波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

   思いつくままに    「旧盆」

2014-08-28 11:11:05 | Weblog
我が家の部屋の片隅にある箪笥の上に4枚の写真が並んでいる。今は亡き両親と妻、そして子供を持つことの出来なかった叔母の4人である。私にとってはかけがえのないこの世における家族である。(他に兄と弟も亡くなっている)毎年8月の旧盆の時期に墓参に行くのだが、改めてこの写真の前に立ち祈りをささげる時、年をとるごとに身近に感じられるようになってきた気がしている。この写真の一人一人に思いを馳せると様々な思い出が蘇ってくるからだ。中でも父の写真を見ていると私は言い知れぬ峻厳な気持ちにさせられる。それは彼の人生が自分を写しているかのように思えるからだ。彼の人生がこの世的には決して幸せだったとは思えない。むしろ不幸と苦労の連続だったのではなかったかと思えるほどだ。然し私は父の姿からそんな悩みや苦しみや落ち込んでいた姿は見たことがなかった。叱られた記憶も殆どない。特に鮮明に記憶しているのは晩年、毎週のように東京と岡山の間で交わしていた文通のことである。最後になった94歳の一通の葉書は今でも私の聖書の中に保存されているが、その葉書の最後に「信仰、希望、愛その中でも最も大事なものは愛である」という、聖書の言葉が最後のメッセージとなっている。お
少年時代、青年時代、社会人その中で第二次世界大戦、戦後の疎開、そして定年後の老境時代とその折々の話を口伝えに聞いたことが一つ一つ蘇ってくる。その人生を一本の太い道で貫いていたものそれは神を信じぬいた信仰であった。
少年時代に英語の勉強をしたくて通っていた教会の牧師から洗礼を受け、父の人生は召される日までまったく揺らぐことなく年を重ねるごとにその信仰は強くなっていた。
最近は夢で父に会うこともあるのだが、まだこの世でお互いに生きているのかと思えるほどである。私自身の人生は父とは比べることの出来ないほど放縦なものである。
然し継承した信仰は生かされている。そして少しでも父の信仰に近づくことを願っている。そしてこの世に生かされている喜びと意義を大切にしながら天国で見守っていてくれる多くの人々に感謝をささげたい。中でも充分尽くすことの出来なかった妻にはざんげの気持ちを持って祈るばかりである。

   音楽スタジオウーソーズ    第12回

2014-08-25 11:21:43 | Weblog
光一の仕事は特別変わりはなかったが、朝、家を出るときには不思議に元気があった。
特別何かを期待したり、予定があるわけでもなかったが何か良いことがあるような気持ち
になっていた。それは光一の今までの人生ではなかったことであり、初めてのことであった。小さいときから父に叱られっぱなしであり楽しい思い出は殆ど記憶になかったし母にも特別な思い入れはない。父に叱られているときでも母は黙ってみているだけだったし、
かばってくれた訳でもなかったからである。学校でも親しい友達がいたわけでもなく、皆に混じって遊ぶことはなかった。
ただ楽器を持って何かをしているときだけが心が休まり、癒されていたのである。そんな光一にとってこんな気持ちになることは生まれて初めてのことであった。春子の存在が自分に影響をしたと言うわけでもない。ただ挨拶程度の話を交わしただけのことである。
しかしそれだけで気持ちが変わったことは事実であった。
「人は変わることが出来る」光一は昔図書館で読んだことのある一冊の本を思い出していた。「人を動かす」確かそんな本だった気がする。変な題名の本だということだけで
読んだのだが、あまり内容について覚えていない。ただ人との交わりの中で、変わったと
感じるような事が起こることがあると言うことだった。
そしてある時偶然昔の友達に会ってしまった。彼はおとなしい光一に何かにつけて絡むこ
とが多く、ねちねちと嫌味を言ったり意地悪をしたりしていたので、出来るだけ目をそらしてやり過ごそうとしたのだが、「外処君じゃないか、今何をしているんだい」と声を
かけられて仕方なく、「楽器店ではたらいているんだ」と言うと「そうだ、君は音楽好きだったし、何でも出来たもんね」とやさしく話してくれる。
「今度僕も君の店に行ってみるよ」いつもなら嫌味のひとつも言うはずだが、いやにやさしい。光一はその変わりように驚いていた。何があったのか、大人になったと言うべきか、よく分からない。昔のままのイメージで人を見ていてはいけないのだ。
光一はその時、人は環境や考え方、その人の人生の中で変わることはあるのだと学ぶことが出来た気がしていた。「でも性格は変わっていないだろう」と内心は警戒心もあった。

思いつくままに    「夏休み」

2014-08-22 16:49:08 | Weblog
子供も大人もこの時期には夏休みをとる。連日の暑さ35度を越す真夏日が続いては余程
空調の効いた場所でないと、落ち着いてゆっくりくつろげる気持ちになることが出来ないので体調を整えるのも一苦労である。TVを見ていたらこの100年の間で地球の温度も平均4.3度も上がったと認めているので、今後もこの暑さは続くと思われる。
私には娘と息子に二人づつの孫が与えられているのだが、上の孫は高校3年生と中学三年生になる。どちらも女の子だが、この二人は生まれたときから母親の関係でミルクをやったりオムツを取り替えたり、子守をした関係で何かと思い出も多いいのだが、今年の夏は来年の受験を目指して猛勉強をしていると聞いていた。その二人から珍しくじじばばと食事をしたいと招待を受けた。お姉ちゃんが手つくりの料理を食べさせると言うのだ。
手土産のケーキと果物を持って出かける。料理はイタリヤ料理ということで冷静パスタ、そしてスープ、サイドメニューにキッシュがついていた。パスタの上の大根おろしまでが新鮮で食材が生き生きとしていた。(味付けは除外として)
めったに食べることのないものを食べてレストランの雰囲気を味わうことが出来た。聞くと朝から準備で半日かかっていたとか、あんなに小さくて近くの公園やコンビニ、そして
スーパーに手を引いて遊んでいた孫がこんなことが出来るようになったかと思うと本当に健康で成長したことを改めて感謝させられたものである。
一歳のときに一升餅を背中に背負い、ヨチヨチ歩いた姿や幼稚園帰りのバスを迎えにいったとき、ママが来ていないと言って大泣きしたり小さいときの思い出がどっと思い出されてきた。人生ってこんなことなんだと生かされていること、普段は会うことは出来なくてもこうして家族は結ばれているのだと言うことをしみじみと覚えることが出来た。
願わくは来年の受験も無事に済んで希望の学校でさらに成長してもらいたいものと願いながら暑い中を帰途に着いた。
こうして夏は過ぎていくのだが、各自がどんなことでも良いので思い出を残してもらいたいと思う。

    音楽スタジオウーソーズ    第11回

2014-08-18 09:50:15 | Weblog

本社進出計画の第一号店は成功したと言える。外処は本社へ呼ばれて報告をした。そしてその成果を確認できたのである。二年足らずのうちにこれだけの実績が上がるとは予測できていなかったが、役員は「5年ほどしっかり足固めをしてほしい。その間に後任を決めて君を役員として迎えたいと思っている。」と言われた。外様ではないが役員として迎えられると言う言葉は彼にとっては重い言葉であった。サラリーマンとはいえ単なる管理職で終わるか、役員になるかでは大きく変わる。公にはならないが学閥もあれば人間関係もある。学卒ではない彼にとってはそれが気がかりだった。
仕事が順調になり、大宮の自宅にも毎週帰宅できるようになり、休みもゆっくり取れるようになった。元々音楽好きであり、機械いじりの好きな彼にとっては格好な時間である。余暇を利用して秋葉原へ出かける。ここで好きな部品を買い集め自分で組み立てて考えているものを作るのである。彼はそのころにはまだ普及して痛かったカラオケのようなものを考えていた。オリジナルでそんなものがあれば一人で楽しめると言うのが動機であり、発想だった。時間はかかったが、何となくそれらしいものが出来た。するとそれを試してみたいと言う思いと見てもらいたいという気持ちが出てきた。むすこでも良かったのだが、不思議なものでそれには抵抗があった。駅前をぶらぶらしていると、そのころにはまだ珍しいカラオケ喫茶のような店が見つかった。一人入るには少しためらいと抵抗があったが、好奇心が強かった。中は小部屋に分かれていて案内される。
しかし、これだけでは何となく物足りなかった。店を出て少し歩いていると「音楽スタジオ」と書いた看板が目に付いた。そこはがらんとした店にテーブルが置かれていて奥にステージがある。その横にはピアノがおいてあり、飲み物をもらって休んでいるとピアニストが来て弾き始めた。夜はプログラムに従ってその日その日のゲストが個々に演奏を聞かせてくれるらしい。
その他にも「曜日指定」でみんなで歌うコーラスタイムもあると聞いた。外処はそれを聞いてここなら一人出来ても楽しめるし、仕事を忘れて癒されるなとほくそ笑んでいた。
そしてある日、曜日指定のコーラスの日にその店をのぞくことにした。

思いつくままに   「納涼祭」

2014-08-15 07:02:29 | Weblog
今年も夏祭りの季節がやってきた。7月の下旬に行われる隅田川両国の花火大会も今年は天候に恵まれて無事に終わった様で何よりだった。(昨年は雨で中止)8月に入り一斉に各地で花火大会や夏祭りが行われている。しかしこれらの祭りが個々に聞いてみると内容が少しずつねんねんかわりつつあるようだ。
ある町会で聞くと祭りに使う経費を寄付で賄うのは恒例なのだが、今年はその寄付金を
「千円以上でお願いします」と条件がついたそうである。つまり千円以下は受け付けないでそれ以上をお願いすると言うことらしい。これでは中には「貧者の一灯」をしていた人
の好意を無にすることになるし本来の寄付と言う厚意に反する気がするし中には「それではうちでは出来ません」と言うところが出ても止むを得ないことにならないだろうかと要らぬ心配をしてしまう。
そんな中で昨年も招待を受けて近所にある「特別養護施設」の職員によるその病人と家族をねぎらう「納涼祭」に出かけた。昨年と内容も工夫して経費節減してあり、今年は
手つくりの小さなやぐらの周りを全員で踊る盆踊りと手つくりの花火大会であった。
各階ごとの病人と家族そして担当の職員による小さな輪が出来て、車椅子を引きながら手をたたき、うちわを振ってうれしそうに踊っている姿、そしてその最後の打ち上げ花火を見上げて無邪気に歓声を上げて喜んでいる姿を見ているうちに目頭が熱くなるのを禁じえなかった。その中に昨年も中年の娘二人に抱きかかえられて車椅子に座っていたおばあちゃんを見つけて「昨年もお会いしましたね。今年も元気な何よりですね」と声を聞けると
うれしそうに笑っていたのが印象的だった。来年も又元気な姿でお会いすることを願いながら帰宅したのだ。
祭りと言うと華やかさ賑やかさ、景気のよさなどを潜在的に感じるものだが、今年は総じていささかその中にも地味さを感じた気がしている。これも今年の景気を無意識に敏感に反映して影響を受けているのかもしれない。
そもそも祭り自体そんなにお金をかけて大規模にするものだろうかと言うことを原点に返って考えても良いのではなかろうか。上記の寄付金の問題ではないが大事なことは
町会であれ、ホームであれその祭りに参加する人が心からその時間を楽しみそしてその楽しみを共有することにあることを大事に考えてマンネリ化した内容で終始することではないことも考え合わせることも大事であろう。そこに魂がこめられてこそである。
それがない祭りはむなしい線香花火となってしまうのだろう。

音楽スタジオウーソーズ   第10回

2014-08-11 11:59:09 | Weblog
本社からの指示事項はただ一点「合格率80㌫以上を守ること」と言う項目だった。
それを聞いてそれだけでいいのかと言う安易な思いがあったことは間違いない。しかし
実際に責任者として取り組んでみるとそうでもないことが分かって来た。東京で指導していたときも同じなのだが「聞いて覚える」という動作と反応が割りに早かったのだが、こちらでは一様に「のんびり」しているせいか、悪く言うと鈍いのかもしれない。よく分からないのか、分かっていて出来ないのか、そんな訳で三日で終わる過s程が一週間もかかることもある。すると自然に規定の時間数で合格者を出すことが出来なくなる。規定の時間数で合格者を出せなくなると当然合格率も下がることになる。
それは始まったときにすぐ気づいていたがその対策がすぐに思いつかない。職員や教官を集めて会議を開いて話し合いも何度か開いたが、これと言った決め手がない。
何しろ相手は人間であり、様々な職種の人たちでもある。この人たちを同じマニュアルで教えることは出来なかった。合格率の良いのは学生である。若いと言うことと行動の反応が早く飲み込みも良い。時間がかかるのは女性であり、それも年齢が上がるほど悪くなる。この辺では買い物も簡単ではない。したがって女性も運転が出来ないと不便なのだ。
買い物用として車はあるが、免許がない。今までには無免許で走っていた人も多かったのではと思われるほどだ、彼はそんなこの地方の問題を含めてどうするかを検討した。
そして教官の得意技を利用して男女別、学生向き一般者、高齢者と出来るだけこまかく
区別をして担当を決めた。また、マニュアルもそれぞれ区別して指導させることにした。
これらのことを細かく作り管理するのは彼の得意とするところでもあった。
こうして一年が過ぎるころには、その効果が出て結果として現れてきた。80%ははるかに超えて順調に合格者を出すことが出来た。
本社からは何の苦情もなく過ぎていた。彼の仕事の一番充実していたときだったかもしれない。大宮へ帰宅するのは一ヶ月に一回ぐらいだったが、一週間に一回はゆっくり出来る時間が取れるようになっていた。ただ、妻のいない家に帰っても癒されることもない。
酒の飲めない彼にとってただひとつの慰めは電気器具で交錯する何かを作ることであった。

思いつくままに   「人生場所」

2014-08-08 10:33:11 | Weblog
7月の末に大相撲名古屋場所は終わった。今頃は暑い夏を東北巡業へと旅立ち各地を訪れてたくさんの人々へ勇気と希望を与えていることだろう。私もいつの間にか相撲フアンになり、場所が始まるとTVに釘付けになる毎日を過ごしていた。中でも優勝力士のことよりはむしろ幕内下位の力士に関心があった。そこには若い力士も年配の力士も何とかして上位へと言う意欲と姿勢が強く見えて、痛々しくも又微笑ましくもあり、どの力士にも声援を送りたい気持ちになる。この世界ほど下克上が結果として明白に示される世界はないからだ。私自身も長いサラリーマンの人生を過ごしてきたが、その中では目に見えない失敗や誤りがあったが、中々表面に結果として信賞必罰のような対象になることはなかった。(むしろ努力の結果を何らかの形で評価が欲しかったくらい)
相撲の世界では怪我で休場を余儀なくされる(今場所は特に多かったが)力士が出ると本当に同情せざるを得ないし、心が痛む。結果として次の場所では当然ながらランクダウンは間違いないし、治療しだいでは長期になることもある。怪我は稽古量や方法にも原因があるかもしれないが、恐れていては相撲は取れないことも事実だ。
そんな中で若手の成長を見るのは大きな楽しみだし、又期待も膨らむが力士の国際化の中で日本人力士の活躍が望まれる。
人生にもそんな面があるかもしれない。相撲界における怪我は人生における「病」であろうか。病気にかかることは人生場所での休場へつながると思わざるを得ない。場合によっては休場から引退へつながることもある。したがって健康管理こそが一番重要であり、これが成績のすべてに関わることになる。まずは健全なる生活と訓練を維持しならできる範囲の最低の努力が必要であろう。全てはそこからであり、日々の勝ち負けは小さな問題として考え心を平らにして欲を持たず、小さな喜びを見つけながら喜びの発見を一日のうちにひとつでも見つけることを目的として楽しむことが出来るならば、充分である。
今夜はトリオ会の食事会が予定されている。「焼肉食べ放題」となっているが今から楽しみである。

音楽スタジオウーソーズ   第9回

2014-08-04 10:28:04 | Weblog
光一は昼休みが楽しみになり始めていた。春子に会えることに喜びを感じる様になったからだ。今まで女性と一緒になって話すことがなかった訳ではない。だが、そんな時でも感情的には何も変化はなく、普通であった。例えその女性が美しくきらびやかな服装であったとしてもそれで気持ちが動くことはなかったのである。その店に春子がいて、働いているのに気づいた時も最初は同じだった。食事をする。その後コーヒーを頼んで音楽雑誌を読みながらBGMに耳を傾けるだけで満足だったし、春子とは注文の品を頼むときと運んできた時に目を合わせるだけのものだった。
しかし春子はそんな光一を早くから他の客とは違う感覚で見ていた。それはいつも一人でいること。(他は二人連れが多いし女の子を連れている人も多かった)
殆ど何もしゃべらない。無口で表情も変わらない。それが彼のニヒルにも見えながら、暖かさを感じさせる魅力であった。「いつものを下さい」と言うだけだがお洒落なさっぱりした服装や靴などの履物などセンスの良さが分かった。そんな光一にいつしか春子は惹かれていた。黙っていてもあの人は自分の心を捕まえていると思わずに居られなかった。
春子は高校を出ると田舎(館林)を離れ、手に職を持つ為に夜間の看護学校を目指した。
学費と生活費は自分で働いてとこの店に勤めているのだが、田舎には年老いた母が居た。
兄弟が居るので少しは安心だったが、娘としては母のことが心配で電話で話すのが楽しみだけだった。
ある日「お客さん、今日から新しいメニューが出来ているんですけど、食べてみますか。」と光一に声をかけてみた。いつもの様に本を読んでいた光一はきょとんしたように春子を見て「ええ、食べてみましょう。だけど新しいメニューって何だろう」「魚のフライに生野菜のサラダがついているの、」「そう、じゃあそれを」と短く返事をする。
そんな短いやり取りであったが、そこに二人だけにしか分からない感情が交錯していたのだ。「コーヒーはいつものアメリカンでいいですね。」
その日は遅番で昼休みが終わって客が引いた後も光一は残っていた。テーブルの後片付けをしている春子の後姿をいつもになく見ていた光一は始めて春子に声をかけた。
「ねえ、君名前なんていうの、僕はと外処っていうんだけど」「わたし、春子、杉山春子です。よろしく」と答えた。「よろしく、ところで君の仕事何時ごろ終わるの」
「昼番なので六時までには終わります。」「店はこの近くにあるんだけど、帰りによって見ない。」「ええよく知っています。じゃあ、ちょっとのぞいて見ますわ」