波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

           白百合を愛した男  第12回

2010-07-30 09:47:35 | Weblog
敦賀の町はそんなに大きな町ではない。こんな所で果たして商売になるのだろうか。
日本の食文化に「パン」が入ってきて、まだその習慣が浸透していたとも思えなかった。
小さな借家の屋根の色を緑に塗った。そして其処にとんがり帽子の煙突様の物にパンの絵を描く。店に陳列するものには「食パン、」と「菓子パン」チョコレート、ジャム、クリーム
である。少しづつ準備が進む。開店まであと、一週間になり、美継は宣伝用の文章を準備することにした。緑色の台紙に母親と子供の会話がならぶ。「お母さん。このパンを食べると、お母さんの味がするわ。とても甘くて、優しい味よ。」「良かったわ。今日もこのパンを食べて一日、感謝の心で過ごしましょうね。」そして商品の紹介と場所の案内が書かれている。新聞の間に挟むチラシとして配られたのである。
少し都会風なこの商売は、最初少し抵抗があってあまりはかばかしい売れ行きではなかった。しかし、時間と共に口コミと共に売れるようになってきた。一日に作る量も少しづつ増やし、職人も一人ふやすことになった。美継は時間ができると、役場、学校、病院と回り、宣伝に努めた。その人柄が好感を持たれ、利益も出るようになった。
しかし、彼の目的はこれで終わることではなかった。できることなら、外国との貿易を始めたい。そのために資金を準備しておかなければならない。ウラジオストックからのニュースにも注意して調べていたが、解除になる様子は無かった。
そんなある日、一本の電話が入った。「美継さんですね。私は山内と申します。実はお目にかかってお話をしたい事があります。よろしかったらお伺いしたいのですが、ご都合はいかがですか。用件はお目にかかってお話します。」
全く知らない人であり、見当もつかなかった。ただ同県人であること、美継を知っている人の紹介であることだけだった。
むげに断ることも出来ず、後日会うことに約束した。
敦賀の町は漁港の町でもある。大半の人は漁業に関した仕事か、関連の仕事であった。
港には、様々な船が出入りしていて、その中には軍艦「三笠」もあった。美継はそのことを聞くと、すぐ港へ行き、その英姿をしみじみと眺めながらその歴史を覚えていた。
幸い、乗船が許され乗ることも出来た。その時の感激は彼の記憶に何時までも残ることになる。大正12年、美継28歳の春のことであった。

         思いつくまま

2010-07-28 10:41:38 | Weblog
連日の猛暑である。夏は嫌いではなく、歓迎してきたが体力の衰えと共にこの暑さに耐えることの厳しさを味わっている。(むしろ耐寒のほうが過ごしやすいのでは)
そしてこの時期「夏休み真っ盛り」である。自分にはあまり関係の無い言葉になってしまったが(一年中がサンデー?)やはり何となく思い出すのである。
忘れられない夏休み、それは小学3年生の時に行った親戚の田舎での一週間であった。家の前の小川へ出かけてゆき、カエル、かに、小魚、虫、トンボとはじめて見る世界を満喫した。それは60年を過ぎたいまでも忘れられない心のふるさとの光景である。
現代の夏休みと子供の過ごし方はどんなものであろうか。規模の大きさから言えば、海外旅行に始まって、海に山への避暑をかねた別荘生活、あるいは学校で計画される林間学校、自然との触れ合いから、デズニーランド、海水浴、あるいはプールでの遊びと種種雑多であろうか。危険さえ注意して大いにこの休みを楽しみ、謳歌してもらいたいと思う。
そんな中で、ふと思うことは「ああ、面白かった。楽しかった。」で終わってしまい、そこには何の感動も、思い出も残らないことである。
日々は何もしなくても、何かをしても過ぎていき、二度と帰らない。もう一度あの日のあの思い出をと思っても帰ってこないのだ。そのことを考える事が少しでも出来るなら、
それはささやかな、贅沢なものでなくても良い。心に残るものを残したいものである。
良い友達に出会うことが出来た。あの時の、あの場所での時間は自分にとって忘れられない時間となった。等と小さな思い出を作って欲しいと思う。
そのことが心を豊かにし、人を思い、自然を思い、人生を大事にする心を養っていくことになる。そんな気がするのだ。
我が家の小さな庭も連日賑やかである。朝とりのトマト、一週間に一回位の収穫のなす、
毎朝楽しめる朝顔、種から植えたコスモスが早くも開花、色とりどりのグラジオラス、
ミニバラの鉢も、元気よく花をつけてくれている。小さなガーデニングが私を慰め、楽しませてくれている。暑さに負けず、何とかこの夏を乗り切ってもらいたいと願いながら

         白百合を愛した男  第11回 

2010-07-26 09:54:52 | Weblog
危険を感じながら用心して事務所へ出てみると、誰も来ていない。如何すべきかを考えていると、外を大きなスピーカーからの放送が聞こえてきた。直ちに避難せよ。外国人は帰国せよ。(ここからの退去)との強い命令である。美継は危険を感じ、身の回りのものを整理すると、日本への連絡もそこそこに港へと急いだ。そこにはすでにぞくぞくと人が集まり、ごったかえした混雑が始まっていた。船上にあがり、やっと一息を付く。やはり外国は日本と違って何があるか分らないし、またその対処も分らない。頼みとしていた現地のスタッフも何時の間にかいなくなり、皆目手の打ちようも無く、書類を含めたもの全てがそのままであった。敦賀の港へ付き宿を取り、会社へ再度連絡をする。電話が通じない。
知人、取引先その他あちこち連絡を取り、消息を取り調べていくうちに会社は既に閉鎖され関係者は既に其処にいないことが分った。リスクの大きい業種であったが、順調に経営されていると思われた。会社の内容を知らされず、派遣させられていた美継には日本で何が起きて、どうしてこうなったのか、皆目検討もつかなかった。
しかし、東京へ帰り、会社の関係者にあうことも考えたが、今更如何することもできまいとあきらめることにした。しかし、海外貿易にはまだ、自信もあり、あきらめていなかった。
必ず、革命はそのうち収まるだろう。そうしたらもう一度ウラジオストックへ帰り、商売を始めたい。何とか一人の力でも努力したい、その思いが強かった。しかし、その時期が何時になるのか、それも分らない。当面の生活もある。美継は決心した。
この地で商売を始めよう。幸い蓄財をしていた資金もある。これを基にロシアへ行ける時がくるまでこの地で頑張ろう。ここにいればすぐ行ける。
試行錯誤の結果、彼は敦賀の町ではまだ珍しかった「パン」を作って売ることにした。
しかし、彼にはパンを作る腕は無かった。考えた末、同じパンを作るなら、一番美味しいパンが良い。そのためには一流の職人が必要だ。そして東京へ出かけ、交渉の結果、当時東京でも有名になっていた「木村屋」から一人の職人をスカウトする事が出来たのである。
準備には少し時間を要したが、着々と準備は進んでいた。少し職人も、身長に味見を繰り返し、確認をする。しかし、美継は慎重であった。何かが足りない。これだけではダメだ。
毎日が検討の日々となった。

          白百合を愛した男   第10回   

2010-07-23 09:05:13 | Weblog
社長から派遣を言われたところはウラジオストックという所だった。地図で見るとロシアの極東部にある港湾に位置していて造船、漁業、軍港としてその役目を果たしていた。ロシア革命が沈静化した後、日本、イギリス、アメリカの干渉郡が進駐していたのである。
日本からは新橋を基点にして敦賀港へつなぎ、そこからウラジオストックへの国際列車としての路線が運行されていた。当時ロシアは農奴解放(1861)以後封建的な社会体制が続き労働者の請願デモが頻発し、軍隊が発砲し、死者が多数発生した。その後も大寒波による食糧不足が原因で帝政への不満を訴える抗議デモもあり、治安が安定していなかったが
1910年ごろから沈静化していた。
美継はその頃ではまだ少ないスーツを支度してもらい、ハイカラなかんかん帽を被り、手には鞄と言ったいでたちで出発した。こんな時、やはり下関から釜山へ大きな波に揺られて苦しんだ経験が自信となっていた。今回も知らないところではあるが、船も大きく、体力もついている。言葉もロシア語としては何も学習していなかったが、エスペラント語、英語で
何とかなるだろうと、あまり気にしていなかった。
今回は知っている人はいないので、現地のガイドが頼りであった。ガイドの紹介で宿が決まり、小さい事務所を構える事が出来た。到着してからの行動は早かった。地図を片手に様々な業種の工場や生産地の調査である。その結果、いろいろなことが分ってきた。
それらを日本へレポートとして報告する。日本から、具体的な指示が来て、追跡調査が始まる。毎日が新しい発見であり、収穫であり、事実の確認でもあった。日本では想像できない物や、出来事で驚きの連続であった。仕事は順調に進み始めていた。
品物の買い付けであり、荷作りの確認であり、港での積荷の立会いでもあった。美継は日本での仕事は狭く、小さいことを感じていた。これからは世界を相手に少しでも距離を広げて生きたい。そしていろいろなことを知り、利用できることをしていきたい。そんな思いがだんだん広がっていた。そんなある日の朝、起きてみると市の様子がおかしい。妙に静かで車も人の通る音が聞こえてこない。暫くすると、「パン、パン」というはじけた音がした。
発砲する銃の音である。何が起きたのか、様子が分らないが避難しなければならなかった。
第二次ロシア革命の発端であった。

         思いつくまま     

2010-07-21 10:58:05 | Weblog
毎朝洗面をしながら自分の顔をみる。普段は何も考えず済ませているが、ふと自分の顔を
まじまじと見ることがある。そしてその日の体調を思うのだが、疲れているときは目の下にクマが出ていることもあるし、生気が宿っていない。また寝不足な時ははれぼったいまぶたを見ることになる。昔から「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」ということを聞いたことがあるが、それは産まれて子供時代を過ぎて社会に出て大人になるまでは親の責任として考えられるが、40歳にもなれば自分の顔として考えろということらしい。
昔のことわざには「顔は人の看板」と言うのがあるし、眼のことになると「目は心のカガミ」、「目は口ほどにものを言い」等というのがあり、それぞれ意味を考えさせられる。
確かに自分自身でも心の持ち方や考え方によって自分の顔が変わって見えることがある経験をしてきた。自分の心が荒んでいるとき、また正しく考える事が出来ないで、自分本位で考えて、相手をいつまでも批判し、責めているような時、自分の心に悩みを持ち、いつも不安の中にあるようなとき、そんな時は自分では気がつかなくても相手にはその心が映って見えていても不思議ではない気がする。まして人にもよるが心の感情が表にすぐ表れる人と感情が見えにくい人とがいる。(ポーカーフェイス)私などは自分では隠しているつもりでもすぐ顔に出るほうで、よく人から注意されたものである。
最近はスナップ写真で自分の顔が写されていると自分の顔を注意してみている。そして
その表情が相手に不快感を与えていないかを思わさせられている。
それぞれが異なる顔と表情を持ち合わせているのだが、その中でも本当の厳しさの中にも
優しさを秘めた表情というものは表面上愛想を良くすればいいというものではないと思う。
それは人間の哀しさを深く理解した時に自然に滲み出てくるものだということを覚えたい。
つまり、それは耐えることの出来る人間に成り、同時に人を愛する楽しみを知るようになることでもある。その意味では道徳は人間を完成させていく基本原理であり、力であると思うのだが、
梅雨が明けたと思ったらいきなり、猛暑、酷暑である。体力的な対応を考えると大暑よりも
酷寒のほうが良いかと無いものねだりをしたくなる。毎日が耐久力勝負のようになって来た。私の周囲にも身体の変調を訴える人の話を聞くようになる。ご自愛専一に

         白百合を愛した男   第9回    

2010-07-19 17:12:24 | Weblog
森商会で働き始めた頃、兵隊検査があった。その頃男は21歳(満20歳)になると徴兵検査と称して出生地の役場から呼び出しを受け、検査を受ける義務があった。検査は身体検査
、簡単な学力テスト、そしてレントゲンなどである。美継も田舎へ帰り、検査を受けた。
結果はすぐ分った。身体能力として、標準より平均を下回り、身長、体重が足りず、甲、乙、丙、丁では丙種合格であった。兵隊として入隊するのは乙種までで、丙種は行くことが出来なかった。男としてはやや恥ずかしく地元でも表を歩くに肩身の狭い思いをしなければならずつらい立場であった。身体が悪いわけではなかったが不合格である。この結果、兵隊に行くことは無く田舎を早々に引き上げ、再び、仕事にもどることになった。会社は順調に業績を伸ばしていた。
美継は習い覚えて身につけた学問で経理の仕事をさせられていた。実直なその人柄を認められてもいた。電車が走り、車も少しづつ多くなる賑やかな生活の中で将来への夢も少しづつ膨らんでいた。そんなある日の朝、会社へ出ると社長から急に社長室へ来るように言われた。何も悪いことをした覚えもなく、帳簿の間違いも無いはずだと思いつつも何かを注意されることの緊張感と、不安がよぎっていた。「今度、初めてのことなんだが、ロシアへ店を出すことにした。日本には不足している木材、海産物他何でも良い。こちらで売れるものを探して買い付けてくれ。君のほうから知らせてくれる情報でよいとしたら、それを買い付けて日本へ送って欲しいのだ。初めてのことで、不自由をさせるかもしれないが、頑張ってくれ。」この話を聞いた彼は、全く信じられないことであった。二十歳を過ぎたばかりの若造にこんな大役をさせるとは、それも海外である。確かに朝鮮というところへ出てゆき、経験をした事は間違いないが、今度はロシアである。どこにあって、どう行くのかも見当がつかなかった。「分りました。しっかり勉強して準備をします。ありがとうございます。」
そう答えると席に戻り、思わず深呼吸をした。胸は高鳴り、心臓はばくばくしている。
「よーし、やってやる。」小さく華奢な身体ではあったが、心に秘めたものは誰にも負けない負けじ魂と神に守られているという強い自信があった。薄い眉毛、小さい目の奥にぎらぎらと光る闘志が見えるようであった。

           白百合を愛した男   第8回

2010-07-16 09:28:53 | Weblog
手紙を出した後、暫くは気にしていたが何時の間にかそのことを忘れてしまっていた。
毎日の学校の学習と教会での外国語の学習がとても面白く、覚えること、しなければいけないことに追いかけられていたためであった。日曜日に聞く牧師の話も真剣に聞いていた。
それは人としてどのように生きていかなければ行けないか。何を大切にしなければいけないのか、そんなことが少しづつ分ってくる気がしていたからである。
そんなある日、母から手紙が届いた。ドキドキしながら封を開く。滅多に字など書いたことの無い母のたどたどしい文字を見たとき、思わず涙があふれてきた。今まで我慢してきたものが堰を切ったように流れたのである。日本にいたときの母の優しい言葉や、食事、そして身の回りを心配してくれていたことが全部思い出されたのだ。誰も知らない土地に来て、優しい言葉のひとつもかけられず、知らない人ばかりのところでは心細いことばかりである。
「美継、元気ですか。あなたの手紙を見て一生懸命勉強し、頑張っていることが分りました。みんな元気ですから安心してください。私には何も分らないけれど、あなたが良いと考え、良いと信じたことであれば母は何も言いません。あなたの信じていることを真っ直ぐに
進んでください。」短いけれど、母の愛情が分り、手紙の字は涙でにじんでいた。
そして数日後、美継は「洗礼」をを受け神の前に誓いを立てたのであった。
釜山での生活も三年が過ぎ、学校を無事卒業することが出来た。美継は伯父に何時までも世話になっていることが出来ないと決心して帰国することを告げた。
日本では東京で関東大震災があり、多数の死者が出て大騒ぎになっていた。その震災後の東京である貿易会社がスタートした。社長の森氏は岡山出身であり、会社設立に数名の社員を集めていた。どこから聞いたのか、美継のところへ知らせが入った。「是非手伝って欲しい。」田舎へ帰っていた美継は早速上京することになる。まだ、焼け野原のある東京は想像していたよりは荒れていたが、大都会ではあった。何が出来るか、何をするのか、全く分らないままに東京での生活が始まったのである。会社はその頃には珍しく、海外との取引であった。主にソ連であり、木材を仕入れて、日本の絹織物を輸出するというのだが商いは小さく僅かであった。エスペラント語であったり、ロシア語を使い、少しづつ仕事を覚えたのだが、美継には全く新しい発見であった。

            思いつくまま  

2010-07-14 09:52:04 | Weblog
お盆の季節になった。(新)旧盆でされる人はあと一ヶ月先だが、私は昨日墓参に出かけた。小雨の降る少し涼しい中で、蚊にも刺されず墓石を洗い、草を抜き周辺を掃除する。
花を差し墓前に手を合わせると自然に亡くなった父や母、兄、義姉、妻、叔母の顔が浮かび共に生活をしていた頃を思い出す。そして教えられた数々、思い出が自然によみがえってくる。
自分が今日こうしていることの幸せは、自分ひとりの力ではなく身近な家族、先人の尊い恵みの上であることを思わされるのである。
しかし最近ではこのような習慣は年々風化しつつあるようで場所によっては墓地自体の管理が行き届かず、それぞれが墓参の習慣を止めるようになって荒れ放題になっているところも増えているようである。つまり二世代、三世代となるごとに「墓参り」をすることは無くなりつつあるようだ。その所為か最近では墓を必要とせず、「散骨」で済ませてしまう人も多くなっているということも聞く。これも時代の流れで止むを得ないことかと理解しつつも
亡くなった家族、先人を思う心が失せつつあることをやはり淋しく思わざるを得ない。
それは人間として最も大事な心の形成の上に大切なことだと思うからである。
確かに生存していた時のこの世での生活の中での、喜び、悲しみだけでなく、憎しみ、恨みなど人間としての感情は残る場合もあると思う。しかし、交わりを持ち、かかわりを持って
共に生きたことは当然自分も助けられ、生かされてきた証でもあるはずである。
そのことを考える時、一年に一度心静かにその事を覚えて感謝の祈りを捧げたいものである。ある本にこんな事が書いてあった。「私は死者のことを考えるときに不思議とその死が
陰隠滅滅なものではなく、明るくほんのりと感じられる。どんなにささやかであろうと身近な人に寛大で優しくそれらの人々に希望を与えるために努力し働いた人の死は暗いものが無い。愛は人間の問題を解決するエネルギー源であり、どのような生涯をも哲学的な意味づけを行いうる「叡智」である。人間が人間として完成した形で生かされるのは心が添えられた時である。いい、悪いの問題ではなく、自然の現実である。」
墓参の帰りに、道の駅に立ち寄り買い物をし、偶然見つけたコーヒーショップでコーヒーを楽しみ、死者を思いつつ、自分の人生を顧みるひと時を持った一日であった。

          白百合を愛した男   第7回

2010-07-12 08:26:09 | Weblog
毎日の生活がすっかり変わった。岡山の田舎にいたときは田舎の道を学校へ行くだけの日々で何の変わりも無く、新しいことや珍しいものを見ることは無かった。学校だけの生活には勉強に対する興味はあっても、それは僅かな知識と関心でしかなかった。しかし、ここでの生活は朝起きて夜寝るまでが全て新しい世界の連続であり、見ること、聞くこと、することが初めてであり、それを身につけることは全部自分のものになる。そのことが美継を夢中にさせ、毎日に力と勇気と希望を与えていた。身体は人並みよりは小さく、華奢で丈夫ではなかったが、気力だけは強いものがあった。だから少々の苦労や不自由は我慢することが出来た。何より新しい学問に対する執念があった。
日曜日の牧師から聞かされる外国語の言葉も又、とても新鮮であり、興味が合った。エスペラント語が分るようになってから、英語も教えてもらうようになっていた。それは綿にしみこむ水のように日々美継の身体に沁み込んでいったのである。
ある日、牧師から一冊の本が渡された。「聖書」と書いてある。「この本は私たちの神様の言葉が書いてあります。神が何をされ、何を言われているのか、一度読んでみてください。」読んでいくうちに、美継の心に自然に聖書の言葉が理解されるようになった。
そして、この聖書にあるような人生を生きて行きたいと思い始めていた。
そう考えながら、ふと、日本にいる父や母のことを考えていた。家は宮に仕える神職の仕事をしていて、その神を大切にしてきた。私の考えているキリストは日本ではヤソ教といわれ
信じている人は少ない。そんな神を信じるなんて親に言ったらどういわれるだろうか。
きっと、そんな事をいうやつはこの家の者として認めることは出来ない。「勘当」だといわれるだろう。そうしたら家に帰ることも出来なくなる。それからは悩み続け、如何したらよいだろうかと考え続け、だからといって、キリスト教をあきらめることも出来なかった。
そして、母に手紙を書くことにした。本当の自分の気持ちを伝えて許しを得たいと考えたのである。こんなことを書いて送れば、どんなに心配し、どんなに困り、迷惑をかけることになるか母に苦しみを与えることになると思いつつ、しかし自分の心を変えることも出来なかったのである。これで縁が切れることになることも心配しながらであったが、強い決心があった。

         白百合を愛した男  第6回

2010-07-09 09:30:40 | Weblog
官舎の朝は早かった。起きるとすぐ掃除が始まる。部屋から始まり、廊下、玄関、庭とつながる。そして其処が終わると、警察署の玄関周りを清掃して終わる。始めてすることなので要領がつかめないので、もたもたしていると、「まだ終わらないのか。」と声が飛んでくる。日中は小間使いの用事で言いつけられたことはなんでもする。食事の買出し、郵便物の手続き、荷物持ちのお供等、何でも出来ることはしなければならない。
そんな生活ではあったが、伯父は約束どおり、学校の手続きはきちんとしてくれたのだ。
学校とどんな話をしたのか、分らなかったが、一度連れて行かれて面接を受けた。
「釜山商業学校」と書かれた門をくぐり教員室へ入る。日本人学校とあって、日本語で話せるので安心である。出身地や両親のことを聞かれただけで終わった。授業は夜の時間であるのと、あまり人がいないことが良かったのかもしれない。伯父の身元保証も信用につながっていた。そんなことがあり、夕方になると、仕事を解放されて学校へ行く事が出来た。
数人の友達も出来て淋しかった心も少しここでは癒されることが出来た。
美継はすぐ母親に手紙を書いた。無事に着いたこと、伯父に親切に学校へ行かしてもらった事、釜山の町や言葉のこと、食べ物のことなどを書き、元気で頑張るから心配しないようにと結んだ。
落ち着いてくると、少し周りが見えてくる。町を歩くと知らない言葉が飛び交い、服装も違うので、どうしても少し距離を置いてしまう。そのうち片言の言葉を覚え、買い物などの時話が出来るようになる。それが嬉しかった。学校の勉強の時はつらいことや、淋しいことはすっかり忘れて熱中する事が出来た。何より早くいろいろなことを覚えて、これからやりたいことをするんだという思いで一杯だった。
そんなある日、学校から帰る途中、窓から明かりが見えて其処から知らない歌が聞こえてきた。近寄ってみると、入り口のところに大きな十字架がある。何も知らずに自然に足が向いて入っていた。キリスト教の教会だった。何も分らず、何も考えずに行ったのだが、牧師といわれる先生はエスペラント語で話をしていた。(当時世界共通語として使用されていた。)美継には全く理解できなかったが、出来れば何とか、この新しい言葉を覚えたい。そう考えた。教会は日曜日に礼拝をするので日曜日に来なさいと言われて彼は、休みの日を教会へ行くことにした。それは新しい言葉を覚えるためであった。