波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

          オヨナさんと私  第23回    

2009-08-31 09:42:47 | Weblog
しかし、主人のいなくなった残された家族の人達はそのまま犠牲になったままで良いのだろうか。確かに、何らかの理由でその家庭は崩壊しているかもしれない。
そして、そのために離婚の条件として法的には成り立つかもしれない。しかし?
其処まで考えていたオヨナさんは食事が済んでも、そのまま帰ることは出来なかった「先方の男の人は何歳ぐらいなのですか。そして子供さんは」
「45,6と聞いています。子供さんは3人いるそうです。でも離婚については奥さんとは話が付いていて、問題は無いのだと言ってくれています。」
「大事なところですね。確かに離婚と言う手続きは出来るかもしれません。いろいろな条件もあるでしょうけど、それを飲む事が出来れば可能です。大事なことは将来に対する心の準備と覚悟です。このことは今の時点では自分でも分らないし、
その時になって現実の問題として新たに考えることになるのです。」
「どういうことですの」「一つには憲太郎君が成人になって本当のことを説明しなければならなくなったときのことです。先のことですから良く分りませんが、何も起きないかもしれません。しかし、何があっても、どんなことが起きても、どんなことに話が発展しても、それを避けないで立ち向かっていく事が出来るかということです。これはその時にならないと分らないことで難しいことです。
冷静になって、どうすることが子供にとって良いことになるのか、真剣に考えなければなりません。」食事のお礼を言いながら、子供に目をやると、疲れたのか、
おもちゃを持ったまま、眠りこけていた。
オヨナさんは宿へ帰り、スケッチブックを改めて開いた。そして今日出会っ、
二重まぶたのつぶらな瞳の憲太郎君を思い浮かべながら、その似顔絵を描き始めた。あの親子は、この後、どんな人生を送るのだろうか。私はそのことについて
何も出来なかったし、力になることも出来なかった。僅かに話を聞き、感想を述べたに過ぎない。それが何の役にも立たないことを知りながらである。
人生はすべてに都合よく廻っていることは無い。その中に会って、どのように生きるか、それは神から与えられた尊い試練とも言うべきことであろう。しかし、その中にあってどのように生きるか、それは永遠の課題でもある。そしてそれはその人に与えられる恵みかもしれない。
「もっと、やさしい思いやりのある言葉で、励まして上げられらば良かったのだが」それが悔やまれた。

            オヨナさんと私    第22回 

2009-08-28 09:29:43 | Weblog
オヨナさんは持っていたスケッチブックを持って立ち上がった。そして三人は砂に足を取られながら歩き始めた。三人の姿はそのまま仲の良い親子連れになっていた。「私のうちがこの近くなので、ちょっとお寄りください。」オヨナさんはこの子供を見ているうちに、何かすぐには離れがたい思いになっていた。
何故だか分らないが、その淋しそうな目に何かを訴えるものを感じたからかもしれない。見も知らぬ女性の家に如何に子供がいるからとはいえ、立ち寄ることには、少しはばかれたが、言われるままに黙って部屋に上がった。
夕方時とあって、暫くして、冷たいそうめんがお茶と一緒に出てきた。子供と共にそれを食べる。そしておもちゃで遊び始めた。
それを眺めていると、一人でその女性は話し始めた。子供が生まれて間もなく、離婚したこと、暫くは淋しい生活が続いていたが、ある時、一人の男性と交際が始まった。とてもやさしく、淋しかったこともあり親しく話をしている。しかし、その男性には家庭があった。子供もいて、立派な家庭がある。
しかし、何かが欠けていたのか、今の彼女との交際が続いているうちに相手が離婚して一緒になることを話してくれるようになった。
月二回ほどのデイトを重ねるうちに子供もなついて仲良くすることが出来て、このまま続けばよいなあと思えるようになって来た。
そんな時、男性から奥さんがうつ病のようになって、困っていると話があり、話が進まなくなった。私は出来れば、離婚してもらって、結婚したいけど、このままではどうすることも出来ないし、苦しんでいます
オヨナさんは聞いているうちに子供が自分を見て親近感を持ったのはその所為であり、無意識に父親を求める気持ちが分るような気がした。そして、ここにも愛を求めている淋しい家庭のあることを知ったのである。
そしてどうして世の中は願っていても、すぐ幸せになることが出来ないのか。その矛盾を思わざるを得なかった。
この彼女もやさしい男性に会い、お互いに自分のことを語り合い、理解しあったことだろう。そして新しい出発を考えたことは自然であり、何の問題も無いと思うのだが、其処には大きな障害として今の家庭を犠牲にすることであった。
それは簡単には動かせない問題である。

             思いつくまま    

2009-08-26 09:14:00 | Weblog
今年も夏の高校野球が行われ、連日熱戦が繰り広げられ「頑張れ」の声が飛び交い、どよめいていた。又間もなく行われる総選挙でも「頑張れ」「頑張ります」が
連呼され、相互に励ましあっている姿が見られる。そして病人のお見舞いなどでも
帰りがけに「頑張ってくださいね。」との言葉を聞くことが多い。
この様に「頑張る」と言う言葉が様々なところで使われているが、その言葉の持つ意味と意図にどんな思いがあるのだろうか。
辞書によると、「強く自分の意思を押し通す。我を張る。一生懸命努力する。ある場所を占めて動かないこと。」等とある。これらの意味は本来の努力して目的を達成すると言う意図と少し外れていて、其処には知恵とか、富とか、力を誇ろうとするものを感じるのである。
しかし、人にはいくら頑張っても、努力しても知恵も富みも力も得られない人もいるし、それらの人はその結果として劣等感に陥り、自分自身を貶めることさえあるのである。
ある作業現場のオーナーが朝からの勤務者と午後からの勤務者に一日の賃金を平等に支払ったとする。この場合、オーナーはその採用の規則に従って支払いをしたのであるが、朝からの場合と午後からの場合が同じであることに不満を持つものが当然あるだろう。しかし、ここで教えられることは各々が今ある現実を劣等感をもたないで、受け入れる勇気を持つことをこのような形で教えていることを知ることにならないだろうか。
誇るものを間違えないで、生きるものでありたいと思うのである。
外国では一様に人との別れ、出会い、励ましの言葉として「GOD BLESS 
YOU」と言う言葉で表している。
それは、神の平等な祝福のうちにあって,すべての事が行われるようにとの願いが込められている。ともすれば、自分中心になり、自分さえ良ければと言うことが
どうしても表面に出がちな世の中である。
少しでも謙虚に、自分を犠牲にするような言動を身につける事が出来ないかと
考える日々である。 

          オヨナさんと私     第21回      

2009-08-24 06:14:29 | Weblog
「だから味が無いのです。人生にも味が必要なのです。それは簡単には出来ません。自分で少しづつ練り上げていかなければなりません。あなたには幸いインストラクターと言う良いお仕事をお持ちですから、この仕事を通して見つけるのが良いでしょう。必ず何か見つかるはずです。」
まだぴんとこない表情で聞いていたが、オヨナさんはいつの間にか其処からいなくなっていた。
ある晴れた暑い日、オヨナさんは千葉の海岸に来ていた。其処は九十九里の浜辺である。7月までは穏やかな波で海水浴客でにぎわうのだが、8月に入ると急に波が高くなり、海に入る人はいない。殆ど人のいなくなった誰も居ない海を風に吹かれながら歩くのが好きだった。
歩きながら自分を見つめ、自分の置かれている状態を考える。「これでよいのか、」「もっと、しなければいけないことがほかにあるのではないか」そんな考えが頭をよぎって駆け巡る。しかし、何時も堂々巡りの中で終わり、結論は出ない。
砂浜に座り、沈んでいく太陽を見つめていると、そばを男の子が駆け抜けていった。砂に足を取られそうになりながら、それでも一生懸命走っている。そのうち、靴が脱げ、はだしになっていたが、子供は気にしない。
そのうち急に座り込んで、何かを探しているようなしぐさをしていたが、何かを掴んで、オヨナさんのところに近寄り、手を差し出した。その手には美しい一つの貝殻が握られていた。「小父さん、これ上げるよ」見ると可愛いふたへまぶたの男の子だ。「ありがとう。」そっと、貝殻を受け取る。「君の名前はなんていうの。」
「憲太郎だよ」「いくつだい。」「五歳」二人が話しているそばに、日傘を差した母親が立っていた。「どうもすいません。この子、誰にでも平気で話しかけるもので」「いやー構いませんよ。子供は大好きです。」
白いスカーフをかぶり、ブラウスにフレアースカートが揺れて美しく眩しかった。
「さあ、おじゃまだから帰りましょう。」母親が声をかける。
しかし、その子供はオヨナさんの隣に座って、離れようとしなかった。子供心に何か感じるものがあるのだろうか。三人は暫くそのまま海を眺めていた。
傍を犬を散歩させながら歩く人、二人で手つないで笑いながら行く、アベックの姿があった。「サア、帰りましょうね。」母親がもう一度声をかける。
「憲太郎君。一緒に帰ろうか。」オヨナさんは自分でも驚くほどの大きな声を出していた。「うん、」嬉しそうな声で子供は立ち上がった。

オヨナさんと私     第20回

2009-08-21 08:50:24 | Weblog
店長は気を効かしたつもりか「じゃあ、何か美味しいおつまみを用意しましょう」と引っ込みそうになったのでオヨナさんは慌てて「私にはジュースをお願いします。」と声をかけた。「独身ですか。」と突然聞かれびっくりする。
「えー、一人です。」「結婚は?」「してません。」「でも、若いときは女の人が一杯いたんでしょうね。」こちらのことには構わず、立て続けに話しかけてくる。
自分が気になる男性だから、当然同じ思いの女性がいてもおかしくないだろう、それは彼女の自負心が言わせたことだったかもしれない。
「私、あなたのような男性、タイプだわ」ずばり、なんのてらいも無かった。
それは中年のあつかましさなのか、性格なのか、開き直りのような、どう思われても恐くないわと言わんばかりの堂々とした物言いだった。
オヨナさんはなんと言われても、あまり動じることも無く、表情も動かなかった。と言って特別迷惑そうでもなく、又嫌な顔もしないでいる。その表情や目からは
いつものやさしいものが伝わっていた。
「でも、私、何もしても、どうしても満足できないの。結構好きなことも出来るし、何でも欲しいものはあるの。でも納得いかないのね。この間もデパートへ行って衝動買いでいろいろなもの買って帰ったけど、すぐつまらなくなって面白くなくなるの、何でなのかしら。」カンパリをおいしそうに飲みながら一人で考えているかと思うと、「ねえー、私って、少しおかしいのかしら。」とオヨナさんを少し潤んだ目で見つめている。
店長が大皿に新鮮なサラダを自慢げに持ってきた。数種類の野菜が見事に盛られ、
それにアボガドとレモンが添えてある。「これ、私のオリジナルなんですけど、
最近女性に人気になりましてね。食べてみてください。」
「わあ、きれい。おいしそう」彼女は無邪気に喜び、笑いこけていた。
彼女がサラダに夢中になり、食べ始めた頃、オヨナさんはそれを見ながら「どこか水路が詰まっているのか、隘路になっているのかもしれないな。」
全く無関係な話をするようにオヨナさんは呟いた。
「何ですって、それどういうことなの。」彼女はわけが分からないと言った顔で
オヨナさんを見た。
「今のあなたには何の不満も無いのでしょうね。でもそれはあんこの入っていないお饅頭のようなものかもしれません」。それを聞いた彼女は益々怪訝な顔をしている。

思いつくまま

2009-08-19 09:35:41 | Weblog
先日区役所から「特定診断受信書」なるものが送られてきた。良く見ると、75歳以上の高齢者を対象にした健康診断が無料で受けられると言うものである。
私の場合、来年から対象になるので、一年早いのだが、予備対象者ということらしい。しかし、考えてみると日本という国はつくづくあり難い国だと思わざるを得ない。何故ならば、日本以外の国でここまで福祉行政が整っている国は先進国以外ではあまり無いのではないかと思うからである。
何時か、中国で働いている日本人に聞いたことがあるが、中国では病院の前に苦しんでいる人がいても、お金を持たない人は原則診察が受けられない事が多いとのことだった。このことがすべてだとは思わないが、国が国民を守り、救うことが出来るには、よほど国力と人口のバランスが取れていないと成立しないことだと思った。そんなわけで少し早いと思ったが、気がつかないで万が一悪い所がみつかり、早めの手当てが必要であることがわかったらいけないと、生来の「せっかち」もあり、検査を受けたのである。
結果がでるのに約10日ほどを要したが、聞くことが出来た。
子供が学期末の成績を聞くような気持ちで成績の事が気になっていた。
「どこか、悪いところがあって、二次検査を指摘されたら」と一抹の不安がよぎった。担当の医者に呼ばれて診察室に入る。「中性脂肪が少し高いですね。」
と一言。それで終わった。
詳しくは検査表で結果を示されたが、まず適正限界値にあったので、ほっと一安心である。しかし、この数値は、現時点であり、これでずっと安心と言うことにはならない。何時、突然、何かが発生するかその保証はないのである。
従って、今後の生活節制は大切であり、油断は出来ない。
この年齢になると、何より健康が気になるのは当たり前であるが、年々その重要さを現実の問題として考えざるを得ない。
そして健康がどんな贅沢やどんなに良い環境に恵まれることよりも尊いものであるかを思い知らされるのである。
そんな事を噛みしめる一日であった。

         オヨナさんと私    第19回       

2009-08-17 10:10:02 | Weblog
バスタオルをかけられベッドに横になった。そのままいつの間にか少し眠ったらしい。良い気持ちだった。何時しか何もかも忘れて自分がどこにいるのかも忘れ、どこにいるのかも分らなくなっていた。「大丈夫ですか。」と言う声で肩をゆすられた。ぬれたままの身体で何時までもいることが気遣われたのだろう。
「冷たい水と栄養剤です。」差し出されて、それを飲んだ。暫くするうちに意識がしっかりとしてきた。「もう大丈夫です。ありがとうございました。」軽い貧血を起こしていたらしい。オヨナさんは静かにその部屋を出た。
傍で見送っていた彼女は既に着替えを済ませ水着の時に感じていた肉体的なものは無かったが、そのふくよかな体からあふれる女性特有の色気は消えていなかった。
オヨナさんはロッカーで帰り支度をしてジムを出た。
少し時間は早かったが、急に空腹を感じた。そして何時もいく「ラナイ」へ入った。ここの「カツサンド」が美味しいから、一度食べてみて欲しいと店長が言っていたのを思い出したからでもある。何時も和食中心だが、「今日は、疲れたし、たまには美味しいものを食べて元気を出そう」独り言を言うように注文した。
ニコニコしながら注文を聞きに来た店長が「オヨナさん、珍しいですね。」と嬉しそうである。「いやーちょっと」と一言言って、そのまま黙ってしまった。
やがて運ばれてきたドリンクを一口飲んで、不図、店内をガラス越しに(喫煙室)
目をやると、嫣然とタバコの煙を吹かせながらこちらを見て笑いながら手を振っている女性がいた。こんなところに自分を知っている女性がいる筈がないと思いつつ
誰だろうと考えていたら、インストラクターの女性だった。
やがて、タバコを消し、コーヒーカップを持って、オヨナさんのテーブルへ着て座った。「それだけ元気になれば、安心だわ」と少し皮肉っぽく笑った。そして
「私も何か頂こうかしら」と気楽だった。
「私お仕事が終わると、すぐ電車で帰ってしまうので、知らなかったんですけど、
良く来るんですか。初めてだけど、感じの良い店ですね。」
オヨナさんは、今日はいつもと違い、変な日になって、変なめぐり合わせの日になってしまったものだと思い返しながら、この後、どうなるのだろうか、早く帰りたいなあと思い始めていた。「カツサンド」が運ばれてきた。
「カンパリソーダ下さい。」無邪気に注文している。店長がそんな二人を楽しそうに見ていた。

         オヨナさんと私     第18回       

2009-08-14 09:33:28 | Weblog
インストラクターの女性はもう50才を過ぎているだろうか。少し張りのないように見えるが、絞ったスタイルはまだ充分その若さを保っているようだった。
主人とは同じ年で夫婦共稼ぎではあるが、子供は学校を卒業し、立派に独立して親を離れて暮らしている。二人だけの家庭はある意味優雅であり、余裕すら見えるほどである。若い頃からバレーをしたりしてスタイルが気にしていて、水泳を始めたが、次第にのめりこみ、資格を取り、仕事として取り組むようになって早や10年を過ぎていた。しかし、どこか満たされない欲求のようなものが、いつも頭の隅にあり、もやもやと残っていた。
日常の生活にも何の不満も無いのに充実感をもてない。そこでそれを充たそうとして浪費癖のようなものがいつの間にか身についていた。
休みになると、ショッピングに出かけ、洋服や飾るもの、ハンドバッグなど、新しいものが目に付くと殆ど衝動買いのように買ってしまう。しかし、買った満足感でそのときは良いのだが、そのまま使わないままであったり、そのうち、買ったことすら忘れて使わないままになっていることもあるのだ。
そんな毎日の中で主人との関係もだんだん疎遠になり、会話も途絶えがちになり、反応のない話し合いの中に心の触れ合いも薄れ、ここ数年夫婦生活もなくなっていた。そして寝室も別々になっていた。
外部でも自分の生活のリズムに合う友人も少なく、親しく話せる人もいなくなっていった。子供たちは一緒に暮らしていたときからいつの間にか親離れをしていて
接点がなくなり、そのうち家をでてしまっている。
そんな毎日の中でオヨナさんの印象は彼女にとっては、大きな刺激であり、何かが触発された感じでもあったのだ。
週に一、二回の出会いではあったが、そのひときわ目立った泳ぎに関心が向いたのも自然だったかもしれない。多勢の中で一人の人に声をかけることには抵抗もあったが、彼女はあきらめてはいなかった。
その日、水泳の予定の時間が迫り、終わろうとしていた。オヨナさんはそんな時間を忘れているかのように泳いでいた。もうプールには殆どの人がいなかった。
「すいません。もう時間ですので上がってください。」彼女は思わず声をかけた。やっと気がついて、上がってきたが、顔色が悪く、様子がおかしい。
「大丈夫ですか。」声をかけても黙ったままである。
彼女はこのままにしておくわけにはいかないと思い、オヨナさんを医務室へ連れて行った。「ここで少し休んでください。」

             思いつくまま

2009-08-12 09:30:08 | Weblog
今週は旧暦のお盆を迎えている。私もこの時を覚えて、墓参し、亡くなった両親と、義姉、そして妻を思い祈ることにしている。その思いは年々強くなっているようにも思い、何かと思い出すことも多くなった。
今、私の手元に一通の葉書がある。父が亡くなった年に私にくれたもので、今では「形見」のような存在になっている。その葉書には孫の成人式を祝う言葉と聖書の聖句が書かれている。「信仰、希望、愛、その中でもっとも大いなるものは愛である。」そんな父と生前話をすることが話をすることがとても楽しみであった。
岡山と東京という距離でなかなか会って話すことは出来なかったが、時間が取れると話をしたものである。やさしい中にも厳しい目で見ていた父は当時いつも反抗的な私の言葉を聞きながら、淋しい思いをさせていたことを思い出すのである。
今となっては、当時の文通が懐かしい思い出である。
人生には限りがあり、いずれ死ぬことになる。各々が残されている時間をどのように過ごしていくか、それはある意味「告知」を宣言された病人と同じものとして覚悟して考えるべきことだろう。
そんな毎日の中で日々生かされていることを感謝して自分に課せられた務めを出来るだけ果たして生きたいと願っている。
「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなく、我々が与えたものである。」とジェラール.シャンドラーと言う人が言ったとされているが、
この言葉には率直に言って素直に肯定することは出来ないような気がする。
真実はそうかもしれないが、本能的な防衛本能が世の中の様々なことを予感し、
蓄えることを第一とする行動を裏付けている。
(日本のたんす預金が1500兆円とされることが物語っている。)
従って現実的にはこの言葉は理解しにくいが、冷静に考えているうちにこの言葉の真実が見えてくるようになるのかもしれない。
苦難を恐れるのではなく、其処を突き抜けていく時、何かが見えてくるのかもしれない。
この時期は子供たちの夏休みでもある。私も一日孫と共に過ごすことにして、
地元の博物館へ行くことにした。新しいものをすべて吸収しようとするその姿を見て、本当に人間の成長を目の当たりに見る思いをすることが出来たが、
ベンチにべったり座っている自分を見て情けなくもなったことである。

オヨナさんと私    第17回

2009-08-10 11:42:32 | Weblog
体に良いこともしなければとオヨナさんは偶に近くのジムにあるプールで泳ぐことにしている。見た目にはスポーツとまるで無縁なイメージを漂わせているが、水着を着て、帽子をかぶりゴーグルをつけてプールのスタート台に立った姿は長身であることとそのスリムな姿が映えて目立つ存在になる。
泳ぎ始めるとクロール、バック、バタフライ、背泳ぎと立て続けに泳ぐので、その様子は周りの人が見とれてしまうほどの見事さである。
時間帯にもよるが、オヨナさんが泳ぐ時間は女性が圧倒的に多い。世に言う「オバサン」いや「オバアサン」と呼ぶべきと思われる、つまり子育てを終わり、男性にも見切りをつけ(その中には連れ合いと言うべき人も含まれるが)自分の時間をもてあまし、自分のためにだけ楽しもうという年齢の人である。(決して悪いこととは言わない)従って周囲のことは気にならず、すべてがマイペースであり、時に
気に入った友達がいれば所構わず、おしゃべりを続け、動こうとしない人たちでもある。そんな中で一人、中年ではあるが比較的若く(?)見える人がいた。
このクラブのインストラクターのスタッフである。場内を見回り、危険な行動であったり、ルールを守らない人に注意、指導をすることである。地味ではあるが、彼女の存在はスタイルも含めて、ここではやはり注目を集めるものではあった。
そこにはやはり、積み重ねられた実績と訓練がにじみ出ているからかもしれない。
ある日、いつものようにオヨナさんが泳いでいるとそのインストラクターが近寄り、話しかけてきた。「失礼ですけど、お若い時、どこかで競技に出ていらしのですか。」「いいえ、特別なことは何もしていません。好きで我流で泳いでいるだけです。」「でも、かなり泳ぎこんでいるように見えますし、どこかのクラブの選手としてやっていらしたのかと思いました。」
その後も、いつものように平泳ぎの折り返しを何本かつづけて泳いでいた。
そして、疲れるとベンチで休憩を取る。中には泳がないで、ひたすらプールの中を
歩いて往復している人もいれば、ゆったりとのんびり泳いでいる人もいる。
しかし、こうして水泳をつづけている人は、傍で見て楽に見えても、かなりのエネルギーを消耗していて疲れるようである。
ダイエットにはかなりいいように見えるのだが、どうであろうか。
高年齢になっても、出来るので、つづけている人が多いようである。