波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

             思いつくまま

2009-09-30 09:34:48 | Weblog
秋のこの時期にすぐ目に付くのがコスモスの花だ。無条件で此花の可愛さに目が奪われる。この花を見て「私この花はあまり好きじゃないの」と言う女性がいたら
お目にかかりたい。(余程へその位置が偏ってついている気がするからだ。)
私の知っているご婦人など、どの花よりも此花が好きだと特別に目をかけている。
そんなわけで、我が家の庭にも僅かながらコスモスの鉢が並んだ。何分にも大変根を張る勢いが強いので、水分の補給が大事で注意して、水を切らさぬようにしていないと「サヨナラ」の状態になる恐れがある。しかし、間に合う時間内に水をやればすぐ元気になるところは、ポパイのホーレンソウに似ているか。
そして、何故こんなに人気があるのかと念のために花言葉を調べてみると、「乙女心の純真さ」と「真心」とあった。むべなるかな、さもありなんと改めて納得した次第である。これほどの花言葉を持つ花は他に無いのではないかと。
当にこの花にふさわしいと思った。そして私は毎日の水遣りの時に言葉をかけてやることにした。(最も、こんな気障なことをするのは初めてのことであり、少し照れくさいのだが、)実はこれには少しわけがあって、狐狸庵こと遠藤周作さんが嘗て朝顔を育てた時にこの「言葉かけ」を実行したらしい。その結果、その朝顔は秋にも咲き続け、冬になって、応接間で一輪の花まで咲かせたと言う逸話が出ていたからである。それほどでなくても無人の我が家で花に話しかけることぐらいは悪くは無いと思ったことと、其処に自分の意志が働くことに自分の思いが洗われる気がしたからである。まして「真心」とあれば、あやかりたいと思うではないか。
そんなわけで、この秋はコスモスと暮らすことになった。
さて、目を転じて現実の生活の足元を見ると、やはり、毎日が不安な日々のような気がする。中でも「忍耐」と言う言葉は今の日本では「死語」に近いのかと思われるほどに聞かれなくなったし、見ることもなくなっている。
それは日本があまりにも豊かになりすぎていることにあると思うのだが、何でも
簡単に手に入るし、豊富にある。(昔は衣、食、住においてかなり不自由だった。)そうなると、人間は我慢が必要なくなる。いつでも、どこでも、欲しいものは手に入る。(便利と言えば、便利なのだが)
そこで、どうしても欲しいものが手に入らないと、手段を選ばないことも起きることになる。かくして、嘗てなかった事件が多発することになってきた。
そろそろ、このへんで「我慢」と言う言葉を何らかの形で復活させ、これをみんなで覚えることにしたいと思うのだが、どうだろうか。

オヨナさんと私    第29回

2009-09-28 14:11:50 | Weblog
大原から御宿まできて、オヨナさんは下車した。ここへ来るのは始めてであったが
ここが童謡「月の砂漠」の発祥の地であると聞いていたからである。小さかった頃母親から聞かされ、自分でも歌ってきた懐かしい歌である。そして日本の歌でありながら外国の雰囲気を漂わせ、その歌詞と共にそのまま夢の国に連れて行ってくれ
、この歌を聴きながら母親のひざで眠ったことを覚えていた。
駅を降りて小さな商店街を抜けると、道はそのまま海岸へ向かう。まっすぐに伸びている道を歩いていくと海が見えてくる。道の両側がいつの間にか砂浜につながっている。見事な砂浜であり、遠浅であればここは立派な海水浴場であろうか。
確かここにその彫像があると聞いていたが、どこだろうと目を凝らしてみると右前方に黒い影がある。その影が何か分らない。近づいていくと、それが、高さ約5メートルほどの実物大の「らくだ」であった。二頭のらくだに王子とお姫様が見事な服装で乗っている。
大正、昭和の初期に挿絵画家で有名だった加藤まさおが作詞したと言われ、この海岸の一角に「月の砂漠記念館」もあり、そこにはこのうたにつながる記念品が展示されている。恐らく、この歌を作った作詞者はこの砂浜を南国の砂漠に模して想像し、遠く異国の世界を想像しつつ、詩を作ったものと思われる。しかし、そのメロデー(作曲佐々木すぐる)と共にこの歌が異国の雰囲気をもって、夢をもたらしてくれたか、オヨナさんは改めて、ここに立って、この歌を噛みしめたのである。
そのらくだの彫像がが立つ、その前方に目をやると「日西墨三国交通発祥記念碑」が見える。スペイン人の水夫が遭難した時に、御宿の人が助けた記念だとのこと
様々な歴史の見えるところであった。
オヨナさんは、スケッチブックを取り出し、早速描き始めた。らくだとその背景に見える海とは見事なマッチングをし、その波の白さとが彼の心を捉えていた。
やがて、陽が西に傾き始め、夕暮れが近づいていた。
名残惜しいように、スケッチを片付け、立ち去ろうとした時、まだ其処に立ち尽くす一人の女性がいた。まだ若く美しい。
オヨナさんは、思わず声をかけていた。「そろそろ帰りませんか。」

思いつくまま

2009-09-23 11:26:38 | Weblog
手紙を貰って返事をしないのは名前を呼ばれて返事をしないのと同じように失礼なことである。又決められたことをきちんと実行しないことはその人の怠慢であり、誠意を問われることもある等と言う事を聞くことがある。
しかし、その表面に出たその事実だけをもって、その全体を量りその人を評することが本当に正しいのであろうか。最近耳にしたこれらのことについて考えてみた。
人間関係の中で大事なことの一つに言葉使いがあると思う。そして言葉の持つ意味の解釈で大きな齟齬が出る場合、また、表の言葉で言い表されていないその人の思いが理解できていない場合、そして額面どおりの言葉の解釈で誤解をしたり、錯覚したり、本当の理解をしないで悪く思ってしまう場合、など様々である。
作家の宮本百合子さんが「想像力の無いものは愛が無い」とある本に書いているそうですが、言い換えれば、そこには「思いやり」のようなものに通じる心がないと
人間関係が簡単に破綻する場合も出るのである。
人はその言動を持って是非を問い、批判しがちであるが、その裏に潜んでいる、何故そういう言葉が出たかをも深く考えることも必要で、其処に思いやりと、愛が生じてくるのかもしれない。
そしてそれを基にした新しい対応の方法が生まれてくるのだと思う。
手紙の返事をもらえなかったことに対して何故こなかったのか、其処に返事を出せなかった事情を察してあげることが思いやりであり、愛につながるのだと言うこと、なすべき事が出来なかったことに対しても何か事情があってその気持ちが無かったのではないと慮ることが大切なのだと思う。
それを単にその行為だけでその人の人格にまで推し量ることは慎むべきだと思うが
どうだろうか。そんな思いをはせていると自分もまたそのような立場にあったとき、冷静に豊かな想像力を働かせることが出来るだろうかと心配になってくる。
時あたかもシルバーウイークの真っ盛りである。好転に恵まれて行楽に出かける人の多いこともまた喜ばしいことで、夫々の家庭に何らかの気分転換と交わりに恵まれることを望みたい。そして英気を養って新しい希望に燃えて「実りの秋」を
目指して、再びスタートしてもらいたい気がする。

             オヨナさんと私   第28回

2009-09-18 09:32:29 | Weblog
「あんた、どちらから来なすったかね」土地訛りの言葉で聞かれ、慌てて
「東京です」と答える。すると、傍の石に腰をかけたかと思うと、急にしゃべりだした。「私は、主人と死に別れてもう10年以上になるんだが、子供たちも大きくなって夫々家庭を持ち、ホッとしていたんだが、この間息子から突然電話があり、ヤミ金に手を出して、金を借りたが、返せなくなって困っているので、助けて欲しいと言ってきたんだ。」オヨナさんはまるでオレオレ詐欺の話を聞いている気がしていた。「前にも会社の仕事にどうしても金が要るというので、その時は送ってやったんだが、私もこれ以上は出せないし、と言ってこのまま放っておくのも可愛そうでもあるし、どうしたもんだかと困っているんだが」遠くを見るように、其処まで話すと、お茶をごくりと飲んだ。
オヨナさんは黙って聞きながら、スケッチをつづけていた。枯れ池の周りに椿が植えられ、その青々とした葉の間を虫や蝶が飛び、鳥のさえずりが聞こえてくる。
二人だけの静かな空間は、外界を遮断されたようになっていた。
「子供はいくつになっても、可愛いもんだ。まして小さい時から気の弱いところのあるところを知っていて、不憫に思い、頼ってくれば、何とかしてやりたいと、
否もおうも無く思ってしまうのだが、今度ばかりは」とため息混じりに、言葉を詰まらせている。其処には素朴な子を思う一人の母親の姿があった。
「お母さん、息子さんは甘えているんですよ。そのお金。何に使ったんでしょうね。」「良く分らないんだが、なんでも会社に迷惑をかけたくないんだと言ってるんですよ。」「その話もどこまで本当か分りませんね。」オヨナさんもいつの間にか話に引き込まれていた。そして何時になく、厳しい口調でもあった。
それは教師が生徒を正しく導く時の姿勢の様でもあった。
「息子さんはお母さんを金ずると考え、言えば助けてくれると思って、自分のことを反省していないです。それでは同じことを何回も繰り返すことになりますよ。
それじゃあ、解決にはならないし、息子さんも良くなりませんよ。
ここでは、勇気を出して、お金を出さないで、突き放してあげてください。
可愛想ですが、自分で苦しんで、考えてもらいましょう。そして、自分で解決させるようにしましょう。そして心の中で息子さんの為に頑張るように祈ってあげてください。そうすれば何時か苦しんだ後に、立ち直る時が来ると思います。」
それは本当の愛が単なる甘えの中にあるのではなく、厳しさの中にあることを示す言葉であった。
年老いた母は黙って其処を立ち去っていった。その後姿はとても淋しげに見えた。

           思いつくまま

2009-09-16 10:54:43 | Weblog
「だからおれはね、自分のしたいことと戦うのが好きなんだ。これが本当の人間の戦うべき戦いだよ。」ある本の抜粋である。もしこの言葉を自分が聞いた立場だとすれば、自分はどう考えただろうか。この本の作者が登場人物の口を通して語らせた作者の思いは良く分るが、冷静に自分にとっての問題として受け止めて考える時、”したい事と戦う”とは何を指しているのか。それは自分の欲望を満たすために自分勝手なことをすることから自分を抑えると言うある意味ストイックな考えを指しているのかも知れないが、それは修行僧や修道院の生活を思わされるし、もし、そうであれば少し偏狭的と言わざるを得ない。
しかし、実際には言うとか、言わないとか、行うとか、しないとかは別としても
人は心のうちではあまり良いことを考えていないことが多い。
その良い例が”人の悪口”であり、”人の不幸”を聞いたときに無意識にでているのである。口では同情的な立場を取り、その被害者の立つ振りで何をするのでもなく、その被害者の誰も知りえていない事情を掴んだ、ある種の優越感に感じ、加害者への義憤を覚えつつ、傍観者でしかない自分がいる。
確かにそんな意味では”したい事と戦う”とはそのような悪、または罪との戦いになるし、自分を正しい方向へ向けさせるための戦いと言えるかもしれない。
人間的な戦いとはこういうことを言うのかもしれない。
しかし、日々の生活の中で何気なく行われている時間の中でこのことを意識することは難しいし、如何にその意識を働かせているかにかかってくる。
うっかりすると簡単に妥協してしまうからだ。
人間として、もし「正しい人」と言える人がいるとしたら、その人は人々に対して正しい姿勢を崩さなかった人のことであり、言い換えるならば、どんなやり方をすればその人を正しく生かし、歩ませることができるかと言う知識を持った人を言うのかもしれない。
そんな意味で自分のしたいことと戦うのが好きだとする主人公は正しい人を目指しているのだと思う。
「自己主張の果ては死である。」と言う言葉や「罪のはらう値は死である。」と言う言葉も聞くが、これらはこの戦いが如何に大切であるかを証明しているのかもしれない。

          オヨナさんと私   第27回

2009-09-14 11:18:55 | Weblog
「爽やかに別れましょう。」オヨナさんは明るく言った。その女性を咎めるのでもなく、またこうしなさいということも無かった。本来ならあなたも悪いのですよ、何故なら、合意の上のことだし、あなただけがだまされたとか、利用されたと言うことにはならないでしょうと言うべきだったかもしれない。
電車は大原駅に着いた。二人はそこで別れた。オヨナさんは振り向きもせず、駅を降りると、まっすぐに漁港のある海岸へ向かった。昔一度来たことのある、この海岸は目の前に荒々しい波が打ち寄せている。その波打ち際に立ち太平洋の彼方を眺めているうちに、次第に今の自分が小さく思えてくる。
人間は何故目の前の小さいことに惑わされ本当の自分の歩むべき道を見つけられないのだろうか。備えられた道が自分にあり、その道に沿って大胆に歩むことが示されながら、何故怖じ惑うのだろうか。そんな事を考えていた。
海岸から逆に帰る道筋に何軒か食事をさせてくれる店がある。オヨナさんは小さな狭い店に入った。カウンターの前に4、5人しか座れ無いようなところであり、
夜には常連の飲み屋になるのだろう。ここで新鮮な魚を食べるのが目的だった。
漁港には高級なイセエビ、をはじめ、サザエ、あわびなども取れるが、迷わず、
「いわし尽くし」を注文する。ここでは新鮮な美味しいいわしが年中とれる、刺身、天ぷら、塩焼き、つくねといろいろな味わい方がある。それらを満喫することで太平洋を感じることが出来るのだ。
食事を済ませると、もう一箇所訪ねるところへ向かった。数年前に宣伝のチラシで見た「大原に椿谷公園オープン」を見たかったからだ。
こんなところに椿公園と聞き、機会があればと、ずっと暖めていた希望だった。
食事をした店の主人も「そんなところは知らない」と言っていたので、仕方なく
市役所まで行き、聞いてみると、裏手に当るところで意外と近い山際だった。
普段の日と会って、人気は無く、無料である。入り口付近はつり橋のような橋があり、其処から始まるルートになっていた。道に沿って歩いていくと、道の両側に椿の苗木がびっしりと植えられているが、時期ではないので、花を見ることは出来なかった。しかし、その数は多く、種類もありそうだ。満開の時期は見事なものだろうと想像する。公園の中央付近に立派な東屋のような休憩所があった。
オヨナさんは其処へ立ち寄り、公園と椿を一心にスケッチし始めた。
誰もいないと思って夢中で描いていると「お茶をどうぞ」と声をかけられた。
振り向くと一人の老婆が立っていた。

            オヨナさんと私    第26回  

2009-09-11 09:06:32 | Weblog
こうして二人の交際は続いた。その内モーテルでの行為も肉体関係へ進み、当然のように二人は熱く燃えたのである。芙貴子にとっての性行為は15年以上のブランクの上であったし、忘れかけ、もう二度とそんな機会は無いとも思っていたこともあり、久しぶりの感情の高まりでもあった。彼も年甲斐も無く、熱くなっていたことは彼女を満足させることにもなっていた。
しかし、こんな時間もそんなに長く続くことは無かった。ある日から突然メールが入らなくなり、連絡が取れなくなった。始めのうちはどこかへ出かけていて、連絡が取れないでいるのか、病気でそんな気持ちになれないでいるのかとさほどに気にならないでいた。その内、連絡してくるだろう。そう思いつつ松とも無く待っていたが、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月経っても何の連絡も無かった。
そして、ようやく自分が男に利用されただけであったことを知るところとなった。
「結局、私の身体が目当てであって本当に長く付き合うつもりなど無かったんだ」と言うことを納得せざるを得なかったのである。
そう思ったとたん、自分のことは忘れて急に憎しみがわいてきた。抑えきれない激しい感情が突き上げてきた。「私はだまされたんだ。悔しい。どうしてあんな男に」「許せない。私をもてあそんで、知らん顔をしているなんて絶対許せないわ」
それは年老いた自分を振り返る、恥ずかしさであり、また惨めさでもあった。
どうしたらこの悔しい思いを癒すことが出来るか、このままでは気持ちを抑えることが出来そうもない。そんな鬱々とした気持ちが消えず、男が住んでいるといっていた町へ出かけようと電車に乗った。
窓際の席に何気なく座ると、向かい側にすらりとした中年の男がベレー帽をかぶり脇にスケッチブックをおいて座っている。オヨナさんだった。
芙貴子は思わず声をかけていた。「どちらまで行かれるのですか。」驚いたような顔をこちらに向け、それでも「大原まで」と答えた。
「そうですの。私も其処まで行くので、ご一緒してよいですか。」
電車の中での会話が始まっていた。「すいません。突然声をかけてご迷惑だったと思います。どもどうしてもお話を聞いてもらいたくて」と自分の身に起きたことを話し始めた。出来るだけ感情を抑えているのだろうけれど、どうしても我慢が出来ないのか、興奮して声が高くなることもあった。やがて声も静まり「どうしたらよいでしょう。このままではとてもおさまりそうも無いのです。」と聞いてきた。

             思いつくまま

2009-09-09 10:40:33 | Weblog
選挙も終わり、政権交代も行われたが、その前に一時政治家の中で「世襲制」について、かなり論議されたことがあった。確かにこの問題は日本だけではなく、世界的にも問題があり、特にインドにおける「カースト制度」は現代でも歴然として存在していることを含めていろいろ考えさせられることでもある。
確かに親のDNAを持つ子供が産まれ、それを基に育つ環境が同じであり、教育も受けることが出来るなら、自然と親と同じ道を歩み始めるのも当然であり、むしろ異なった道に進む方が不自然と言えるかもしれない。
そして、その育った環境がリッチであれば、あるほどその傾向は高いのであり、逆にその環境に恵まれなかった場合は、反発して其処から脱却しようと上を目指して新しい道を求めるもののような気がする。
どの家庭においても、似たようなことはいえるだろうし、その時代にも大きな影響を受けることにもなる。
「庄屋の財も二代目まで」なんてことわざがあるかどうか知らないが、立派な家督であっても三代続くことは難しいとも言われ、三代目になるとその家督が代わるとも言われている。それほどに「継承」すること、歴史を繋いでいくことが、色々な障害や問題が発生してくる中で、それを超えていく力が必要であること、強い意思と努力が必要であることを思う。
従って、100年を越える企業なり、建造物であれ、残されたもを見るとき、その裏面にあるものもあわせ考えなければならないと思うのである。
中には親の嫌なものを見てきたために、あえてそれを捨てる場合もでてきてもおかしくないだろうし、また、その上に立って親の生み出しえなかったものを創ろうと闘志を燃やすものもでてきてもおかしくない。そのような姿を見たら惜しみない拍手を送りたいと思う。先人の作ったものの上に、自分がそれを越えるものを作り上げてこそ継承の本当の意義があると思うからである。
先人の遺産にぶら下がり、それを食いつぶしているのであれば、継承の意味は無いことになる。しかし、積み上げていくことには困難を伴う。ともすれば挫折感を味わうかもしれないが、其処のその人の存在感と意思が試されているのであり、同時にその意思の実態が問われることになる。何故なら、それが正しいものであれば
それは必ず認められるからだと思うから…
今年は台風が少なく感じるが、どうなのだろうか、なし、ぶどう、柿、実りの秋を迎えつつある今日この頃である。

          オヨナさんと私   第25回

2009-09-07 10:11:26 | Weblog
今の自分には悲しい時に、嬉しい時にすがる誰かが居ない。そんな時にそっと肩を寄せ、又胸にすがって心を慰めてくれる人が欲しい。それは夫としては浮かんでこない。何故か違うのである。と言って誰と言うイメージも無い。ただ自分に優しく肩を貸してくれる人に憧れを持つのだった。
子供たちと一緒にいて女であることを忘れかけていたのだが、我に帰ったようにようなり、もう一度、女を意識している自分を見る思いであった。
それは若き時に意識した恋愛に似た憧れのようなものであり、異性への関心であった。悲しくなったり、淋しくなった時、そっと頭を相手の肩によせて、力を抜き何もかも忘れて寄りかかる、それは夫の肩ではない。夫のそれは何故か、疲れきった中年の匂いがしてそんな気は起きず、むしろ労わりの気持ちさえするだろうと思った。もうこのまま一生恋愛も熱い思いをせずに終えることになるのかと思うのも
淋しい気もする。結婚前にもしなかったような熱い思いをもう一度してみたい
、そんな気持ちを抑えることが出来なかった。
そんな思いでいたある日、自然と携帯サイトにメールを入れている自分がいた。
そして、そのメールから偶然、ある男性と知り合うことになった。
何回かのメールのやり取りのうちに、成り行きのように会うことになった。
勇気がいることであったが、自分でもこれが最後になるかもしれないと言う気持ちが後押しをした。それほどの期待があったわけではないのだが、夫には感じない好奇心と新鮮さがあった。そして、話している時間の中で「ときめき」のようなものも覚えた。それはまだ主人がいて、隠れて男にあっているような、アバンチュールに似たものであった。男は何故か母親と二人暮しの「やもめ」であった。
家庭のことを深く詮索する気はなかった。それは今がよければと言う刹那的な気持ちと、男に対する印象であった。
ほっそりと背が高いのが良かった。センスの良い着こなしも自分には文句が無かった。週一度のデイとは楽しく、食事をしたり、公園を散歩したり、どこへ行っても
何をしても楽しく、話は尽きなかった。
そのうち、車でモーテルへ誘われた。抵抗は無かったし、いずれそうなることは
どこか、覚悟していたところもあった。しかし、休憩してもそれ以上に進むことは無かった。不思議に思ったが、この人は少し臆病なのか、本当は望みつつもまだ遠慮があるのかもしれないと慮っていた。

           オヨナさんと私   第24回

2009-09-04 09:34:10 | Weblog
芙貴子は友達同士で話し合っているとき、不図急に虚しくなることがある。
それが何なのか、何故なのかは自分でも分っていない。主人が死んでもう10年が過ぎていた。そしてもうそのことを忘れかけていたのだ。主人との夫婦生活は25年ほどで終わったが、それほどの強い印象が残っているわけでもなかった。
一男一女をもうけ、何となく過ごしてきた思いである。夫は平凡な会社員で、あまり面白味のある人ではなかったが、嫌いではなかった。今になって、どうしてあんな人と一緒になったのか、不思議な気もするが、その時の気持ちだったのかもしれない。自然の流れのままに生きてきた気がしている。
子供たちも成長し、いつの間にか30歳近くなり、それぞれ好きな人が出来たようである。それまでは何かと言うと、娘も息子もそれぞれに声をかけてくれることが多かった。娘は買い物など、出掛ける時は自分の友達より先に私と一緒に出かけるとことを考えてくれたようで、それは父の居ない母を労わり、慰める思いがわかり、共に楽しみを分かち合い気持ちが伝わってきた。
息子は何時も突然のように「お袋、飯を食いにいこうよ」とぶっきらぼうに言い、
どこ、其処に上手いものがあると、勝手に自分の思っているところへ連れて行き、
「うまいだろう。うまいだろう」と言いながら、自分だけパクパク食べて満足している。私はそんな息子の姿を見ながら、男と言うものは誰と言わず、勝手なものだわと、あきれながらも嬉しく息子を見ていたものだった。
そんな娘も、息子から最近は声がかからなくなっていた。娘は仕事の休みとなると化粧をし、いつもよりは少し派手な服装に着替え、そはそはと出かけていく。
その姿をそっと見ながら「どこへ行くの」とも声をかけることは出来ない。年頃の娘が出かけるには、それなりの目的のあることで、友達であれ、好きな人であれ、
当たり前のことであろう。羨ましくもあり、付いていって、確かめたい思いがするときもあるが、良い人にめぐり合ってくれればと願うばかりである。
「飯を食いにいこうよ」と何時も言っていた息子も最近はいつの間にか言わなくなっていた。注意して見ていると、ある日突然髭をそり、コロンをふりかけ、髪を念入りにとかし、やや派手な色のシャツを着て、黙ってすーっと消えるようにいなくなるのである。どこは行くとかは決して言わない。
悪いことをしていなければいいが、悪い友達を付き合っていなければと無意識に親心が働いている。
そんな二人を思いながら、芙貴子はもう一度自分を振り返るのだった。