波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

      思いつくままに

2012-07-31 11:25:18 | Weblog
いよいよ本格的な暑さが始まった。連日30度を越す日が続くと、外出するときにどのような注意が必要かを真剣に考えなければならなくなった。(10年ほど前まではあまり気にならなかったが、)まず帽子は欠かせない。ハンカチ(タオル)そして出来ればペットボトルの水、手には荷物を持たなくして身軽にするなどである。
そんなわけで今の自分にとって何が取り得かと言われれば、僅かに残っている「健康」であろうか。そして70年以上の年月を
大きな病気もせずに過ごせたことである。今になってそのために何か必要なことをしたのか、或いは良い薬を飲んでいたのか
(サプリメント他)と言われても格別なものは飲んでいない。強いて言えば「酒」「タバコ」をしなかったことぐらいである。
しかし、今になって考えてみるとこの二つの要因が大きく影響してきていることを思わざるを得ない。
何故ならば、この二つのことをずっと続けてきたことが年齢とともに身体へ大きく影響を働き、大なり小なりの病気への要因になっている例を聞くことが多いからである。(糖尿病、肺気腫など)勿論皆さんも充分そのことは知っていて注意しているわけだが、絶対にないとは言えないこととそのちょうど良い具合での配分が出来ないことが多いからであろうか。
(それが人間の弱さでもあるが、)しかしその結果が明確になるには時間の経過があるし、その影響も千差万別である。
そんなわけで最終的には自分で納得さざるを得ないが、これだけは予見できることではない。
私はある年齢の頃から(60代頃か)「自分の身体を自分のものではなく、預かっているものである」と言う考えが生まれた。
すると何事にも無理をしないように自然に行動するようになったのです。
「兄弟の皆さん、あなたがたは自由を得るために召されたのです。ただこの自由を罪を犯す足ががりとして「肉」に与えず
愛を持って仕えなさい。‥‥」この言葉の影響もあったのです。
勿論、この通り完全に実行できたのではありませんが、少なからず影響受けたことは事実です。
そんなわけでこの夏をどのようにすごすことが良いのか、頭を悩ませているわけです。ないか行動するにしても条件の良いときの半分も出来ないのですが、これもしょうがないかなと思いつつ、早く涼しくなることを願っています。

 コンドルは飛んだ  第9回

2012-07-27 09:57:17 | Weblog
内輪の結婚式とはいえ、初めてのこととあって辰夫は緊張していた。神主のお祓いを受けて三々九度の杯を交わし、何となく改まった気持ちになった。それは甘ったるい恋愛感情とは程遠い大人としての責任感だった。「今までのような軽い気持ちではやっていけないぞ」と言う漠然としながらも厳しいものを感じていた。
船は夜間に出帆する。新婚旅行を兼ねているとあって一等室を予約していた。船は翌朝早く着くのだが二人はまだ興奮と緊張から何となく落ち着かなかった。勿論ゆっくり寝ると言う気持ちにもならずただぼんやりと窓の外の暗い海を眺めていた。
少し空が白々と明るくなる頃船は静かに港に着いた。いつもは都会の喧騒の中で生活している二人には、こんな時間が貴重であり、別世界であった。短い時間だが、こうして船で陸を離れることでどこか外国へでも行ったような気持ちにもなれるのが良かった。上陸して休憩所へ案内される。ここでその日の予定を組み立てて車を頼めば全て案内してもらえる。
観光と言ってもそれほどのところはない。三原山の火口へのぼり、その廻りを歩くのが主な名所であるが、特別なものがあるわけではない。二人はそこを終わると車を波浮港へと頼んだ。やはり島と言えば港である。その一角に名もない民宿が何軒か立ち並んでいる。そこをぶらぶら歩きながら、辰夫は一夜の宿を決めていた。何事によらず大げさをせず、贅沢を嫌う辰夫らしい選択だった。久子も新婚とも思えない質素な服装で黙っている。
こうして大島での一夜は明け、二人は親たちへの土産を手にして帰ってきた。
暫くは共働きを決めていたので、翌日からは忙しい毎日が始まった。そして帰りもまちまちであったが、お互いに気遣いながらの生活だった。何しろ辰夫は器用であり、何でも出来た。男だからと言ってふんぞり返って女の仕事に手を出さないと言うようなことはいっさいない。むしろ逆である。早く帰ってくれば食事の支度から掃除まできちんとしてあり久子の手を出すこともないくらいである。
「辰夫さん、私妊娠したみたい」久子からぽつんと聞いたのはそれから何ヶ月か過ぎた頃だった。「そうか、良かったな。
身体を労わって良い子を産んでくれよ。」辰夫は心から喜んでいた。甘いことも、大げさに騒ぐこともない辰夫のその真摯な言葉は久子には身に沁みて嬉しかった。やがて可愛い女の子が生まれた。

思い付くままに

2012-07-24 10:12:17 | Weblog
「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造りあげる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。」この言葉に接したとき、私は今までにない衝撃を受けた。この言葉の持つ意味を噛み締めると自分の事を顧みて反省するばかりだからだ。人は誰でも無意識のうちに相手と自分を比較して少しでも自分を優位に立とうする気持ちが働いてしまう。そして自分の知識を何時の間にかひけらかし、自分の意見で人を説得しようとする。こんな事が日常茶飯事に行われていて過ごしているうちに大事なことを忘れて、何時の間にか人を傷つけていたりしていることを知らないで過ごすことになるのだ。
それよりも大事なことは「愛」だと言うのだが、このことは具体的に何をすることでどうしたらよいのか思いつかないでいる。
(それだからこそ大事なのだと教えているのだが、)
知識が要らないというのでもなく決して軽視するものではない。知識は大事であり、この世の世界は概ね知識の働きによって統制されていることはよく分かっているつもりだ。しかしそのことだけが突出しそのことで全てが量られると、人間軽視の大事なものが失われていくことになることに気づかないでしまうようになるのだ。それについてある哲学者は「誰でも知識があってもその用い方を知らなければ,不充分な知識を持っているに過ぎないのだ」と言っているし、「真の知識は如何に自分が無知であるかを人間に悟らせるものだ」と言う人もいる。このことは間違うと自分は知的な人間だと思っている人が無知の証拠であるとさえ言えることになってしまう。
昔、あるセミプロと言われるゴルフアーの人と一緒に仕事をしたことがある。彼は人前では絶対にゴルフの話はしないし、まして
教えてほしいと言っても首を縦に振ることはなかった。そして私が彼の腕前を人前で披露しようとすると、とんでもないとすごい剣幕で怒っていたことを思い出します。本当にその道を極めようとする人はそれなりにその奥の深さを知り、更にその上を極めようとするために人前で自分が出来ていることを知られたくないと思っていたようだ。
そんなことより、誰でも出来ること、見えて分かること、それは人に対する「思いやり」であろうか。難しいことはない。
その人のことを自然に思い、自分なりにできることを素直あらわし、実行するだけでいいのだ。その積み重ねこそが「人を造っていくのだ」そのことを大事に、真剣に考えて生きたいと思っている。

 コンドルは飛んだ  第8回

2012-07-20 11:42:10 | Weblog
会社も規模によって、社内の様子も大きく変わる。100人以下の小さい会社だと何となく家族的な雰囲気になり、あまり気負うこともなく馴染むことになるが1000人以上の上場会社ともなると、その辺がぜんぜん違ってくるようだ。辰夫は初めてに事で比較するものは何もなく、会社と言うものはこんなものかと受け入れていたが配属された「総務部」と言う大部屋で毎日を過ごすことになった。仕事は多岐にわたっているが今までの知識の中で少しづつ処理できることであったし、人間関係の中で交渉することが少なくて事務処理が多いことはあまり気を使うこともなく過ごせていた。それは楽でもあったが、半面刺激もなく何となく物足りなさを感じさせていた。
それは辰夫の潜在的な能力を感じさせることであり、まだ他の事も出来ることを示していた。
久子とのデイトの時にはそんな事が愚痴になって出てしまう。「総務と言う仕事はあまり面白くないね。決まったことを処理する事務の仕事が多くてやりがいを感じないんだ。」「そうでしょうね。辰夫さんなら何でも出来るし、研究熱心だから何か新しい仕事のほうが向いているかも知れないわね」「でも暫く辛抱してみるよ。上の人も見ているんだろうから。それより二人のこれからのこと相談しようよ。そろそろ親の承認をもらって結婚を決めようよ」「そうね。私はいつでもいいわ。辰夫さんが決心して決めてくれればそれでいいのよ」久子は学生時代の時の辰夫の姿を思い出しながら素直に聞いていた。
「所で新居は何処にする。仕事の通勤のことを考えると東京が便利だけど君の考えはどうだい。」「私も東京でいいと思っているけど出来れば親のことも考えると近くに住みたい気もあるの。」久子は母がリュウマチで足が悪く、身体が少し不自由なことをおもい、出来れば近くに住んでいつでも手伝いが出来るようにしたいと考えていた。
「そうか。それだとすれば常磐線の沿線になるね。我孫子辺りどうだい、その辺で探そうか。」そんな話をして急に二人の結婚が具体的に進んだ。何事も積極的に勧めて実行するのが辰夫のやり方だった。全てにぐずぐず、もたもたするのを嫌う性格から話は早かった。身内でのうちわの質素な結婚式を終わると新婚旅行に出掛けた。大島は東海汽船を社員割引で利用できることと
何となく町を離れると言う雰囲気を味わいたいと言う二人の希望であった。

  思いつくままに

2012-07-17 10:05:23 | Weblog
「あなたは迷信を信じますか。」と聞かれたことがある。「基本的に信じないけど、全く気にしないと言うほどつよくもないですね」と言うところだろうか。
女性は概ね気にするところが多いと聞いているが、ある女性が旅行に出掛けるときに持っていこうとしていた手鏡が何かの拍子で壊れてしまったらしい。さすがに不吉な予感になり、取りやめようと思ったと言う話を聞いたことがあるが、似たような話は世間ではたくさんあることだろう。また、病気になったときにおまじないや占いのようなことで治ると聞いて高いお金を出して
そのお世話になるという話も良く聞く話だ。
これらのことは鵜呑みに出来ないし、信用できないにしても人間はいざとなると弱く「いわしの頭も信心から」ではないが、この世の中は自分の考えでは理解できないことが多くあり、その対応もさまざまであることを知る。
確かに理屈では分からないことがまだ一杯あると言うことであり、そのことを通じて自分なりに解釈することも自由である。
話は変わるが、カソリックでは修道院と言うものがあり、そこには修道女と言われる人が住んで信仰に励んでいる。
ある人がそこを訪ねて「シスターと言われるような人は皆さん、本当に神にあったことがると言われるような体験をしているのでしょうか」とリポートしたらしい。すると「神様に本当にあったと言う方とそうでない人とは、やはり違ってきますね」という答えがあったそうである。これは仏教でも同じことが言えるようで仏門に徹している人は「仏」の存在を明確にしている人もいるようである。これらは一つの見解であり実際とは異なるのだが、信心深い人に表れるとか、そうでないひとには現れないと言う物理的なことで解釈するのではないと思うが、単にそれを絶対ないことだと決め付けて処理してしまうのも淋しい気がするのだ。
つまり人間が理解できる範囲と言うものは、どんな世界でもまことに狭く小さい範囲のものでしかないとおもうし、私達もまた
何時、何処でどれほどに変化するかわからないものだとおもうと(死というものも含めて)
これらの事を全く認めないと言うのも、人間としてあまりにも硬すぎる気がするのだ。そしてその存在を基本的にもう少し
柔軟に謙虚にそしてつつましく考えることも必要ではないかとおもう。
私たちはある範囲で未知の楽しさを持っているからこそ、楽しく生きていけるのだと言う事をおもっているから

  コンドルは飛んだ   第7回

2012-07-13 10:09:48 | Weblog
辰夫は自分が選んだ会社が自分にあっているという自信があったわけで選んだのではなかった。ただ観光という限り色々な
事業をしていると思うしその中から自分に合った仕事を選べるかなと思ったり、自分のしたいことが見つかるかも知れないなあと漠然と思ったからだった。
元来、見栄を張ることは出来ないし好きではない。まして人前で目立つことは好きではなかった。父も母もこの会社に就職したことを告げると二人とも意外な顔をした。口では「良かったね」と言ってくれたがその顔にはお前には少し不似合いではないかと言う感じが出ていたのを辰夫は見逃さなかった。
久子とはお互いに仕事が決まってから以前ほどに会うことが出来なくなっていた。だが、連絡を取り合いながら話をする時間は作っていた。「辰夫さん、会社はどう。少しは落ち着いた、どんな仕事をしているの」
「今はまだ研修中でね。いろいろな部署へ連れて行かれて見習いみたいなことをしているんだ。何しろホテル業から飲食業
それに旅行業と兎に角何でもやっている感じなので何処へ配属されるか見当もつかないよ。その内何処かへ決まると思うけど、それより君の方はどうなの。」
「私の方は毎日がとても楽しいわ。良い先輩がいて優しく指導してくれるし分からないことがあれば色々と教えてくれるし
少しづつ仕事を覚えているところよ。その内、私も何か書かせてもらえるようになると嬉しいんだけど」書籍関係の仕事に就いた久子は自分のしたかった仕事でもあってとても元気である。
兄の一夫は弁護士事務所にアルバイトをしながら司法書士の資格を取り、更に弁護士への勉強を続けていた。最近では生活時間がお互いに全く違って、顔をあわせることがなくすれ違いの毎日になっていた。
辰夫のいる部署には十人ぐらいの若者がいた。一人一人をよく観察するとそれぞれ個性があることが分かる。口にはしないが
それとなく自分の存在をアッピールしながら目立ち、人よりも良い部署へ行きたいと言う姿勢がありありと出ているのが分かる。そんな様子を冷ややかに見ながら辰夫は一人静かな存在であった。
やがて配属の内示が発表になった。辰夫はあまり自分でしたいこともまだなく何処でも良いかと思いながら覗いてみると
そこには「本社総務部」と書かれていた。

       思いつくままに

2012-07-10 08:23:49 | Weblog
長い人生を過ごしていると自分自身がどう変わっているかを自覚することが難しい。中には若いときからあまり変わっていないという意識の中で過ごしておられる方もいる。しかし人間は着実に年齢と共に変わっているのである。それは肉体的な面で顕著であるが、精神的にも変化していると思わなければならないだろう。
それは大きく分けると考え方が硬くなる人と柔らかく、つまり包容力が大きくなる人とがいると思う。(表面には見えない場合もあるが、)本来ならおおよその人が寛容になり、穏やかに成るはずだがそうもいかない人もいる。
私たちの周りには愚かな人、賢い人、勇気のある人、小心な人、だらしのない人、潔癖な人、暗い人、明るい人と様々な人がいる、そして
その中にあってその小さな違いの中で自分が悩んでしまうのである。(それが人間なのだが、)
不思議なもので後から考えればなんでもないことでも、その時相手とほんの僅か考えが違うことで、感情的になり怒ってみたり
非難したり、自分の正しさを主張しがちである。しかしそんなにその関係は違いがあるのだろうか。そしてその正当性は明確に言えるのだろうかと冷静に考えると、そこには何も大きく変わるものがないことに気づくようになるはずだ。
「全ての人を受け入れる」という神の言葉が頭に浮かぶが、その中にあって生かされていることをしっかり自覚したいと思う。
最近の心境としてはあまり物事に「拘り」を持つことがなくなったと思う。言い方を返れば「いい加減」であり、「適当」と言う言葉になるかもしれない。「全ての人を受け入れる」ということにもつながるが、人と自分の違いを少しづつ受け入れ、自分の能力の限界を覚えざるを得ないようになってきたのだ。そして全てを出来るだけ「自然体」で受け止め、納得することが出来るようになる。それは自分自身を大きな器の中に委ねて、安心することでもある。
「何でも分かる。」「知っている。」「たいていのことは出来る」そんな思いが長い間あってそれが全ての事毎に障害になり、
「一喜一憂」することにもつながっていた。
「あなたを他の者たちよりも、優れたものとしたのは誰です。一体あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか。もし頂いたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」
肩の力を抜いて、生きる生き方も身に着けたいと、そして与えられた恵を充分に感謝して享受して生きたいと思うこの頃なのです。

コンドルは飛んだ   第6回

2012-07-06 13:34:36 | Weblog
久子に帰りの道を良く教えてもらう余裕もなく、すたすたと帰り道を歩き始め、電灯のない暗い田んぼ道に出るとさすがに不安を感じていた。しかし田舎道とあってそんなに複雑に道がるわけではなかったので、ただ道どおりに歩いていった。
持ち前の冒険心と新しいことへの挑戦することの強い好奇心とが、何の怖さも感じさせていなかった。出来るだけ広い、太い道を選んで歩いているうちに何時の間にか駅まで帰っていた。
次の電車が来るまで待合室で時間を過ごしている間に少し興奮が冷めて落ち着いてきた。何か肩に力が入っていた重荷を下ろした
ように少しづつ緊張感も取れ、ほっとした気持ちだった。それは一つ新しいことをやり遂げたと言う思いと初めて来た所への興味でもあった。帰りの電車に乗るとどっと疲れも出て何時の間にか居眠りをしているうちに車内放送の終点を告げられて慌てて電車を降りて家路に着いた。
帰るといつもより遅い時間にさすがに母が聞きとがめて「何かあったのかい。いつもよりずいぶん遅いじゃないか。」と心配して声がかかる。「ちょっと用事が出来て友達のところへ行っていたんだ」とさりげなく言うと「おやすみ」と部屋へ入った。
久子との行動はそれから毎日一緒にするようになった。授業やクラブの終わる時間を打ち合わせて必ず帰りは一緒に上野から電車に乗り、牛久まで行くのだ。久子は最初のうちはどうしてかしらと単純に不思議に考えていたが、辰夫の機嫌の良い様子を見ているうちにこれでよいのかしらと思うようになっていた。雨が降る日も寒い雪の日もその行動は変わらなかった。
自転車で送り届けると家にも入らずまっすぐに帰っていくのだ。そんな様子は知らない人が聞いたら異常とも思えたかもしれない。しかし、二人は真面目であったし真剣な交際であった。何にも言わずにそんな時間を過ごしているうちに久子は何時辰夫が何を言い出してもその言葉に従うと言う気持ちが出来ていた。
その内、久子は辰夫を両親にも紹介して家で休んでもらうようになっていた。休みの日には二人で出掛けることも増えていた。
学校を卒業すると二人は就職して仕事についた。久子は書籍の編修をする会社へ勤めるようになり、辰夫は堅い会社を敬遠して
F観光という会社を選んだ。何となく何でも好きなことが出来るチャンスがあるような気がしたからだ。そんな意識が働いていたのだ。

思いつくままに

2012-07-03 10:21:30 | Weblog
人はこの世に生きている間、どんなことを頭に浮かべながら過ごしているのだろうか。その時々に自分に都合の良いことはないかと言うことを無意識に頭に浮かべていることが多いとは思うが、その中で他人と自分とを比較すると言うことがあるのではないだろうか。何にせよ、誰かが自分より良い生活をしていると聞くと羨望と嫉妬のようなものが何時の間にか生まれていることを知らされる。「自分とあの男は学校も一緒で親も同じようなサラリーマンだった。だから当然同じような生活を送ると思っていたら何時の間にか向こうはとんとん拍子で仕事に成功して金持ちになっていた。
また、、自分と彼とは成績もあまり変わらなかったのに向こうだけが何時の間にか良い大学へ行くようになっていたのは納得いかないとか、家の娘のほうが美人だと思うのに向こうは何時の間にか、社長の息子に気に入られて嫁に行くことになった」と
数えればきりがないほどだ。人間社会に「運」、「不運」はあってはならないと思うが、現実にはこのようなことは一杯あり、この世界から免れることは出来ないでいるのである。
理屈の上では「人は等しく平等でなければならない」と言う言葉もあって差別を戒めているが、実態はそんなに美しいものではないことも認めざるを得ない。
しかしそんな現実だからこそ、覚えておかなくてはならない言葉がある。「私は与えられた恵に従って、異なった賜物を持っているので‥‥快く行うべきです」つまり人はそれぞれ異なった賜物を与えられていることを、各自で知るべきだと言うのです。
それが人にはどんなに粗末に見えることであっても、どんなに小さく目立たないことであっても与えられているものを大切にしてそれを生かすべきだと教えているのです。
私自身の経験でも立派な経歴の人とか、優れた人の前では畏敬の念を知らずに覚えて姿勢を正し緊張してそうでない人だと
無意識に軽い侮蔑の意識が生まれていることに気づき歴然とした覚えがあります。
そんな時こそ「人を尊敬することに人より勝りなさい」「人を自分より勝っているものと思いなさい」「嫉妬するのではなく
人を尊敬することの喜びを覚えましょう」と言う言葉を実感として知ることを覚えなければとしみじみ思うのである。