波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

 オショロコマのように生きた男  第94回

2012-04-30 12:56:32 | Weblog
台北の町は今でも昔の面影を残しているところが多いいと聞いている。近代的なビル(101ビル他)があり、近代的な地下鉄も完成して走っているが、市内のところどころには戦前からの店が昔のままの看板を残しているが、仕事は変わっているのかも知れない。また、屋台で「びんろう」を売りながら、何かむしゃむしゃと食べている風景を見ると台湾へ来たんだといつも感じる。
それは如何にも台北らしい。木梨が此処へ住むようになってもう何年になるのだろう。木梨自身もまさか自分がここに長く住むようになるとは思ってなかった筈だ。それは何時の事からだったのだろうか。会社を千葉で立ち上げて仕事を始めたときは野間や
池田、岩本他若者が夢中で新しい仕事への挑戦と有って、夢中で過ごしていたのだ。
その内、市場も落ち着き、お客も定着してひと段落した頃から同業者の内で少しづつ過当競争が始まっていた。
その状況を見て不安を感じた木梨は特定のユーザーと特別契約をして専属のように製品の供給を始めた。そのころから会社は
少しづつ新しい展開をしていたのかも知れない。そんな時に台湾から注文の引き合いがあり台湾のマグネットメーカーへの輸出が始まり、貿易業務が必要になった。輸出業務は初めてのことであり、その業務を円滑にすることは難しかった。英語圏ならまだ
出来るものもいたが北京語を話しながら事務手続きをしていくことは日本人では不可能に近かった。
その為に日本へ留学していた黄小姐が採用された。最初は忠実な仕事振りと若いこともあって会社は順調に展開をして国内と
輸出でその危機を乗り越えたかに見えた。木梨もそれがきっかけで台北の商社へ何度か足を運ぶようになり、そのたびに日本では知ることのない経験を良くも悪くもするようになり、楽しんでいた。その内、黄小姐とも何時の間にか仕事を超えた男女の仲になっていったのである。野間や池田が会社を辞めるようになり、会社も経営が苦しくなってきた頃、二人は相談して日本を離れ
台湾へ渡り、新しい生活を始めていた。
残された会社はそのまま厳しい操業を続けていたが、二人は日本から必要な製品を送らせそれを糧にしながら、生活費に当てていた。

オショロコマのように生きた男  第93回

2012-04-27 10:53:34 | Weblog
毎日の日課は宏にとっては苦痛であり、我慢の時間であった。リハビリは思うように出来ることはなかったしさりとて止めるわけにもいかなかった。効果はあまり期待できなかったが、続けるしかなかった。今まで自由に動かせた身体が不自由になり、思うように動かせないつらさを身体を動かす度に思い知らされて苦しんだ。食事も病院で出されるものは美味しいとは一度も思えなかった。今まで好きなものをあちこちと探しながら贅沢に食べていた習慣が身についていた所為もある。偶にわがままを言って家族に頼んで家から作って持ってきて食べるとき、何とか食べた気がするくらいで、こんなに美味しいと思ったことはない。
順子はどうしているだろうか、突然のことでさぞ驚いたことだろうと思うし、心配もしていることだろう。とはいえ家族の手前
遠慮もあり、電話もかけるわけにもいかない。こちらからかけてやればいいのだが、まだ不自由な話し振りではかえって心配させることとあってまだかけていない。そんな事を思いながら自分の権威でどうすることも出来ないもどかしさだけが募っていった。
久子は時々様子を見に来るが、病人を心配すると言うよりは自分の責任と義務を果たすためのような行動のように見えた。
そこには夫に対する愛情のようなものは見えず、自分たちへの迷惑を出来るだけ少なくして欲しいという思いが感じられるものであった。そんな宏の生活にも心の休まるときがあった。
それは介護士の助けで入浴を済ませ一人静かに部屋で好きなコーヒーを飲みながら音楽を聴くときであった。昔からテープで
オールデーズを聞いていた。これを聞くと心が休まり昔の元気な時のことが思い出された。それは自分の歩いてきた道であり、
懐かしかった。取り分け木梨に誘われた会社と仕事のことは忘れられない。あんなことがあって会社を辞めてそれきり、彼にあうこともなく、過ぎているが忘れたことはなくやはり一番最初に情熱を注いだ仕事だけに気になっていた。
池田からの話では会社は一度清算した形になり、木梨も今は会社にいないようである。そして日本を離れたらしいと言うことまで聞いていた。彼は今、台湾で生活をしていると言うことだった。何があったのか。少し気なっていた。

思いつくままに

2012-04-25 09:56:54 | Weblog
今年も桜の花見の季節が終わった。昔のように大騒ぎをしながら花見を楽しむことはなくなったし、桜の下でゴルフを楽しむこともなくなった。しかしそれで落ち込んでいるわけではない。むしろその頃よりは味わい深く花を楽しめるようになった気がするし
、気がつかなかった自然のありがたさを思うようになった気がしている。
数日前、もう人が訪れることがなくなった桜並木(今井の里)を散策することが出来た。2キロメートルぐらいのところに小川をはさんで桜が150本ほどあり、50年を経た木はそれぞれ立派な枝振りである。小川には花びらが散りばめて釣りを楽しむ人に降りかかっている。土手には少しトウのたった土筆を見ることも出来たし、タンポポがあちこちに咲きそろっていた。
近くの畑では菜の花が満開である。のどかな風景を楽しみながら歩く時、本当の平安を知ることが出来た気がした。
人生には自分にとって良いことだけがあるわけではない。まして悪いことだけがあるわけでもないだろう。それは糾える縄のように交わりながら交互に降りかかってくるものだろう。
その中で苦難のときどのように考え対処するか、それがその人を大きく左右することに思いをかけたいと思う。
苦難を受けたとき、人はそのことをどのように受け止め考えて行動することが出来るか、私自身もこれまでに何度も経験してきたことである。その都度、迷い、不安を覚え、眠れぬ夜を過ごしてきたか。しかしそのままでは、そこからは何も生まれず
何も良いことはなかった。そんな時苦難もまた良い人間を作るのに役立つことを知ることが出来た。
それは「いいことも、悪いこともそれを自分にとって意味あることにする。(出来るか、どうか)」つまり、そのことに立ち向かい、そのことにどのように挑み、戦えるか、その中に自分をどう生かすか、苦難の中に自分がどうあるべきかを見つける努力を
することを知ったのである。と言って分かってもすぐ出来るものではないし、身につくものでもない。
しかしその姿勢を保ちつつ進むことが大事であり、それを忘れると元の自分に戻ってしまうからである。
だから出来ないとしても、その姿勢だけは忘れず、戦い保ち続けたいと思う。それは神から離れないことでもあると思うからだ。

オショロコマのように生きた男  第92回

2012-04-23 09:26:04 | Weblog
久子はいつ頃からか宏への愛情は消えていたのかも知れない。それは宏にも責任があり、久子を責めることは出来ない。
だから家へ帰ってこなくなり、時々思いついたようにふらりと帰ってきてもあまり気にならなかった。そんな意味では
「子は鎹」であったのだろう。久子は娘と息子の面倒を見ながら一緒に暮らせることに満足であったし、その事で自分の出来る仕事をしながら生活を自立させていたのだ。子供たちがそれぞれ成長し結婚して家庭を持ち孫が出来て、それぞれが落ち着くと
宏の存在は何時の間にか忘れていたほどだ。
それが突然、今回のようなことで呼び出され面倒を見ることになったとき、彼女の気持ちは宏の心配ではなく、ただただ子供たちの家庭をどう守るかという一念だけであった。宏への看病や介護は当然義務的なものにならざるを得なかった。そこには夫婦としての愛情から来る同情や情けではなく、自分たちへのガードのようなものだったかも知れない。
従ってそれらのことが一段落すると、とにかく落ち着かせることだけに専念した。それは単なる一介護士的な観念であったかも知れない。「腹が立つ」という感情というよりも、むしろこれで今までのもやもやしていた感情が吹っ切れて新しいスタートになったこと、自分が全ての責任を負って仕切っていかなければならないという強い信念に似たものであった。
幸か、不幸か娘も息子もそして婿も仕事は出来たが世間を知らなさ過ぎた。その経験も実務も不足であった。
最も重要な銀行の借入金の返済を始めその交渉も充分出来ない。久子は仕事の内容は分からなくても大人の行動は充分だった。
対人関係のつぼも心得ていた。それは決して弱気になることではなかった。
一人でここまでやってきたことが何時の間にか久子を此処まで強くしていたかも知れない。「村田さん、そんな訳でこれから
私が責任を持ってやっていきますので、これからもよろしくお願いします。」それが締めくくりの挨拶だった。
話を聞きながら最初は野間の病気の容態が気になり、心を痛めて聞いていたが、それは何時の間にか会社の事になっていて
宏の存在は消えていた。そして宏は病院に一切任せて定期的に様子を見に行くことで済ませていることが分かってきた。
村田は帰途、いつか自分も野間と同じ立場になることをそうぞうしていた。そんな野間の気持ちを淋しく思いながら
すべては自分の責任として負うことになるだろうと考えながら、宏に会いたいと思っていた。

 オショロコマのように生きた男  第91回

2012-04-20 10:44:38 | Weblog
父親の存在が家族にとってあまり感じられない理由は一般的には二つあるようだ。一つはその人が殆ど家にいない場合、
そしてもう一つは家にいても「意味のあること」を家族ときちんと話していない場合とである。宏の場合は当然ながら
家に殆どいない事であるが、家にいるときでも家族との会話にはあまり「意味のあること」を話していたとは思えなかった。
会話がなりたたないことは、普段家にいないことが原因であるがそれに伴って「何を話していいか」戸惑うことが多いことにつながることになる。相手も家族とはいえ、子供であれば何を話していいか困ることが多いようだ。ある外地へ単身赴任をして
一年に数えるほどしか帰国できない父親がいた。その人には子供が二人いてまだ学校へ行っていない女の子と男の子だった。
女の子はお土産の人形を抱いて喜んで遊んでいたが、男の子は暫くすると「あの小父さん、どうして帰らないの」と言って、
母親を困らせたと聞いたことがある。それを聞いた父親は想像がつかず愕然として言葉を失ったと聞いたことがあるが、
これは本当の話であり、ありうる話でもあるのだ。家族と言えどもそこに繋がるものが育たなければコミュニケーションは
図れない事になり、正しい家庭を築くことは難しいことかも知れない。会社でも夜の12時まで仕事を強いる会社があるようだが、その会社が一流であったとしても、それは仕事に名を借りてある意味、「非人間的な生活」を無意識に強いていることであり、あまりほめられたことではないと思う。(しかし実際には何らかの形で現実には行われていることは無視できないことである。)
そしてそのことによって犠牲者が出てくることもあるだろうし、会社を辞める人がいても仕方のないことだと思う
家族は確かに血のつながったもので、大きな絆で結ばれているがそれだけでなく、それを大事に育てて成長させていくことを
忘れてはならない(私自身も宏と同じ過程を経験しているので、宏を責めることも批判も出来ないが)
最近ではかなり仕事を犠牲にしても必ず毎月一回は帰国して家族との時間を取っている父親が増えていると聞くが、そのことの意義を自覚するようになったのだろうと思う。いずれにしても、此処に大きな問題が残されていた。

            思いつくままに      

2012-04-18 09:47:36 | Weblog
人は生きていくために大事なことがあるのだが、その中に「人に裏表があるのは良くない」という事を聞いたことがある。
小さいときに親からも聞いたような気もしている。また、少し違うが「外面は良いが、内面が悪いのよね」と言う事も聞く。
二つの事柄は似ているが、少し意味合いが違うような気がするので、ここでは「人の裏表」について考えてみたい。
例えば子供でも先生に話す時と友達に話す時とでは子供の言葉使いが違うのは裏表がある証拠だという人がいるが、それは
同じであるほうが可笑しいのであって、違うのが当たり前であると思う。
人は色々な人と出会い、その都度その場面で言葉を選びそれを豊に使いこなすことが出来る人が良いとされ、そしてその人の
文化度を測り、ある意味芸術的だとも思わされるのではないだろうか。(話術?)
しかし、人は誰でもいつも同じ気持ちでいるわけではない。機嫌の良いときもあれば悪い時もある筈である。しかしどんな時でも機嫌よく人に接することが出来るのが「愛」であると、聖書も教えている。(礼を失せず)
だから人は断じて「裏表」を持つべきであり、持たなくてはならないのだろうと思う。
それは言い換えれば、それが人間の理性的な愛の根拠と表現を持ち合わせていることの証明であり、逆にしたい放題、
言いたい三昧、では混乱と摩擦、そして恨みが残ることになるのではないだろうか。
しかし意識して裏表を使い分けるのもそう簡単ではなく、意外と難しいものであることは皆さんも経験から知っておられることと思う。
私の知っている人が、私と話すときには殆ど本音であり何もしても絶対に褒めることがなく、バンバン嫌味や悪口を平気で口にする。良いことをした時ぐらい褒めてくれてもいいじゃあないかというと、「すぐ調子に乗るから駄目」といって取り合わない。聞いているうちに腹が立ち、いくら親しくても少しは遠慮したらどうだと言うと、「あなただから言いたいこと言ってるの、他の人には絶対言わないわ。だから安心して」と訳の分からないことを言ってけろっとしている。
裏表を完全に把握して使いこなし、私を相手に日頃のストレス解消を図っているようだ。
そして「あなたの顔を見ていると、つい言いたくなっちゃうの」とも言われてしまう。それじゃあ俺はサンドバッグ代わり
かと少し悔しいが「まあ、いいか」と自分を慰めている。

オショロコマのように生きた男  第90回

2012-04-16 10:20:46 | Weblog
久子は一人で夢中で話していた。村田は始めて聞く野間の様子は衝撃であり、心を痛める思いもあったが他人事とは思えぬところもあり、奇妙な気持ちであった。久子の言葉には宏に対する思いやりや大切な家族へのいたわり、慰めと回復を心から願う
気持ちが感じられず、そのままにしておけないからという義務のようなものがあり仕方ないからという気持ちが出ていた。
それは順子に任せて置けないという事もあったであろうし、世間体のようなものもあったであろう。それよりも何よりもこれからの生活や、会社の立て直し、残されていた家族のことであったろう。
娘の真美は全く違ったものであった。それは純粋な父親への思いであり、人間として女として病人に対する思いでもあった。
「お父さんが可愛そう。早く元気になって帰れるようになったら家につれて帰り、私が傍で介抱する」そう言いながら涙ぐんでいる。それはずっと家を離れ普段は会うことは少なくても、いつも変わらず心にかかっていた父に対する思いであり、愛情であった。何時からか群馬工場が出来て週末を一緒に過ごさなくなり、女性がいることを女としての直感で分かったときも、急に
トレッキングを始めると言い出して色々なものを買い物したりしている姿を見たときも、何も言わず黙ってみていた。
そして帰ってきたときはいつも温かく迎え、食べたいものをつくり孫と一緒に楽しい時間を持っていた。
だから、母が病院で治療を続けて家へつれて帰ることはないと言い張るのを聞くと、とても耐え難い思いで聴いていた。
父は何処にいて、何をしていても私たちのために働いていたのだ。だからいざというときには、私たちが父のために出来ることをしなければいけない。真美はずっとそう思い続けていた。息子の亮は母の話を聞きながら、ただぼんやりとしていた。
それは単なる傍観者のようでもあった。幼いときから、傍にいなかった父の愛情を知らず、突き放されたように自立して
生きてきたこともあり、父の愛情を感じることは少なかった。ただ自分がしたいことにあまり煩く制限されることもなく、
なんでもしたいことが出来たこと、何か困ったことが起きたときは母が全部処理してくれたこともあり、今回のように父に
不慮な出来事が起きても大きなショックはなかった。言われたことをしていけばいいのかという漠然とした依頼心のようなものだった。
「これからは私が全てを仕切ります。会社も銀行も私が全部責任を取ります。何も問題はありません。」一人で息巻いている。

 オショロコマのように生きた男   第89回

2012-04-13 09:29:08 | Weblog
宏の病気は一般的には「脳血管障害」と言われるものであった。その中には「脳梗塞」「脳出血」「くも膜下出血」などがあるが、急激に発症した経緯からもそれは「脳卒中」と言われるものであった。これは手当てが早ければ命に関わることにはならず、宏の場合も傍に順子がいて、すぐ救急車を呼び病院での手当てができたこともあり、意識も回復し早い手当てが出来たことは幸いであった。しかし、身体の麻痺は残り元のようにはならない。そしてこの治療は基本的にはリハビリになるのだが、これには磁気を利用した治療と日常生活において行うリハビリとの併用になるらしい。そしてこれを続けることで必ず治るという保証はないらしいが適応する患者によってはその成果がだいぶ変わって来ることもあるらしい。
宏の場合も利き手であった右手は僅かに指先が動く程度で、本人も覚悟しているとはいえ「右手も右足も全く動かない、仕方がないとは思いつつも悔しい」と愚痴をこぼしていたと言う。久子はそのことについて医者に色々と相談もし話も聞いていた。
その話によると「脳出血や脳梗塞などによる麻痺は発症から半年たつと殆ど改善されることは少ない。」宏はせめて字が書ける程度には治したいといって、その為に利き手を代える努力もしたらしい。この事が効果があるのか、更に医者の話は続いた。
「大脳半球は左右でバランスを取って機能しているため、片方が損傷を受けると正常な側の活動が活発化して、損傷を受けた側の働きを抑えすぎてしまうことになる。このため磁気刺激によって正常側を抑えると損傷を受けた側が活性化して病巣周辺で失われた機能を代償しようとする働きが起こることになる。」というものだった。
この説明で宏も磁気刺激による治療法と作業療法を組み合わせたリハビリをしてもらいながら、脳のバランスを正常に近づけた上で、作業療法士の指導で指の曲げ伸ばしや物を掴むこと、ペンを握ることなどの訓練をしているのだという。
この方法で半月ぐらい続けると全体の70%から80%ぐらいの麻痺の改善が図れるという統計もあるそうである。
宏は何としても今までと同じようにならないまでも、少しでも身体を治し、事務所で家族と一緒に仕事が続けられるようになりたいと強く思うし、そのためにつらい訓練を続けるより他になかった。それまでは家族以外の誰にも会う気もないし、プライドが許さなかったのだ。

思いつくままに

2012-04-11 10:34:58 | Weblog
クラスの友達と言うものは、幾つになっても変わらないものらしい。クラス会を数少なくなった今でも守っていると言う友人の話を聞いた。もう80歳になるのだからそろそろ終わりにしてもよさそうに思うのだが、残り少なくなった親しい友達だけで
続けているのだ。しかし寄る年波には勝てず、此処三年ほど計画しては流れ、計画しては流れて実現しないでいる。
幹事役の一番元気の良いA氏もさすがに「もう無理だから止めよう」と言うのだが、どうしてもやりたいという人がいて
今年も神楽坂で集まろうと言うことになった。ところが千葉の館山から出てくると言う老女から「近ければよいんだけどね。
遠いからどうしょう」と言い出した。東京までが遠く感じて、出てくるのが億劫らしい。分からないでもないがそれなら最初から言わなければいいのに気持ちだけは熱く燃えるものがあるらしい。
事ほど左様に歳を取るごとに気持ちだけが先立ち、体が言うことを利かなくなるのだから出来ることは出来るうちにしておいたほうが良いようだ。果たしてこのクラス会、三年目の正直となるのか、幻のクラス会になるのか見ものである。
私も最近は一人でマイペースで生活することに慣れて、あまり出歩くことに気が向かなくなってきた。それでいて話がしたくないわけではない。時々には自分の考えや思いを聞いてもらいたいと思うときもあれば、色々と世間のことを聞いてみたいこともある。人はやはり誰かと話したり、聞いてもらったりしながら生きていくものかも知れない。
しかし、本当の気持ちはどうなんだろう。自分自身が納得し、満足するとはどういうことを言うのだろうかと自問自答することがある。全ては心の平安であり、充足にあるとは思うがそれはどのようにして得られるのだろうか。
そして一日を過ごす中で無為に過ごすのではなく、僅かでも充たされる思いで何かを得られればと思わざるを得ない。
今日という日を精一杯生きることを考えなければいけないのだとも思う
我が家の庭に植えた「木蓮」数年花をつけてくれなかった。もう駄目かと諦めかけた今年、見事に花をつけて咲いてくれた。
そして、「山吹」も今年は黄色の可愛い花を咲かせてくれている。
その一つ、一つは僅かなものだけど、誰がどうすることも出来ない造作であり、神からの贈り物であると思わざるを得ない。

 オショロコマのように生きた男  第88回

2012-04-09 14:17:40 | Weblog
元気であったオショロコマもすっかり歳を負っていた。しかし当の本人はそのような意識はなく元気であり自信があった。
元来同じところにじっとしていると言うタイプではなく、自由奔放に泳ぎまわり、好きなところへ行くことが好きだった。
風の吹くまま、気の向くままにの言葉ではないがそこに逡巡はなかった。だから「明日から出社に及ばず」と言われたときも
それほどのショックはなかった。むしろ何故俺が辞めなければいけないんだという開き直りに近い不退転の強さがあった。
その後、あちこちの会社を転々としながらもその精神は変わらなかった。彼には自分の殻にとじこもり、じっと我慢したり
妥協したりする気持ちはなかった。それはまさにオショロコマがその川で自由に泳ぎまわる姿そのものであった。
河口に近いところまで出てゆき、まさに海流に泳ぎださんかの元気さであった。
しかし、生あるものは何時か衰え滅びるのである。彼の頭にはその意識が薄かったことは事実であろう。こうして病床に横たわり不自由なからだになって、初めて知る意識であった。「もう誰とも会う気もない。」まして見舞いなど受ける気もない。ただあるのはもう一度元気になり、今までのように動きたいと言う思いだけだった。だから久子から話があっても、今までのことをわびる気持ちもなければ、後のことを頼む気持ちにもなっていない。ただ、頑固に今までの権威を保とうとするばかりであった。久子はそんな宏の姿を見て、次第に心を固めていた。しかし自分の気持ちを誰かに聞いてもらいたかった。
とはいえ、そんなに誰でも話の出来る人間もいない。そして頭に浮かんだのは村田だった。「村田さん、野間が倒れたの。今はお陰さまで落ち着いて療養しているんだけど、暫くかかりそうなの、突然だけどお話したいことがあるので、」と電話した。
すっかりご無沙汰になっていた村田は突然の電話に驚いた。想像できない出来事であり、信じがたい内容でもあった。
千葉の事務所には久子を始め家族が全員そろっていた。しかしその表情には悲しみの色は見えなかった。その雰囲気は納得でもなければ、当然でもない意味不明な空気が漂っていた。「あの人は群馬の女の人からの知らせで倒れたことを知らされたんです。すぐ皆で病院へ駆けつけ手当てを受けた上で連れて帰りました。」と久子は話し始めた。
努めて冷静に話すその言葉には、諦めとも悔しさとも取れるものを感じた。「今は落ち着いてリハビリをすることが出来るようになり、見舞いに行きながら様子を見ています。」