波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡   「語り上手と聞き上手」

2018-05-12 09:43:00 | Weblog
人は気の合った友人たちや知人と話し合って興に乗り、盛り上がると何にもましてぜいたくな気分になることができる。時にはすべての悩みを忘れ心が温かくなる。よく女性が気の合った友人同志立ち話をいつまでもしている姿を見るが、これなどはその典型であろう。
そこに流れているのは何だろうか、何が生まれているのだろう。それは悩みや不満を超えた自由な心であり、平安ではないだろうか。しかし、その時間が過ぎるとまた元へ戻っていつもの不安と悩みの中に戻ってしまうのだが、そこが人によって個人差や性格の違いとなって表れる。
従ってそんな時間はまれでしかないか、日常でもなかなか得られない。その時行われた「会話」の中に自由さがあるからだ。普段は何らかの縛りの野中に会ってその自由さが生まれないのだ。そして世の中にはそんな中に「聞き上手」と「語り上手」がいることを知ることができる。
「聞き上手」なひとは時に自分を抑えているために不自由さの中にあるだろう。「語り上手」は確かに話は面白いかもしれないが、聞き方によっては時々押しつけがましいこともあって、不自由さを感じることもある。どちらも上手という点では同じだが不自由さからは逃れられないかもしれない。
どちらが良いとも言えないが、できれば聞き上手である法jが無難かもしれない。なぜなら語り上手がどうしても言わなくてもよいことを言ってしまい、のちに取り返しの塚に誤解を招き、断りと誤りをしなくてはいけないことが起こるからである。
私も息子とたびたび話す機会があるが、話しているときは楽しいが内容によっては、つい親として言いすぎたり、押しつけがましいことを言っていることがある。後で聞くとそれは当人にはプレッシャーであり、時には大きな誤解を招いており、良かれと思っていったことがマイナスになっていることが多いことでお互いに気まずい気持ちになることがあるからだ。
じんせいでは語ることは避けられないが、意外とこの二つのことに無頓着な人が多いことを思う。

     思いつくままに   「マラソンと歩行運動」

2018-05-09 10:11:02 | Weblog
スポーツの中でもマラソンは異色で人生と似ているところがあるような気がする。そのコースの開催場所、季節(大体決まっているが)体調の変化などと闘っていかなくてはならない。その上「運」も加わる。この運は人生でも切っても切れないものかもしれない。そんな中で一分を争う競技である。スポーツにはいろいろあるが、なかでもマラソンは歴史的にも古く、その起源は「マラトンの戦い」で勝利した一人の戦士が42キロの距離を走りとうし、アテネの町に着くや「わが軍は勝利したり」と叫んで息絶えたという過酷なものであった。スポーツといえども「死ぬほど」のことをすることはないのだが、当時は伝達のためにこのような過酷なことをしなければならなかったようである。私自身も人生に於いて死ぬほどのことをしたことはないが、マラソンという競技においては大きな意味があることは勉強になると思った。
そんなある日、毎月一回私の生活の様子を見に来てくれている娘が何を思ったか、「毎日歩くようにしなさい」と言い渡して帰ったことがあった。何気なく聞き流しそのまま忘れていたが、近所の同年代の高齢者と話したときにデイケア施設に来ている老人のほとんどが歩けなくなってきていると聞いたことを思い出した。そして娘の言葉を思い出し、一念発起で「歩く」ことを実施することにした。
一週間に4回、往復30分、距離2キロを基準として一日の日課に加える。そして実行することとした。目的地ごとに4コースを設定。
目的地ごとにその場所で小さな買い物をして帰る。(負担にならないように)
実行し始めて2週間が過ぎたが、徐々にその負担が楽しみに変わりつつある。それは歩くたびに代わる周りの景色や家屋にある庭の木々や草木の香りを
楽しんだり、目的地での買い物に関心が向くようななってきたからである。

足跡   「ゴールデンウイーク」

2018-05-05 08:44:17 | Weblog
日本中がこの時期、家族で楽しむ機関とされている。季節も一年のうちで一番よく冬の寒さから解放され花は咲き乱れその自然の美しさに囲まれて心も体も癒される時だからだ。しかしその雰囲気の中で苦しんでいる人も多くある。我が家もその一人であった。二年前の倒産による影響は大きく、すべてを失いすべての財産をなくした状態での復活は人生で初めて味わうものであり、家族全員がその苦しみを味わうことになった。当事者である私と息子はその罪を背負い、その苦しみ悩みを分かち合い再起を目指して努力を続けてきた。私とすれば何もしてやる力はないが、祈りとともに間島り、語り合い、励ましあうことだった。本人(息子)はどんなに苦しんだことだろうと思いながら、何もしてやれない弱さをかみしめるしかなかった。
「何をどうしてやることができるだろうか。できれば車を持たせてやれれば少しは気分が晴れるだろうに」と思いつつ願っていた。するとある日息子から友人から車を買えそうだといってきた。学生時代の友人が車の販売をしていて、安い車を探してくれたらしい。その車は名古屋の先の松阪にあるという。
このゴールデンウイークを機に陸送して持ち帰ることにした。軽自動車の中古車では果たして600キロの距離を無事に持ち帰ることができるか、不安もあったが実行するしかない。無理をしないで静岡で一泊して、走行スピードを80キロに抑えて時間をかけて無事帰宅することができた。
我が家に車が2年ぶりに持つことができたのである。高齢者には不必要でも中高年者には生活必需品であり、精神的にもストレス解消にも必要であった
帰宅後その車に同乗して近所のレストランや食事に出かけてその喜びを味わうことだできた。
息子も少しづつ気持ちが前向きになりつつあり、すべてに前向きに語り行動する意欲が見えるようになってきた。
この点からのプレゼントが我が家に大きな力と前進する力を与えてくれたと、感謝しかない。ゴールデンウイークの楽しみは旅行や娯楽という意識しか持たなかったが人生において今回はこのような形で大きな喜びを与えられたことを感謝するしかない。
人生は喜びの中よりもこのような苦しみの中にこそ本当の喜びと感謝を知る機会を得ることができることを知らされたのである。

思いつくままに  「ワイドショー」

2018-05-01 18:39:32 | Weblog
民間TVでは毎日のようにワイドショーが流れている。そのテーマは日によって違うのが原則だが、昔の紙芝居を見るように連日その続きを見させられることもある。正直よくこれだけ毎日事件が起きて世間の関心を集める問題が起きるものだと不思議に思うほどだ。
考えてみるとTVに取り上げるほどのことでもないのかもしれない。面白おかしく取り上げてあれこれと意見をまとめているが、果たしてその意見が正解なのか、どうか、私も基本的には見る気はないが、ついその問題によっては好奇心で見てしまうのだが、先日も誠意化のセクハラ問題を取り上げて(まだ終わったわけではなさそうだが)いたが、これなどはこの問題も考えようによってはその程度の問題はその人の主観による面が大きいのではないかと思う。人のことを言う資格はないままに考えれば、だれしも思い当たることはある問題でもある。自分では半分冗談であったり、ユーモアのつもりで言ったことでも聞いた当人の主観によってはセクハラととる人もいるかもしれない。その辺の基準は何で決めるのだろうかと考えさせられた。
人間の生き方でもこの手の問題は学校でも教えられる問題でもなさそうである。やはり家庭で親が折に触れて話の中で「そんな時はこうするのよ」と伝えなければならないだろう。
最近はこの手の問題が起きるたびにつくづく反省させられて自分が若いときはどうだったろうか。そんなことを自分もいってきたのではないかと考えさせられることばかりだ。
お互いに他人事と考えないで、(自分はそんなことを言ったこともしたこともない)と思内で自分もその当事者の一人かもしれないと考えつつ意見を述べてもらいたいと思うのだが、それとも自分は違うとの立場を主張するか、?