波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡沫の行方   第54回

2016-03-30 09:45:12 | Weblog
親会社から社長を迎え大会社の子会社として新しくなったことで、会社の方針も昔とは変わってきていた。欽二は毎月一回は岡山へ帰り、一ヶ月の報告をするとともに製造、財務、技術ほか、役員全員での会議に出席し、発表する義務が生じた。東京での仕事の責任は会社の運営には大きく影響するのだが、市場の説明、製品の要求、技術的な希望など多岐にわたっているが、それらを説明しても素直には受け入れられなかった。彼らは其の一つ一つの大事さを理解する気持ちが薄く、自分たちのやり方で自分たちの作るものが良いのであって、もしそれに対して希望に添えないのは営業員の努力が不足しているのだとして、聞く耳を持つことはなかった。
欽二は会議でお客さんの要望を説明し期待にこたえてほしいと頼んでも、答えてもらえることはなかった。会議では多勢に無勢で押し切られ、離しながらむなしさを覚えながら終わるのが常だった。地方の工場の特徴で仕方がないと思いつつも、売り上げの責任だけは要求されて
毎月のノルマは負わされていた。
ありがたいことに時代は景気の上昇とともに注文は経ることはなく、順調であった。
そして得意先のユーザーは日本での生産では賄いきれず、東南アジアの海外の国々への進出を計画し始めていた。欽二は其の点に注目していた。間もなく日本の企業は日本だけでなく、海外へ進出することになる。それは人件費を含めたコストの高騰による製品単価の原価が上がることで
世界的な市場での競争に勝てないことにあり、安い人件費を中心にして大量生産へのスタートsにする意図があった。
21世紀を迎えるこの時期は日本も大きく変わろうとしていた。東京で親会社のスタッフと毎日のように話しながら各社の情報を集め、欽二もまた今までと違った考えを持ち始めていた。
そして月例の会議で爆弾発言をした。「当社も海外に工場を持つべきだと考えます。」この発言によって田舎の本社に激震が走った。

追記:「泡沫の行方」は54回を持って第一部を終わらせてもらいます。

思いつくままに   「アガーペの愛」

2016-03-27 10:36:28 | Weblog
さすがに彼岸を過ぎ4月が近くなると気温とは違って空気が違ってくる。散歩に出かけるときに必要だった厚手のコートも要らなくなり、少し寒いかなと思っても何となく春を思うと気にならず歩けるから不思議である。歩きながら近所の庭の花を見ると春を告げる「木蓮」や「こぶし」が咲き始めている。こんな雰囲気の中で歩いていると何となく春めいてくるのもうれしい。
一人暮らしが長くなると自分のことよりも人のことが気になるものだ。先日も長い友人に話を聞きたいと連絡したら長い療養生活(C型肝炎)で医者と奥さんの介護でがんばっているとのことでまだ若いのに苦しんでいる人もいることを知った。何かできることはないかと手紙を出したが、果たして何かの役に立つことが出来るだろうか。聖書には「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」とあるが人のために尽くすことがどれだけできるだろうか。
自己犠牲の精神が薄くなったこの時代に人の立場、人の心を思いやる気持ちがどれだけできるだろうかと考えるとき、其の現実の厳しさに立たされるのである。
二人犯罪者とともに十字架にかかり、死んで蘇ったキリスとの祭日として、今日は世界で「イースター」の礼拝が守られているが、此処に其の愛が見られると言える。
高齢になるほど、全てに欲がなくなるのは自分で行動して何かを生み出し行うことが出来なくなることでもある。考えることは人に迷惑をかけず、人のことを思いやる心を出来るだけ持って平安な生活を過ごせることだけである。そして少しでも今までの罪を悔い改めた生活が出来ればと願うばかりである。
先日は数年ぶりに家族全員で「お祝い会」をすることが出来た。孫の高校合格を祝った主旨だったが、孫たちの成長は何よりの励みになる。どんな仕事であれ、健康で安かれと願うばかりである。

泡沫の行方    第53回

2016-03-24 10:12:04 | Weblog
数少ない営業スタッフの一人が突然やめることになり、東京事務所としてはやはり影響が出ることになる。仕事が忙しくなりお客周りが毎日の状況の中では不安もあった。とりあえず本社へ報告し応援を頼んだが、臨時に短期で来てもらっても戦力にはならなかった。
何しろ最初から寄せ集めの集団なのでどこまで本気で会社の仕事をしてくれるのかも分からない。まして自分の都合できているのが本音で会社のためにと考えているのは欽二だけだったのかもしれない。欽二は二人分の仕事に加え夜の付き合いがあるので家の仕事や家族の面倒などを見ることなどはすっかり頭になかった。とにかく夜中に帰って朝起きるとすぐ会社へ行くという
毎日であった。そんな時であった。同業者の同じ営業仲間の部長が訪ねてきた。
「ちょっと話があるんだが聞いてくれないか」という。近くの喫茶店に行き、話を聞くと
「うちの会社も二代目になって方針が変わって今の仕事をやめることになったんだが、其の担当だった営業員が辞めさせられることになったんだ。それは仕方がないんだが実は俺が仲人したこともあって、なんとも責任を感じているんだ。君の会社で使ってもらえないか。」と言う申し出であった。ありがたいとは思ったが同業者ではあり、お客さんへの挨拶もあり、すぐには返事も出来ないで「考えさせてほしい」と預かった。確かに一人営業員がほしいところではあったが同業メーカーの営業と言うことで何か支障が出ないかと心配だった。
本社は相変わらず「君に任せるよ」と言うだけで岡山から人をよこす気はないし、来る人間もいないらしい。
一週間後、欽二は「お願いするよ」と返事をしてきてもらうことにした。松山と言う中年の高卒者だったが、人柄は想像以上におとなしい優しい人柄でほっとしていた。
ただ、住まいが館林にあって、通勤に二時間以上かかると言う。毎日秋葉原まで通うのは大乗なのかとそれが心配だった。





思いつくままに   「プレゼント」

2016-03-21 10:23:13 | Weblog
最近の風潮として離婚率が高くなりつつある統計が出ていることを見た。離婚は嘗ては禁止制度が採られるほどに厳しい律法があった時代もあり、結婚は終生守るべきものという神聖な認識があったほどだが、今では法律でも公認されて安易な考えで離婚する傾向があるようだ。
(逆に再婚率も高いのは其の反動なのか。)このことの是非は人間の罪に対する考え方にもあると思われるが、人の心を傷つける行為に繋がることは免れず、人間の罪に繋がる自己中心的な考えともいえないだろうか。
其の離婚の例としてある夫婦が職業上の理由で離婚をした。女性の仕事が医者と言うこともあって夫はしたくなかったが娘のことも考えて離婚した。当然、離婚の条件として夫は妻に娘に会うことも許可制とし、条件として決めていた。妻はいったんは了解したものの母親としての感情は強く、仕事を離れると考えることは娘の成長であった。
ある年に娘の誕生日が来た。母であり妻であった女性は堪らず元夫に「其の日に渡したいものがあるので玄関で会わせてほしい」と頼んだ。そして其の条件で娘の家まで足を運んだ。
プレゼントは最初ほしがっていた高級バッグを買おうとしたが、それを辞めて娘の家へ向かった。玄関のベルを鳴らすと元夫が出て、わずかの時間を許可した。娘が玄関へ出てきた。
母は「誕生日おめでとう」と言うと小さなリングボックスを渡した。娘は玄関でそれを受け取り
黙ってそれを開けた。中には小さな「鍵」が一つ入っていた。母は言った。「其の鍵は私が小さいとき、親に叱られたり、独りになりたいときに使った部屋の鍵なの。あなたも大きくなって其の鍵が必要になったらつかったら良いわ」とだけ言うと静かに去っていった。
数日が過ぎた。ある日仕事を終えて夜遅く家に帰りいつものように暗いたった一人の家の部屋へ入りテーブルの上を見ると、何かがおいてあるのを見た。
そこには一枚のカードと小さなケーキがおいてあり、其のカードには「ママ、ありがとう」と書いてあった。母はそっとけーきをとりあげ、ケーキを一口食べ、静かに涙ぐむんだのだ。
ある本にあった話だが、暖かい思いで読むことが出来た。

泡沫の行方     第52回

2016-03-18 11:12:39 | Weblog
中学を卒業して集団就職で上京し、親もいないさびしい雰囲気を漂わせていたが世話になった
電気屋さんをやめて私のところへ相談に来て結局良い就職先もなく私と一緒に仕事をすることになった若者だったが、仕事は研修だけだったが物覚えが良く、物静かで落ち着いていた。
真面目さで信用され客先の評判も良く、とても役に立っていた。
同じ秋田から出てきた同郷の若者と「歌の会」などで慰めあっていたが、其の一人の女のこと仲良くなっていた。その女の子の影響もあったのか、ある宗教団体へ入会したと言う。
「これからは仕事上でもうそをつくことはできません。賭け事酒席にも付き合うことも出来ません。私のできる範囲で仕事をします。」と宣言した。それまで私とともに夜の客先の接待には
どんなに遅くなっても付き合って私の代理のようなアシストをしてくれていた彼が人が川多様に私の前で言ったのである。私も「分かった。」とは言ったものの、このままでよいのか、どうか
一人で悩んでいた。勿論私も信仰者であり、親も信仰者であったが、仕事と言う大儀名分を盾
に神の前にそんなことを誓ったことも忘れたかのように自由に振舞っていた。
彼に宣言されたときに自分自身もそうであることを考えないでもなかったが、私には仕事を犠牲にして行動することは出来なかった。
彼の言葉には固い決意が見られ「仕事ではそんな固いことを言ってては出来ないよ」といったものの「もしそれでだめなら会社を辞めさせてもらいます。」と頑として譲らなかった。
仕方なく本社へ報告すると同時に指示を仰ぐことにした。「君に任せるが、そんなに硬いことを言うようじゃあお客さんにも何かと影響も出るかもしれないね。仕方がないから辞めてもらっても良いよ」と言うことだった。
私は悪いことをするのではなくむしろ真面目に世の中を生きようとするこの若者を出来れば
おいておきたかったが、何かと支障が出ても責任を取ることも出来ないし、何が起こるかということも予測できず」(実際には何も変わらなかったかもしれないが)私自身が堕落した考えの中にあったこともあり、「残念だけど辞めてもらう」ことを言い渡すしかなかった。

思いつくままに   「一周忌」

2016-03-15 09:43:20 | Weblog
早いものでばば友が亡くなって16日で一年が来る。短い間ではあったが(約5年)の交わりだったが、考えようでは長い交わりであったような強い印象が残っている。何しろ道路を隔ててすぐ隣であったこともあり、庭に出ればすぐ隣の庭につながり声を掛け合う間であったこともあり
密度も深かった。しかし人間の一生はどんな瞬間に訪れるかもしれないと言うことも経験した。
前日に私はいつものように好物のトマトと牛乳を買って普段のお礼にいき、いつものように楽しい時間を過ごしていたし、当日の朝にも近所の奥さんが話を聞いてもらいたくて訪問している。妻異当日のお昼までは元気だった様子が昼食の準備が残されているのを見ても分かる。
しかし、午後は誰も尋ねてくる人もなくいつも爺友がいつものように夕方顔を出すまで分からなかった。座敷で倒れている姿を発見した時は既に食う直が始まっていたと言われるので、午後早くに発作が起きたのであろう。そしてどこへも連絡が出来ないまま時間が過ぎたのである。
死因は「心筋梗塞」と診断された。3人集まると二人の爺友を見送らなければ死ねないと言うのがばばの心使いであり、口癖だったのにまことにあっけない最後であった。
日曜日には新聞のパズルを一生懸命辞書を引きながら答えを考え、どうしても分からないと私も呼ばれて一緒に答えを考え、近所の年寄りの婦人たちの愚痴を聞いてアドバイスをしたり、できることがあれば足を立って出かけて手伝うこともあった。
長い間民生委員をしたり町会役員の紅一点として男性役員の仲をうまく交わらせたりしていたことが役に立っていた。所轄の巡査もいつのまにか立ち寄り休憩所代わりに休ませたり、食事の世話をしたり主人の理解もあってこの地の住人には慕われていた。
「善人ほど早く亡くなる」と言う言い伝えを聞いたことがあったが、このばば友の死もまさに其の一例だったのかもしれない。
まだまだこの世にあって隣人のために尽くしていただきたかったと惜しまれる。
間もなく桜の花も咲くことだろう。昨年の今頃今年はみんなでお弁当を作って花見に行こうねと
言っていたばば友の声が聞こえてくるようだ。
この世における人間の一生は何時何があるか分からない。だからこそ「一日一生」を身上とし
生かされている時間を大切にしたいと思う。謹んで冥福を祈りたい。

泡沫の行方     「第50回」

2016-03-12 10:58:14 | Weblog
人間と言うものの存在はきれいなものではない。むしろ好きなことをさせればすぐ悪いほうへ行くものだと言うことを知らなければならない。欽二は世の中へ出て其の事実を知ることになった。あだむとイブが神から「知識の木」と呼ばれる木の実以外は何でも食べてよいと言われたように好きなことをして良いと言われたように何も考えることもなかった。
あたらしい「エデンの園」のように何でも出来て何でも手に入るような気がしていた。岡山時代、福島時代の拘束されたあれをしてはだめ、これをしてもいけないと言う自由のない環境から開放された意識がすっかり消えていたのである。そんな時幼友達の女性にあったと言うことは
彼の本能を呼び覚ましてしまったのかもしれない。抑えられていた抑圧から解放されて、潜在的にあったものが飛び出したような感じでもあった。
仕事の合間に時間が出来ると彼女の休憩時間を見計らってその辺をうろつき二人でお茶を飲みながら、時には食事をしながら楽しい時間を過ごすようになっていた。
そんな時欽二の頭には家のことや仕事のことも消えていた。全てを忘れていたのである。
と言って其の女性と行動を共にすると言うほどの力も勇気もなかった。もちろん経済的な問題も制限があったし、肉体的にも勇気も度胸もないのである。
ただひたすら其の時間が楽しければよかったのだ。そんな時期が数ヶ月も続いていただろうか。
いつものように仕事を済ませて帰ってみると事務所の雰囲気が少し違っている。
「なにかあったな」と予感がしてデスクに座ると部下の浅尾が近寄ってきた。
「所長ちょっと話があるんですけど」と言い始めた。彼は自分と仕事が同じで新しい材料の開拓販売と接待をしていた。何をしても卒がなく、其の人柄の真面目さをお客さんから変われて信用も厚かったとりわけ時間外のマー^ジャンの接待はいつも一緒に付き合ってくれて酒席もこなし助かっていた。「私はこれから仕事を今までのようには出来ません」と言い出した。
それがどんな意味なのか、どういうことなのか分からなかった。

思いつくままに  「アンケート」

2016-03-09 11:53:48 | Weblog
街頭でよく行っているアンケート調査をTVでよく見かけるが、私がレポーターだったら
一度「あなたは今幸せだと思っていますか」と質問してみたい。
しかし答える人にはいろいろな人がいて、必ず素直に本当のことを答えるとは限らない。それは聞く側の態度にもよるのだが、企画者の威張った態度であったり「お願いします」ではなく「お前の意見を聞いてやる」とか、しつこい態度であると適当にでたらめな答えをすることになる。
つまり本当の答えが得られるとは限らないのである。そして「幸せです」とたぶん多くの人が外向きの答えをすると思うが、実際は自分を不幸だと思っている人のほうが多いのではないかとも考えられる。
私の知人に「釣り名人」と言われる人がいる。趣味で始めた「川のやまめ」釣りにはまって、それから70歳近くなった現在生活の全てが何かしら「釣り」に繋がっている。
パソコンの得られるデーターは日本中の川の状況と漁獲の実態に関するものであり、どこで何が行われ、どんな状況にあるかを其の変化とともに追いかけている。
勿論近くで自分で行ける大会には必ず参加して大抵の大会で「優勝」を記録しいる。
私はある時、其のノウハウをネットで有料で公開したらと進めたことがあるが、にべもなく断られた。名人ともなると其のノウハウはあくまでも商業主義に利用するものではなく、一切が
自分だけの宝であり、公開するものではない、むしろそうすることで其のノウハウの価値はなくなるという信念に基づいているようである。そして生活が楽ともいえないながらも満足感の中で人生を送っている。
其の姿は他人から見れば「不幸」に見えるかもしれないが、本人の意識の有無に関わらず其の姿はそのまま「幸せ」と言えるのではないだろうか。
つまり「しあわせ」の一つの姿はなんに寄らずどんな常態の中にあっても自分の心が「平安」であり、満足と納得の世界にいつもいることが出来ることではないかと思われ、私は其の知人は「幸せ」だとうらやましく思っている。
本人は苦労と悩みの連続と思っているかもしれないが、「幸せ」とは自分で判断できるものではないのかもしれない。どんなに苦労している人でもそこに「満足感」に満たされたものがあふれている状態であればその人は「幸せ」と言っても良いのではないかと思っている。

思いつくままに  「卒業そして入学」

2016-03-06 19:03:11 | Weblog
いよいよ3月に入った。今年は行くも少なく気温の上下は激しかったが、やはり暖冬と言っても良い冬だったと思う。私には4人の孫がいるが3人が女の子で男の子はただ一人で、つまり家系からいえばただ一人の跡継ぎと言える。そんな意味では4代目と言うことになり、其の存在は大きな意味があると言える。
そんな事もあるのか、妙にこの孫に関心がある。小さいときには一緒に遊んだり森をしたこともあるが、小学校に上がる頃から手元から離れて年に一度ほどしか会わないが、いつもきになっている。父親の息子から其の様子を聞くのだが、小学校時代はいじめが苦になり不登校をすることもあり、親が学校まで送り届けることもしばしばであったり、通学の行きかえりにいじめに会い
めがねを壊されたりゲームをとられたりしたこともあったらしい。
息子が小学校時代に私も親として友達の父兄の家まで注意に言ったことを思い出し、やはり親に似るものだと苦笑いをせざるを得なかった。
そんな孫が中学を卒業することになった。ちょうど其の頃から体格も声もすっかり変わって(声変わり)成長が見られるようになって来た。率先して英検の試験を受けて3級をとったり、パソコンを組み立てると言い、高い部品を親にねだったりしている。
そして高校受験も1ケ月の塾予習で合格し、この春から高校生となる。
こうして孫たちはそれぞれに成長して自分の人格を形成しながら大人になっていくことになる。そんな様子を聞くだけでも頼もしく、うれしい気持ちに慣れる。
人生はこうして祖父から父親、そして孫へと其の人格が伝わるのだが、それはそれぞれの人生であり、未知の世界でもある。
どんな人間になってどんな人生を送るのか、想像もできないが、それだけに楽しみでもあり、
期待感もある。
この時期はそんな意味で全てのものが新しい出発をすることになる。また新しい出来事で新しい人生が始まる時期でもある。出来ることなら少しでも将来に期待できる明るいスタートを切ることができれ場と望むところだが、それは神のみぞ知るところであり、日ごろの努力の結果として生まれてくることだろう。

泡粒の行方    第49回

2016-03-03 11:09:09 | Weblog
毎日が楽しく新鮮だった。何も考えずひたすら仕事に熱中し忙しいこともいやなことも忘れていた。結婚して子供も二人できていた。特に二人目に男の子が出来たときはうれしかった。なぜか親からどうしても男の孫がほしいと言われていた。それは兄の子が二人とも女の子で次男の欽二に男の子が出来ないと跡継ぎが射なくなることを恐れていたらしい。
欽二は真面目にどうしたら男の子が生まれるかを考えていた。本屋の立ち読みで見た「食事療法とセックスの持ち方」で80%の確立とあるのを信じて実行することにした。そして生まれた男の子であっただけに特別だったかもしれない。何しろ全てに親の指示(特に母親)がきびしかったのが影響していたのかもしれない。
しかしそれも仕事の忙しさと夜の付き合いの時間に追われて何時しか妻に任せきりにして子供と遊ぶことや学校のことなど全ての家事から遠ざかっていた。
子供の頃親に連れられて日曜学校へ行き、成人式に洗礼(信仰告白)をして教会へ熱心に通っていたこともすっかり忘れていた。自分で何でも思うようになり束縛から解放された状態は何でも好きなことができると言う聖書にある「放蕩息子」の状態だったのである。
家庭があり、仕事がありながら東京の真ん中でいるうちに罪の中に染まっていたのである。
仕事の途中で銀座にある交通会館へ行くことがあった。此処には旅券発行の手続きをするところもあり昼の休憩時間には便利で食事をしたり本屋へ立ち寄ったりしていた。
ある日のこと其のあたりをぶらぶらしていると一人の女性に出会った。どこかで見たことがあるような気がしてみていると、向こうから「あら!」声をかけられた。
小学校時代の幼友達であった。すっかりおばさんだったが子供の頃の面影が残っていた。
「染谷さんじゃないか」とお互いにやっと思い出していた。偶然とは言え不思議な思いである。
学童集団疎開のとき男子生徒と女子は別れ別れになり、その後は戦災でちりちりばらばらで分かれて以来である。