波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡    「プラチナ社会?」

2016-10-31 09:50:37 | Weblog
 初めて台湾に仕事で行き、一人の女性に魅入られてしまった事がある。しかしその女性刃日本語が上手で話が出来たが、家庭がありホテルでの会話だけに終わったが帰国の際、土産を頼んだところ、その一つにプラチナの指輪を買ってきておいてあった事が忘れられない。ダイヤほどではないが、宝飾品には欠かせないものだ。
20世紀に生まれた我々が21世紀を迎えて、この100年でどのように変わったかを見るとき、あまりに早い文明の進展で大きな世界では大きな差が生まれてしまった。特に食の世界の変わり方によって身体的な差が激しく、豊かな世界では飽食による肥満が増え、生命の寿命が延びる率が高くなり、その悩みは増え、その一方で取り残された世界では飢餓と低栄養で苦しんだままである。しかし21世紀の現在はそれらの量的な問題を抱えながら、「質的な」世界へと進む事になりそうである。その具体的な姿は資源自給、健康自立、施全共生、生涯現役など多くの選択肢ができて、そのなかから選ぶ事のできる世界であり、人々はその中から自分にあった自由な参加のできる時代になる事らしい。
しかし人間の悩みは果たして、それで解決できるのだろうか。問題は「心」の世界にある。
この分野がないがしろにされている限り、否、解決できない世界が続く限り人間は不幸を背負ったまま生きていく事になる。それは不思議にも物質的に満たされれば満たされるほどに
心の世界には悩みが深くなるのは何故だろう。それは人は満たされるほどに更にみたされることを欲するものだからではないだろうか。
プラチナ世界、社会も悪くはないが、「心」にプラチナを持つ事が出来ることも共に考えてみた意気がしている。

思い付くままに  「大統領選挙」

2016-10-28 16:33:38 | Weblog
アメリカの大統領選挙が11月8日に決まる。この事は単にアメリカの首脳が決まる問い言うことだけでなく、これから数年の世界の運命を託すrことでもある。その意味では新大統領の政策で世界が大きく変わることも推測される。嘗てオバマさんが「イエス、ウイーキャン」と第一声を発して大きな期待と担って黒人初の大統領として活躍したが、その道のりは決して平坦ではなく、おそらく彼の理想の計画の半分も達成できなかったのではなかったと思う。
アメリカは世界の先進国のリーダーとしての責任もあり、各国への影響も大きいものだ予測される。それだけに他人事ではいられないのである。
そして初の女性として外交、経済、国内問題など日々刻々と発生する問題を抱えながら、世界をどのようにリードしていくのか、それは当然日本の経済をはじめ、全ての問題へと考えられ
不安と期待の両方で不安でもある。
女性としての独特感性を発揮して政策を推し進めるのか、書くビジョンごとに専門家を結集して全体を統一して戦うのか、いずれにしても現代の世界の力関係を見るときに、簡単にまとまると思える問題はない。しかし、アメリカだけでなく、世界の平和の為になんとしても努力して
少しでも「各国の平和と平安」に寄与してもらいたいと期待するものである。
そのためには、アメリカ自体がいったいとなって共通の目的を共有してその問題に当たるべきであろうと思う。すべからく、足を引っ張るような事ではなく「世界平和」としての
努力に全力を挙げてもらいたいと願わざるを得ない。
自国の都合だけではなく、世界の平和と言う旗印のもとで前進してもらいたいと期待と希望を伝えたいと心から願っている。

足跡     「生まれ変わる」

2016-10-25 10:18:32 | Weblog
昨日の新聞に壮絶な自殺行為の事件が出た。どうすればこのようなことが出来るのか人間の不思議さを改めて知らされる思いであるが、また改めて人間の罪の深さをしらされるおもいでもある。そういえば最近のドラマで「カインとアベル」と言うタイトルを見たが(内容は見ていない)当にこれは聖書のもう当に出てくる人間の殺人行為の最初の物語とも言えるもので、兄が弟を殺すと言う内容である。(ドラマはどのように書かれているが分からないが)
このように人間は基本的にはその罪の大小はあっても「罪人」の存在である事は変わりないのである。ただその「罪」を各人がどのように認識し人生を生き抜いていくかでその人の人生は大きく変わるのである.私自身も若いときは「意気がって」全てに正義をかざして生きてきたが
今では何事においても「罪悪感」をかんじるようになった。例えば誰と話しても「あれでよかったのか、」「余計な事を言ったのでは中ttか」と考えるし、何もしても「これでよかったか」と
反省の感を持ってしまうのである。
ある学者が、誰よりも偉い人間になろうと考え「dぴしれば立派な人間になれるか」ときいたのである。聞かれた人はただ一言「人は生まれ変わらなければ神の国を見る事はできない。」と応えている。これは言い換えれば罪のみである人の心でいる間は単なる罪の身から変わることは出来ない。人の事を考え、謙虚に自分を省みる事ができる人間にならなければ、罪のままであることを示している。
生まれ変わる事はできないが、心から神の思いを少しでも持つ事から人は変わることができる事を学ぶべきである事を教えている。
それが出来ない以上、ひとは罪悪感のまま行き続けなければ行けないか、そんな事を感がないで自分本位で生きていくしかないのである。
上記の事件はこのようなことから起きた事件の一つであろう、残念だが、一人でも「生まれ変わる意識を持つ事が出来ることを願っている。

思い付くままに   「家族」

2016-10-22 11:19:29 | Weblog
今更でもないが家族と言うもののあり方について考えさせられる事がある。結婚して家庭を持ち子供が出来る。すると自然に家族と言われる形態が出来てくる。
そしてこの形態も時間と共に変わってくる。新婚生活の他人同士であった人間がまるで同一人物のように全てを共有し全てに喜びを感じ全てが楽しい時間が次第に自己を主張し自分の時間自分の行動を独立させお互いが譲り合い、謙虚に助け合い、譲り合い、守りあい、理解しあう事の時間がかわってくる。つまり結婚前の他人時代に戻ってしまったかのような人間関係になる事もある。そして子供が出来る。子供も幼いときは二人の共同作業で二人の共有の宝であったものが成長し子供が一人で行動し自己主張し、自分の思うようにならなくなると親である存在も、今までの愛情も次第に薄れ、思うようにならないと単なる「うざい」存在でしかならないでほしいものだけをねだる事になる。そしてそれが手に入らなければ自分で稼いででも手に入れるようになる。つまり家族と言う一つの集合体が個の集まりになってそこには「心」または「血」のつながりの存在が見えなくなってくる。
そんな実態が「家族」と言う名前で単に同じ屋根の下に共同生活をしていることになる。
そこにあるのは何があるのだろうか。ほしいものを手に入れるときか、そうでなければ好き勝手な行動をとるか、こまっっているときに助けあることがあるのか、
それは「家族」といえるのだろうか。最近「離婚」の話を良く聞くようになった。
「共に白髪の生えるまで」と誓い合った結婚式のあの言葉は殆ど利くことはない。都合のよいときに一緒になり、お互いを利用し、邪魔にあなったり、自分の思うようならなくなったり、邪魔になったら分かれることに未練がない。もっと言えば自立する力がついたら、お互いはお互いに自分中心の生活を自立させる事だけを考える。
そんな時代が来ているような気がしている。家族とはどんな状況になろうとも運命共同体であり、その集合体での幸せと平安を目的に、力を合わせ助け合い、協力する集合体であるはずだ。
このことをもう一度改めて考える時代になったいるのではないだろうか

足跡    「人の生き様」

2016-10-18 09:54:49 | Weblog
もう間もなく私の人生も終わりに近づいていることがわかる。考えてみると短いようであり、
また長かった気もする。しかしこの辺でいったい自分の人生はこれで良かったのかと振り返ることも大事ではないかとおもう。小さいときから自分で自覚しているだけで二度も死ぬ思いをして助からない命を生きながらえた事。(大病をして医者に見離された、3階の屋根から路地裏へ落下)その他無意識の内に危機を免れてきたことも会った事を思うと現在こうして生きている事の(生かされていることの)不思議さを覚えないわけには行かない。
それはこの世に生かされてきた勤めがあることでもあるのだろうか。しかし私は少なくても自分では自分の考えどおりに生きてきたとは思えない。それは学生時代に自分の思う事が何も出来ずに兄の言うとおりに丁稚奉公のような生活だった事(この生活は結婚後も続き生活はその監視下にあった)そしてその後にやっと父の仕事を手伝うようになり、自由なこうどうがとれるようになった。そのためにそれまでの反動が出てそれまでの抑制されていたものが一度に表に出た幹事で肉の生活に自らを任せてしまった幹事である。
(因みに学生時代はジャーナリストの仕事をしたいなあと漠然と考えていたのだが、)一言で言うと私の生涯はずっと家業を継いできたともいえるのである。
それでも後半(40歳代)からは曲がりなりにも自分の生活らしい内容になった(兄の監視がなくなった)そして40年過ごしてきたのだが、一言で言えば自分の力自分の思い、自分の意思で決まった事はなかったと言える。
もっと言えば人生は自分の考えや自分の望みどおりになるものではないといってもいいのではないか。そこには目に見えない大きな力で動かされ生かされていることを覚えざるを得ない。
そう、自分があって、自分ではないのである。人は目に見えない大きな力(私は神と信じている)によって生かされ動かされている。
今80歳を過ぎて振り返るとき、人は様々な生き様があるが、自分で動いて、決めて生きてきたと考えるが、冷静に自分を振り返るとき、そうではない事を謙虚に省みてこれからを考えるべきであろう。

思い付くままに   「続.台湾有情」

2016-10-15 09:42:46 | Weblog
もうこの年になると残念ながら海外へ行く事は無理かもしれない。何に寄らず何処へ行くにしても途中で人様に(家族であっても)迷惑をかけない事を一番に考えるからだ。
自分はどうなっても仕方がないかもしれないが、そのために周りにいた人に迷惑をかける事が申し訳なく罪悪感として残るからでもある。
そんな訳で最初の海外で最後までつながりが残っている「台湾」には今でもつながりがあり、
仕事の上でもお世話になっている。現在は日本では必要なものだけしか製造しなくなったマグネットを台湾から購入できる。台湾で出来ないものは中国からOEMで用意に品揃えが出来る。これは日本でもできない事はないが、やはり同じ中国語で通じ合う人同士での繋がりは日本人では出来ない取引でもある。そんな訳で日本で必要とされるものは中国、台湾経由で日本へ供給されお互いに相互扶助を行っている。
そんな中で調査して知り合ったメーカーさんと都の取引が始まったのだが、まだそんなに時間もたっていないのにとても強い信頼関係が出来つつある。どんな面倒な仕事でも拒否する事はなく受け止めて検討してくれるし」見積もりが高いと言えば、再見積もりを出してくると言う具合でその誠意には頭が下がる思いである。
そしてその取引高に応じてボーナスを検討したいとの申し出さえ出てきたのである。
今まで日本を含めていろいろな人との仕事の中でこれほども話は出た事はなく、逆の申し出のクレームの対応で悩んできた事を思うと信じられないことである。
確かに仕事としては僅かづつではあるが、貢献しているといえるが、見返りを受ける事などさらさらない。それにしてもそんな感謝の気持ちをこのような申し出で言われるとは思いもしなかっただけに本当に「こんな心の人もいるんだ」と改めて反省と感動を覚える事ができた。
それは金銭的なものではなく、誠意である。真心である。
この世に生かされ、生きているものとして常にこの心を何事にも持ちたいものと学ばされた思いである。

足跡  「大統領選挙」

2016-10-12 10:25:46 | Weblog
11月に行われる大統領選今日の話題が毎日のように報道されている。こんな事が嘗て日本であっただろうかと思われるほどの取り上げ方で、如何に世界がアメリカを中心に動いているか、そしてその影響を受けているかを窺わされる。そして日本のおかれた立場がどれだけ不十分であるかも良く分かる気がしている。また、世界が自国のみの力で成り立つのではなく、アラユル国々と協力し合い、助け合っていかなければいけないかも身近に感じさせられるこのごろである。
日本がとってきた500年前の「鎖国時代」が嘘のような時代になっている。そんな中で間もなく新しい大統領が誕生する事になる。このことは他山の石としては考えられないほどに、今の日本とアメリカの関係になっている。それゆえに関心もあるのだが、果たしてトランプ氏かヒラリーしか、注目の選挙となる。現在の小浜さんの登場も初の黒人大統領として颯爽と登場し多くの期待と希望を受けてその任務を果たしてきたが、その成果は本人の望むところには達しないで終わろうとしている。それは中近東における問題をはじめ、アジアにおける北朝鮮の問題など
決め手となる解決策が取れないジレンマもあったことだろう。そしてこの後を継承する大統領がどのように世界をリードしていくのか、内政問題も多々ある中で世界の問題をどのように進めようとするのか、11日の討論会でもそのヒントは得られなかった気がしている。
しかしどんな世界であっても責任者の方針と考えが影響しない事はないし、その結果が反映しない事はなく、そのための影響は世界へと繋がる事だろう。そんな意味では期待と不安が消えないが、ここは大きく期待をこめて託したいと思う。
それにしても不思議な事に、ここえきて「女性りーだー」が増えてきた事は何かりゆうがあるのだろうか。イギリス、ドイツ、をはじめ世界の主要国家のリーダーをはじめ(アメリカもその可能性がある)東京都知事までにおよぶとは思わなかったが、
何か共通する国民意識が原らいているのだろうかと考えさせられた事も事実である。

思い付くままに   「権力、名誉」

2016-10-09 10:19:35 | Weblog
人はこの世において何を望み、何を得ようとして生きるのか、それは全ての人が考え生きている問題でもある。そしてその大勢は「長寿、財力。そして権力、名誉」を目標とするとある。
それはそれぞれの人に備わったものから生まれるものかもしれないが、その根幹にその願い、望みがあるといわれる。従ってその目標に向かって生きていくのだが、世の中にはその目的の為に様々な問題を同時に生じる。
オリンピックを4年後に控えた東京は新都知事を向かえて新しい歩みを始めた。このことは大きな前進であったと思う。しかも初めての女性である。それは何かしらの期待と前進を予感させてくれる気がしている。そんな中で築地市場の移転問題,オリンピック会場の問題が早くも調査の対象となり、問題化している。そしてその問題にかかわる人々の立場や主張も次第に表面化してくるものと思われる。その中にあってそれぞれの人のかかわりや立場、責任そして将来への影響などが考えられ簡単には進まない状況である。
人はある程度の財を成してしまうと(健康問題が前提ではあるが)次にはその上に権力と名誉
むしろ名誉を重視する傾向が本能的に働くのであろうか。そのために自分の立場と周りの人との関係が複雑になる事になる。そして本題が明らかにならないで問題は混乱する事もある。
それぞれは正しい事を目途に主張する事で混迷化することもある。
出来得ればそれらが公平な立場で解明されて改善と前進へと進む事を願わざるを得ない。
秋が少しづつ近づいている気がしている。数日おきに行っている散歩もその足並みが少しづつ
伴いつつある事がうれしい。
一日一日を何の不安も泣く「平安」を保ちつつ過ごせる事に感謝と恵みを覚えざるを得ない。

足跡     「さまよえる人々」

2016-10-06 09:09:43 | Weblog
新聞に毎日のように伝えられる「難民」の問題を私たちは他人事のように見ていないだろうか。
今、この地上で自分の国で安心して平安な生活が出来ない国があることを思うとき、心を痛めざるを得ない。シリアで起こっている内戦による影響で何百万にも及ぶ人たちが、今ヨーロッパの国々をさ迷っているのである。その原因は国内における宗教的な対立によるとされているが、
アメリカもロシアも停戦協定を破棄してしまっている状態である。犠牲なっている人々、そして自分の国を出て、安住の地を求めてさ迷っている人々がいることを考えざるを得ない。
嘗てエジプトの地で奴隷として用いられていたユダヤ人をモーセと言うリーダーがその王と対決してそこから脱出してその人々を引き連れて(その数60万人とも言われている)現在のイスラエルへ行き、そこで自分たちの国として生活する事ができたと聖書(出エジプト記)にあるが、当に同じ状況になっている気がする。モーセに代わるリーダー(国)がしっかりと解決への努力をして難民としてさ迷っている人々をもう一度自分たちの国で住めるようにすることが望まれる。
そのためにヨーロッパの国々に様々な問題が発生しているし、その他の「テロ」などの要因にも繋がる事もあるかと思うとその影響は小さくないと思う。
私たちは自分の問題で、その影響が自分に及ぶときには真剣になるが、そうでなければ関心を持たない事が多い。それは力が及ばない事ではあるが、自分たちも身の回りのことに関心を持ち
「隣り人」への関心と自分のできることをもう少し考える事も大切ではないかと思わされた。
今日も世界のどこかで「彷徨える人」が生活している事をおもい、謙虚に一日を過ごしたいと思う。

思いつくままに   「上に立つもの」

2016-10-03 10:46:27 | Weblog
今年もプロ野球のシーズンが終わった。一年を通じてみていると様々な人間ドラマが見える事がある。今年もシーズン途中で監督の交替が突然行われた。健康の問題とか、避けられない問題なら仕方がないが、強いて言えば成績不振で「休養」を命じられたとある。しかし当人にすれば不本意な事であろう。当然成績は重要だが色々な要因で結果的にそうなったのだが、これで終わったわけではないのに契約途中での「休養」はさぞ残念だったと思う。
こんな事を聞くと「上に立つもの」はどうあるべきか人事ながら考えさせられる。確かに監督の責任は大きい事は分かるが、その前に託した当人の責任もある。これらは全てに影響するわけで
簡単ではない。そしてこのようなことが起きるたびに考えさせられるのは、「どうすればよいのか、」と言う事である。
いろいろな事が考えられるが、往々にして多いのは上に立つものの「権力」がある。無意識の内に自分の内にある、上に立つものの意識がその言動に出る。それが下のものへ大きな影響を与えている事に気がつかないことなのである。
私自身も役職を傘に部下にかなり厳しい言葉で注意した事がある。そのとき後日当人から「その叱責を夢に見てうなされた」と聞かされて強い罪悪感に襲われたことが今でも忘れられない。
現代のこの時代になると少子化を含めて子供を叱る事も注意を要するが、どんな世界でも今では自分の権力や立場で、何でも言える時代ではない(時代に関係なく)
上に立つものほど「相手の立場に立って理解し、共に苦しみ共に戦う努力をする」ことが前提での関係である事が必要であろう。その意味ではその言葉や行動は当然それに伴わなければならないし、それの気持ちが相手につたわら泣ければ、共に成長する事につながらないのである。
それが出来ない限り、家族であってもチームであっても成長は望めないと思う。
嘗ては「鬼軍曹」と言われて厳しさを求められてその厳しさで成長を求めたがじだいはかわった。否、変わったのではない。元来成長は共に戦い共に泣き、共に苦しむところから生まれるのだと言う原則に立たなければ生まれてこない事を知らなければ結果は同じではと考えている。