波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに

2012-05-29 09:53:36 | Weblog
人は一生のうちで病気を経験しない人はいない。と言うよりはむしろ病気と隣り合わせの一生と言ってもいいくらいである。
そして私たちの周辺では様々な病気で苦しんでいる人が多いことを知る。それは私たちが生きていると言うことの証拠でもあるのだが。そして私自身もこの歳になると、最大の目的はどのようにして最低限の「健康」を維持していくことができるかと言うこと以外にない。それは自分自身が苦しみたくないと言う事もさることながら、それ以上に周辺の人たちに迷惑をかけたくないと言うことでもある。
しかし、どうあがいても生きている限り病気と縁を切ると言うわけにはいかないのである。それではこの病をどう考えて、どう受け止めたらよいのか。単に困ったことであり、苦しみ、痛みに耐えていくことしかないと考えるべきなのか。
それでは全くマイナス思考で終わってしまうし、それだけでなくその影響は生活全体に及んで色々な現象を派生させ、何のプラスも生まれてこないことになる。
作家の曽野綾子さんはその著書の中で度々書いている中に自分が視力が悪かったことを含めて「自分はこの世を手放しで楽しいと思ったことはない。  中略  だからかなり人為的に楽しいものを覚える術を覚えるようになった。それでもやはり生きることが苦しくなる」と書いている。
人が肉体上に欠陥を持つことをどう考えるか。(病気を含めて)「私の身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないようにと私を痛めつけるためにサタンから送られた使いです。」と聖書にはあります。そして「力は弱さの中にこそ十分発揮されるのだ」と続いていました。
世の中には身体の苦しみだけでなく、精神的にも苦しみに耐えながら生きている人はたくさんいることでしょう。
そしてこれを免れることは出来ないとすれば、この弱さを十分受け止めた上でどのように自分の力がそこに発揮できるかを
真剣に考えてみることが必要なのではないだろうか。

      思いつくままに

2012-05-23 09:53:48 | Weblog
「その男は生まれも育ちも良く、優秀な教育を受け立派な才能を身に着けることが出来た。そしてそのままの人生を歩めば
優雅で人のうらやむ生活が保証されていたのです。しかし、ある時旅の途中で強い光に当たり、地上に倒れ目が見えなくなり、
その時、ある「声」を聞いたのです。それからの彼の人生は今までと全く異なった人生を歩むことになったのです。」
世の中にはある日、ある時から突然それまでと違った人生を歩み始める人があることを多くいることとを聞いている。
また、人生には大きく変わる転換期のようなものが人それぞれにありその事によって大きく変わるものだと思う。
身近な例で言えば、人生の半分をタバコの煙の中で過ごしてきた人がいたが、「このまま続ければそれほど長くないうちに、あなたは死にますよ」といわれた途端、その日のうちに止めたと言う人などいい例だと思う。
他にもその大小を問わなければ幾多の「回心」的なケースはあるだろうと思う。上記の人もそのままのコースを過ごせば、
人々の尊敬を得て若い女性から熱い視線を受けながら物質的にも恵まれた生活が出来たことだと思う。
しかし、彼は目が見えなくなり、ある「声」を聞いたときにこの世的な「受ける人生よりも与えることの人生の喜び」を
人生の目的として歩み始めることになったのである。
確かに人間はこの世の欲望の中にあって事の大小はあっても、一生これを追い続けるのかも知れない。美味しいものを食べ
能率の良い機能を持つ道具を持ち、身辺を美しく飾ることを考え、少しでも長生きをすることに力を入れる。
しかしこの事が全て得られたとして人は心を充たされ満足を得られるのだろうか。
この世的な人生は常に競争原理が働いていて、人は意識、無意識のうちに右往、左往しながらその中で自分を格付けしながら
一喜一憂しているのではないだろうか。
それは仕方のないことであり、当たり前のことかも知れない。しかしその中にあって他人との比較の意識からもっと大切なものを求めながら生きることもあって良いのではないかと考えるのです。
そしてその中にこそ、永久に変わらない心の平安と安らぎがあることを知りたいのです。

オショロコマのように生きた男  第100回

2012-05-21 14:20:21 | Weblog
何時の間にか「オショロコマのように生きた男」も100回を重ねた。元気で自由奔放に生きて自分の夢を果たした一人の男
も人知れずこの世を去った。
私の周辺の様子も少しづつ変わり、交わりを持った人々が姿を消しつつあることを知らされる。そして自分もまたその一人としてこの世を去るときが来ることを思う。生かされている時間の中で今何をすべきか、どのように生きるべきかを模索している。
兄も亡くなり、弟も頭を患い介護の生活をしている。何人かの親しい知人も何時の間にか消えていく中で、思い描くのはやはり
若かった時代の歩いてきた道であろうか。今にしてその時、夢中になって動いたこと、語ったこと、歌ってきたことなどが
走馬灯のように頭をよぎる思いである。
そして今静かに人生を考えながら、楽しめる時間が与えられている。若いときに望んでいた平安な時間が今目の前に置かれている。「一日一生」と言う言葉が今こそ現実になり、大切でもある。身辺の整理をしながら、生かされてきた人生を感謝しながら残された時間を喜びと感謝を持って過ごしたいと願っている。

次回は6月から「コンドルは飛んだ」と言うタイトルで、ブログを続けたいと思っている。

 オショロコマのように生きた男   第99回

2012-05-18 11:22:22 | Weblog
象は死を感じて覚悟を決めるとそっと群れを離れ一頭で誰も知らないところへ行き、そこで最後を迎えるといわれている。
そんな象の姿を思い浮かべながら、以前見た映画の「象の背中」を思い出していた。
役所広司扮する一人のサラリーマンがまだ中年の若さで不治の癌にかかり、次第に弱っていく肉体を覚えながら、職場を離れ
家族との別れ、知人との別れを惜しみつつ死を迎える経緯を生々しく捉えていて、他人事と思わずその映像を見ながら自分をそこに映し出して心を痛めたことがある。
人は何らかの形でこの世の生活を終えて別れを告げることになるのだが、どんな状態であれ肉体の死は簡単には受け入れがたいものであろう。中には夜、眠った状態で死を迎え家人も知らないままでこの世を去る人もいると聞いているが、考えてみれば
人は生まれたときから死への道は始まっていると言わねばならないだろう。だからそれは不条理でもなんでもないことであり、
新しいものが生まれることであり、成長があり、働くことでもあると思わねばならない。
それをしっかりと覚えてそれに耐えてしばし生きていくことになる。
村田も池田も宏のことは気になりながら、久子との話しをしてからは、その後会うことも語ることもなかった。そして消息は消えていた。そんな中、その年の暮れに一通の葉書を受け取った。そこには年賀を失礼すると言う挨拶と共に宏の訃報が書かれていた。オショロコマはその生涯を静かに終えていたのである。それは一頭の象のようにある意味、孤独な死であったかもい知れない。村田の頭には元気で颯爽とした、スマートなイメージの宏しか思い浮かばない。あのニヒルで無口なかっこいい宏が
今でも元気でいるようで、いつでも会える思いである。
人生は一度である。その中にあって出会った友の一人として、悠々と独自の人生を歩き、何時の間にか天上人になった彼を
思い浮かべるのみである。オショロコマは北海道に生息するといわれているが、今、彼はきっとその清流にもどり、元気良く泳いでいることだろう。
古いものが去り、新しく世代が変わっていく姿こそがこの宇宙の約束事であるはずだ。

      思いつくままに     

2012-05-16 10:11:03 | Weblog
小さいときから親の厳しいしつけの中で育ってきたせいか、「親子関係」というものに既成概念が出来ていて何事によらず
親の言うことは素直に聞き従うものと意識が出来ており、自分の意見や主張を通すことは出来ない習慣がついていた。
そしてそれは当たり前で特に日本の風習から、それは美徳とさえ思われていたのだ。(外国でも同じかもい知れない)
そして親の良いところを学ぶと言うことに関してその事が間違っているとは思っていない。しかし子供が成長していく過程において親も自分のエゴを子供に押し付けることもあっただろうと思うし、仮に間違って押し付けることがあったとしても不思議ではないと思えていた。そんな流れの中で現在自分が親となり、子どもを育てる立場になってみると、色々と考えさせられるようになって来た。子供が小さいときは自分がしつけられたようにしたと思うし、その中には自分の意思を強要することもあった
気がするが、時代の移り変わりと共に子供への接し方や考え方、ものの言い方などを変えざるを得ないことが分かってきた。
それには子供が親の言うことを聞かなくなるとと言うこともあるが、自分自身を省みて子供に責任を持って押し付ける自信も
ないことを自覚させられるようになったことでもある。
「本当に自信を持って子供に責任を果たせているか、果たしているか」と自問自答するとき、真剣に考えて全く自信を失うのである。勿論、そのことは子ども自身の成長があることの裏づけであり、大人になったことを証明することでもあり、大人としての才覚を持ち合わせていることでもある。しかし、それでも親は完全には子供を手放せない悩みを持ち合わせているのではないだろうか。
「親は子供とどう向き合い、考えるべきか」こんな事をいい歳をしながら真剣に考えるようになった。
そしてそんな中で「親が子供にしてやれる最大のことは、子供に何も期待しないこと」かもしれないと思うようになった。
そして親は子供にとってよき理解者の一人であり、友人であるとして考えて向き合い、話し合うことが大切なことかなと思うようになった。それ以上に期待することも望むことも無駄であり、強いて言えば滑稽なことと考えても誤りではないかとさえ思えるのである。皆さんはどうお考えだろうか。


オショロコマのように生きた男  第98回

2012-05-14 14:26:17 | Weblog
その頃、久子たちは宏の退院後のことで相談をしていた。まだ不自由な身体のことを考えて、家の中をリフオームすることにして風呂場やトイレを障害者用にすることにしていた。
村田は久子に呼ばれて会社で宏の様子を聞かされた後はその後のことを知る機会はなかった。見舞いを断られ会うことができないと言うことがわかってからは気になりながら、自分自身でその後のことを確認することはしなかった。
人伝に宏が病院を退院できたともまだ病院で治療を続けているとも聞くともなく聞いていたが、どれも定かではなくさりとて
直接久子に聞くのも憚られた。長い付き合いであり少ない友人の一人として人生を共にしてきただけに最後までこの関係を続けたいと思って願っていたが、それも適わぬことと諦めざるを得なかった。
小さいときから信仰と言うものを教えられ神の存在を聞かされて育って来たこともあり、何れ迎えるだろう「死」について
考えて分かっていた。しかし神を信じるか、信じないかはそれぞれの考え方であり、微妙なものがある。
一概には何とも言えないが、この世における私たちの世界では不測の出来事が起きることを予測しておく覚悟は必要であった。(宏の場合も全くそうであったのだが)もし、そのような出来事に出会ったときの人間の行動はたいていの場合、二つの立場に立つことになる。一つは事故の当事者で何とか生き残る可能性がある場合ともう一つは事故の家族か、知人で事故をただ見守るしかない場合である。そのばあい、人の出来ることはなんだろうと考える。
それは唯一つ神を信じるものも、信じないものも単純に手を合わせるということであり、祈ると言うことではないだろうか。
勿論神が存在すると言う証拠もないことは分かっている。しかしだからと言っていないという証拠もないのである。
世の中には神に会った事があるという人さえいないわけではないが、ただ淡々と人に押し付けるのではなく自分が神と約束したことを果たしていくことは間違ってはいないのではなかろうか。
いざと言うとき、非常時だけではなく、平時でも自らの身の処し方は決めておくべきであろうと思っている。
村田は仕事をしながら時々昔を思い出し、野間との出会いを思い、彼がどんな心情でいるのか人間としてどう考えているのか話してみたいと思っていた。

 オショロコマのように生きた男  第97回

2012-05-11 10:41:26 | Weblog
こんな調子が続けば退院も近いし、仕事も少しはできるようになるかも知れない。そうなれば運転は出来なくても外出が出来て行きたいところへも行ける。環境も変わり元気も出てくるだろう。宏はそんな事を期待して病院での生活を我慢しながら過ごしていた。そんなある日、突然順子が子供を連れて病院へ見舞いに来た。驚いたが暫くぶりの再会に思わず涙があふれてくるのを止めることは出来なかった。どんな事情であれ共に生活し仕事をしてきた。それは久子や家族とは違う感情ではあっても、その愛情は純粋な人間愛に通じる触れ合いであった。三人はそっと病院から出て近くのレストランへ行き、近況を語り合うことが出来た。短い間ではあったが群馬での生活は宏にとって生まれて始めての落ち着いた生活であったし、トレッキングを楽しみ、本当の家庭的な愛情のようなものをそこに求めながら育てていたのかも知れなかった。
若いときから家を離れ、仕事と言う自分の夢を追い続けていた宏にとって家庭という母体はなかった。千葉へ帰り自分の工場を持ってもそんな感情は生まれてこなかった。しかし、不思議に此処での生活に今までに覚えなかった本当の人間としての気持ちに立ち返っていたのかも知れない。
「今は何もしてやれないけど、元気になったら杖をついてでも会いに行くからね。元気でがんばっていてくれ」そういうのが精一杯であった。「あなたの元気な姿を一度見て安心したかったの。あのままでは不安でとても落ち着かなかったわ。でもこれで安心したわ。私のことは心配しないで二人で何とか頑張って待っているわ。」そこには言葉ではない本当の真心が表れて
お互いに通じていたし、それで充分であった。多くの言葉は必要なかったし、お金でもなかった。
宏は二人を見送ると何故か急に心が静かになり、ほっとした気持ちになった。何か心にかかっていた錘が取れたような、平安がそこにはあった。
それから数日して退院の日が検討されるようになった頃、突然体調が変化した。発熱である。始めは風邪かと診断され手当てが行われたが、それは頭からのものではなく、内臓に原因があった。検査の結果肺炎と診断され治療が始まった。
何かの合併症なのか、院内感染によるものか、その発症原因は不明であったが宏の容態ははかばかしくはなく、経過していた。

       思いつくままに

2012-05-09 10:12:55 | Weblog
今、考えてみると若いときは何処へ行くにも、何としても歩かないで行くことを無意識に考えていた気がする。あそこへ行くには
バスか電車、ついそこまで行くには自転車、そして最後には電車を待ったり切符を買うのが面倒くさいから、何処へ行くにも自家用車で行く、そんな行動パターンの人が良く見られていたし、自分もその一人だったと思う。
しかし年齢を重ねるごとに考え方が変わり、まるっきり逆になりつつある。何処へ行くにもまず「歩いてゆくこと」を考えるようになったのだ。(最も歳を取っても変わらない人も大勢いるが)答えは簡単である。考え方が変わっただけである。
自転車もバスも利用できないことはないが、出来るだけ歩いてゆけるところは歩くようにしよう。(距離を大体2キロメートルとしている)それは身体のためであり、健康のためである。それは雨でも同じである。ふだん歩かない生活になってから、機会を捉えて出来るだけ歩くことにするようになった。
物事はこのようにその時点時点で考え方を変える事で嘘のように不可能なことが可能になることがあることを知ったのだ。
それは生活習慣全体にいえることで、食べること、遊ぶこと、寝ること全ての時間の使い方を変える事が出来るし、人との接し方も変える事が出来るのだ。その中でも特に大切なことは人との「会話」ではないだろうか。
聖書には「全て口に入るものは腹を通って外へ出されることが分からないのか。しかし口から出てくるものは心から出るくるので
これこそ人を汚す」と諭している。「口は災いの元」とあるのもこのことを指しているのだろう。
そこで今更ながら言葉について考えてみる。会話で大事なことはどんな人と話すにも、その相手の人との尊敬と誠実さの上に
立っていなければならないだろうと思う。そのためには何を話すにしても相手が心を開いて話してくれるような自分でなければならないと思う。言い換えればこの人なら何でも打ち明けて話したいと思わせるような人間であることだと思うし、
それには聞き手側のほうの全人格の責任がかかっているし、そうすることで初めて本当の同情とか、共感も得られることになるのではないかと思うのである。とはいえ、なかなか咄嗟には考えているように上手にはは話せないで、感情的に思ったことを口走ってしまうもので、その事で相手を大きく傷つけてしまうことがあることをもって瞑すべしと思っている。

 オショロコマのように生きた男  第96回

2012-05-07 14:12:24 | Weblog
娘の真美は久子に隠れて毎日病院へ通っていた。真美の娘も学校から帰ると一緒に行くことも多かった。普段は気難しい宏も
二人が来るとこの時ばかりはとても心が和むようでとても嬉しそうに迎える。そして時間を忘れるかのようにいつまでも傍を離れないでいた。特別に話があるわけではない。ただまだ身体が不自由な宏を庇いながら病院内を歩いたり、お天気の良いときだと病院の庭へ出て散歩をするだけである。家族には言葉は多く要らない。まして物でもない。そこに流れている共通の心が通じ合って
平安をもたらしているのだろう。
家で作った食べ物を不自由な手で少しづつおいしそうに食べている姿を見ながら二人は嬉しそうであった。これから先のことを考えているわけではない。今を、現在をどのように楽しく過ごすことが出来るか。それだけである。
そんな毎日を過ごしていた宏に一通の手紙が届いた。順子からだった。誰からどのようにして調べ、分かったのだろうか。それとも宏が何とかして連絡を取ったのかも知れない。手紙は宏の慰めになり、力になり元気になることが出来た。
今はどうすることも出来ない悲しさや寂しさはあるが、お互いに元気で頑張りましょうと書かれた励ましと慰めの手紙を読みながら、宏は励まされ、嬉しく元気が出るのだった。
また、そこには順子もまた新しい仕事がみつかり、細々ながら生活も出来ているので安心してくれとも書いてあった。
宏は倒れる前に順子にお礼として渡しておいた金が役に立っているようであった。
やがて週末自宅帰宅の許可が下りるようになった。リハビリも順調に進み杖を突きながら少しづつ自分のことができるようになっていた。言葉も充分ではないが、片言づつはなせるようになり、回復していた。
久しぶりの家の感触はやはり病院と違った安らぎがあった。宏はそれを身体全体で受け止め感じることが出来た。
病院では味わえない暖かさと柔らかさがあり、身体が和んだ。嬉しかった。健康であることの大切さと喜びがそこにはあった。
食事は何を食べても美味しく、身につくようであり、家族の笑顔と笑いが何よりであった。しかし週末の二日間と言うのはあまりにも短く、あっけなかった。久しぶりに見た工場や事務所も本当に元気付けられたし、会社の人との出会いも本当に久しぶりで
懐かしく嬉しいものであったのだが、

 オショロコマのように生きた男  第95回

2012-05-04 10:50:38 | Weblog
台湾と言うところは世界における国々の中でも日本人にとっては特別なところと言っていいのではないだろうか。嘗て日本の
統治下にあったことやその時代を含めて歴史的にいろいろな面での交流があり、あらゆる面でのつながりができていた。勿論
良いことばかりではなかったかもしれないが、特に日本の文化を含めた良いところが残され、育っていることが大きな特色とも言えるだろうか。そのことが現代でも生きていて相互にその利益を享受できていることは喜ばしいことだと思う。
日本の景気が急激に伸び国内から外地へと進出を図ったとき、距離的に近いこと、そして言葉が共通すること等からいち早く
各企業が進出して、拡張できたことも大きな出来事であった。それに伴って多くの企業人も乗り込み生活を共にしたのだが、その中にあって今まで経験したことのない台湾の女性の魅力のとりこになったケースも自然に増えていったのである。
全てではないが、男性に対する奉仕のサービスは日本では見られないことであり(そこには大きな計算があるのだが)知らず知らずのうちに、その手の内に入ってしまい、力関係が逆転すると女性は(小姐)は優位に立って男性をリードすることになる。
そんなケースが多く見られるようになったのも、(表ざたになることはなかったが)この時期の特徴でもあった。
木梨の場合もこの例に当てはまり、日本での家庭を放棄したことになる。法的に離婚として成立したのか、どうかは定かではないが日本での生活を放棄しているとすれば、いずれにしても台湾での生活が主だったのだろう。
そこまでにはならなくても、女性との関係を清算するために多額の金を必要として工面した話も聞いたことがあるし、病気になって日本へ帰ることが出来なくなったという話もあったのだ。彼の場合はどうであったのか、事実としては台湾での生活を享受していたことは事実のようであった。
宏の毎日の生活は朝のリハビリから始まる。それは楽ではなくむしろ苦痛であった。本当はしたくなかったし、出来ればそれを逃れたいと思っていた。そしてもっと楽な方法が有るのではないかとも考えたし出来れば逃げ出したかったのである。
しかし久子の方針がそこにも生かされていて病院を変えることも、そのリハビリを始め、全てのことを変える気持ちはなかった。
つまり費用がかかることを出来るだけ避ける事を考えていた。そのことは宏の心の負担になって、どんなつらいことも我慢をしなければならなかった。