波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

オショロコマのように生きた男  第85回

2012-03-30 09:53:22 | Weblog
順子とトレッキングを続けているうちに考えが変わってきた。今までは仕事、仕事に追われ周囲のことを見ることはなかった。
考えることはどんなものを作れば売れるか、客は何を希望しているのか、どんなものを作れば喜ばれるのか、そして誰も作っていないような新しいものは出来ないか、そんなことばかり考えてきた。それは宏にとって夢であり生きがいでもあったのだ。
そしてそれは少しづつ叶えられ、実現していた。あちこちと放浪のような人生であったが今は曲がりなりにも自分の家を建て
家族が近くに集まって、それぞれ家庭をまもっている。娘は嫁に行き、今は一緒に仕事をしているし、息子も嫁をもらい下請けのように共同作業をしている。充分ではないがそれぞれが独立しているのだ。久子だけは自分のペースを崩さず独自の生活を続けていた。それは宏がいなくなってからの習慣でもあり、それを変えることはなかった。
自分だけの人間関係があり、行動も独自だった。他人からはそれが何であり、何を楽しみにしているのかは見えなかったが、
干渉するものもなく口を挟むものもいない。以前から家庭のことは殆どしなかったし、誰も何をしているのか汁物はなかった。
その意味では外から見れば一般的な家庭ではあっても、少し違っていたかも知れない。
そんな中で宏は順子の家と千葉を棲み分けながら自由であった。仕事に余裕が出来るとぶらっと車に飛び乗り、何日も帰ることなく旅を続けることもあった。それは城廻であったり、名所旧跡を訪ねることであったり、まさに足の向くまま、気の向くままであった。しかしそんな中で落ち着くのは順子の家にいるときだった。
山は同じところを何回登っても飽きることはなかったしこれで終わりというところもなかった。計画を立て準備をするたびに新しい喜びと期待が膨らみ、元気になる。当日は早くから目が覚め支度にかかる。汗をかき足を休めながら無理をせず二人のペースで上っていく。そして登頂に成功すると何ともいえないすがすがしい気持ちになれる。
これは今までに味わったことのない思いであり、仕事を忘れさせるものであった。
宏の周りの人間関係は何時の間にか変わり、村田も池田もその中にはなかった。何時の間にか、新しい世界が生まれ始めていたのかも知れない。村田も何時の間にか歳を重ね定年を迎えていたし、池田は相変わらず最初の会社で活躍をしていた。

 オショロコマのように生きた男  第84回

2012-03-26 11:07:31 | Weblog
宏の仕事は又、最初の状態に戻った感じになった。ただ重い負債という荷物を背負い気持ちの上では重苦しい感じではあったが、仕事は変わらなかった。順子との関係は少しも変わらず、逆に週の何日かを千葉で過ごすということになっただけである。
つまり宏の行動は基本的には何も変わっていない。自分の考え、意思どおりに誰に相談するわけでもなければ、誰に気兼ねをして動いているわけでもない。久子も昔からの性格を知っているので、宏が何もしようと、何処へ行こうと干渉することは一切なかった。勿論何処へいって何をしているか、知る由もない。本来なら千葉に腰を落ち着けて少ない家族ではあるが、何かにつけて相談し、一体感で仕事が進まなければいけないはずだが、そんな事はなかった。
全ては宏の個人プレーであり、ワンマンショーであった。会社にいなくても工場は動いていたし、しなければいけないことは決まっていて出来ていた。宏に相談することは殆どなかった。宏もまた資金の関係だけを握っていて、それだけは責任を持ち、
銀行関係と給料の手配だけはきちんとしていた。どうしても打ち合わせがいるときだけ電話で相談するか、事務所にいるときに話をすれば何とかなっていたのだ。オショロコマの宏は自由であった。
勿論、客廻りをしながら仕事を取ってくるのは当然彼の責任だから、彼は毎日そのことに専念していた。しかしその拠点は群馬だった。順子は久子より仕事の内容も把握していたし、そこには何の不自由も影響もなかった。むしろ仕事を知っているだけに便利だった。千葉との連絡も客先の連絡も出来るからだった。
二人は仕事に余裕が出来ると、順子の趣味である「トレッキング」に出掛けた。宏は何も知らなかったが何時の間にか、教えられるままに支度の準備をするようになっていた。靴から始まって、頭の先までトレッキングに必要なものを全部そろえた。
そして、その都度目標の山を決めると、そのルートから始まって出発から帰宅までの時間とそのスケジュールを決めていく。
二人は夜遅くまで楽しく話すことが出来た。酒を飲まない宏はコーヒーカップを片手に地図を広げ、時にパソコンで表を作り
書き込んでいく。それを傍で順子は嬉しそうに、そして楽しそうに覗いていた。
行きたい山、そして何度も登りたい山、時期によって楽しめる山と終わることはない。宏は今までにない喜びと楽しみをそこに見出していた。

 オショロコマのように生きた男  第83回

2012-03-23 10:40:02 | Weblog
彼女は順子と言う名前で家には小学校へ通う女の子がいた。母一人子一人である。新聞の折り込み広告を見て応募し採用されていた。それまであちこちのパートをしながら家計を立てていた。夫とは数年前に別れていた。野間は面接のときに彼女を自分のそばに置き、世話をさせることを考えて決めていた。仕事はきちんとこなし電話の応対も自然であった。
そして野間のしぐさを見ているうちに何時の間にか彼に惹かれるものを女として感じていた。それは夫との空白を生めるものでもあり、またおとことして頼れるもの又頼りたいと言う気持ちでもあったろう。決して奇麗事を言うわけではない。むしろ冷たく時に冷淡に突き放す彼の言動は見ようには冷酷でさえあったが、順子にはそれがむしろ女心をひきつけていたのだ。
今までにも彼女に男がいなかったわけではない。夫と別れた後も職場や近所、そして様々な出会いがあり、声もかけられていた。彼女が一人でいることを知って言い寄ってくる男が何人もいたことはあったが、彼女の心に留まることはなかったし、食事をしたりデートのような時間があってもお互いの事情を話すだけでそれ以上に進むことはなかった。
男と縁のないことを自分で考えながら諦めかかっていた彼女には野間の姿は新鮮であり、魅力であった。
「大野さんには事務所の仕事をお願いします」最初の面接のでいくつかの質疑応答があった後、即座に言われていた。その印象は強かった。そして今日までの約一年の間、群馬に滞在する間、野間は順子と生活を共にするようになっていた。そして
自分はこの人とならずっと続けられると確信を持つようになっていた。
野間に家庭があることも全く気にならなかった。知らないわけではなかったが、全く気にならなかったのである。
そしてそれは二人が生活を共にすることに何の支障にもならなかった。
工場閉鎖の後始末をする間も今までと同じように彼女との生活は変わらなかった。そしてすべてのことをしょりしていったのである。「やっと終わりそうだ。君にも苦労かけたけど無事に片付けることが出来そうだ。これから少しづつ楽になると思うよ。
そしたら又新しい暮らしが出来るだろう。」野間の言葉に順子は何の心配もなく静かに黙って微笑んでいた。
残されたのは多大な借金と心の傷だったが、野間は深刻にはなっていなかった。

思いつくままに

2012-03-20 20:32:15 | Weblog
生きていく上で人を愛することはとても大事なことである事は言うまでもない。
聖書には「信仰、希望、愛この三つは何時までも残る。その中でもっとも大いなるものは愛である」とあった。
そして人は時としていとも簡単に「君のこと何時までも愛しているよ」「ボクは君が大好きなんだ」とかを口にする。
しかし、この言葉ほど人間と言うものを言い表している言葉はないかもしれない。それほどに人間はこの言葉の裏腹なことをしてしまうし、その言動は真逆なことにつながることが多いからだ。
では人を愛することは出来ないのか、また人を愛するとはどう考えればいいのだろうか。
人は「いや、そんなことはないよ。私は家族を心から愛し、全ての人を愛することが出来る」と言うかも知れない。
いや、誰でもそう考えているに違いない。しかし実際はそれに反することが現実である。
だとすればそれはどう考えればいいのだろう。率直に正直に言ってしまえば「人が他人との間に持つ一番安定した感情
言い換えれば、人の心の底辺にあるものは憎しみに近い感情みたいなもの」ではないだろうか。
端的に言えば「自分が一番」が無意識のうちにもあるからだと思う。
例えば「自分を良く思っている人がいるとする。しかし、私はそういう好意をそれほど信じもしないし、喜ばないようにしている。何故なら私がその人にとって不都合な存在になればその人はおそらくたちまち私を憎むようになると思うし、もしそれで私は憎まれたとしてもそんなに失望しないと思う。何故なら、それが当たり前だといつも思っているから」と何かの本で読んだことがあるからだ。
「だとすれば愛という言葉はあっても本当の愛は存在しないの」と言われるかも知れない。だから「愛」は人間の持つ
憎しみの一つの形だと考えたほうが良いかも知れない。それも極めて少ない型の一つで、何かの拍子でうまくいって「愛」
と言う形で見えるのだと思う。でもそれは何時の間にか「憎しみ」に変わる。
夫婦も、親子も兄弟もそんな憎しみを底辺に持ち合わせながらそれを引き合いつつ生きているのだと思う。
それは不合理かも知れないが、その事を良く知っていて生きることが大切なのだと思う
人間はそういう存在であり、「他人のために命を投げ出すことが出来る愛」は持ち合わせることはできないのだと思う。
(歴史上にはいくつかの例があるが、)しかしそのことを自覚して自分自身を省みつつ生きることが大事であり、
神はその事を教えているのだと思う。

オショロコマのように生きた男  第82回

2012-03-19 09:20:45 | Weblog
群馬工場は稼動して一年を過ぎたばかりだった。これから本来の仕事が始まるところである。数人だが此処で働き始めた人たちも仕事が出来て嬉しそうである。仕事に慣れてやっと自信が持てるようになってきたところだ。
野間にしてもここを閉めることは苦しい決断だった。しかしこのまま続けることも大きな負担を負うことになる。
そしてその日は来た。野間は全員を集めた。「大変残念だが、この工場を閉めなければならなくなった。」と此処まで言うと
聞いていた人たちの顔色が変わった。全く予想していなかったらしい。「申し訳ない。何としても続けたいと色々と検討して
努力をしてきたんだ。しかし現状は厳しく見通しが立たない。そして経費は会社を圧迫してこのままでは会社が持たないことが分かった。皆さんのことは出来るだけのことを考えて今後の相談にのりたいと思っている。それぞれが事情が違うと思うので
個々に話を聞いて出来ることをさせてもらいたいと思っている。」何か言いたいと勢い込んでいた人たちも話を聞いているうちに次第に静かになっていった。それから時間をかけて一人一人の話を聞いていった。中には年寄りを抱えている人や子供が小さい人、病人の面倒を見ている人と事情は様々だった。野間は初めて現実の厳しさに直面させられていた。
自分は今まで生活を簡単に考え気楽に暮らしてきていた。しかしそんな生活はまれで皆は重い重荷を負って生きているのだ。
それを知ったとき、自分が大事なものを見落として生きてきたことそして人生を軽く見ていたことに気づかされていた。
当面の失業保険の手続き、他社への転職の世話、退職金の相談と丁寧に相談を続けた。初めて人生を真剣に考えて自分のことのように考えていた。千葉までこれる人がいたら千葉のほうで仕事をさせることも提案した。
野間のその姿勢に打たれたかのように、全員は言いがかりをつけるようなこともなく真剣に相談を受けた。そして一人一人が
何とか納得する話が進んだ。工場は借家だった。中のものは全部移動して空け、引き渡さなければならない。
誰に頼むことも出来ない。業者に依頼しながら何日もかかりながらそれらの仕事を片付けていった。
群馬にいるときは彼女のところへ泊まっていた。事務をさせていた彼女の家が工場から近いことと何となく好ましく思えた彼女の姿につられて「いいかい」の言葉に黙って頷いた答えで決まった。
何時の間にか二人の間は男と女の関係になっていたのも時間の問題であった。

 オショロコマのように生きた男  第81回

2012-03-16 10:22:44 | Weblog
どうやら野間は少し仕事が調子よく回るようになったので油断したのかもしれない。又自信を持ちすぎたのかもしれなかった。
加藤は営業成績を上げて自分の待遇を良くして貰うつもりがあったと思うし、そんなことから今回の群馬工場の建設へと一気に進んだが、その裏にはそれを裏付ける堅い根拠はなかったのだ。たぶん計算通りうまくいくだろうとと言う目算だけだったのかも知れない。銀行からの借入金だけは六千万円を越えていて、更に追加が必要であった。
野間は今までの経験や現状の売り上げ状況、そして自分の技術にも自信を持っていた。だから少し時間がかかったとしても
必ず計画通り進むと考えていたに違いなかった。
しかしそれが足元から崩れて、計画通りにならないことが見えてくるのにそんなに時間はかからなかった。加藤から毎月
清算される経費は野間が予測している金額をいつも大幅に上回っていた。その内容を聞き質してもあいまいな答えでそれを
明確に証明するものは出てこなかった。それが真実ではないこともやがて分かり、信用できなくなっていた。
そして事故が発生し、営業計画は頓挫して予定の金額にまで伸びることはなく次第に野間は疑心暗鬼になっていた。
そして終に決断せざるを得ない時がきた。「加藤君、悪いけど今月一杯で辞めてもらいたい」それは聞き方によっては冷酷であり、一方的だったかもしれない。しかしこのままの状態を続けて将来に禍根を残すかどうかは自分の責任であることを野間は
はっきりと自覚していた。そして余力のあるうちにと、苦しい決断をしたのだ。
当然ながら加藤のいなくなった後の負担は野間の肩に大きくのしかかった。千葉工場は婿であり、工場長でもあった大島に
全て任せて自分は群馬工場を管理することにした。二つの工場の運営を健全にしていくことは、考えているより実際にやっていくうちにかなりのプレッシャーであることが分かってきた。借入金の返済と人件費をまかなうことが次第に苦しくなってきたのである。ある日、野間は千葉へ帰ってくると久子と大島を事務所に呼んだ。「色々考えて手を尽くしてみたが、群馬はどうしても採算が合わないし、合ったとしても時間がかかりすぎる。この辺で決断しなければ命取りになると思うんだが君たちの意見も聞きたい」と相談を持ちかけた。それは野間にすれば飽くまでも形式であって、彼らから具体的な意見が出ることを期待していたわけではなかった。ただ黙って閉めると言うことは出来ないので前もって話しておきたいと思ったのと自分自身へのけじめでもあった。

      思いつくままに

2012-03-14 11:20:10 | Weblog
夜、床について寝ようとするときにあれこれとその日一日のことが思い出され振り返りながら、あれこれと考える事がある。
その中には良かったこと、悪かったことまたこれから先のことで気になることが出てきてそれが気になって中々寝付けなくなることがある。いつもは今日一日のうちでどんな小さいことでもそれが嬉しいことであったり、ほんの一瞬でも嬉しかったりすることがあるとほっとすると同時に幸せをかんじることがあるのだが、その内それだけではどうしてもすまないことになっている自分を見出すことが多い。そんな時どうしたら快適に眠ることが出来るかを考えることがある。
人によって性格や体質、そして個性があり、それぞれ対応が違うから一概には言えないかも知れないが、一番簡単な方法は
アルコールによって眠る方法。つまりお酒を飲んでその勢いで寝てしまえれば一番簡単かもしれない。
又男女の違いもあるようで話を聞いていると統計的には女性のほうが比較的に寝つきは良いように思われる。それはどんなところにあるのだろうかと考えてみると、共通的にいえることは「何事にも深く考えすぎないようにすることにある」と言うことになる。兎角何事によらず物事を深く考えすぎ、心配事であれば深くあれこれと悪く考え、又何か自分が関わっていることでトラブルでもあれば深く傷つくこともある。つまりこれらのことでは何も良いことは生まれてこない。
だから深く考えないように出来る心の持ち方の強さを持ち合わせることだと思う。言い換えれば鈍感ではないかと思われるほどの強靭さを身に着けられればその生活を壊さずにむしろ逆に優しく包み込んでその道筋を迷わせないようにしてくれるのだと
言うことを覚えたいと思っているのです。
勿論簡単には身に着くものではないでしょう。だけどそのように意識を持ち訓練をしていかなければ何時までもそれはできないことでもあります。
人がどんなに色々悩み深く考えたり迷ったり苦しんでみても、何も生まれてこないことを知らなければいけないしそういうことは人間を越えたえらい人(神)に任せてしまうことも大切なことではないかと思うからです。
「春眠、暁を覚えず」と言う言葉が思い出される時期が近くなり、三寒四温の気候の変化も現れてきました。
植木鉢の梅ノ木もやっと花を開き始め、チューリップや水洗の芽も、こんなところにあったのかと思われるように忘れられていた箇所から顔を出し始めました。気持ちも少しづつ春に向かっていることが嬉しいこの頃です。

 オショロコマのように生きた男  第80回

2012-03-12 14:33:16 | Weblog
群馬の工場がどのように稼動しているか気がかりになっていたが、その内忘れていた。村田は自分の仕事が忙しかったことと
野間からも声がかからなくなっていたからでもある。
オショロコマも定着して少しづつ歳をとり動きも鈍くなっているのかと思われた頃、加藤がいつものように訪ねてきた。
「村田さん、せっかくお世話になったのですが、野間さんのところを辞めようかと思っているんですよ。」「折角慣れて新しい工場も出来てこれからと言うときに又急にどうしてだ」考えてみるとちょうど3年目に入ったところだった。
確かに東京からの単身赴任で家のことがあり、子供のことも気がかりだろうと思う。しかし男として仕事に専念するとしたら
これからだろうと思うのだが、何を考えているのだろうと思ったがそれ以上のことを聞く事をしなかった。
彼なりの理由があるのだろうし、私にも話せないことなのか、話したくないことなのかどちらにしてもそれ以上干渉することは出来なかった。「分かった。色々事情もあるのだろうし、私がどうこう言えることでもないからなあ」と言った。
一週間後野間から連絡があり、「加藤が辞めることになったので、知らせておくよ。機会があったらちょっと立ち寄ってくれないか、君にも話したいこともあるので」と言ってきた。
自分にはもう関係ないかと思ったが、紹介者であることでもあり、何が原因であったかは少し気になっていたので、出掛けることにした。どちらにしても良い話にはなりそうもないことを覚悟しながら。
その日、野間は元気がなかった。少し不機嫌な様子で話し始めた。「いやあ、加藤には参ったよ。」「「どうしたの。何か使い込みでもしたのかい」思っていたことをぶつけてみた。「この間、消防から電話があって何事かと思って飛び出したら、東京から帰ってくる月曜日の朝、近所の田んぼへ車を突っ込んで引き上げられなくて消防に助けてもらったらしいんだ。会社としても責任はあるし大迷惑さ。」と始まった。それから話は延々と続いたが、それは半分愚痴であり、半分は加藤に対する不満であり、批判でもあった。加藤の営業計画はかなり大型のものであり、売り上げも倍増になるものだったらしい。勿論それだけに見合う営業活動はしていたらしいが実績は残らなかった。第一、群馬工場の建設は加藤の発案であり、野間はそれに乗っかっただけらしい。それは野間が信用したからでもあるし、野間の希望でもあった筈だが

 オショロコマのように生きた男  第79回

2012-03-09 11:04:21 | Weblog
帰りの電車に乗ってからぼんやりと新しい工場のことを考えていた。先行投資としてどのくらいの資金が必要だったのだろうか。そしてその償却はどのように計算されているのだろう。彼のことだからかなり綿密な計画が出来ているのだろうが果たして
計算どおり運ぶことが出来るのだろうか。自分のことではないのに、同じような気持ちになってやはり他人事には思えない気がしていた。余計なことだと思いつつも加藤の管理職としての処遇の面も安くはないだろう。彼は実家が東京で家族はおいて
千葉へは単身赴任と聞いている。何処かのアパートで普段は仕事をして週末に東京へ帰っているが、その経費も馬鹿にはならないだろう。そしてもう一つ気がかりなことがあった。それは事務所で挨拶をした女性のことだった。
何となく男好きのする中年でそのしぐさと物腰に一般のパートの女性と異なる雰囲気も持っていたし、野間に対してもなれなれしい感じで落ち着いていた。その動作の一つ一つに直感的に何か異質なものを感じたが、その時そう思っただけで忘れるともなく忘れていたが不図思い出していた。野間も千葉と群馬の二つの工場を管理することは、いくら仕事が順調とはいえ、大変だと思うし、まして群馬は始まったばかりである。いくら順調とはいえそんなに手放しで入られないはずだ。そんな事をあれこれと考えているうちに温泉の暖かさがまだ身体に残っているようでうとうとと居眠りをしているうちに終点の浅草に着き夢から覚めた感じで会社へ帰った。
それから野間とのことは暫く忘れていたが、週一回東京へ帰ってくる加藤は時間を割いて村田のところへ立ち寄ることが多かった。営業活動をしている事にして時間をつぶすこともあるし家の都合もあるだろう。又紹介者である村田には野間には話せない相談事もあった。いろいろな事情があることを承知で村田も黙って付き合っていた。
だから野間と直接話すことはなくなったが、その様子は大体わかっていたし、業容の変化も感じることが出来た。
そんな経緯の中で二年の月日が過ぎていた。その頃から加藤の話から何となく二人の間に不満のようなものがあるのを感じるようになったが、村田はそのことには触れないようにして口を挟まなかった。ました自分のことではないし、意見を言える立場でもないからだった。まして責任を伴うとすればなおさらだった。
業界は状況が同じようで同じではない。深く潜行するように少しづつ動いていたし変わっているのだが、毎日の業務に追われていると気がつかないままで過ぎていることが多い。

       思いつくままに

2012-03-07 09:32:08 | Weblog
時期はずれな事を言うことになるが、70歳を越す頃から年賀状を書くことを辞めようかと考えたことがある。それはどんなに
歳をとっても前と同じように振舞おうとする自分が何か思い上がっているように思えたからだ。いつかは終わりが来るのだから
早めに終わっておいても良いかもしれないし、そんな日がいきなり来るかもしれないなあと思いながら少しづつ店じまいのことを考えるようになった。そんなわけだから年々枚数を減らし(来なくなったところへは原則お返事をしないことにして、頂いたところにだけにするようにしている。)ている。
最盛期にはいくら羽振りが良かった人でもだんだん高齢者になればお金に無縁の暮らしに入ることになる。そしてそれは決して
恥でも落ちぶれたことでもないし憐れまれる理由でも何でもないことだ。むしろこうした静かに変わっていくことが人間の
ある意味堂々とした姿勢ではないかとさえ思える。
そんなわけでこの頃は日々を心静かに平安であることが一番心地よいのだが、その中にあって静かにクラシックを楽しんだり
オーデイズの曲を懐かしんだり、好きな推理小説を読んだり、囲碁の対局をじっくり腰をすえて見ながら「次の一手」を自分
なりに考えてそれが合ってたりすると「やった」と子供のように嬉しがったりする。将来孫と一緒に出来ればもっと楽しいだろうなあと思いながら。
最近は子供も「一人っ子」が多くて(多くても二人っ子か?)である。そうだと教育的なチャンス(しつけ)を最初から充分受けられない(与えにくい)子供になってしまうのではないかと勝手な心配をしてしまう。
何故なら子供は注意を受けない限り自分が優先と考えるだろうから、どうしても身勝手になってしまう傾向だろう。
良く考えて、例えば何かを犠牲にすれば必ず犠牲にした分だけ得るものがあることを教えたいのだが、そういうチャンスも
現代人には出来なくなりつつあることが淋しい。
まして人間のする行為には必ず何らかの代償を伴うことも知っておきたいと思う。誰かと触れ合うことで受けることも間々ある時もあるが、多くの場合触れ合うことで時間、金銭、感情を惜しみなく誠実に尽くす気持ちがなければ成り立たないだろう。
それを忘れて触れ合うことを考えるとしたら、それは本当のふれあいではないと思う。
自分の存在が生活において日々前にもまして軽くすることが出来ると心が楽になるものである。意識しないでいると人間は
自分の存在を何時の間にか重く重く見る傾向があるものだから、軽くすることを意識してそれが出来ればそれは一種の軽業師のような特技なのである。