波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「良きサマリヤ人」

2015-10-30 09:31:26 | Weblog
最近の新聞でトルコ大使館の前でトルコ人とクルド人のトラブルがあったと報道されていた。世界では今国を離れて避難民が70万人もいるといわれている。このような記事を読む度に心が痛むのだが、そんな時に私は「良きサマリヤ人」の話を思い出す。
サマリヤ人はその昔イスラエルのある部族のひとつであったが、何故かユダヤ人から嫌われていた。そんな時代に旅の途中で怪我をした人を見つけてすぐ駆けつけ救いの手を差し伸べたのが、その嫌われているサマリヤ人でほかの人たちは見てみない振りをするか、出来るだけ関わらないで通り過ぎていった。そのことから何を学ばなければいけないかという話である。
私自身も長い人生の中で何度も似たような経験をしながら自分は良きサマリヤ人としての行動が出来たかを反省して、何も出来なかったことを恥ずかしく反省しているのだが、現実にはなかなか出来ることではない。
また、そんな場面に当たったことはないと無関心を決め込む人も多いがよく考えてみよう。
私たちの人生の中で人間関係の中にいる限り、同じ場面は毎日のようにあるはずである。つまり
「あなたの隣人に出来ること」はあるのである。ないと思われるのは、その気持ちがないということであろう。
それはどんな形であれ、伝えることは出来るし伝わるものであろう。問題はその心を持ち合わせているか、どうかである。豊かであればとか、貧しいからでもない。その人のために何が出来るかで決まるのだ。そのために自分は何を犠牲にすることが出来るかでもあろう。
それは身近な家族の中でそして近隣の人であり、交わりを持つ人の間で出来るのである。そしてその輪が広がることで苦しんでいる人や悲しんでいる人が慰められ、励まされ喜びを覚えることが出来るのである。それはどんな小さいことでもささやかなことでも、表に出なくても形にならなくてもよいのだと思う。
小さな祈りの中であってもよいと思う。それが大きな「愛」の業となって広がるのだ。
小さな記事を読みながらそんなことを考え自分が何が出来るかを静かに考えたひと時である。

泡粒の行方   第30回

2015-10-27 09:24:43 | Weblog
岡山に住んでいる母は田舎が嫌いで父の世話もそこそこによく東京へ出てきていた。そして東京での気分を味わいながら動いていた。その中に父の知人に「謡曲」をする先生がいた。それを聞くと母は早速手習いと時間つぶしで早速弟子入りをした。その内一人では間が持たないと見てか、欽二もやりなさいと休みの日を利用して弟子入りをさせられた。いやといえないで育ってきた欽二としては今更である。そんなわけで時にはほかのお弟子さんとの出会いもあった。その中に妙齢のご婦人がいた。欽二としては妻以外の女性とのふれあいは初めてのことであり、なんとなく外の景色をはじめてみた感じもあった。そして何回か稽古の合間にはなしをすることもあった。独身でどこかの事務所で働いているとそのとき聞いていた。
秋葉原の事務所へ出たのもその女性勤めていた会社があったことも関係がなかったわけではなかった。お昼休みの食事をしながら今回の事務員の女性のことを相談することにした。
すると「ちょうどよかったわ。私のお弟子さんで人形つくりをしている人がいるんだけど、その人に聞いてみてあげるわ。」そんな経緯があって、その女性を紹介された。
面談をかねてお昼をしながら、話を進めると「お手伝いさせてもらいます」と承諾を得ることができた。話をしながらこちらがお願いしているようで、先方も頼みますというかんじでもなかった。しかし、聞いてみると仙台のよいところの娘さんのようである。何か事情があって上京したらしい。(後日紹介者から聞いた話では交際していた男性が仙台にいたが、転勤で上京してしまった。その男性が忘れられず東京へきたが、その男性には振られた格好になり、結局仙台には帰れなくなったとの事)気の強いところとプライドん高そうな性格に見えたが、真面目そうなので安心だった。東京事務所はこれで最低の陣容ができた。
これでスタートができると本社へも報告し、それぞれの仕事の振り分けもできた、と思っていたところ、ある日得意さんの担当部長さんが尋ねてきた。
「ちょっと個人的なことでご相談したいことがありましてね。ちょっとお時間が取れませんか」と外へ連れ出された。

思いつくままに   「一人暮らし」

2015-10-24 10:00:29 | Weblog
たまに友人、知人と会うと「毎日何をしているの」と不思議そうな顔をされるときがある。
その表情には同情ともさげすみともつかないようあわれみなのかもしれないのだが、確かに他人から見れば「この人何を楽しみに生きているのだろう」と仕事を持たない人は見られても仕方がないかもしれない。
人間は生きている限り誰もがいつもよい環境や状況に置かれているとは限らない。その度に
「もっとこうあれば良いのだが」という欲望に駆られるのは当たり前かもしれない。事実誰もがそんな思いで想像し「もっとこうありたい」「こうなればどんなにしあわせだろう」と思っても仕方のないことだと思う。しかしこの気持ちは既に自分自身が後ろ向きになっていることに
気づくことなのである。不幸や不運に見える状況におかれたことのない人は、逆に本当の意味で心から幸せとはどんなものかを感じることができるだろうかと思えるのである。
ばば友が亡くなって半年が過ぎようとしている。残されあた二人の爺友がいる。たまに立ち寄って話すこともあるが、話題もなく自分自身の身の回りのことが多く、その内容も如何に自分が
家族に恵まれて幸せかということを強調したものが多い。「どこそこへ言ってきた。」嫁と小姑が仲がよくて幸せだとか、盛んに言っている。近所の別のばばともに言わせると息子夫婦と同居しているが、嫁とはほとんど口を利いたことがないし、食事もしたことがないといいながらも
割り切っている様子である。
しかし、人間悪い状況におかれなければよい状況の有難さや本当の幸せを感じることは難しいのではないだろうか。爺友のようにいつも幸せだと思い続けるのはある意味、くつうになるのではないだろうか。「寅さん映画」を見ているとヒロインが「寅さんといると不幸な自分がいつの間にか忘れてとても幸せを感じて楽しくなる」というせりふがあるが、これこそ不幸から覚える幸せの有難さではないだろうか。
それは「幸せの青い鳥」を追い求めたチルチルミチルが見つけられずそれをあきらめる大事さと
自分自身で幸せを掴む「けじめ」を教えているのと似ていると思う。
TVのインタビューで元NHKの下重さんも「一人暮らし」の良さと大事さを話されていたことを思い出している。

泡粒の行方   第29回

2015-10-21 10:45:54 | Weblog
相談に来た若者が岡山へ研修のために出かけた数日後のことであった。隣の電気店の主人が訪ねてきた。「うちの若い主がいなくなったんだが、調べてみたらお前のところへ相談に行っていたというが、何か知らないか」という。欽二は正直にその経緯を話した。
それを聞いた店主は顔色を変えて怒り出した。「とんでもない話だ。あの子は集団就職の斡旋で私の店に来た子でちゃんと保証人として私が預かった子だ。黙ってそんなことをされたら迷惑だ。第一何も分からない、何もできない子に一から教えて生活の面倒を見て何年も世話をしてきて何の挨拶も断りもなく行方不明になったのでは俺の責任もある。どうしてくれるのだ」と
怒り出した。そういわれてみると確かに軽率であったと欽二も反省せざるを得ない。
ただそのときは当人の話を聞き同情をして、彼のために何ができるかと前後の見堺えもなく、話を進めてしまっていたのである。大人としての行動なら話は聞いて理解しても「事情は分かった。だけど社長の許可をもらってからでないと、後で問題になるからね」教え諭すのが大人の行動だったと悔やんでいた。当人はそんな話をしたら到底許可してくれないし、どこへ行ってもすぐ分かって連れ戻されてしまうとも言っていたことを思い出していた。
そしてさんざん愚痴をきかされて、帰ったが、その後のお付き合いを途絶えてしまった。
無理もないし、申し訳ない気持ちでいたが、どうすることもできなかった。このことを通じて
欽二は大人として社会人としてこれから注意しなければいけないと心に銘じたことであった。
数ヶ月が過ぎ、研修を終えて帰郷した阿部君は事務所の最初の営業マンとして秋葉原へ勤めるようになった。高校も出ていない子であったが、物覚えがよく、理解は早く行動できて重宝したのである。電話事務を中心に留守番をかねて女性が一人必要であった。
福島の仕事で臨時に電話番に頼んでいた女の子をそのまま秋葉原に連れて行って手伝わせていたが、年頃とあってお嫁に行くことが決まっていた。(といってもそれは欽二が仲人となって世話をしたことになるのだが、)そんなわけで女性も一人探さなければならなかった。
女性には縁のない欽二にとってこの仕事はどこから、どうしたらよいか見当もつかなかった。

思いつくままに  「あなたにとっての愛とは」

2015-10-18 09:23:45 | Weblog
人間は生きている以上、何かを頼り何かを愛し、何かを信じながら一人では生きていけないことを知るようになる。私の住んでいるところでも夕方になると毎日どこからともなく犬、猫などの動物を連れた人たちが散歩をかねて集まってくる。また中には買い物やお使いに出かけるときに
その動物を大事に抱きかかえている人も見る。この風景もまた人がいかに何かを愛し、また何かに繋がっていることが自分の安心感や心の安らぎになっていることの現われであろうと思う。
しかしこれらを含めて「愛情」とはいったい何を指しているのだろうということを改めて考えさせられている。「家族愛」はその原点かもしれないが、子供もまた親の手を離れるまでは親を頼り、親の愛の中にいる。親もまた子供からの甘え、親への依頼心に愛情を感じて子供優先の生活を維持する。しかし子供もまた成長し独立し配偶者とともに親を離れると愛情のあり方や優先順位もいつの間にか変わっていることに気がつく。子供はいつの間にか親の愛情を忘れ反抗することもあり、離反することもあり、信頼関係は崩れている。
ペットはそんな時何も反抗せず、最後まで自分を頼りなついているままなのでその安心感と平安は保たれ、安心感と慰めは存在したままである。
しかしこれらの愛情や信頼はどこに基準があってどのように存在しているのだろうか。
現実にはその場面や状況、また環境によって変わっているのではなかろうか。それはどこに基準があるか、それは自分中心的な考えが判断しているのだ。だから自分に不都合な状況で常に変わるのである。それらは本当の愛情として維持できているのだろうか。
突然として間と思っていたことは憎しみに変わっていることもあり、殺人にまで及ぶことさえあるのだ。自分に不都合なことで愛情の姿も変形し場面場面で』変わるのは仕方がないことなのだろう。
こうして考えてくると純粋で真の愛情とは何か、そしてどんなものかは漠然としてくる。
しかし神は明確に示しているのだ。それはどんな状況におちても変わらないものであり、時として自分が憎まれ自分が傷つくことがあったとしてもその相手を憎まずその人のために祈ることだとしている。人としてこの世においてそれは現実には困難で存在しえないことかもしれない
しかしそれだからこそ「真の愛」を忘れず追い求めて生きることが大切なのであろうか。

泡粒の行方   第28回

2015-10-15 09:10:57 | Weblog
人間の一生は長くて短い。そしてその生かされている時間は自分が動いているのだが、自分で決めて自分の思っているようにしているようで、動かされているのであり、自分では何もできていない。そんな気がしている。欽二はこのときそんな運命を感じていた。
「福島の仕事はしなくてよい。そして新しい事務所を設けてそこで岡山の仕事に
専念してほしい、必要な人材は岡山から出せないので東京で調達してほしい。必要なものは何でも言ってくれれば準備する」ほほをつねるほど夢かと思えるよい話だった。今までの丁稚同然のやっとの生活から、立派な独立した事務所の責任者として仕事ができる。今まで考えることもできなかった運命が備えられたのである。
これからは全部自分の思うようにできる。誰に命令されるのではなく(とはいっても本社の主業務はあったが)自由に仕事を進めることができたのだ。
早速事務所を探した。できるだけ交通の便利なそして通勤に近い場所で安いところ、そんなことから乗り換えのない「秋葉原」とした。雑居ビルの4階に契約をした。必要な事務机ほかを備えたが、問題は人材だった。任されたとはいえどうするかとなると人の問題だけに誰でもというわけには行かない。
すると、隣の電気屋で働いていた若者がある日相談に来た。「実は折り入って相談があるんですが、」といわれて聞いていると、今の店での仕事がいやでどこかに移りたいのだが、知っているところはないかというのだ。急に言われても電気屋さんとの付き合いはないし、大阪か岡山か
どこでも行くというので探してあげようということにして、とりあえず岡山の上司に相談してみた。すると今度上京するの面接してみようということになった。
そこで話を聞いているうちに「今度の東京の事務所で働いて見ないか」という話になっていた。
そこで研修をかねて岡山工場へ言って3ヶ月の研修を受けてもらうことになった。
話ははじめから順調にスタートした。これで一人の営業マンを確保できた。と何の考えもなく喜んでいた。しかしこの話がまもなくとんでもない大きな問題になることを、そのときはまったく考えていなかったのであった。

思いつくままに   「一日の過ごし方。」

2015-10-12 12:56:55 | Weblog
何気なく又あれこれと生活の雑事の中に追われて一日を過ごしていると何も考えずに又
今日は何をしたかも知らないうちにその日を終わっている自分が居ることに気づくことがある。然しここで少し考えてみたい。
一日は一日であり、何でもないようでもその日は二度と過ごすことのできない一日でもあるのだ。それは病人が医者から「あなたは何日しか生きられませんよ」と「告知」されて
生きているのと同じように考えようによっては貴重であり、限られた時間の中に生きているような物だと思う。然し私たちは普段そんな自覚も意識も持たないで生きている。
それは何時までも自分だけは生きていられるのではと言う錯覚の中に居るのかもしれない。私はそんな意識にこだわって「一日一生」を生活の目標にしているのだがそれは
与えられた一日を大切にしたい。無駄にしたくないと言う思いがあるからだ。
何も考えずにぼんやりすごしたり(そんな時間も必要だが)自分を貶めたり市内で、少しでも意義のある時間を持つようにしたいと言う思いからだ。
このことは一人出会っても、共同であってもどんな環境におかれていても同じであろう。
そう考えるとなんでもない一日がとても長く様々な心の動きの中にあることが分かる。その心はいつも揺れていて、自分の立ち居地の中で自分がどうあるべきかの中で葛藤することが多い。
そして今日のこの一日をどのように過ごすことが自分を納得させ、満足させ自由実間を覚えることができるかと言うことである。「今日は本当に世一日だった。」と満足できる一日をどれだけ過ごすことができるかである。
そんな日ばかりが過ごせれば本当に良いのだが、後悔する日も多いことを覚えざるを得ない。しかし、出来ることなら夜休むとき、今日は本当に恵みの一日だったと感謝を覚えることが出来る日が多いことを願いたいと思っている。


「泡粒の行方」  第27回

2015-10-09 09:52:39 | Weblog
自分の人生は自分で決めて思うように生きることは出来ない。自分の思うように生きているつもりでもそれはかの大きな意志で動かされている。つまり自分は自分の力で自分の意志で動いているようでそうではない。親がああしなさい、兄はこうしろ、ああしろと命令をしていることも、実際はその後ろに大きな力が働いているのではないかと考えることもあった。欽二は運命を感じながら毎日を一生懸命破たら居ていた。妻はいつも静かに欽二の世話をしながら家庭を守っていた。そしてやがて身篭ったのである。
母はそれを知るとすぐ岡山から飛んできて嫁を実家に帰した。自分で世話をする気はまったくなく、それは実家で面倒を見させるためであり、むすこの仕事に影響が出ないことが優先だったからだ。欽二は何の世話も出来ず、只上野の駅まで見送りに行くだけであった。そして初めての子供が生まれた(女の子)と知らせがあったが、すぐに子供に会いに行くことも許されなかった。欽二は初めての子供に会い、そして抱いてみたい思いで一杯だったが、我慢するしかなかった。一ヶ月も過ぎてようやく妻と子供は帰ってきた。
やがて家庭らしく楽しい日々が過ごせるようになった。
そんなある日父が上京してきた。母は気まぐれに年に何回か東京、福島と出てきていたが、戦前東京で暮らしていたことで東京の暮らしが良いらしく、何も用事は無いが出てきていたのだが、父は仕事があること以外は出てくることは無かった。
しかし、今回は何か用件があるらしく、福島から兄も呼び寄せて二人で話し合っていた。そして欽二もその席へ呼ばれた。
「岡山の会社は東京に事務所を持たないで代理店に看板を預けてきたが、今度正式に東京事務所を出したい。ついては福島の仕事は兄に返して岡山の仕事に専念してもらいたい。
兄の了解も取ったので」と全く予測できない話であった。
この出来事は欽二の人生を全く変えてしまうことになったのである。人の運命は何が何処で変わるか分からない。丁稚奉公のような作業者から180度の変化である。こんなことを誰が想像できたであろうか。運命は予測できないのである。

思いつくままに   「人との付き合い方」

2015-10-06 09:19:17 | Weblog
この年齢になると友人、知人が少なくなることは致し方ないとしても共通の話題を語り合い、昔を懐かしむことが出来なくなるのもさびしいものである。
そんな中で自分は「人との付き合い方」をどのように考えながら生きてきたのかと今更ながら考えさせられている。そんな思い出の中にどうしても忘れられないことがあった。
それは40年以上付き合って自他共に親友と勝手に信じていた友からある時一通の手紙を受け取ったことがある。いつも語り合いの中で本音で話し合いが出来ていたので手紙を渡され不思議な気がしながら、旅の途中でそれを読んでみた。
そこには私の全く予期しない内容が書かれていた。「君は信用できない。口では良い事を言うが本当ではなく裏切られる思いだ」と言う趣旨の内容であった。青天の霹靂とでも言うのか、暫くは信じられなくて呆然として何度も手紙を読み直しながら考え込んでいた。
その後は暫く交信も途絶えてさびしい思いと反省の日々であったが、再び交わりを持ち話し合いが出来るようになって現在に至っている。
私はこの経験からいくつかの事を学ぶことが出来た。
人は誰からも嫌われない人は居ないのだろう。又誤解されることもたびたびあることだろう。しかしだからといって自分を変えることも無い。又良かれと思って話したことで相手を傷つけることもしばしばあることも覚悟しておくべきであろうということである。
又、角度を変えれば公私の中でつい人を頼ることもあるが、人に助けてもらうことを期待することも間違いであることも知っておくべきであろう。
そんな時こそ自分の力でどんなに僅かな力であっても一から積み上げていく覚悟を忘れないことも大切である。
いずれにしても人間関係は他人は当然ながら家族身内でも、いつもスムーズな関係を続けることは難しいことははじめから覚悟しておくことが大事であろう。
それを自覚し出来るようになると人生は平和になり、楽な気持ちで過ごせるようになるのではないかと思っている。

泡粒の行方   第26回

2015-10-03 09:18:31 | Weblog
考えてみると欽二の生まれてからの約30年は自分の意思というよりは親、そして兄の命令?通り又は意志のままに生きてきたことになる。高校時代は新聞の世界、ジャーナリストのようなことを考えたこともあり、大学時代は教員であったあり、学校からの推薦では保険会社であった。そして趣味として僅かであったが、放送の世界を覗いてこんなこともしてみたいと思ったこともある。あの時間における充実は何時までも残っている。
小さなマイクを前にマドンナ役の若い女性とのやり取りは本当に別世界での時間であり、何もかも忘れられる時間であった。将来できればこんな時間と世界で仕事が出来ればと
(無理とは知りながら)あこがれたものである。
ようやく結婚と同時に二人だけの生活が始まったが、兄の監視下にあって気の休まるときは無かった。そんな仲で自分がこれから先、自分の石で生きていくことが出来るのか、何時までも親と兄の過保護の下で生きていくのかと言う不安はあった。
そんな中で毎日の仕事は続いていた。貨物車から倉庫への運搬中に道路上に製品を落とし交番から片付けるように注意されたり、配達を終わりかえりの道で子供と接触して怪我をさせたり、疲れから運転中に前方不注意で衝突したり、様々なトラブルがあったが、本当に守られていずれも大過なく過ごして仕事を続けることが出来た。
しかしこれらの事はある意味人生途上における訓練であり、鍛錬として必要なことであったかもしれない。どちらかと言えば何の苦労もなく育ってきた人間に必要な過程のひとつだったのかもしれなかった。
東は千葉の銚子まで走り、西は静岡まで東京都内は言うの及ばず穂トンでの箇所を回ったおかげで地理には明るくなり、その後に運転しても都内の運転や何処へ行くにも抵抗は閑実ことは無かったことはとても役に立ったことは間違いない。
若いことでそれをやり遂げられたこととその実行力で自信をつけたことには感謝をしなければと思っている。後半には玄関先に小さなジム机を置き福島から若い者を一人来てもらって手伝ってもらうほど仕事の穂は順調であった。、