波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「日々を生きる」

2015-09-30 09:37:58 | Weblog
世間の話を聞いていると、近所のこととか、知人の動向とかの話題が多いことに気がつく。その内容は主に「誰々さんの家では最近海外旅行に行かれたらしいわ」「誰々さんの家では最近新車にしたらしいよ」とか、自分の家では適わないことを羨望をこめて話すことが多いようだ。つまり我が家では適わないことを周りの家では出来ている。それは自分の家だけが不幸でよその家は幸せに暮らしていると言う「隣の家は青い」的な話である。しかしその実態はどうなのだろうか。果たして自分の家だけが不幸で、他はみな幸せに暮らしているのだろうか。私も若いときからそんな日々の中でそんな考えを持っていた時期があったが、次第にそれは変わってきた。考える意識が変わったこともあるが、
良く冷静に考えればどの家でも良いことばかりあって暮らしているわけではないのではないか、外から見えなくてもその家々にそこだけにしか分からない悩みや苦労があるはずである。ただその違いが分かるのは、その問題の受け止め方と理解の方法の違いなのではないかと言うことである。
嘗て交わりを持っていた姉妹には三つ子の女の子とその上に姉が居た。つまりその母親は4人の女の子が居たのである。さぞかし毎日色々な問題が起きているだろうと察しながらおつきありをしていたが、接するかぎりそんな影は少しも見ることは無かった。
決して豊かとはみえないそのたたずまいのなかにあって、接する限りいつも暖かいものを
感じることが出来た。狭いアパートで家族6人が仲良く力を合わせて暮らして居る様子が伺えて微笑ましく思えていた。つまりそんな不自由さの仲でも努力と知恵と忍耐で全員で共有して解決していたのだろうと思われるのだ。
生涯を通じて考えてみれば人の幸せと不幸と思われる問題はどの人にもそんなに差はないと考えられるようになるのではないだろうか。
そう考えられるようになって始めて人は自分なりの幸せを見つけて生きていく物かもしれない。それが見つからない人にとっては不幸なことだが。

泡粒の行方   第25回

2015-09-27 10:44:44 | Weblog
一軒家が与えられ、二人だけの生活が出来たことは見た目にはある意味幸せなことであったかもしれない。世間では狭いアパートで共稼ぎのスタートが多かったのだから、贅沢だったのかもしれない。しかし築30年以上の古い家は年中ゆれることが多かったし、毎日夜になるとねずみの動き回る音に悩まされおちおち寝ても居られない環境でもああった。
ねずみは隣接する倉庫に居て、夜行性とあって夜になると食べ物を探して部屋のほうへ出てきていたのである。トラックでの製品運搬はつなぎの作業服に手甲、前掛けマスク,帽子そして長靴と労働着での一日である。見るに見かねて、妻が手伝うこともあったり、隣近所の若者が手伝ってくれることもあった。
倉庫に積み上げた製品の整理がつくと都内近辺(関東近辺)のお客さんの名簿を頼りに毎日注文取りに一軒一軒訪問販売である。とはいえ紹介も伝も無いので玄関払いもあるが、兎に角製品を犯してもらうことを目的にお願いして歩くのである。
不思議にこの仕事が苦痛ではあったが、続けることが出来た。これは自分でも不思議で
ストレスを感じることは無かった。何がしかの注文が取れると翌日はトラックに製品を積み配達である。店の倉庫の子弟場所に置かしてモラルととりあえず、それは成績として報告できる。そして配達が終わるとその場で作業着を脱ぎ、スーツに着替え、又注文取りにまわる。こうして一日が過ぎていた。
しかし工場と違って兄の監視の目が無かったことと報告はあっても心を癒してくれる妻の存在は大きかった。そして疲れも感じなかった。
そんなに体も丈夫でもない欽二であったが、何とか頑張ることができたのはそんな支えがあったからだと思う
東京へ来てから、休みの日も楽しみらしい楽しみはなかった。福島に居たときは放送劇団の楽しみはなくなっていた。東京へ出ることと結婚の事を話すと簡単な送別会を持ってもらった。その時上司から「東京ではこの仕事はあきらめたほうが良いよ。都会のレベルは地方と違って難しいからね。悪いけど通用しないと思うから」と言われていた。
自分でもそう思っていたので「そうですね」とお礼を言ったが、只の三年間ではあったが、そこでの練習と放送していただいた台本10本は一生の思い出となっている。

思いつくままに   「人間の運命」

2015-09-24 09:28:05 | Weblog
この頃自分の一生をどのように考えたらよいかと思うようになった。日ごろ「一日一生」と目標に毎日を過ごしているつもりだが、自分の一生をどう考えるべきかと振り返りながら人間の生き様を考えるようになった。
最初に頭に浮かんだことは、「自分の一生は自分の思うようにはならず、又変えることもできないで、それを知らないではじめから決まっている路線をいきてきたんだということである。」只それは当人は知らないし意識もしていない、だけど心のどこかに自分の思うように生きられると錯覚していたようなところがあったのかもしれない。
然し人間の一生は自分の思いとはべつに決められたところがあるようである。
然しそうだからと言ってそれが悪かった(負け)とか、良かった(勝ち)とか決められる物でもないのであり、それは死ぬ最後まで誰もわからないことかもしれない。
だからこそ生かされ、生きている間はよくなることを望みをもち続ける義務があると考えるべきだろう。
しかし人間とは生きている間所詮「自己中心」な考えから離れるわけには行かない。本能的に自分だけがよくなることが何処かにあるし、他人がどうなろうと外面的には同情しても平気で見過ごせるところがあり、残酷な面も持っている物である。
神はそれを看破して「何時の隣人を愛せよ」と教えている。無意識のうちに全てに利己的に行動し自己犠牲の意識は薄いのである。そんな存在でありながら、そんな自分がそれをどこまで自覚しながら生きていくかが、現実の一生の課題として十字架として背負わなければならないことだろう。
また、最後には「死」との直面である。私も嘗てここまで自分では分からぬままに数回
このような場面におかれている。「死」ある意味いつでも「生」とは隣りあわせかもしれない。只当人はそれを知らされていないし、分からないだけである。
しかし「死」を免れぬ以上何時その場面に置かれても不思議ではないのである。
その事は若くても老いても同じであり、覚悟しておくべきことかもしれない。
そんな時こそ人間は心の平安を願って「祈る」事を覚えておくべきかもしれない。
それは反省と回顧を促し心に平安を呼ぶことに繋がるからである。
私は今人生を振り返りつつ「人間とは」と改めて考えながら自分の足跡を振り返るのである。

泡粒の行方    第24回

2015-09-21 11:25:39 | Weblog
第一回の結婚はあっけなく半年の時間で終わってしまった。何の感動もなく何の意味もなく只二人の若者が親の犠牲で傷ついただけの時間だったかもしれない。そして又いつもの忙しい仕事が始まっていた。兄はその間にも東京への進出を計画していたらしく、父と相談をしていた。そして東京の下町に倉庫と住居をかねた家を探していたらしい。
母は何とかして欽二に所帯を持たすことを考えていたらしく岡山の家には帰らず福島へ滞在していた。会社とは名ばかりの兄の家の玄関に事務所らしくジム机を置いてあった。
そしてある日求人事務所から若い女性が紹介されてきた。
物静かな口数の少ない人で仕事らしい仕事も無いのに、何をさせるのかと思っていたら簡単な事務処理をした後は掃除片付けと低の良い女中代わりの仕事で済ませていた。
そしてある日、母から話があった。「今、仕事を手伝ってもらっているWさんは静かな良い人だけど、どう思う」と二回目の縁談の話だった。
今度はさすがにこりたのか、そんなに面倒な話ではなく、先方の親の承諾だけとって話を進めたらしい。今回も欽二の意見は関係なかった。そして「結婚式は東京で簡単にするので東京で二人で仕事して欲しい」と兄からの話もあった。あわただしいなかで欽二は先に東京へ行き、所帯道具を揃え嫁の来るの準備を整えた。
結婚式は両家の家族だけで教会でささやかに行われ、其のまま新婚生活は始まった。然し兄の監督は福島に居るときと同じく朝の7時になると電話が鳴り、仕事への指示があり、報告の義務があった。新婚気分どころではなく、電話と同時に起こされ其のまま仕事着に着替え仕事が始まる。
それは一人だけに福島より厳しかった。誰の助けも泣く地理も良く分からない中でのこうどうである。近くの貨物駅火つく10トンの製品をトラックに詰め替えて自宅の倉庫へ運ぶ。それが終わると都内のお客さん周りを名簿を頼りに注文取りにあるく。
玄関払いのときもあれば、後日として話も聞いてもらえないときもある。然し欽二は生来の明るさと若さが会った。

思いつくままに  「人生における苦労とは」

2015-09-18 10:00:13 | Weblog
人生も80年を過ごすとほぼ自分の人生を全うしたと考えても良いかと思っている。そしてその結論は何かと考えさせられる。「苦しいこの多かりき」とするか。「生きることの
喜び」とするかは各人によって分かれるところであるが、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と過ごしてきたはずである。しかし人はその時、その時を深刻にならず、またどのように考えて過ごすかを考えないで通り過ぎてきている。そして「後の後悔先に立たず」の思いの中にいることが多い。
しかし、私自身振り返ってみるとつらく、苦しいと思える時間こそが人間にとって大切で大事な時間であったと、今にして思えるのだ。それはその時間こそが大きな力によって人が鍛えられ、成長するときであると思えるからだ。例えば人間関係において相手が何を必要としているか、また何が価値あることであるかそして自分中心的なことから相手のことが良く理解できるようになる。そこから謙虚とか、忍耐と言うことも覚えて身につけることも出来るようになる。誘惑からの忍耐も覚えるようになる。
その苦労の時間をどのように考えて過ごすかと言うことを経て、人は成長し成長するごとに人間らしさと当人らしさが生まれてくると思うからだ。
こんな反省をしながら自分自身をあまり人生をしっかりと考え、その時間を生かしてきていなかった、つまり苦難を軽視していたと言う思いがある。
もう少しその時々に人生を深く考えて行動していたら人生も変わっていたかもしれないし、成長したかもしれないとも思う。
これからの時間はあってないような物かもしれない。しかし与えられた大切な恵みと感謝の時間でもある。であればこの時間こそが大切であり、集大成の時間になる。
どのように最後を迎えるか、その鍵になる時間でもあろうかと思う。
そしてこの世に生かされた大きな力にどのように報えるかを考えつつ生きなければならないと思っている。

泡粒の行方   第23回

2015-09-15 10:54:48 | Weblog
明治、大正、昭和と続いてきた日本の文化、生活習慣は簡単には変わることは無いと思われた。この時代に適齢期を迎えた男女は当人の意思は別として家風、親の意思、家柄その他の都合で親の意思で結婚は勧められていたので、これは欽二だけが特別とはいえなかったと思う。(平成の今では考えられなかったことだが、)
然し親の意思とはいえ、当人の幸せを考えていなかったわけではなく、また家の繁栄を願ってのことであったことは分かる気がする。然しそこには打算や計算もあったはずでありそれが真実の目を狂わしていたのかもしれない。後日仲人となった方に相談することになり、親同士の話も行われ「協議離婚」が正式に成立した。欽二は仕事から帰ったある日彼女の居ないことを知らされ、姉に聞くと誰も居ないときに荷物をまとめて黙って帰ってしまったので、何も分からなかったようである。
欽二は改めて彼女の気持ちを考えていた。女性が結婚と言う運命で家を出て他家へ嫁ぐことにはそれなりの決心があり、親元を離れることは大変なことだったはずである。
そして大事にされず、まして新婚の二人での生活も出来ないままに嫁ぎ先の都合で十分な話し合いもせず、親元へ帰ることは男以上に心に残った傷は大きい。欽二はその事を一人で考えていた。自分はこれでよかったのか、何か出来ることはなかったのか、二人だけの時間で話していた「欽二さん、二人だけの生活なら私幸せになる自信があるの」と涙ながらに話していた彼女を思い、哀れに思い「そうかもしれない」と内心思わないでもなかった。しかし二人を取り巻く環境はそんな物ではなかった。夫婦の二人の意志はまったく聞かれず、全てが進行していたからである。現代では「いやだったら、いつでも帰っておいで」と言われて結婚し当人同士の強い意志で結婚したにもかかわらず、結婚してからお互いの都合やわがままで、何年もしないうちに破局へと進むことが当たり前のようになっているが、当時は人生の大事な時期であり、その人の運命を決めることになる(事実、そのような例は世間では多くあるし、私もそのひとりとなった)
こうして一件落着となったが、欽二の当人の意思とは全然別に当たらし展開へと動いていたのである。

思い付くままに   「はしか?」

2015-09-12 06:57:03 | Weblog
先日の新聞に謀大学教授が一人の女子学生に試験科目の内容を漏洩したという記事が出ていたが、当初この記事を読みながら人格高潔な教授ともある人の行為として信じがたい印象で呆然として読んだが、次第に冷静に考えているうちに「ありうる事」かもしれないと
何となく受け入れられるような気がしてきた。対象者である女子学生との関係は何も触れられていないので二人の人間関係については分からないが、つまらない詮索はしないとしても人は人生において突然常識では考えられない行動を起こすことがあることは、間々あったとしても不思議でもないのかもしれないと思うのだ。
確かにその行動は同義的に許されることではなく、法的にも裁かれるような場合もあるかと思うが、その場合は『事件』となる場合もあるだろう。
一般的に学生でも、成人でもある時日本の普通の生活を離れ海外へ行き、想像できないような仕事や事業を始めることだって大きな視野で言えば同類ともいえる気がするし、それは人間の大きなエネルギーの発露のような気がするからだ。
恥ずかしながら私も生涯一度だけ似たような経験をしたことがある事を思い出した。
それは若い頃始めて海外へ仕事で出かけたときのことである。台北yの駅前のホテルへ宿泊したのだが。そのとき出合った女性の「メイド」さんに一転釘付けになったのである
何故なのか、女性としての関心なのか、?、好きになったのか、自分でもそのときの気持ちをりかいしていないのだが、到底理解できない感覚である。
相手は仕事であり、何の関心も無いのだが、一目あったときから私は心を奪われた感じであった。それからは何をしていても何処へいってもそのことが忘れられず予定の期間は過ぎていき、案内してくれた人に余計な心配と迷惑をかけてしまったが無事に帰国できたが、帰ってからも後遺症があったのだ。
特別なことが会ったのではないが、その滞在中は自分が別人のようであったことが信じられない。人間は生まれながらに誰でもが「原罪」に基づいている存在であることは明確であり、その中で自分を律し、鍛え自分を高めていかなければならないものであるが、
この新聞の記事の先生も突然「はしか」のように「魔がさした」のかもしれない。

泡粒の行方   第22回

2015-09-07 07:56:08 | Weblog
突然の結婚話である。そんな考えも準備も何も無いままに話は進んでいたのだ。
母が近所の人を通じて照会をしてもらったらしい。何せ岡山から突然来ても知っている人が居るわけではないし、知っている人が居るわけでもない。そして紹介された人は近所に住む銀行の役員をしている人の一人娘だと言う。市内の料理屋で先方は両親と当人、そして兄と母がついてきた。型どおりの見合いである。食事の後近所の公園のある山へ二人で行ったのだが、何の話も無く分かれて帰った。正直これはいったい何なんだろう。
当人の気持ちはどう考えているのだろうか。考えることは疑問ばかりで何のかんがいも無かった。そして話はどんどん勝手に進んでまもなく結婚式まで決まっていた。
後日の話になるが、兄は欽二に嫁を持たせて東京へ出し、店を持たせ仕事をさせることを計画していたらしい。結婚式は終わったものの住むところは兄の家へ同居で手狭であり、何の準備も無かった。只二人を一緒にしただけのことである。
そしてここで大きな問題が起きた。嫁としてきた当人の個人の問題であった。詳しいことは隠されていたために良く分からなかったのだが、紹介された履歴書の内容や書かれた文章は当人の物ではなく、親が書いた物であったらしく、本人にはかなりの欠陥があることが分かった。読み書き、計算などの日常生活にも問題があったことが分かった。
然し結婚式はすでに終わっており、どうすることも出来ず両親は慌てて嫁を連れて岡山へ帰りそこで教育することになった。欽二は何も知らされず、相変わらず仕事を続けていた。しかし岡山での躾は失敗だったらしい。言うことは聞かず、帰りたい帰りたいと毎日無くばかりで教育の成果は無かったらしい。さすがに岡山の両親もあきらめて嫁を福島へ返した。そして二人の生活が始まったのだが、うまくいくわけもなかった。
当人の話は同居ではなく、二人明けの新居での生活ならうまく出来ると主張し
泣くばかりである。どうすることも出来ず、ある日欽二は嫁を連れて近へ出かけた。「このままではどうすることも出来ない。まだ二人は若いのだからやり直しが出来る。一度分かれて考えましょう」と説得した。しかし嫁は『二人だけの生活をすれば絶対うまく出来る」と言うだけで頑として話を受け入れなかった。

思いつくままに    「背負う物」

2015-09-04 08:51:35 | Weblog
昔の学校の教科書には「二宮尊徳」なる人物が必ず出ていた。そしてその銅像は運動場の片隅に必ずあって、朝礼のときに掃除をした事を覚えている。
あまり詳しくないが、神奈川県の農村で生まれて、小さいときから努力して農民のために貢献した偉人として当時(現在も)リスペクトされているのだが、偶々あるとき栃木県の二ノ宮町付近を通りかかったとき、久しぶりにその銅像を見たのだ。
小さいときには気にならなかった銅像をしげしげと見ていると、銅像は背中に柴の薪材を背負っているのである。確か当時は仕事をしているときも歩いているときも学びを忘れないで居ることをあらわしている物と教えられた気がしているが、この歳になって改めてこの銅像を見ているうちに、私は違った感想を感じたのである。
ある時「この世は橋を渡っているようなものである。その橋を渡っていくのだが、その橋に家を建ててはいけない」と言うお話を聞いたことがある。
つまり人は色々なところで存在する物で、いわば寄留者である。一箇所に立ち止まる物ではない。そしてどんなときも橋をわたることを止めるわけにはいかない
まして体ひとつと言うわけにも行かない。必ず背中に大きな荷物、埋まり人生と言うたびをする上で必要な「荷物」それは病であったり、家族関係であったり、人間関係であったり、経済的な悩みだったり、さまざまであろう。それらの荷物を背負っている出のである。そしてそれは死ぬまでおろせないのである。死を迎えたとき初めてその背中の荷を降ろすkとが出来ることになるのだ。つまり平安を迎えることが出来るのだろうと思う。
私はこの銅像を見ながら『背中に背負う物」それは生きている限りそ追い続けなければいけない人生の重荷を感じたのである。
不思議な物で最近はTVをみても本を読んでもそこに今までと違った物を感じるようになった。それは特別な物ではない。ただ其のまま深い意味があるような気がしているからである。