台北の町は今でも昔の面影を残しているところが多いいと聞いている。近代的なビル(101ビル他)があり、近代的な地下鉄も完成して走っているが、市内のところどころには戦前からの店が昔のままの看板を残しているが、仕事は変わっているのかも知れない。また、屋台で「びんろう」を売りながら、何かむしゃむしゃと食べている風景を見ると台湾へ来たんだといつも感じる。
それは如何にも台北らしい。木梨が此処へ住むようになってもう何年になるのだろう。木梨自身もまさか自分がここに長く住むようになるとは思ってなかった筈だ。それは何時の事からだったのだろうか。会社を千葉で立ち上げて仕事を始めたときは野間や
池田、岩本他若者が夢中で新しい仕事への挑戦と有って、夢中で過ごしていたのだ。
その内、市場も落ち着き、お客も定着してひと段落した頃から同業者の内で少しづつ過当競争が始まっていた。
その状況を見て不安を感じた木梨は特定のユーザーと特別契約をして専属のように製品の供給を始めた。そのころから会社は
少しづつ新しい展開をしていたのかも知れない。そんな時に台湾から注文の引き合いがあり台湾のマグネットメーカーへの輸出が始まり、貿易業務が必要になった。輸出業務は初めてのことであり、その業務を円滑にすることは難しかった。英語圏ならまだ
出来るものもいたが北京語を話しながら事務手続きをしていくことは日本人では不可能に近かった。
その為に日本へ留学していた黄小姐が採用された。最初は忠実な仕事振りと若いこともあって会社は順調に展開をして国内と
輸出でその危機を乗り越えたかに見えた。木梨もそれがきっかけで台北の商社へ何度か足を運ぶようになり、そのたびに日本では知ることのない経験を良くも悪くもするようになり、楽しんでいた。その内、黄小姐とも何時の間にか仕事を超えた男女の仲になっていったのである。野間や池田が会社を辞めるようになり、会社も経営が苦しくなってきた頃、二人は相談して日本を離れ
台湾へ渡り、新しい生活を始めていた。
残された会社はそのまま厳しい操業を続けていたが、二人は日本から必要な製品を送らせそれを糧にしながら、生活費に当てていた。
それは如何にも台北らしい。木梨が此処へ住むようになってもう何年になるのだろう。木梨自身もまさか自分がここに長く住むようになるとは思ってなかった筈だ。それは何時の事からだったのだろうか。会社を千葉で立ち上げて仕事を始めたときは野間や
池田、岩本他若者が夢中で新しい仕事への挑戦と有って、夢中で過ごしていたのだ。
その内、市場も落ち着き、お客も定着してひと段落した頃から同業者の内で少しづつ過当競争が始まっていた。
その状況を見て不安を感じた木梨は特定のユーザーと特別契約をして専属のように製品の供給を始めた。そのころから会社は
少しづつ新しい展開をしていたのかも知れない。そんな時に台湾から注文の引き合いがあり台湾のマグネットメーカーへの輸出が始まり、貿易業務が必要になった。輸出業務は初めてのことであり、その業務を円滑にすることは難しかった。英語圏ならまだ
出来るものもいたが北京語を話しながら事務手続きをしていくことは日本人では不可能に近かった。
その為に日本へ留学していた黄小姐が採用された。最初は忠実な仕事振りと若いこともあって会社は順調に展開をして国内と
輸出でその危機を乗り越えたかに見えた。木梨もそれがきっかけで台北の商社へ何度か足を運ぶようになり、そのたびに日本では知ることのない経験を良くも悪くもするようになり、楽しんでいた。その内、黄小姐とも何時の間にか仕事を超えた男女の仲になっていったのである。野間や池田が会社を辞めるようになり、会社も経営が苦しくなってきた頃、二人は相談して日本を離れ
台湾へ渡り、新しい生活を始めていた。
残された会社はそのまま厳しい操業を続けていたが、二人は日本から必要な製品を送らせそれを糧にしながら、生活費に当てていた。