波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡    「しるしを求める」

2017-07-24 09:22:08 | Weblog
人は総じて口で語られたことは軽んじ、その結果を信じ、その結果を尊重する。このことは古来変わらず文化の最初といわれるギリシャ人は哲学的にものを考えその結果を尊重し、ヘブライ人もまた印を見なければ信じないとして現実の世界で苦難と困難に対する考え方に大きな影響を与えている。このことは21世紀の現代も変わっていない。つまり人は心で信じても実際にそれが現実にならなければ変わることはないのである。
しかしこの世に生きる私たちはそんな考え方で正しい生き方ができるだろうか。そんなにすべてが思うようになり思うようになってはじめて信じ、行動するのだろうか。
しかし現実にはそのような人が多いから、正しく生きることができないでいるのではないだろうか。なぜならこの世のことは「しるし」つまり結果が自分のおもうことにつながることはないからである。それでも人はそうなることを信じ、そうなることを願い、そうなることがすべてであるかのように人生を考え、「しるし」が実現することが正しく、実現しないことは信じないのである。しかし世の中のことは「見えなくても」「そうならなくても」「しるしがあらわれなくても」生きていかなくてはならないし、その中で生きることを強いられている。
そのために人はさまざまに行動し、主に「罪」の世界へと誘われていくことになる。それは日々の生活においても、会話についても行動についても影響してくることになる。

大事なことは「しるし」はなくてもありのままに、ありのままの姿にどれだけ感謝してどのように生きていくことができるかが、大事なことなのである。なぜなら「しるし」は願ったり、単に信じたり、祈ることでなることではないからである。
すべては人間の力ではない。そこに大事な原点があることに生きることが大切であろう。
貧しさの中にこそ本当の幸せがある。そこにこそ幸せの原点を見出し得なかったら、一生本と王の「しるし」を見つけることはできないと私はそんな思いの中にある。
すべては現実の世界ではなく、信じる心の世界にあることに思いをはせることから始まるのである。

思いつくままに   「日本のモラル」

2017-07-20 09:12:50 | Weblog
このごろの新聞やニュースを見ていると政界も一般の社会でも、あまり聞きたくない問題が多くなっているのはどうしたことだろうか。潜在的に会ったものが偶々話題になり、新聞をにぎわしているのか、もともとあったものが何かのきっかけで取り上げられて売り上げに取り上げられているのか、それにしてもこれらのニュースが大なり小なり本当であるなら由々しき傾向になりつつあるようで残念である。
古来日本は少なくとも「礼節を重んじる」事が人生における第一に重要なこととされ教育の上においても最も尊重されてきたはずである。そしてそのことは世界の尊敬の的となり、また日本の大きな特徴として取り上げられているはずである。現在海外からの来日外人訪問者も年々増え続けて(今年も上半期だけで1375万人)いると知らされている。つまり日本人が世界から注目の的になりつつあるのである。この大切な時期に政界をはじめ芸能界と毎日のように、自己中心的な言動が多く取り上げられていることは残念なことであり、
もしこれが日本の全体の傾向であるならば、やはりしっかりと自省する時期に来ているのではないかと思われる。すべてが自分の思うままになる。自分の考えが正しく自分の考えに従えという暗黙の傲慢さがいつの間にか当然のごとく日常の言動になってきつつあるようなきgしてならない。私自身高齢に成りすべてを自分でできなくなり、周囲の人の善意によって生活が成り立っていることをありがたく心から感謝の思いになることができるようになり、
初めて「謙虚」と「感謝」の思いを中心に生活が成り立つことがわかるようになるのだが、
自分ですべて支配し行動できると謙虚さが消え、権力と金力の影響がつよくなるのは自然かもしれないが、そんなときこそ「自分の立ち場」が何によって成り立っているか、
もう一度考えてみる時期ではないだろうか。なんでも自己力でできるから何を言っても何をしてもいいということではないという素朴な原点に戻りたいものである。

足跡    「新しい力」

2017-07-17 09:37:56 | Weblog
昨日終わった女子プロゴルフで韓国から始めて来た選手があっさりと優勝をした。それまで
記事にも乗ることのなかった選手である。予選で落ちるかと思っていたが徐々に上位につけて
最終日には日本の選手を寄せ付けずに大きくリードしたままの優勝であった。
日本の選手にもこんな例がないわけではないが残念ながら、偶然の要素が強く本当の力がないままに勝つことで次につながらない。このことはどのスポーツ界でも少なからずあるようである。
(同じ日にアメリカでは全米女子オープンで韓国の選手の優勝が伝えられている。)
これらは偶然だろうか。これらを裏付ける情報は詳しくないが、わずかに入ってくるTVの番組からでも、優勝が偶然ではない事実が伝ええられている。それは家族ぐるみの協力と貧しい中での努力の結集力である。それは国全体の位置づけにも現れているが、多かれ少なかれスポンサーやリッチな財産に支えられてできているものとは違うということである。
それは基本的なモチベーションで築かれていて、崩れることはない。またどんなに苦境に置かれてもその目的(家族の繁栄の為)を無くすことにはつながらないで努力をするのである。
また小さいときからのその積み重ねは時間と共に実を結ぶのである。
「新しい力」はこのように時間をかけて育っているのかもしれない。
いまやどの世界も世界的なフイールドでの戦いである。来るオリンピックもおなじである。
こうしてみると「新しい真実の力」は貧しさや苦しさの中から生まれてくるのかともおもわれる。私たちも少々の苦しさや悩みに不満を持たずにしっかりとそこから忍耐力と努力の力を養って本当の力を養わなくては長続きするものは生まれてこないのかと思わされたのである。

思いつくままに   「夏本番」

2017-07-13 09:37:07 | Weblog
毎日、30度を越える日が続くようになった。梅雨明けの宣言以前にすでに気象状況は梅雨明けであり、夏である。場所によっては台風まで上陸して豪雨による災害まで起きている。
この状況はかつての日本の気象状況であったパターンではなく、熱帯地方の気象状況といえよう。かつて台湾香港などアジアを仕事で回っていたころを思い出すとまったく変わらないし、むしろ湿度の大きさ、また雨の降り方によっては日本独特であり、嘗てない気象変化で準備や対策の遅れもあり、被害も大きくなっていることはざんねんである。こんな日本の夏はこれから新しいパターンとして検討を必要とするのではないだろうか。(高温多湿型)
そんなわけでいよいよ夏本番を迎えることになった。この時期私たちは二つの戦いを迎えることになる。ひとつは暑さ対策であり、ひとつは心構えの対策である。暑さはエアコンほかの方法があるが、心の構えはそれぞれ異なることだろう。日々おきる心に生まれる心構えはそれぞれ違うだろうし、そのときの気分にもある。
大事なことはどんな状況におかれても常に変わらぬ「平安」な心を持って一日を保つことができるかにある。人は状況やそのときの場面によって心が動き、平静な思いを保つことができず揺れ動くものである。それは自分の本当の気持ちではないかもしれないが変わるのである。
口から出る言葉も行動も変わる。これらがもたらす周囲の影響は少なからず、さまざまな変化をもたらす。是が大事なのである。
つまり、人は一日を意識するかしないかは別として「戦い」ノバにおかれていることを意識する必要がある。それを忘れると「自己中心的言動」になることをおぼえておきたい・
一日が過ぎて休むときその日の戦いは終わる
周囲の人に喜びと平和がどれだけ伝えることができたか、それが勝利につながる。ぎゃくであればそれは毒を撒き散らしただけに終わっている。
戦いは日々である。そのことを覚えてこの夏を乗り切りたいと思っている。

足跡   「フエイクと人間力」

2017-07-10 09:24:36 | Weblog
最近のニュースを見ていると心が暗くなることが多いのはどうしたことだろうか。
政界においても社会面においてもさまざまな問題が起きてワイドショーを毎日にぎわせている。
その主な内容は事実がはっきりしていないし、事実が動かもわからない。つまりフェイクの世界に入るのだろう。そのことが世間を混乱させ悩ませているのだが、果たしてこのことがどんな影響をもたらすのだろうか。
一番肝心なことは大事な本当に心を使い義務を果たさなければいけないことをすることなく、否
そんな時間も神経も使わないである意味、これからの将来に帰することにつながらないことに時間とエネルギーを使ってしまっているのではなかろうか。
本来の責任ある勤めを果たすことなく(当事者はこのことこそがその根源としている)時間を費やしているが、大事なことはもっとほかにあるし、やるべきことはあるはずである。
このこと自体は「人間力」つまり人間の本来のしなければならない大事な現実の問題をしっかりと見分け、そのことに全精力を注ぐという「人間力」が不足してきているような気がしてならない。最近では九州の豪雨による被害について日本全体で何ができるかを実行しなければならないだろうし、ほかにも重要な問題は残されている。
自己中心に自己保身のためのもんぢに時間を用いるのではなく少しでも困っている人、苦しんでいる人のために何ができるかをそれそぞが考えるべきであろう。
TVでこれらを取り上げると、いかにもこの問題が主な問題のように錯覚することもある。
そうではなく興味本位の話題を追うので半句、もう少し「人間力」を働かせたじかんをもつことを使うときではなかろうか。
そうでなければ日本はその心を向上させることはできないのではないだろうか。

思いつくままに   「上期を顧みて」

2017-07-06 10:07:16 | Weblog
月日の経つのは早いと最近思うようになった。高齢に成り毎日何をしようかと考えていたときには一日が長いと考えるときもあったが、今年になって一日が意外と早く感じるようになった。なぜなのだろうか。何が変わったのだろうか。
そんなことを考えながら今年を振り返るとすでに半分が過ぎているのである。日々悩みの中にあってこれからのことを考えると不安が消えたことはなかったが、(その影響からか動悸や
ストレス、精神的な不安)で体調も安定せずいつもトラウマの中にあったのだが、いつしかそれは消えて現在では健康な状態に近い感じで不安のトラウマも消えかけている。
その理由は自分ではわからない。何時からか「私は一人ではないという支えが芽生えてきたことにあるかもしれない。日々おきる出来事、耳に入る心配事、それらはいつもなら自分で何とか処理しようとあれこれと考え込んでいたが、何時しかそれをしなくなっている。そして、祈りの中に「すべてをゆだねる」ことができるようになった。冷静に考えれば自分でできることは何もないのだ。それは年齢と共に深くなっているのだが、さらに深くなる。何事につけても自分ではできないことを自覚するほどにその思いは強くなる。そしてそれが心の不安を取り去ってくれるのだ。だからといってすべてが安心できる状況にあるわけではない。
しかし自分でどうすることもできないという達観に徹するとき、その不安は消えるのである。
日本は東京オリンピック、アメリカは新大統領と華々しいスタートをきった2017年だったが果たして現在はその思い、期待にこたえて変化しつつあるのだろうか。
現在のところはまだ着手したところで混乱の中にあるのかもしれない。準備ともいえない状況の中で動いているようだ。
むしろ世界が不安の中にあって日々何が起きるかと思っている状況である。
新しく始まりそうなものもなく、人は自らのことで精一杯で大局的なものはない。
期待できるものも見当たらない。これから今年の後半に入るが、世界が叡智を結集して
世界平和にどのように貢献していくのか、、少なからず期待したいと思っている。

足跡    「至福のとき」

2017-07-03 09:49:47 | Weblog
人生においてどんなときが自分にとって幸せであり、よろこびであろうか、このことは誰もが願い、誰もが望みつつ生きていることであろう。そしてそれぞれにその時は与えられ、人は生きがいを覚え神に感謝しそして生きることの「生きがい」をそして責任を負って生きるのである。
それではどんなときが「至福のとき」なのであろうか。
結婚、出産、誕生、などさまざまなときがあることだろう。中にはいつか行ってみたかった土地へ行き、あこがれていた料理を食べ。何の気兼ねなく休むことにあるかもしれない。
また、長い間ほしいと思っていたものが手に入りそれを宝物のごとく、あいすることもあるかもしれない。それは千差万別であってそれぞれ備えられているものであろう。
私も人並みにそんなことを考えたこともあった。そしてそれらはそれぞれにかなえられたときもある。しかしそれらは時としてわずかな時間であり、あるときは一瞬でさえあったこともある。
ではいつまでも消えないで残る「至福のとき」とはどんなときであろうか。
人は出世、経済的安定、権力、名誉と次から次へと生まれてくる欲望を満たしていくのだが、それは果てしないもので終わらないものである。
その中にあっていつでも変わらず、常に変わらず「至福のときを得るのは「目に見えない心の安定てあろう。つまり平安な心ある。
それはいつでも気持ちの持ち方、考え方、祈りのなかで得られるのだ。
私は幸せなことに妻を早く亡くしたが二人の子供を授かった。栃らも人から見れば普通の子供である。しかしわたしにとっては、この子供たちと語り合い、交じり合い、お互いを信頼しあうことの確認ができるときこそ「至福のとき」としている。
それは平安そのものであり、幸せそのものだからである。