波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

音楽スタジオウーソーズ   第30回

2014-12-31 12:31:07 | Weblog
調べてみると、豊橋の出身だと分かった。それが分かると外処は誰にも相談することなく「ばあさん」に「これは豊橋まで行ってみるしかないよ。一緒に行ってくれ。俺が運転するから」と言うと身支度もそこそこに二人は飛び出した。東名高速をひた走りに走り、途中休憩をしながら現地に着いた。地元の役所で名前を告げると住所が分かり、近所に親戚がいることも分かった・その一軒の家を訪ねて事情を話し何か情報が無いか、知っていることはないかと聞き合わせたが、その所在や詳しい事は分からなかった。
何か知らせがあったら連絡をもらうことにして帰ることにしたが、このままではいけないと「家出人」扱いとして警察へも届けを出した。
何しろ思いついたらすぐ行動する傾向があり、ばあさんも長い付き合いをして分かっていたので、店を爺さんに任せて民生の仕事として動くのだった。
大宮へ帰ってからも町会の一人暮らしの家を定期的に回り、変わったことは内科、困っていることは無いか、病気であれば急病の知らせがあるとすぐ駆けつけて病院へつれて行き
何かと世話をしていた。そんなばあさんと一緒に動いたのが外処であり、そんなふたりを
爺さんは温かい目で見て食事の世話をしていた。
スタジオウーソーズは順調な滑り出しだった。まだカラオケスタジオなどが無い時代であり、音楽好きな人が口伝えに聞きつけて珍しさ半分で、毎日が満員であった。光一と春子はその運営で寝る暇も無いほどである。何しろ営業が終わる時間が1時そして帰って寝るのが、3時そして昼には起きて仕入れと店のその日のスケジュールにあわせて打ち合わせからリハーサルと休む暇も無い。時間があれば次のスケジュールの計画と予約を整理しなければならない。ピアニストは二人契約した。どちらもまだ学生でバイトだが、その技術は光一が自分で試していた。休みは原則無いので、交替である。
そんな店の評判を聞いて東京を中心に近郊のアーチストたちが出演希望をしてくるようになった。光一は自分の夢がかなった思いでとても嬉しかった。春子は音楽のことは良く分からなかったが、光一と一緒に暮らせることと仕事を分担して責任を持たされてていることに生きがいを感じていた。

  思いつくままに  「新しい年に思う」

2014-12-27 16:57:24 | Weblog
2014も間もなく終わる。そして無事に新しい年を迎えられそうだ。
暮れに失神を起こし救急車に乗せられて初めて手当てを受けた。疲労と緊張感がかさなり
血圧が急に下がったものと思われる。厳しい検査の結果幸い大きな障害も無く帰宅することが出来たことは本当に幸いであり、生涯三度目の命拾いを経験したことになる。
「5歳時に3階殻の落下2歳児に大腸カタルによる病気、そして今回の失神である。」
場所と時間によっては命を落としていてもおかしくないことを考えれば、本当に無傷
「鼻骨骨折」ですんだことはまことに神の恵みとしかいえない不思議な出来事であった。
80歳を前にして危なく生涯を終わるところだったが、本当に感謝であることを思うと同時に、この世での務めをしっかり果たしなさいとの啓示であると教えられたのである。
日々自分に課せられたことは何であるかを考えながら「一日一生」を願いつつ生きている
覚悟はあったが、その事を教えられた。
そして先生をはじめ関係者の方々のご援助に対して感謝せざるを得ない。そして駆けつけてきた家族全員の思いを実感として知ることが出来たことは何よりであった。
日ごろ、一人暮らしで殆ど交流はないのだが、こうしていざとなれば全員が駆けつけてくれることを実感として知る機会を得たことは、本当に嬉しく思うことが出来た。
中でも息子の嫁は日ごろ接することは少なく、心の交流も無いのでどんな気持ちでいるのか知る由も無かったが、病院では一日中私のそばを離れず介護に当たってくれて何くれと無く気を使ってくれた姿を見て本当に嬉しく家族の絆を知らされた思いである。
と言うのもこの近所でも似たような話を聞くたびに、母親が病気になっても嫁が世話をしないとか、そのために嫁の母親が変わりに見舞いに行くとか、施設に入っていても訪問もしないとかそんな話を聞いていたので、現在はそんな時代かと考えさせられていたところでもあったので、、我が家はまだ良いほうかと実感したしだいである。
来年は「卒寿」を迎えると同時に寿命平均年齢を迎える年でもある。これで生涯の区切りとなる。私には継承しなければいけない大きな任務が残されている。負の遺産をこのままにすることなく、新しいスタートとなる「新しい道筋」を作る任務があるとかんがえている。無理をせず「ican oniy do what i can」を実行したい

   音楽スタジオウーソーズ   第29回 

2014-12-22 15:51:39 | Weblog
子供から大人まで小鳥の好きな人は多数いる。私もかつて孫にせがまれて「いんこ」を何回か買ったことがあるが、人気があるのはカナリヤかもしれない。然し中でも高尚で価値のある小鳥は「うぐいす」であろう。昔はえさも今のように出来合いではなく、手作りで「すり餌」を工夫して作り与えたものである。手がかかるほど高級感を味わえるしそれだけ愛着もわくというものであった。ばあさんはそんな爺さんを温かい眼で見ていたし、そのために使うお小遣いを喜んで出していた。鶯は春になると見事な声で「ほーほけきょ」と鳴き、それは爺さんへの挨拶であり、お礼だったのかもしれない。そんな鳥かごを見ながら中々本題に入らないで持ち上げている町会長をばあさんは横目で見ながら「早く本題に入ればいいのに」といらいらしていた。
「井やおいしいお茶をご馳走様でした。ところで町会のほうも相変わらず忙しくて、今度も改選期になり、早く若い人に変わってもらえればと願っているのだが、このごろの若い衆は忙しくそれどころじゃないらしく年寄りがこうしていつまでも世話をしなければならないのだが、お宅の奥さんにもう一期お手伝い願いたいのだが、」と切り出した。
律儀な爺さんはその話を聞くと「そんなに丁寧に会長さんに頭下げられたんじゃあとてもお断りするわけには行きません。うちのばあさんでお役に立つなら」と簡単に承諾してしまった。会長も中々心得たもので頭を下げることを良く知っていたのである。
本当は問題の外処を調整しての宥め役ともいえなかったが、これでもう一期は安泰だと
してほっとしながら帰っていった。
そんなことがあったとは露しらず外処はいつもどおりの行動であった。
ある日町会事務所に電話が入った。一人暮らしの老人が近所の人の話で不在であることが分かった。そしてその当人がどこへ行ったか不明で分からないと言う知らせであった。
民生委員をかねているばあさんが訪ねてみると、家の中は何もなくなったものはなく、ただ当人だけがいなくなっていた。
一応その家族関係や身元については聞いていた範囲で分かっていた。彼は田舎が豊橋だと言うことも聞いていたが、それを聞くと外処はばあさんに「これは田舎へ行って実家で何か聞きださないと分からないぞ」と早速動き出したのである。いつもパターンだった。

   思いつくままに   「ジジババトリオ」

2014-12-19 14:52:39 | Weblog
一人のジジが昨年11月ごろ「俺、認知症だと病院で言われた」と聞いてから、娘が東京から仕事を止めて家の仕事をしながら父の介護をかねている。そして一年が過ぎようとしている。しかし普段の生活は特別変わった様子も無い。暇と時間を見てはババの家へより「茶飲み話」は続いている。然しそんな中でも治ることのない症状は目に見えないところで進んでいるのかもしれない。毎日のように訪ねてくるのは変わらないが、そこで話される内容や行動に以前と違っていることに気づくのだ。毎日自転車でぶらぶらするのも最初はストレス解消かと思っていたが、一日何回もあると、それは徘徊行動のひとつかと思えてくる。そんなわけでババとは時々相談して注意をするようにしている。
月一回行っている食事会も持ち回りで続いているが、遠くへ行くことは出来なくなったし、あちこち行くことも問題が出るようになり、一箇所に決めて行くようにした。
普段は家にいるのだが、ストレスがたまらないように外出する機会を色々と作っているようにも見える。娘が食事とか、旅行とか色々時を使っているように見える。
今年も春から北海道、長瀞、と旅行をし手空きには九州の日向へ行く予定だと楽しみにしていたが、体調を崩してゆくことが出来なくなった、盲腸の膿がでて2週間の入院が余儀なくされてさすがに自重したようである。
ばあさんも秋に長い療養生活をしていた主人が亡くなり、葬儀から49日の法事までめまぐるしい行事が続き少しばて気味でトリオの集まりも自粛せざるを得なかった。
暮れが近づき少し落ち着きを取り戻して、久しぶりに食事かをすることが出来た。
三人とも年齢も近いとあってお互いに慰めあい、好きなことを言いながらわずかな時間を楽しむことが出来るようになったのである。
その日ババが改まって「今日は久しぶりにパーマへ行ってきたのよ。」と言うので、
「きれいになったね」とお愛想であわせると「それで今日から私は未亡人になたのだからよろしくね。」とまじめな顔をしてのたまったのである。「はあー」と二人で顔を見合わせたのだが、改めて三人で大爆笑になった。この話はババが何気なく言ったらしいが、
笑いを取るにはタイミングも良く、会う人にこのせりふは受けるらしい。
パーマさんのままによると「確かにそうだけど、未亡人といって通るのは50才までだからねと」特技をさされたらしい。しかしこのジョーク当分続きそうだ。

   音楽タジオウーソーズ  第28回

2014-12-15 16:34:10 | Weblog
町会長は外処の処遇についてはいつも頭を悩ませていた。仕事は出来る。全てに精通している。成果もある。それではそれでい良いではないかとなるのだが、町会と言う組織が取り分け人と人との繋がり交わりである以上「人の和」が保たれなければならない。その肝心の和が途中で切れるのである。任期は「一期」二年はどこも同じなのだが、この改選の時期になると問題が起きる。選挙は無く、互選で当人が何らかの理由で止めない限り再任されるのだが、会長は外処の処遇で頭が痛かった。止めてもらいたいわけではない。ただ
彼を使うにはどうしても彼を補佐する人間がいる。それは副会長をして民生の仕事をしている名物ばあさんがいないとその調整がつかないのだ。
ばあさんは普段は文房具の店番をしているが、その主人は勤め人である。ばあさんに「、もう一期頼むよ」と言うと、「爺さんがいいといえば」と言うのが口癖だった。
総務をしながら、民生を役所から依頼を受け何かと忙しいのだが、世話すきなのか、町会の仕事もいやと言うことはない。でも主人を立てることだけは忘れなかった。
何しろ町会の中の人で知らない人はいないぐらい古く、気楽に話が出来るので、誰からも人気があった。ある日の夕方会長はばあさんの店を訪ねた。「ばあさん、今日は日曜で爺さんはいるかい」とそっと聞く。「裏で菊の花の手入れしているよ」と言われて、裏へ回る。「町会長さんが見えたよ。お茶でもしたら」と声をかける。
「いつ見てもお宅の菊は立派だね。手入れが大変でしょう。」爺さんは小鳥と花が好きで
菊は春から苗を吟味して買ってきて土の手入れから始まるのだが、秋には大輪の花をつけて針金で幾重にも重ねて盆栽にする。つまり菊人形形式にまで仕上げるのだ。
辛抱と手入れが必要で誰でも葉で着ない。この辺でも有名になり、あちこちの店で置かしてほしいと頼まれて貸し出している。
品評会などもあるのだがそのような目立つことが嫌いでそんなところへは一度も出したことは無い。
「ところで小鳥のほうはどうですか。」会長はころあいを見て話を振ってきた。
じんさんが可愛がっている「うぐいす」のことである。

   思いつくままに  「タラントン」 

2014-12-12 11:44:14 | Weblog
この言葉、ギリシャ語だということだが、聞いたことがあるなと考えているうちに
「タレント」と言う言葉にたどり着いた。もともとタレントとはこのタラントンという
ギリシャの銀の貨幣から始まtった言葉と言うことも分かった。私はタレントという
一種の職業としてTVで活躍している人たちの事を言っているのかと思っていたが、
タラントンの語源からきていることを知ったのである。
とすれば、タレントとは元来貨幣のことであり、貨幣としての価値から生まれた言葉として考えてよいのだと言うことである。人は皆各々が価値あるものとして生まれ生きているのだから、全ての人がタレントと言って良いわけである。
しかし、私たちはタレントと言われる人だけがTVで活躍し特別な才能があるかのごとく考えてしまうのだが、本当は私たちも同じタレントであってそれぞれに大きな役目を負っていることになる。ただそのことをどれだけ自覚してこの与えられた才能を生かしているか、それとも「だめ人間」としてその事を考えていないか、むしろ自分を貶めていないか
の違いを考えなければいけないのではないかと思うのだ。
立派な立場、権力や財産を持っている人だけが目立って、自分たちは適当に生きていけばいいのだと言うことにはならないのだ。つまり人は一人一人大きな賜物を与えられているのだと言うことを自覚して精一杯努力し、それを生かすことを考えなければいけないと思わされる。今日本では年間約3万人ほどの人が自殺していると統計が示しているが、確かに人間は様々な環境や肉体の弱さの中に生きている。そしてその困難、苦難に負けてしまう人も出てきてしまうかもしれない。しかしどんな境遇に置かれてもそのタレントは同じであり、大事なのである。その中で価値を十分に発揮する努力をして、人の役に立つことを考え行動しなければならないと思う。
私たちもTVに出ている人に負けないぐらいタレントとして自負して生きなければいけないのだと思うのだ。隠れている能力、生かされていない能力、努力していない能力を自覚して、もう一度再開発したいものである。これこそ「ボケ防止」には一番効果があるのではないだろうかと思う次第だ。
「片隅に知られざるタレント此処にあり」

音楽スタジオウーソーズ   第27回

2014-12-08 16:41:47 | Weblog
それはビデオによる記録撮影の仕事であった。彼は準備と舞台つくりそして各々の担当者に指示を与えると自分は表舞台から姿を消す。そしていつの間にか誰の目にも触れないようにカメラを持ってドキュメント撮影のカメラマンに変身するのだった。特別に身に着けたわけではないが、独学で身に着けたものだ。公園の舞台つくりから祭りの形が出来ていく流れを時間で追って、当日の人の集まり。各出店の賑わい盆踊りの輪を何重にもかさね、太鼓の力強い響き、集まてくる人の土産や食べ物を楽しそうにしている姿を気づかれないように、生き生きとした表情をあらゆる角度から追うのである。そこには主役も脇役もいない。その祭り全体が主役であった。
外処はそのことを町会から頼まれたわけではない。それを自慢げに見せるわけでもない。全てが自己満足であり、趣味であった。しかしそこに残された作品は後々にまで残る遺産でもあったのだ。こうして夏祭りは無事に終わった。当然その後に「反省会をかねた慰労会」が行われる。町会長を始め全役員、班長が集まる。本来なら和やかに「しゃんしゃん」と締めがあって終わるはずだが、酒が入り少し座が和らぐと大きな声をも出始め本音の部分も出てくる。「大体なんでも一人で仕切ってやるのはよくない。何事にも考えがおかるのだから皆でよく相談しながら進るべきだ」それはいかにも外処を意識した意見であった。彼も負けてはいなかった。酒は入っていないが真っ向から反論sる。「私が間違ったことをしたと言うのか、皆満足してうまくすんだではないか。それでも文句があるのか。」二人の話し合いは続いていたが、会長がころあいを見て「まあ、まあお互いに言い分はあるだろうが、うまく無事に終わったのだから良かったじゃないか」というと
ばあさんを振り向いて外処をを外へ連れ出し話を聞かせるのだった。
二次会への道筋でうまく二人を分かれさせ、その場を納めるのも総務のばあさんの役目であった。彼だけがそんな町会の異端者的存在であったが、又欠かせない人物であり、会長も頭の痛いとろろであった。
しかし彼はそんな程度のことでは遠慮することは無かった。その後も何事につけて自己主張を貫き町会のことに働いていたのである。

    思いつくままに   「新聞」

2014-12-05 09:49:23 | Weblog
朝、起きるとそのまま玄関に向かう。そして新聞を取り上げると部屋へ戻り簡単に見出しから大雑把に目を通す。これが毎日の習慣である。(休刊日はこれが出来なくてうろうろすることになる。)その日の掲載記事の確認が出来ると血圧の測定、そして洗顔、朝食を済ませゆっくり新聞を読み始める。最初に目が行くのはスポーツ欄でシーズンオフのこの時期はめぼしいものは無いのだが、いつの間にか習慣になっている。一面トップ記事はそのテーマが何であれ、やはりしっかり確認することにしている。そして各面を斜め読おみに見る。中でも関心があるのはどのジャンルにもついている「コラム記事」である。
短い内容の中にエスプリの聞いた味のある記事を読むのは朝のドリンクを飲むような爽やかさがある。そして一番関心と内容にこだわるのは「国際面」である。中国、韓国をはじめとしたアジア圏を中心に世界各地から知らされる記事はとても興味深い。
これらは直接何の関わりもないといえば、ないのだが、不思議に気になるところだ。そしてその記事を読みながら自分なりの関心とその内容を想像し、思いを馳せるのだ。
中国、韓国に関しては何といっても日本への影響、とりわけ経済的な生活への影響は間接的にあることであり、関心を持たざるを得ない。
考えてみると高校時代にクラブ活動で新聞部にいたことで「将来は?」と夢見たことを思うと新聞に対する愛着は今でもどこかに残っているのかもしれない。しかし現実的に大人になって考えてこれほど厳しい仕事はないと分かる。「夜がけ、朝駆け」は言うに及ばず余程の体力、精神力を備えていなければ出来ないことを考えて到底無理であったと言うことが分かる。時代とともに「新聞」もその意義や価値、利用度が変化しているようだが、その使命は残されている。それは真実を伝え、その真実から伝わる重要性とそこから生まれる個々の責任と自覚である。それを新聞から読み取らなければ意味が無い。
そしてこの記事を書いた記者の誠意と意図を汲み取ることかもしれないと思っている。
  「何気ない一字、一字に生きる文字」「言霊を伝えて生きる日々の朝」

    音楽スタジオウーソーズ   第26回 続

2014-12-01 10:09:40 | Weblog
そしてメインは福島の只見から届けられる名産のトマトの販売であった。親交のあった役場とのつながりで当日新鮮なトマトがトラックで届けられ小袋につめて即売するのだが、毎年完売になる。舞台の隣には寄付者の名前を張り出して祭りは最高の盛り上がりをみせる。普段は静かな町だが、こんなにも人がいるのかと思われるほどにあふれる。
小道具や駄菓子は浅草橋まで買出しに行き、こうして準備から終了まで約一ヶ月は役員の休む暇は無かった。しかしその間にも外処には特別な仕事があった。
彼はその時間の合間を見ながらある特別な事をしていたのだ。

音楽スタジオウーソーズ    第26回

2014-12-01 09:50:30 | Weblog
町会でのメインイベントは何といっても夏の夜を楽しむ「盆踊り大会」であった。外処はその時期になると一段と顔に輝きが増す。何しろ自分の腕の見せ所であり、誰にも出来ない企画を思い描いているからだ。町会の中央にある公園を借り受けその中央に踊りと太鼓の舞台をすえつけ周りを紅白の幔幕で張り巡らす。さすがにこれだけは専門の業者に依頼し高額の料金を必要とする。次には模擬店の仕込である。定番の焼きそば、焼き鳥が中心だがその他にもウインナーとか、カキ氷などがある。これらの担当を婦人部と協力して担当を決める。仕入れは役員が手分けをして吟味しながら購入し準備にかかる。そして何といっても一番力の入るのは子ども会へのサービスであった。予算も特別に増やしアイスキャンデー、アイスクリームを大きな冷凍ボックスに保存しておき、開催される二日間の決められた時間に集まった子供たちに無料で配布するのだ。このことは口伝えに近隣の子供たちにも知られて町会の子供たちだけではなく集まるのだ。その影響もあって他町会から外処の祭りが終わらないと自分の町会の祭りが出来ないと苦情が出るほどであった。