波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     思いつくままに

2011-03-30 09:39:33 | Weblog
「あの人小父さんよね。」と言う女の子の声に、「どれくらいの人かな」と思って見てみるとまだ30代ぐらいの若者である。そんなことから考えると、今は一般的には30代からいわゆる「中年」と言うことになるのだろうか。しかし、全体には食事の栄養が良くなったり、医学が発達して手当てが良いとか、適当な運動などを続けるとかと生活内容が良くなることであまり老けている人が少なく、おくてのままでいる人も見かける。
でも30代から50代ぐらいの人を対象にして「中年」と言って良いかもしれない。しかし、ある人に興味を持つようになるのは中年以後の人になるような気がする。それまでの青春時代を秀才と呼ばれるような人がいたとしても人間としても持ち味は薄い。しかし、中年以後になってくると何となく
複雑な味のある人になっている。つまり中年になって人は「人間」になるということのようである。若いときは考え方が単反射的で、人間的な味を感じない。
しかし、時間は操作できるものではない。だから人は年齢と共に会った人間の数だけ賢くなっていくようである。わたしたちは一般的には相手の事情など知っていることは少ない。例えば身近に自分の息子のことでも精神的な成長や変化を殆ど知らないようなものである。まして他人のことなど分らないことが多いし、自分が人のことを分っていないと自覚している人も意外と少ないことも事実だ。
多くの人が僅かに知り得た情報であたかもすべてを知っているかのようにその人について話すことが多いがその事が益々事実から離れていくことになることを自覚しなくてはいけないと思う。
ある程度分るようになるにしても、それは中年以後からであるし、事情が分るようになってくるとあの人は良い人だとか、悪い人だとか言えなくなるはずだ。
つまりその事実の「背後」にあることが少しづつ見えてくると言うことだと思う。その反面すべてに物分りが良くて優しいばかりの人だと、あの人本当に人生わかっているのだろうかと疑ってしまったりする。
つまり「中年」とはこの世の中には神様みたいな人も悪人もいなくて完全な人がいないことがいないのだということが、頭でしっかり分ってくることだともいえる。
しかし、誰でも「癖」や「思い込み」、「好き」「嫌い」もあるので適当が無いわけだから「開き直る。」か「臆病になる」かどちらかしかない。そしてどのどちらかに付くかは、その場合有効になるかどうかは分らないわけで、その使い方次第にもよってくる。その人の背後や物事の背景がどんどん深く、明白になるにつれて、良いか、悪いかの歯切れも悪くなってくることも免れない。いい年になって正義感だけで物事を判断していると人間扱いからなり損ねることも出てくる。
人間性の理解とは高等複雑さを増してきて、それが少しづつ出来るようになるのが、
中年であり、老年であろうか。

     白百合を愛した男    第80回  

2011-03-28 13:33:12 | Weblog
すべてが順調に進んでいるかと思えた。しかし、その底辺ではこの業界自体も、又市場も静かに変化しつつあった。その事は仕事に追われ毎日をその日の業務に夢中になっているものには自覚できることではなかった。社長からの電話で急に我に帰り、少し冷静に周りを見る気持ちになったことと、その異変をかぎだそうとする思いが出てきた。
「今のままで良いのか。何かすることがあるのではないか。」そんな不安めいたものを感じた。そんな時親会社のえらいさんから呼び出しを受けた。本社役員を兼ねて開発技術を担当している人であった。当時、まだ珍しいとされるLEDを元に自動車のストップランプを開発商品化し、販売を始めたこともありその卓越した才能は本社でも有名であった。ただ、大衆的な商品としては、消費者価格にはならず、かなり高級な価格に付く難点があり、量産販売にならなかったのだが、その消化のために関係会社へ押し付け販売になったことは残念なことであった。「何でしょうか。」と恐る恐る挨拶すると、「調子が良いそうじゃあないか。しっかり頼むよ。今度この部署を見るようになったんで色々話を聞いていおきたいと思って、会社だけじゃなくて飯でも食いながらゆっくり話を聞きたいと思っているんだが頼むよ。」話し方は慇懃無礼だが、そこにはいい訳はさせないぞと言う、威嚇的な強いものを感じた。これはただ事ではないぞと一瞬、身構えたのだが、その優しそうな物腰と言い方に少し油断もあった。また、こんな普段は声もかけてもらえないようなえらいさんから食事を付き合えという事等、今までに嘗て無いことでもあった。
縦社会の男の世界であり、ましてサラリーマン社会である。どんなチャンスでも利用して立身出世を無意識に感じないわけでもなかった。そんな出会いがあった後、ある日、事務所に電話がかかってきた。「今日、五時半過ぎに赤坂の某割烹まで来るように」と言うことであった。「いよ,いよ来たか。」何となく緊張と期待のようなものを覚えたが、
覚悟を決めるしかなかった。今までも定時に家に帰ることは無かったが、今回は計算は出来ない。まして、自分の思うようになることは許されず、何があっても我慢であった。
東京の仕事でなければ代わりの者がいて、交代も考えられたが、東京事務所を預かるものとしては、病気で入院でもしない限り無理だと覚悟を決めざるを得なかった。
後日、この日からのことを回顧する時、自分の人生のある試練を受ける時でもあったと思うし、その事が自分にとってどうすることが出来たかを後悔する事にもなったのだが

     白百合を愛した男   第79回

2011-03-25 11:45:05 | Weblog
シンガポールは小さい国であるが、観光コースがない事はない。しかしこれだけは好みの問題もあるので、限られてくる。親会社のえらいさんは暑さに閉口することであまり外へは出たがらないが、ゴルフだけはよほど好きらしく来ると必ず、プレーをする。しかし、
此処でのゴルフは日本と違って制約がある。それは少ないコースにプレーをする人が集中するので、それを円滑にするために事前にテストを受けさせ、その証明書を添付して申し込みをしなければならない。つまりビジターであっても、あまり下手ではプレーの進行を妨げることになり、混乱する。従ってある程度の技量を有することを条件にプレーを認めている。「馬鹿にするな」とご機嫌が悪いがルールであるので致し方ない。いやいやテストを受けるところとなった。そして早朝、夜が明けるとすぐプレーに向かう。なにしろ
朝と午後では気温が10℃近く違ってくるのだから大きい。こちらに住んでいる人はなれていることもあり、過ごし方を知っているが、初めての経験だと体調を崩す人も出てくる。ただ、午後には必ずと言っていいほどスコールがある。そんなに長い時間ではなく降るので、ちょうど風呂場でシャワーを浴びている感じで気持ちが良い。傘などは全くいらず、思わず天を仰いで暫く立ち止まるほどで、気温もこの時を境に5度近く下がる。
もう一つは、何と言っても市内に林立するビル群の建築美である。興味と関心のある人にはたまらないほど、珍しい、そして貴重な建築物が鑑賞できる。日本からは有名な
「丹下健三」の設計したビルがあり、注目されている。そのほか、クルージングでのデナーショウを楽しむコースも人気があるし、もちろん動物園、鰐園もあるが、このあたりになると、暑い事もあって訪れる人も少ない。工場は順調に稼動し、ここからはアジア(台湾、中国)そしてヨーロッパへの輸出がスムーズに行うことが出来るようになった。
日本の工場は国内を中心に一部アメリカなどへ輸出をするということで、量、質ともに
全体として無理の無い操業が保たれるようになった。
「今後の見通しはどうなのか。」帰国して社長から新しい課題を言われる。
仕事には終わりはなく、又そのまま変らないという保証もない。常に変化と進化がもとめられ、利益の追求がノルマとなる。海外進出の目的は達成できたような気がしていたが、
気の休まることは無かった。これからどうなるのだろうか。どうすればよいのか、

     思いつくままに

2011-03-23 08:54:13 | Weblog
「あなたには何でも話せるお友達がいますか。」と聞かれたことがある。「友達なら
何人かいるけど」と思いつつ、何でも話せる友達としてもう一度考えてみると「さて」
と考え込んでしまう。今はあまり聞かれなくなったけど、子供の頃には「親友」「心友」という
言葉があって(今でもあるのだが、ほとんど聞いたことがなくなった)「あいつとは親友で何でも話せるんだ」とか、言っていたのを思い出す。確かに子供の頃は無邪気に遊び友達が出来ると、言ってはいけない事まで、何の気構えも無く話が出来たが、だんだん大きくなるに従って、友達も選ぶようになり何でも話せる友達が減っていき、大人になって何でも話せて一緒に行動することが出来る人が殆どいなくなってしまう。学生時代から社会人になるにつれて遊びや共通の話題が変わり、離れ離れになっていくにつれて「日々に疎し」の
関係になっていくようだ。仕事上の交わりや地元でのお付き合いで新しい人間関係も始まるが、男の場合、長い間縦社会の世界で暮らしてきた所為もあり、上下関係が気になり
仕事の内容や収入の違いが気になり、親しみも湧きにくい所がある。まして年齢が上がるほどにその傾向が強くなるのも止むを得ない気もする。
「それで淋しくないの」と言われ「別に」と強がりを言っては見るが、今更努力して作るのも無理のようである。そこには無意識に変なプライドのようなものが出来ている事もあるかもしれない。では女性はどうであろうか。私の知っている方で(かなりの高齢者ではあるが)
その人によると友達がたくさんいて、毎日が楽しいと言う。買い物や町を歩いていると
自分で気が付かないでいても声がかかり、何時の間にか立ち止まって長話になり、何時の間にかお茶していたりすると言っていた。それは主婦同志であったり、子供を持つ親同士であったり更に旅行仲間、趣味仲間であったり、その輪は広がっているようだ。
そこで男は女から見ると「男は可哀想ね」と言われるところとなるのだが、一つだけ
方法があることに思いついた。それは身近なところに親しく、何でも話せる女性を見つけることだ。「奥さんがいるじゃないか。」と言われそうであるが、確かに妻でも良いのであるが、彼女であっても良い。好きな?女性に思い切り本音を告げてこちらの気持ちを
分ってもらう、これが最後の心友、となる存在になるかもしれない。(男女関係を超えたものであることが望ましい)そんな思いでもう一度自分の身の回りを見直してみるのも
悪くないかもしれない。

     白百合を愛した男    第78回

2011-03-21 11:14:00 | Weblog
随行員と言えば、聞こえは良いが、単なる使い走り役である。とにかく何でもやらなければいけないし、時間も無制限である。ある夜その日の予定がすべて終わり、仲間とホテルのラウンジでくつろいでいた。毎晩バンドが入って演奏をする。それを聞きながら飲み物を飲み、話をすることが唯一の楽しみであり、くつろぎだったからだ。すると、ボーイが
近づいてきて「Mさんですか」と聞いてきた。「そうだ」と答えると「すぐ、○○号室へ行ってください。お客様がお呼びです。」慌てて駆けつけると、「マッサージを呼べ」と言う。「分りました。すぐ手配します」と下がろうとすると、「君の仕事は終わっていない。いつでもすぐこれるように待機しておけ」と命令された。そういうことかと始めて自分の役目が分ったのだが、人間と言うものは人に命令することが平気で出来る人と、それを聞く人とがいて、命令する人はされる人のことをあまり気にしていないことも分った。
そういう人もいるんだと納得したが、自分が人のためにすることが出来る事をその時、確認することが出来た。それは滞在中、ずっと続いた。食事のたびごとに場所、内容、人数を充分に吟味して承認を取り、時間通り行動すること、その他のスケジュールはすべてオンタイムで行われた。シンガポールの観光は殆ど限られていて、市の中央のオーチャード
通りに面したホテル郡とデパート巡り、シンボルになっているマーライオン公園ぐらいであろうか。何しろ車で一時間走れば一巡りできるのだから、限られてくる。それよりも
チャンギ空港の美しさに圧倒される。空港内一杯に飾られている「蘭の花」は他の空港では見られないものであろうし、スチュワーデスの美しさも良く知られているところだ。
問題は帰国時に必要な「みやげ物」である。帰国の前日になると、そわそわとその準備になるのだが、、シンガポールには日本への際立ったみやげ物に適するものは無い。
そこで、マレーシアまで足を伸ばすことになる。橋を渡ればすぐなので(イミグレーションはあるが、)それほど苦にはならない。ここには嘗ては「錫」が産出されて、錫の加工品が珍しかったのだが、今は掘りつくして廃山が見えるだけだが、「バテック」という
織物がある。これは日本ではなかなか手に入らない珍しいもので、「ろうを使った芸術画」とも言われ、ろうけつ染めされた布である。その布に南国風の花や蝶のモチーフが
鮮やかに書かれていて、女性は喜ぶようである。えらいさんとすれば、まず奥さんのご機嫌を取り結びと自分の趣味の高さを自慢するには持って来いの材料である。(M氏等、見るまで全く知らなかったのだが、)

     白百合を愛した男    第77回

2011-03-18 10:09:08 | Weblog
シンガポールでのオープンセレモニーは大きなニュースとして報じられていた。百人足らずの小さい工場ではあるが、日本の企業が進出して新しい原料を作ると言うことは狭く、小さい国では珍しく、ニュースになるらしい。(確かに行って見て分ることだが、現地ではデパートのオープンは最大のイベントになっている。それは暑い赤道直下の国だけに
其処へ行けば涼めることと、新しい製品、珍ししい物品をみて、楽しめるからであり、其処は唯一の観光場所となり、エンターテイメントを経験することが出来るからでもある。)
当日は新聞社のマスコミを始め、TVまで入って大賑わいとなる。独特の祝の舞などが入り、日本では到底想像できない。テープカットは日本からの社長を始め、親会社のえらいさんがずらりと並び、乾杯のシャンペンが配られる。
操業はこうしてスタートすることが出来たが、開始のときに必要とされていたスーパーバイザーと称する現地採用の幹部はこの時既に大半が辞めて、消えていた。日本での現地指導を三ヶ月行い、ある程度の技術、そして工程管理、機器のオペレートなどを覚えさせ
操業管理者として二年間の勤務契約を交わしていながらである。つまり彼らはこうした
技術を身につけると、すばやく次の新しい職場をより良い条件で採用してくれるところ、それも自分の都合に合わせて探すからである。従って、日本的な契約モラルなどはあってないようなものであった。パソコンのオペレーター女性など一ヶ月も勤めれば、次の日にはいないのは当たり前であって、翌月行くと、すっかり顔ぶれが変わっており、おなじみに担って挨拶を交わすことが出来るのは「掃除のおばさん」だけであった。
しかし、彼らには悪びれたところは全く無く、それらは当たり前であり、生きていくために手段であり、ある意味常識なのかもしれない。文化と言うか、お国柄と言うか、むしろ日本が逆に特別なのかもしれないとつくづく勉強させられたものである。
さて、新工場の視察旅行は日本から相次いで入れ替わり、立ち代り続いた。
そのたびに、お供がそのお世話係として付いてゆくわけだが、これがなかなかの仕事であった。ホテルは五つ星が指定され(もっぱら日航ホテルが使用されていたが)到着から、帰国までの朝から夜までの日程と、随行は気が休まることが無い。特に食事と帰国時のおみやげの準備は大変な神経を使わなければならなかった。
買い物、これは元来女性の仕事であり、男性は普段この種のことは経験が無いのが常識だと思っていたが、あにはからんや?であった。

      思いつくままに

2011-03-16 15:13:34 | Weblog
長い人生の中では色々な経験をすることになるのだが、今回の大地震は1000年に一度と言うようなことであり、観測史上初めてということもあって本当に貴重な経験となった。
そしてこの災害において亡くなられた方、被災された方のことを思い、本当に心の痛む思いである。歴史的には関東大震災、原爆投下、東京大空襲などが思い出されるが、更なる
大事件であることは間違いない。そしてこの事を通して何を考え、何を学ぶべきかを考えることが出来るのか。ただ人はその悲運に、そして不安だけを感じるだけではいけないのではないだろうか。
聖書には「ノアの箱舟」の話が出ている。神は人間を戒めるために大洪水をもたらし、そのことを通して、生きていくために何が大切であるか、またどう生きていくべきかを示している。「安心して暮らせる」のだから豊かさだけを求め、その為には他のことを顧みることはないということのみを考えすぎていなかっただろうか。知らず知らずのうちにそのような思いが充満していたとすれば、やはりその様な安易な考えは改める必要がある。自分がどんな状況に置かれていたとしても、それは大きな恵みの中にあって、自分だけの力、自分だけの豊かさであると言うことではない。大きな恵みの中の「弧」の中にある自分であり、その一部の中に生かされていることを思うべきであろう。
今回の災害を通じて報道された中に、どの場所においても暴動、混乱などのトラブルを伝えるものは見当たらなかった。つまり人々は与えられる食料や生活物資を整然と列を作って受け入れ、足りないものを分け合うと言う光景が多くあったことを見ながら、本当に涙が出るほど嬉しく、又心温まる思いであった。
「災い転じて福となす」のことわざが示すように、これから一歩一歩、みんなの力を集めて、少しづつ回復していくことを信じましょう。時間はかかることでしょうけど、決して自分だけがよくなることなく、辛抱しながら冷静に対処していきたいものです。
(一部に買占めや等の行為があると言う話は残念です。)
世界の人が注目しています。今日本人として本当の良さを発揮する最大の機会でもあります。是非近い将来、「さすがに日本人だ。礼儀とモラルを大切にする国民だ」と評価される成果をあげたいと心から願っています。
忍耐と試練がその人を築いて、より良い人にすることを信じたいと思います。

     白百合を愛した男    第76回

2011-03-14 14:25:06 | Weblog
一日少し休んだせいか、いくらか体力が回復し業務に復帰することが出来た。工場見学を済ませパリ市内まで帰り、夕食を取った後、自由行動となる。ホテルから幸い凱旋門までが近いといわれて散歩をかねて行くことにした。初めてのパリの街は何となく小説の世界であり、映画の世界に入るような気持ちになり興奮と緊張が入り混じり落ち着かない。
地図を頼りに何とかたどり着いたが、ひたすら見上げるだけで展望台まで上がる勇気も無い。コンコルド広場を歩き、ホテルまで又立ち戻ることにしたのだが、やはり疲労感を感じないわけにはいかなかった。「行きはよいよい、帰りは恐い」ではないが、何となく不安になる。帰りは下を向いて歩いたこともあり、パリの道路がやたらと印象に残ったのだが、あまり整備されて綺麗とはお世辞にもいえない。張り詰めた道路版がはがれて歩きにくく、やたらに犬の糞が目立ち、気になった。どうやら公衆モラルはあまり良くないし、
期待していた「花の都パリ」の印象は見事に壊された感じである。
何れにしても観光ではなく、(勿論観光物件は一切なし)セーヌ川も見ることは無かった。あまりにも淋しいパリの一夜ではあったが、足跡を残したことは間違いない。
ヨーロッパの仕事は此処で一旦終わることになり、翌日はドゴール空港から帰国の途に着いた。約10日間の旅はあっという間であったが、世界の一端を見ることが出来たことは
幸いであり、学習にもなった。一言で言えば多くの国々が大陸の中に整然とそれぞれが独立して各々の国の歴史に基づいて、守っている。そして自分の国を愛し、大事にしている。(フランス人が外国の人と話すときに積極的に英語を話さないで母国語にこだわっていた習慣を目の当たりにしたが、)文化と歴史を大切にしていることが良く分った。
出来ることなら、そこから南へ下がりイタリヤとスペインなども訪れてみたかったと
帰りの機中で夢見たものである。
シンガポール工場が完成し稼動が始まった。営業担当者の責任は一段と強くなり、社内の期待も高まる。ましてそれまで沈黙していた親会社の偉いさん方の注目度が、がらっと
変わったことである。「今度本社の会長がシンガポールへ視察に行かれることになったのでその準備と、お供を頼む」岡山の社長から興奮した声が飛び込んできた。
「口も聞いたことも無いような雲の上の人だけど、大丈夫かな。」
「君しかいないじゃないか。手落ちの無いように準備万端頼むよ」
一難去って、又一難、すさまじきは宮仕えかな…そんな言葉が不図浮かんだ。

     白百合を愛した男   第75回

2011-03-11 09:34:55 | Weblog
日本を飛び立つ時は期待と興奮で一杯で元気良く出発したはずだが、僅か一週間を過ぎただけで、その元気は全く様変わりとなった。ドイツでの行程を終わり、次の予定地のフランスのパリに着いたときは、口も聞けないほどの疲労であった。予約されていた市内の
ホリデーインホテルへ着き、休息を取っていると、「おい、M君美味しい食事の店が見つかったよ。この近くに中華の店があるので今晩は此処でしっかり栄養を取ろう。」と声をかけられた。「はい。」と返事をしたものの体が動かない。「どうしたんだい。嬉しくないのか。」と言われたが返事が出来ない。「すいません。申し訳ないですが今はとても
食べる元気がありません。此処で休んでいますので皆さんで食べに行ってください。」
「気分でも悪いのか。大丈夫か」「大丈夫です。休んでいればよくなると思いますから、
すいませんが、水だけお願いします」ミネラルのボトルを貰ってダウンとなった。
海外へ行って、食事が美味しく取れるか、取れないかは最大の問題である。今回は食事が合わないと言うよりはストレスによる疲労であり、緊張の連続による環境との不調和によるものだったので、休息しかなかった。しかし、食事に関する発見としては何処の国に行っても、少し探せば中華料理の店が見つかる。このことは東洋人、分けても日本人には救いであり、(日本料理店は少ない)、何とか満足して食事が出来るので助かる。
まだ若いということもあって、その夜は何も食べずに早めに寝たこともあり、翌朝は元気に起きることが出来た。この日の予定はパリの郊外にあるユーザーの訪問であり、商談であった。憧れの「TGV」フランスが誇る新幹線に乗ることが出来た。期待して試乗したが、日本の新幹線と比較すると、正直言ってそれほどの差はない。むしろ日本のほうが全体には良く整っている気がした。フランス人は日本人と体型も似ていてむしろ小柄に近いこともあって、さほどにゆったりした空間がなく、少しせせこましい感じすらしたのだ。
窓から見る風景はのどかな丘の続く農園で、パリを一歩出るとそこは田園風景であった。
パリと言う潜在観念が強いせいか、そこはルーブル美術館があり、ノートルダム寺院があり、凱旋門がありといかにも芸術の国であり、ファッションの国と言うイメージが強かったのだが、それはパリだけのイメージであり、全体的にはのどかな農業国ということらしい。しかし、これだけでは満足できない。何とかその片鱗にあやかりたいと願って一夜を過ごした。

     思いつくままに

2011-03-09 09:25:40 | Weblog
3月になって雪に見舞われまだ春は早いのかと思うと、急にぽかぽか陽気になったりする。いわゆる「三寒四温」の陽気を肌で感じると、春が近づいていることを実感できるのと、日本の四季を本当に感じることが出来て嬉しい。そして色々なスポーツが始まる。
本来なら今頃大相撲の3月場所が始まる頃で話題になっているのだが、今年は未曾有の不祥事件で行われていないのは淋しいが、プロ野球のオープン戦、ゴルフ等が春の息吹を
聞かせるように知らせてくれている。先日、東京マラソンを目の当たりにみる機会があり、そのワンシーンを見物したが、その熱狂振りに驚かされたものだ。先頭が朝の9時ごろ通過した後、延々とその列は午後の3時ごろまで続いていたものだ。
しかし良く見ているとスポーツ好きは総じて女より男のようである。それは男の右脳の使い方による「男は情熱的」とされるところから出てくるのか、熱くなる所があり、勝ち、負けにこだわる所がある。このことは長じると紛争や戦争にも繋がりかねない所があるので考えなければならない。少し飛躍して考えれば世界の各国の指導者は全部女性にしてしまえば、武力衝突はなくなり戦争は起こらないのではないかと思ったりする。
確かにスポーツは「勝ち」「負け」がはっきりするので、そのたびに一喜一憂する所が面白いのだが、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けるに不思議の負け無し」と誰かが言ったように勝負の背後にあるものを、勝手に想像して楽しむことも出来る。
まして選手の個々のあり姿も隠されることなく、明らかに結果になってでるのでその人間性や成長過程、又努力なども見えてくる。チームであれば個々の選手の活躍とそのチームをまとめる監督のあり方などそれぞれの立場での考え方なども見えてきて面白い。
女性だと勝ち負けはお構いなく「好き、」「嫌い」で別れるだけになることが多いと思うが、男は熱くなると同時に年齢と共に、其処に人生の縮図のようなものを想像できる。
そして運、不運も含めて明らかにされる結果を見るのだ。
そんなわけで今年も色々なスポーツを通じて素直に熱く燃えながら、勝手に
想像をたくましくして、評論家を気取ってみたいと思っている。