここでの生活ではそんなことを聞かされても想像もつかない。
そんな生活で少し情緒不安もあったのだろうか、「ネションベン」をして布団を汚してしまった。散々叱られた挙句、その夜から便所の前に布団を置かれ、皆と離れて寝かされることになってしまった。
勉強はお寺のお堂の中にテーブルを置いて勉強をした。学校はあったが、地元の子供が
通っているので、疎開の子供たちには遣わしてもらえないのだと説明があった。
そんな毎日をすごしているうちに、だんだんその生活に慣れてきていつの間にか家之子とも気にならなくなっていた。
勉強は午前中で終わり、午後は当番にあっ立った人が数キロ離れた農家へ牛乳を貰いに行く作業があった。その当番に当たるとその日は外へ出られるという気持ちで気分が変わり
嬉しかった。先生も居ないこともあって自由になれるということも良かったのかもしれない。途中農家の庭に干してあるサツマイモを黙って食べたこともあり、(これは後日見つかって散々注意を受けたのだが。)何しろ育ち盛りであったことと食事もおやつも十分とは言えないもので、いつも何となくひもじい思いがった故である。
そんな毎日の中で「一番嬉しい日」があった。その日が決まり知らされるとその日が来るのが待ち遠しく夜も良く寝られないほどであった。

    思いつくままに   「一日一生」

2015-06-10 09:33:07 | Weblog
6月の声を聞くと「梅雨」「あじさい」と言う言葉が自然と思い浮かぶ。そんなことを思っていたら今朝は久しぶりの雨となり、気象庁も入梅宣言を出した。しかしここ数年は昔ほどのじめじめ、しとしとと言う感じとは違い何となくあっさりとした感じで終わっているようでこの雨の日も静かで落ち着く気がして良いものだと感じて面白いなあと思う。
朝起きるとこの数ヶ月続けているリハビリ体操を始める。これを済ませて身体の具合を確認するとその日の日課が始まるのだ。
24時間のうち8時間の睡眠時間を除くと16時間だが、この時間をどのように過ごすかそしてその時間をどのように生かすことが出来るかを考えるのだが、一番気になるのが、その日の体調の良し悪しである。その日によって僅かであるが、変化があり、その良し悪しで微妙に影響するのだ。良いときは次から次へと発想が浮かび身体も動くが何となく違う時は動作も鈍くなり、動きも悪くなる。(そんなときは無理をせず安静にするが)
一日は長いようで短く短いようで長い時間でもある。そして一日を過ごして寝る時間が来てベッドに向かうとき、頭は自然に一日を振り返る気持ちになっている。
「今日はどんな一日だったか」と考え「平安」の中で過ごせたときは「感謝」をおぼえ
時に自らを失うような日を過ごしたときは「不安」と「後悔」を覚えることもある。
いずれにしても、今日と言う一日は終わりであり、二度と過ごすことはできないのである。3月に亡くなった「ばば友」は当日まで何の変わりもなく過ごしていた。午前中に近所のばあ様と楽しく話をしてわかれてお昼の支度をしていたが、「心筋梗塞」で倒れ
夕方近所の「ジジ友」が訪ねてくるまで分からず、帰らぬ人となった。
人の運命のはかなさとその存在の大切さを教えられるのだが、人は皆同じ存在である。
一日は一生でもある。その事をつくづくと教えられ、覚えさせられた気がしている。
一日が何事も無く過ごせることは当然ではない。若いときは全く考えることは無いことだが、年代とともにその思いは強くなる。
そして生かされている恵みを大切に思い感謝と平安を祈らざるを得ないのである。

泡粒の行方    第9回

2015-06-06 10:57:44 | Weblog
昭和19年当時の日本は戦争前であったが、やはりその兆候は次第に出てきていたようである。父親派の仕事にも影響があるようで毎日外へ出ることが減り、隣組の人たちの話し合いであるとか、訓練のような集まりで家にいることがすかなかった。然し欽二少年にはそんなことは考えることも無く無邪気に毎日を過ごしていた。
家の中も少しづつ変わっていつのまにかしらないおばさんやお婆ちゃんが居た。田舎から
出てきた親戚の人たちであり、母親の兄弟であったり、母親であったり、姪であったり、
皆両親を頼って出てきて奉公のような仕事をしながら暮らしていた。
しかし、そんな平和なときも長く続かなかった。ある日校長先生から「この学校での授業も出来なくなった。4年生以上の生徒はそれぞれ疎開するところへ行くことになる。そして一年生から3年生までの小さい子供は親と一緒にいて勉強するようになります。」と言うことになった。
それを聞いたとき、欽二は無邪気にどこか遠足に行くような開放感と期待感だけでただ嬉しいだけだった。日ごろは親に何処かに連れて行ってもらえることが無く、母親と近所の公園や水天宮へのお参り、そして日曜日の教会学校しかないことに何となく不満があったのかもしれない。偶に父親が今日は映画を見せてやると言って喜んでついていくと
それはニュース映画専門で好きなちゃんばらもお芝居も無かった。
「疎開」その言葉を聴いてもどんな意味かも知らず、ただ遠足か旅行へでも行く気楽さが会った。そしてその日は来た。遠足気分で楽しく支度をして家を出る。
両親はただ支度をしながら寂しそうにしているのが不思議だった。学校へ集合すると
組ごとに並んで出発、電車は水天宮から出る電車だった。友達同士でわいわいと言いながら電車を乗りついて、着いたところは埼玉県の高麗川というところだった。
始めての田舎である。その田舎道を歩いて着いたところは大きなお寺であった。男組みの4年生の男子だけがそこへ預けられた。
今までの家と違い食べるものも寝ることも先生の言うとおりに規則があった。 そして今までの生活は変わったのである。次第にその生活の厳しさと、親を離れた寂しさを次第に感じるようになっていた。

     思いつくままに  「傍目八目」

2015-06-03 09:20:06 | Weblog
囲碁をそばで観察している人は実際に打っている人の八目先を見越していると言う諺がある。この諺は囲碁に限らず実社会でも色々に使われている。
私にとって囲碁は社会人になった頃からずっと頭から離れないものであったが、中々実際に取り組む機会が無かった。(できなかったと言うべきか。?)
サラリーマンになって会社務めをするようになったとき、仕事は営業担当であった。その時担当の先輩から営業になったら「必修五科目」をマスターする必要があると聞かされた。私は学校で学んだ科目を考えながら、漠然と「パソコン」「指数計算」「資料作成」などの事を思い浮かべて何を勉強するのかと内心不安を覚えていたところ、それは全く予想が外れて趣味の世界のことであった。つまり「酒」「歌」「ゴルフ」「マージャン」そして「囲碁」であった。つまり人間関係の交わりにおいてこれだけのことが出来るようになっておかないとお付き合いが出来ない、そして仕事にも影響すると言うことであった。私は「囲碁」以外は人並に出来てお付き合いが出来たので、何とか時間外授業もこなせていたが、「囲碁」もその内できるようになりたいと思っている間に定年を迎えてしまい、勉強しないままになっていた。そしてもう「囲碁」を楽しむことは出来ないかと思っていたが、どこか頭の片隅にこのことが残っていた。
そして何時か「囲碁」を楽しむことを願っていたのだ。
そんな時に不図TV番組の囲碁を見ていて分からぬままに過ごしていたが、分からぬままに興味が出てきたのだ。「習わぬ経を読む」の例えのようにいつの間にかその番組のとりこになっていた。するといつの間にか、対局者の打つ石を一緒に考えている自分がそこに居た。「次は自分ならあそこに打ちたい」と思ってみていて、同じ箇所に石が置かれると無性に嬉しくなり、次は何処に打つのだろうかと興味がわく。「囲碁」は世界最古のゲームとも言われ三千年前からあったともいわれているが、むべなるかなである。
最近では囲碁のゲームソフトで一日一回は楽しんでいる。偶に勝つこともあるが、何となくその日は気分もよくなる。
昔から「六十の手習い」と言う言葉は聴いているが、いまや「八十の手習い」に訂正すべきではないかと思うしだいである。