波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「年賀状」

2014-11-28 16:13:47 | Weblog
郵便局の窓口で「年賀状の用意はできていますか」と薦められた。「そうか、もうそんな時期か」と思いつつ、今年の年賀状のデザインを見ると「干支」は羊で絵柄になっている
それを見ながら私はすぐ亡き父を思い出していた。94歳で召された父は羊年であった。
因みに羊は非常におとなしく、穏やかで主人の羊飼いに忠実に従う動物であり、視力が弱いこともあって群れを成して行動するときいている。聖書には必ず出てくるのも有名で
「私はよき羊飼いである、良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言う有名な聖句がある。私の息子も羊であること、私自身も傘寿を迎えることと会って何か忘れられない年に思えてきた。又この時期には喪中の葉書も多いのも特徴である。
嘗ては100枚以上の年賀状をリストの名前を記憶から思い起こし一枚一枚手書きで心をこめてメッセージを書いたものだったが、年々その数も減り、中身もパソコンで済ませ
わずかに一言「生きている」証のサインを書く程度になってしまった。
時代の移り変わりとともに自分自身も衰えていることを知ることになっている。
本来の年賀状の意義、目的、習慣そのものも変わりつつあるのだろう。そしてそのことが
人間関係自体を希薄にして、終には消えていくのかもしれないのだ。
「アウトオブサイト.アウトオブマインド」去るものは日々に疎しはこのことを言うのだろうか。いかにもさびしいとも思えるが、人間の存在はどんなに勢いがあっても、いつかは消えていくものだと言うことをここからも伺えるのである。
しかし、この現実を悲観的に考えることも無く、むなしく思うことも無い。ただ忘却の片隅に静かにしまっておいて、時に触れ、折に触れて思い出して微笑むことにしたい。
ゲーテが「青春とは顧みる時の微笑である」の言葉はこのことをさしているのかもしれない。年賀状は正月の風物詩として楽しみの一つだった。
普段ご無沙汰していたり、忘れていたりしていた友人、知人から貰うとタイムスリップするかのように当時のことが思い出されるのが、喜びだった。
そんなことを思い起こして今年も年賀状の準備にかかりたい。
「年の瀬に喪中の知らせ別離知る」

音楽スタジオウーソーズ    第25回

2014-11-24 11:23:47 | Weblog
外処は定年退職を迎えると会社から転職を斡旋されたが、何の未練も無くあっさり断った。元来頭を下げて愛想を振りまくことが嫌いであり、むしろ苦手としていたこともあるが、自分の性に合わないことをする気は無かった。それよりも町会から色々な仕事を請けて自分なりに計画し予算を受けて実行することに喜びと遣り甲斐を持っていた。
行事はいくらでもあり、その他の雑用が毎日のようにあった。その案件であちらこちらと
動いたり人のためにすることは楽しかったのである。
春夏秋冬、季節ごとの決まった行事のほかに定期的な会合と打ち合わせ「これはあまり好きではなかった」それも夜昼問わずでも苦にならなかった。町会のため人のためというよりは自分のため、好きなことが出来ると言う思いのほうが強かった。
春は商店街の中心に植えられた桜並木を利用して「桜祭り」の提灯を寄付で集めて飾り付け、夜桜見物方々屋台を準備したり、イチゴ狩りに有志を募って一日ドライブ旅行を計画する。何しろ車については昔とった杵柄であり、得意技である。
決められた路線を外れて走っても必ず目的地に時間通りに行くぐらいのことはお手の物であった。そしてあちこちと旅行のプランを立て始めたのもこのころであった。
一人で行くより皆で行くこと、そして「行き当たりばったり」でサプライズを起こすのが得意であった。町会でも今まで決まったことしかしなかったのが、急にあれこれと誘いがあり、そろそろ一人では億劫だと思い出す年頃になって、このように誘われるようになって刺激になり、喜んでいた。
「道の駅」があちこちで出来始めたころには近辺の場所を選定して「道の駅めぐり」をしてみたりする。これは年寄りばあさんには最高に喜ばれ彼はその場所まで連れて行くと
「放し飼い」と笑いながら休憩を楽しんでいた。
こんな毎日が彼にとっては最高の楽しみであり喜びであった。
「スタジオ」もオープンから順調に運営が始まった。光一は勤めていた店の紹介で、いろんなジャンルの音楽家を紹介され、その中からローテーションを組み、HPを通じたりその他の宣伝で集客した。ピアニストも二人ほど専属を決めて契約し穴の開かないようにして、自分はステージで時にはドラム、ギターで演奏もした。
春子は光一と毎日一緒に仕事に出かけられることが最高の喜びであったが、客へのサービスメニューを考えることも楽しみであった。

思いつくままに    「木枯らし吹く」

2014-11-21 10:06:25 | Weblog
小さな庭の「木蓮」の大きな葉が赤くなりぽとぽとと落ちてしまいすっかりさびしくなった。冷たい木枯らしが吹き、雨が当たると雨戸を閉めてカタコトとなる音を一日聞くことになる。いつの間にか秋も過ぎて冬が間近かに来ていたのだ。
最低気温が10度を割り、最高も20度を超さない日が続くとやはり冬支度である。
これから来年の3月の彼岸までこの寒さの中を如何に体調を整えながら凌ごうかと考えている。私の身の回りにも少しづつ知らない間に異変がおきていることに気づかされる。
ババ友のご主人が長い(12年)の療養生活の末に亡くなり、先日までプールで泳いでいたジジ友も突然体調を崩し手入院したり、ご近所の老人会のばあさんの主人が胃がんの
治療が出来て退院してジムにも夫婦で行っていたが、検査をしたら全摘をしなければならないことが分かり、高齢のためこのまま延命治療を続けるとか、40年来の友人も膝の手術をして痛めは和らいだが、100m歩くのがやっととかと言う話を聞く。
所詮人間はこうして次第に弱り、生命を終わることになる事を知りながら、このような話を聞くと現実に身近な問題として、年齢とともにその思いが強く、厳しく迫ってくる思いである。そんな時人は何を考え何も思うのだろうか。私自身も一人暮らしを始めて、それなりにそんな思いを考えるようになっているが、真剣に備えることを考えさせられる。
知人に「肺がん」を宣告されたとき余命を教えろと医師に尋ねたが、教えてもらえず、
「余命のあるうちに果たさなければならぬことがある」と迫り2年と言われその時間を有効に生きたと聞いたことがあるが、(別掲)自分も人事ではなく決められた時間の中で生かされていることを自覚しなければならないと思う。
そしてその前提で現在を無駄にせず、大切に何を考え何を備えるべきかを考えたいと思う
出来ることも限られ、動くことも限られ話すことも、覚えることもままならぬ中で
生きることは、神に近づき神に喜ばれる事を中心にすることしかないと思っている。
その中で限られた課題を果たして生きたいと思うこのごろである。

   「木枯らしの枯葉の音に老いを知る。」

音楽スタジオウーソーズ   「第24回」

2014-11-17 12:15:21 | Weblog
念願だった自分の店を持つ夢を父があっさり認めたことを光一は拍子抜けしたように驚きを感じていた。あのうるさい何をするにも自分の言うことを通すことしか考えない父が
あっさりということを聞いたのである。光一の話を素直に聞き賛成したのである。
ひょっとしたら父は自分も同じように店を持ちたかったのか、そしてその夢を息子に託そうとしたのか、そんなことを考えていた。
早速物件を探すことにして不動産屋を回り始めた。まだカラオケ店が少しづつ出来始めたころであり、光一の考えていたスタジオ形式の店は無かった。店はステージを正面にして
横にはピアノを置き、ドラムや演奏家が演奏しやすくしなければならない。
そして客席にはーブルを置き、いすを並べ客は飲み物を飲み気分良く音楽を楽しめるように雰囲気を作らなければならない。そしてサービスカウンターを隅に用意することも大事だった。駅近くの物件から見つけると権利金と数ヶ月の家賃を前払いをして改装の工事にかかった。光一は毎日その現場に来て公示に立ち会った。毎日が楽しく回転が待ちどうしかった。
予定のオープンの日を決めると出演者の演奏家との契約をする。メジャーではなくても
店で仕事をしていたときから知っていた演奏家は一杯いたし、ぜひ聞きたいと思っていた人もいた。出来れば一緒に演奏したいと願っていた人もあり、それらの人の都合くを聞きながらローテーションを組んでいくのである。
同時に開店の宣伝もチラシやHP、勤めていた店の協力で少しづつ進めることが出来た。
開店の日が来た。店の前には花輪が並び春子もフロアーの責任者として立ち回っている。
楽器店の関係者や勤めていた店の応援もあり、90人ほどのスタジオはあっという間に
満席なっていた。その隅には父がそっと人陰に隠れるように座っていた。
「皆さんのご協力で今日開店が出来ました。どうか最後まで楽しんでください。」と
光一は簡単に短く挨拶をした。
それからは初めての音楽スタジオウーソーズの世界で進んでいった。
時間とともに客の満足そうな雰囲気が漂い、静かな中に暖かいものがあふれていた。
こうして順調にセレモニーは始まった。光一もステージの片隅でドラムをたたくことが出来、最高の瞬間であった・

思いつくままに  「隣の花は赤い。」

2014-11-14 09:22:42 | Weblog
私の記憶では「隣の芝生は青い」であったが、ことわざ辞典には表題になっている。
然し意味は同意義で変わらない。つまり他人のものはすべて何でも自分のものより
よく見えるし欲しくなると言う本能的な意識を示唆しているのだが、人間の本質を
ついていて奥の深い言葉だと思う。聖書にも似たような言葉があり、十戒の一つに
「隣人の家を欲してはならない」と言う戒めがある。
日常生活において普段忘れかけているこの言葉を思い起こされる風景をみると
自分自身を省みながら反省させられるのだ。
スーパーでの買い物、プールで泳いでいるときでも、その行動や仕草ちょっとした
持ち物でもそんな衝動に駆られることがある。
仕事でも自分の会社の業績が悪いと他の会社が順調に見えたり自分だけが悪いと思いがちなものである。つまり人間は根本的に現状に満足して感謝する。自分も他の人と同じように恵まれているのだと言うことを忘れてしまうものらしい。
これは年齢的にも感度が異なり、若い人ほど大きいものだろう。人を羨んだり、ねたんだり、やきもちを焼いたり最後は人を憎むことに繋がっていくことだろう。
これらは全て人のことが気になり、自分が不幸であるとの思い違いに発している気がする。典型的な例で言えば「お受験戦争」などは明らかに見える。「どこそこのお子さんは
あの有名校に入ったわ」と聞くと何としても自分の子もそこへ行かせると躍起になる家庭をみると、つくづくこの時期考えさせられる。
然しよく考えてみたい。隣の花や芝生そして家はきれいに見えるかもしれないし、きれいかもしれない。そして羨ましく、妬ましく自分も同じだったらと考えることは無理も無いことかもしれない。しかし自分も同じようなことが出来たとして、同じ幸せを得ることが出来る保障があるだろうか。逆になったことで苦しみと困難が待っているかもしれない。
全ての事は自分の力で動かせるものではない。むしろ与えられたものであり、それぞれが
大きなタラントを持っているのだ。それがどんなに貧しいものでも、どう生かし育てるかで結果は変わるし、その過程は苦しみから楽しみに変わるのだ。
どうすれば赤い花が咲き、芝生が青くなるのかを考えてみたいと思うのだ。困難が伴えば伴うほど花が咲いたときの感動は大きいと思う。
暖かい日を選んで枯葉を集め、庭の手入れが出来た。これから薬をまき花の球根を植えたいと思っている。どんなに小さくても喜びは同じであり味わえるのである。

    音楽スタジオウーソーズ  第23回

2014-11-10 11:07:25 | Weblog
二足のわらじを履いているような忙しさの中で仕事をしていたが、そろそろ年貢の納め時かと考え始めていた。会社は自分を必要としないことも分かっていた。
しかし地元の町会からは毎日のように雑用が入ってくる。考えてみれば地方の町会と言えども800所帯もあるのだ。毎日のようにどこかで何かが起きていても不思議ではない。
息子夫婦も新しく改造された台所で二人で楽しそうに話し合っている。そんな姿を見ているうちに外処は父親として何かしてやりたいと考え始めていた。
いつまでも楽器店の番頭のようなことをさせているわけにも行かないなあ。嫁もアルバイトのような仕事でいるのも可愛そうだ。何とか自分でしてやることは内科と考えていたのである。そしてある日、二人が仕事から帰ってきたときに話し始めた。
「お前たちいつまで、今の仕事をしているつもりなんだ。それじゃあ何時までたっても
好きなことも出来ないんじゃあないのか。何かしたいことがあるんじゃないのか。」
酒を飲まない父親に似て光一も酒は飲まなかったが、春子は血筋で少しのめるのだった。
「どうだ、ビールでも飲まないか。」飲めない父の言葉に驚いた光一だったが、春子は
「缶ビールがあるんですけどお父さん少しおのみになりますか。」と持ってきた。
「じゃあ、ついでにストローをつけて持ってきてよ」冗談を言うと笑いながら缶ビールを持ってきた。三人で形ばかりの乾杯をすると何となく雰囲気も違った感じである。
「お前たちが何をしたいのか、聞かせて欲しいんだが、」「実はお父さん、僕たち店を持ちたいんだよ」「店って、何の」「それは音楽スタジオのような洒落たお店さ」
「そこで何をするんだ。」「毎日、いろんな演奏家を読んで、飲み物を飲みながら演奏を楽しめるような店だよ。」「そんなみせで商売になるのか。」「今、こんな店があまり無いけどお客は結構いるんだ。うちの店に来る客なんか皆そうだよ。」「それで儲けが出るのか。」経験の無い父には話を聞いてもぴんとくるようなものが無かったが、
光一がそんな夢を持っていることはよく理解できた。
「そうか、お父さんはよく分からないが、もうすぐ会社を辞めることになる。その時
少しまとまった金も出るので、そんな店を出す資金にしたらどうだ。」
二人の顔がすっかり明るくなった。少ししか飲んでいないビールなのにまるで何杯も飲んだかのように赤くなったのである。

思いつくままに    「読書の秋」

2014-11-07 16:41:00 | Weblog
先日のブログで「実りの秋」を書いたのだが大事な「読書の秋」について触れなかったが
自分なりに恥ずかしく又、読書を軽視していたことを反省させられた。それほどに毎日の日常生活から読書と言うものが忘れかけているのではとの危機感もある。
確かに21世紀に入り、世の中の技術の進歩とともに新しい機器が生まれている。その中で最も影響を与えたのは携帯電話であり、スマートフォンであり、電子書籍などかもしれない。これらの出現で書籍を手に持って読むということが減りつつあることは事実であろう。それは学習スタイルへも波及しパソコン、映像、3Dと色々な機器で理解を深めるようになっている。それは決して悪いことではないしむしろ知識の習得であれ、理解であれ
大きく寄与していることだと思う。
嘗てそれらの知識は文学小説であれ、推理小説であれ、伝記小説であれすべて文字から学び文字から受ける大きな感動と影響を大事にしていたのである。時には感銘と同時にその作者やその場面から受ける「魂の叫び」のようなものさえ受けることが出来たものである。それは読者の人間形成にも大きく寄与したしその人間の成長にも大きく影響したものだった。そのこと自体は昔も今も変わっていないし、今もその価値を認めて多くの読者がいるのだが、これからの成長期にある若者がどれだけこの「読書」の大切さを認めているかと言うことである。あまりにもその便利性であったり、映像からくる好奇心であったりに捉われて文字を追うことを忘れていないだろうか。
ひとつの目的のためだけに走り、人間全体の精神構造への価値を忘れていないだろうかと
心配になる。私は今こそ「本」を読むことの大事さ、本からだけしか得られない感動を大事にしてもらいたいとつくづく思うのである。
高齢者の一人として、視力の衰えを感じながら読書を続けているが、残念ながら長時間読むことが出来なくなっている。ついめんどくさくなってTVを見て時間を過ごすことも多くなりつつあるが、TVでは得られないものがあることを大事にしている。
それは人間の内面への語りかけが得られることである。読書はその本にもよるが、その本からだけしか得られないものがある。そして尊いヒントも受けることがある。
これからも少しずつであっても続けるつもりだ。
「読書の秋」は大切にしてこの機会に読書を見直してもらいたいと思う。

   音楽スタジオウーソーズ   「第22回」

2014-11-04 10:33:24 | Weblog
父として今まで父らしいことをしてこなかったことが外処には胸にあった。すべて自分の
思い通りにして、子供の希望を聞いたことが無かった。ただ一度だけ好きだったギターを買い与えてやったことぐらいで、特別なことをした記憶が無かった。光一もそんな父に逆らわないように言われたとおりにしていたが、それでも不満は無かった。しかし、結婚して大人になり、家庭を持つと少し考え方が変わった。それは自分の考えと言うより春子の考えの影響が大きかった。二人は黙って家を出てアパートで暮らしていた。
その事については父に断りもしなかったし、特別それについて説明をする気もなかった。
父もその事について咎めもしなかった。
「親父、やっぱり家へ帰るよ。」「そうか、帰ってくるか。」「それで春子が親父に一つだけ頼みがあるっていうんだ。」「何だ」「台所の一部を改造して欲しいって言うんだけどいいかな」「あれは死んだ母さんの希望で作ったんだが別に直すぐらいいいよ」ぶっきらぼうなやり取りだが、そこには争いは無く、やはり親子の会話が成り立っていた。
「じゃあやってくれるね。「分かったよ。それはいいけどどうして帰ってくる気になったんだ。」「やっぱり余裕が無くてね。二人の給料だけでは生活苦しんだ。」
「じゃあ、帰ってくるんだな。」それ以上は何もいう気は無かった。黙って出て行ったことに不満はあったが、別に悪いことをして出たわけでもなければ何でもない。
それよりこれからは自炊しないで嫁の作ってくれる食事がたべれることでほっとしていた。さすがに春子は父の前に手を突いて断りをした。そして台所の改造について挨拶をして「ありがとうございました」と嬉しそうであった。すでに3年が過ぎていたが、子供も出来ている様子でもない。余計なことだったが、外処は孫を抱くことが出来ることを何となく期待していた所もあり、何となく拍子抜けをした感じでもあった。
二人は子供が出来ないのか、作る気が無いのか、
町会の仕事は、ますます繁多になってきた。自分の仕事を適当にしてでも片付けなければやれなくなっていた。会社の期待も見極めが出ていた。会社の仕事はこれ以上続けても、これ以上には何も出てこないことは見えていた。元々同族での株主形態でもあったし、役員になれないことも分かっていた。外処はそろそろこの辺で見切りをつけることを考えていた。これからは自分のやりたいことをして、第二の人生を歩こうと言う気持ちが強くなっていた。