波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

        「シーズンオフ」一年

2018-11-26 09:40:39 | Weblog
昨日大相撲が九州場所を無事に満員御礼のうちに終わり、今年も一年スポーツを楽しんできたことを思いつつ、様々な考えや思いが頭に浮かんでくる
それはそれぞれのスポーツを通じて世相やそれぞれの選手の思い、その考えが伝わり見るものもその思いを共有することができるからだ。
①大相撲:女性と外人のお客さんが増えて毎場所満員御礼の場所であることは興行としては何よりだと思う。私も個人的にあるお部屋の親方とクリスマスを通じてお知り合いになりそのお部屋のけいこ場にも招かれたことがあり、それからその部屋の力士の応援をしているが歴史と伝統は日本独特のものがある。残念なことは毎場所何人かのケガ人が必ず出ることで同情させられるが、やはり日頃の生活習慣と食事の関係も影響しているのではないかと思わざるを得ない。それは相撲にも影響してもう一つ迫力に欠けるような気がしている。外人力士はハングリーな気持ちもあり怪我恐れないが相撲の技が身についていないことが可哀そうでもある。いずれにしても世相交代が進み平幕優勝が何
人も出たことは特筆されこれからも楽しめそうである。
②プロ野球;今年の春シーズン前にペナント予想をしていた。12球団がそれぞれ5割の勝率で戦えば観客は毎日日替わり首位を楽しむことができて興行的には必ず成功して、盛り上がるだろうと
今年はセントラルリーグで今までにない現象で何か月か4チームがややそれに近い戦いを続け興味を持たせてくれたことは今までにないものだった。どの球団も資金的には嘗ての余裕がなくなり高い資金を使って高額選手を使う余裕がなくなり若手を育成し、又チーム力を高めながら勝ち上がっていくことを目指した結果であり今までにない、傾向がみられたことは望ましい現象だった。選手の活躍もさることながら監督、コーチの能力も問われそれが結果として成績に反映するのも興味深く楽しむことができた。
③ゴルフ:男子と女子とあるが、ここ10年前ごろからこの差が極端になってきたことが大きな特徴だろう。男子は概ね徐々に衰退の傾向にあり何とか対策を検討しているが決定打がない。
嘗ては石川遼。松山選手という花形選手が観客を沸かせていたが今の日本の観客を沸かせることが出来ていないことは残念である。
そこに来ると相対的に女子は年々試合数、観客ともに増加の一途をたどりスケジュール調整に苦労しているようだが。単にそれは女性見たさというだけではないだろう。毎年若い10代の選手が増えて活躍すること。毎試合誰が優勝するか(誰にもチャンスがある)分からないこともあるだろう。
それに加えて外国選手の刺激が日本の選手のモチベーションを高めているようだ。何しろここ数年賞金女王は外国選手だから、当然意欲も増すことだろう。その熱気が観客にも伝わりその可愛さも含めて人気となっているようだ。この世界も世代交代が激しくスポーツ界はオリンピックを前に大きく変わろうとしているようで来年も楽しみである。

「シルバーセンター」

2018-11-19 09:15:10 | Weblog
80歳を過ぎても仕事ができる」この情報を知ったとき、私は大きな驚きを感じた。若いときに兄の指導でかなり肉体的にも精神的にも過酷な環境の中で人生を送り、その後、父のおかげでサラリーマンとして事務所の責任者になり定年を終えた。その時自分の仕事は終わったかに感じたかが、サラリーマン時代の知己の流れで自立して自営業を始めた。しかし事業はそんなに甘いものではなく計画は次第に壊れ、自己破産へと向かった。人生の苦難を初めて知らされた神の示しでもあった。息子とともにその責任を苦難とともに負うことになったが、導きによって新しい道を与えられ歩き始めている。
そんな時、私は自分の道を探し求めていた。「何か出来る」そんな思いがどこかにあり、日々頭のどこかにあったのだ。
そんな時、区役所のHPから「シルバーセンター」を見出した。年齢を問わずできる事を紹介しているとのことで「まさか80を過ぎた高齢者にできる仕事などあるわけもないだろう」と思いつつ、講習を受け、会員登録を済ませた。
会員数1800人程度のうち80歳を過ぎた会員は20数名足らずとのこと、よほどの特殊な技術を持っているか、何かその人でなければできない仕事であろうかと、当てもせず気長に待とうと思っていた。ただ担当の人に挨拶だけしてお願いをしておこうと立ち寄ったところ「今、あなたの区域で新聞のポストインの作業があるのですが出来ますか?」と言われ、即座に「お願いします」と答えたのである。
5月の末ごろの話である。そして7月の暑くなり始めたころから、地域新聞の作業が始まった。そして5か月があったという間に過ぎた。
半年近くなってこの作業が、楽しく待ちかねる気持ちで続いている。作業中には区域で出会う子守中の若いママさんやらお年寄りのご婦人とお話ができるようになり、「声かけ」時にはねぎらいの言葉とともに飲み物(缶コーヒー)までいただくようになった。
いつまで続けられるか、その保証はないが、こんなに楽しくやりがいのある奉仕ができるとは夢にも想像できなかったことを本当にうれしく生きがいを感じている。
人生捨てたものではないものだ。

「訃報の知らせ」

2018-11-12 10:20:42 | Weblog
11月に入り、今年も年賀状の季節が近くなったことを思う頃、毎年訃報のはがきを何枚か受け取ることになる。その知らせを受けると今年もまた年賀状が出せなくなり、亡くなった人のことを思い、寂しくまた懐かしく昔を思い出すことになる。そして年々年賀状の準備が減っていることを確認することになる。最近は訃報も家族でひそやかに行うようになり、(町内でも公示しなくなっている)そのために知らないままで過ぎてしまい、又葬儀の知らせがあっても高齢のため遠隔地ではゆくこともままならないこともあり、公的な著名人でない限り、家族での密葬が多くなっているようである。
嘗ては葬儀は大事な人生の行事であり、その行事に参加することが大事な礼儀として行われていたが、最近では高齢者の立場を慮ってか、「無理をしないように」気遣いのうちに終わることが多くなっている。そしてそのことが世間体も気にしなくてもよい時代になりつつあるようである。
こうして過去を振り返り、思い出すとどんなに親しく、また交わりが深くてもその時間が過ぎると誰にも知らられずに消えてしまうことになる。あれほどの人間関係はどこに消えてしまったのかと思えるほどである。そして築かれてきた交わりの最後も、誰にも知られないままに終わってしまうのだ。
そんなことを考えていると、この世に存在して生きていることの時間は貴重であり、「その瞬間」「その時間」は再び、三度あるものと考えてはいけないような気がしてきた。つまり、人との交わりはその時間、その瞬間が最後だと(つまりこの時間はもう二度とこないと思う。)思いつつ過ごさなければいけないような気がしてきた。つまり軽く「じゃ、またね。」というものではないのだ。もしかしたらこれが最後になるかもしれないと思うほどに大切に過ごしていくことが大事なのではないかと考えるべきではないかと思うのだ。
そう考えると、その人との別れの時に「借りていたものはなかったか。言い残したことはないか。」「お世話になったお礼はしたか:」その都度感謝と
お礼をする気持ちで明るい顔でお別れしよう。「この次で良い」と思わず、気が付いたことはその時しておこうという心がけを持とう。
そんな心がけを大事にしたいと思えるのだ。
今年も年賀状を準備する季節がやってくる。一人一人の顔を思い浮かべ、感謝と今までの交わりの礼儀を込めて準備をしたいものである。


「移民・難民問題を思う」

2018-11-05 10:19:57 | Weblog
アメリカの大統領が中南米からの移民が国内に入ってくるのを阻止するために軍隊を発令したというニュースを読んだ。他にヨーロッパでもシリヤをはじめ苦しんでいる国民が多数難民はとして各国に助けを求めて移動していると聞く。
しかしこれらの問題は今に始まったことではないのだ。聖書にはモーセが70万人の人を連れてエジプトからカナンの地(エルサレム)へと大移動をしたと数千年前の事実を伝えている。このように移民、難民は歴史的にずっと続いているのである。しかし、この問題がこれだけ大きく連日のように取り上げられるようになったことはそこに大きな問題があり、避けて通ることのできない問題があることを示しているのであろう。
日本も又すでにこの問題に大きく関わりつつあり、すでに国内に世界の人々42万人を在住外国人として受け入れているのである。昨今はオリンピックをきっかけに外国人労働者を法的にも優遇して受け入れる検討がなされている。また観光をはじめ短期の人たちの来日者は年々増えてすでに今年も年間2千万人を超えるという。
しかしこれらの人々は国を離れて外国へ行くことに大きな苦難が伴っていることを知らなければならないだろう。当然全財産をなげうち、何の保証もない移動をするのである。そこには大きな危険もあり、困難が待ち受けている。難民の不幸は将来に目標がないことが大きい。
日本の若者はまだ未来、将来に夢が持てることは幸せなことだと思わなければならない。しかし本当の幸せは「受ける(手に入れる)ことではなく、
与える側に立ってこそ、初めて満たされるものであることを知ることなのだが、そんなことを教えられたり、教える場面が今日では少ないことを
嘆かざるを得ない。
集金に立ち寄った人、何かの用事で来てくださった人、ほんの些細なことにでも「お茶」の一杯でも出してねぎらう気持ちを持つことができれば世界の人との心の交わりができる事を学びたいものである。