波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「海外の思い出」①中国

2021-02-26 15:25:48 | Weblog
今から30年前になるので、だっこん伝えられる現在とは全く違ってしまっていると思うが、北京、上海、大連。広州、深圳。そして香港(まだ中国ではなくイギリス領)行くことが出来た。今でもその時のことがはっきりと記憶にあるが、中でも天安門広場を朝自転車での通勤ラッシュの光景は忘れられないし、上海の郊外を車で通過するときに窓から降りかかる雪のような柳の葉の降りかかる景色はいかにも中国らしい風景であった。大連の日系企業の見学はなかなかできないチャンスで、散歩のとき歩いた道にはかつての満州時代の旧日本式の家屋敷が残っていて、当時の雰囲気があったことも覚えている。深圳から香港へのドライブ中に道端から袋を担いだ人たちが駆け寄り「ライチ」を売り込まれ、それを買って帰り、ホテルの冷蔵庫で冷やし始めて食べたときのおいしさは今でも忘れられない。昔楊貴妃が北京からわざわざ取り寄せて好んで食べていたとの逸話もさもありなんと思われ、日本ではなかなか食べる機会がないが、あの上品な甘さとみずみずしい柔らかい実はほかの果物では味わえない気がしている。
広州は中国でも独特な雰囲気があり、世界博覧会などがよく行われていたが、のどかな風景は全体が公園のような雰囲気があり、独特な雰囲気があったことを覚えている。然し一歩郊外へ出て田舎へ入ると別世界のような雰囲気があり、観光地でなければ外国人も行かないようなところでは、何となく落ちるかない雰囲気があったことも事実だ。(今は近代化していると思うが)香港はその中では完全に別世界であった。現在は中国だが、当時はイギリス領としての雰囲気がいっぱいで、「百万ドルの夜景」と言われる小高い丘からの夜景は鉛筆を並べ立てたようなビル群を背景に見事であったのは今でも懐かしく思い出される。

「春来る」

2021-02-22 11:02:44 | Weblog
すっかり忘れていた春がやってきた。昨年の春からコロナに襲われて花を感じる余裕がなかったが、今年は少し余裕が出て外出してみると梅が咲いているのに気が付いた。家族で墓参りに行くと必ず近くの梅林を訪ねて香り豊かな梅をめでて春を感じたものだった。孫がよちよち歩きでその梅林をアリく姿が今でも思い浮かぶ。寒かった冬の到来もいつの間にかやわらぎ、すぐそこまで春が来ていることを感じる。
最近はユーチュウブのおかげで、身の回りのことは何でも分かるようになった。若いころは何かあると辞書を引くか、図書館へ行って調べ物をしたものだが、今は生活に必要なことで知りたいことや必要なものは,殆どパソコンで調べられるので便利である。特にクッキングや医学関係について、何かわからないことがあって迷うことがあっても。すぐわかるのでとりあえずの知識で不安がなくなることは、このコロナ禍の時間の中でストレスがかからなくてありがたい。集会や会合もオンラインのソフトがあれば現地へ行かなくてもその場にいるように話が出来たり、聞くこともできるとあって、これも人ルの文化の進歩かと人間の知恵の進化に驚かされている。買い物や物品の購入もチエックとソフトで簡単にできるし、いちいち現地へ出向く必要がいらない時代である。生活様式が変わってしまったといってよい時代なのだろう。
さて、そんな時代の中でどんな新しい生活スタイルを構築していくか、これが大きな問題である。そんな中で、ふと思い浮かんだことがある。それは
「断捨離」である。小さな部屋でも周りを見ると不要なものに囲まれていることに気づいた。今年から少しづつ身の回りの不要な家具や置物を業者にお願いしながら処理していくつもりだ。「立つ鳥、跡を濁さず」

「大相撲」テレビ桟敷観戦記

2021-02-12 11:23:10 | Weblog
初場所も終わり、少し間が開いているが、コロナ禍の中関取から犠牲者の多いのに少ない関取で良く行われたと感謝している。砂被りの片隅に15日間通っていた「謎の令嬢」が話題になっていたが、確かにテレビでも目立っていたことを記憶している。優勝は平幕の関取だったが、それよりも今場所を通じていろいろなことが少しわかった気がした。現在相撲部屋は40ぐらいあるそうですが、関取を有しているのは15部屋ほどで、そのうち関取が一人しかいない部屋がいない部屋もあるとのことでした。すると普段のけいこもコロナ影響で出けいこができないと、普段のけいこもままならないことも多いようでその影響が勝敗にも表れてくるようだ。関取が多くて親方の指導がよくできている部屋の影響もあることが目立っていた気がしている。
相撲部屋も野球のチームと同じように監督、コーチの指導も含めて選手のやる気が影響するように関取もそのモチベーションに影響している気がしてみていた。その結果は優勝者その他の成績にも歴然としていた気がしている。勝負とはいえ体が資本なのでけがは禁物である。その中で良い成績を残すことはよい環境と指導の下で養われていないと、体が大きく力があってもその結果は得られないように思われた。
これはむつかしいも台で良い悪いは言えないが、よい環境と条件が備わっているところで努力したところが、その結果を得られているように思われた。立ち合いから数秒で勝負が決まるだけにその集中力が試されることになるが、それと同時に普段のけいこも無意識のうちに発揮できることも身についていなければ結果はついてこないのだろう。いずれにしても国技として大相撲が成長していく若者の姿を見る楽しみで、これからもTV桟敷から応援したいと思っている。

「最後の葉書」

2021-02-08 11:18:54 | Weblog
私の手元に一通の葉書がある。私はその葉書を本の栞として使い、毎日その葉書を見ている。葉書は平成3年1月に架れたもので父はその年の11月に天に召された。その頃、私は父と手紙のやり取りを続けており、二人とも筆まめであったこともあり、ダスト折り返し返事が来るという状態であった。父は94歳を迎えてなお元気であったが、その年の秋散歩中に車をよける際、倒れ、其のショックで心臓を悪くしそのまま亡くなったのだが、私が駆け付けたときには間に合わず、この葉書が最後になった。そこにはいつものように家族の安否を祈る文言で始まり、中でも妻の病気を心配して大事にするようにそして孫の成人式を祝い、最後に聖書の一句が付記されていた。今私が父の年に近づきつつあり、日々これを見るたびに父を思い出す。そんなこともあるのか、最近父の夢を見ることが多い。思えば私にとって父は私には尊敬すべき人物であった。小さい時から独学で努力し、人格を確立すると人の信頼を受け、責任ある仕事を託され立派にその責任を果たし、苦労をいとわず、ぜいたくをせず、遊びらしき遊びも聞いたことがない。強いて言えば家族での団らんであったとしか考えらえれない。日曜日の礼拝は欠かさず信仰の熱い人であった。今自分を顧みる時、自分の人生はどうであるか、時代が違うとはいえ、日知の生き方は変わらない。この葉書を見るたびに父の姿が目に浮かび、日々激励と反省を促される毎日である。

「閑話休題」

2021-02-05 14:08:49 | Weblog
コロナ禍で大きく変わった事がもう一つある。それは一般の営業が出来なくなったこととその形態が変わった事である。20年前の営業形式は従来からの「訪問営業」とであったが、「不要不急」の外出を自粛するという趣旨からこの形式が取れなくなってしまった。それと同時に販売と営業はどんなものであろうと、ネットを中心とした通信販売になり、どんなものでもラインを中心に行われることになっている。この変化による長所、欠点は当然あるが、昔ながらの営業スタイルでサラリーマンで過ごしてきた人間からすると、淋しい気がしているしもし自分が当事者で会ったら、到底ついていけなかったのではないかと、この時代の流れと技術の進歩を驚きと戸惑いの気持ちで見ている。「もし私がその立場であったら」機械音痴のため、到底ついていけなかったと思うし、得意とする「話術」も生かせなかったことだろう。私の場合、後発メーカーの一員であったので、その市場へ食い込むために
何らかのきっかけを作り、顔と顔を突き合わせて相手を説き伏せて、こちらの希望を承諾してもらう手段しかなかったのだ。またそのことによっていろいろな人物と接触しそこから新しい知恵と力を受けて切磋琢磨し、人生を生かしてきた。これからは「人」を生かす場が少なくなり、すべてが機械的に処理されることになる。そこには「人格」もそこから生まれる「人情的なもの」ものも生まれてこない。勿論、未来志向的な関係も生まれるすべもない事になる。何か味気ないものを感じるが、現代とはそんなものだろうか、人間味を感じ「お隣同士」の触れ合いも消えていくような気がしておと、一抹の寂しさを感じている今日この頃である。

「自粛生活を生かす」

2021-02-01 10:41:22 | Weblog
非常宣言が1月に発令されて一か月、間もなくその期限も終わろうとしている。現状ではさらにもう一か月の延長の発表が予想される。こんな毎日を続けているとどうしても一日の過ごし方や考え方が暗くなる。そうでなくても日常の生活では朝に喜んだと思えば昼に悲しみ、夜には新たに心配するというように全く外部の出来事にふりまわされて一喜一憂しながら日々を暮らしていることになります。そんな時、どのような過ごし方をすればよいのでしょう。日々の暮らしの見直しを試されているのです。
日頃忙しくて出来なかった「学習」を計画することはどうでしょう。その内容は自由です。「料理」であっても「読書」であっても、今まで手にしなかったことでも何でもよいと思います。そこから新しい発見があるでしょう。「一人暮らし」の高齢者である私には日々が自粛生活なのでコロナ禍がなくても自粛生活でしたが、それでもそれなりに新しいチャレンジを心掛けています。例えば食事の献立をどうすれば現在の体調に合わせながら刺激的に食欲が増すようになるかとか、わくわくするような時間にするにはどんな時間を持つことであろうかとか、それなりにいくらでも工夫や知恵が浮かんできます。問題は全てのことに前向きに取り組む姿勢にあるようです。そして何事にも「喜んで取り組む」ということが基本にあることでしょう。
日々の出来事に振り回されて一喜一憂し、悲しんだり失望したり、現状を嘆いたりしないことに努めたいものです。
誰もいなくてもよい、誰かがそばにいてくれてみている。そんな思いも大切です。そうです。私たちのそばには必ず見守っている人がいるということも大切でしょう。そしてどんな環境に置かれても「喜んで立ち向かう」ことが大切ではないでしょうか。