波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

コンドルは飛んだ 第28回

2012-11-30 11:17:29 | Weblog
ボリビアの生活は日本と違う。日本での四季の変化は世界でも珍しいくらいに特色がありその暑さ寒さと共に様々な花々の美しさと共にその良さを感じて育ってきた。
しかし、ここではそんな天候の変化は見られない。一日のうちに四季があると言っても良いくらいの変化がある。日中は夏の暑さほどの20度以上の温度になるかと思えば、夜になると温度が下がり、夜明け頃になると屋根が「キン、キン」となるほどに下がり、それは零度に近いほどである。こんな毎日の中で辰夫はわずかな同僚と共に仕事に専念した。
そしてその目的がやっと終わる日が近づいてきた。
わずかな時間を割いて自分たちで余暇を楽しむために作ったゴルフコースもあったし、
登山や観光を出来たが、それらも終わろうとしていた。カミラとの生活も区切りをつけなければならない。辰夫は何か御礼をして残したかった。
そんなある日、お茶を楽しみながらカミラと話が出来た。「カミラ、私は日本へ帰ることになる」とそこまで話しただけでカミラは涙ぐんでいた。「でも、君にお世話になったことは一生忘れないよ。これからも今までと同じ気持ちで居るつもりだ。出来ることなら
君を日本へつれて帰りたい。でも君も家族がある。何か自分で出来ることをして帰りたちと思っている。よく考えて私に話してほしい。」覚悟はしているつもりでもカミラには辰夫との別れは考えられなかった。と言って一緒に日本へ行くことも出来ないことも知っていた。カミラには子供も年老いた親も居たからだ。
そしていよいよ帰国の日が決まった。日本から派遣されてきていた同僚は何時になくはしゃぎ喜んでいた。
カミラは言った。「辰夫さん。とても言いにくいけど自分たちの住む家がほしい。いつでもいいから小さい私たちの住む家を持たせてほしい」「分かった。すぐには難しいけど日本へ帰って考える。君もどんなものがほしいか良く探しておいて、連絡してほしい。これからも元気でがんばろうね。僕もまた必ず帰ってくるから」とカミラを抱きしめた。
10年ぶりの帰国は何となく浦島太郎の気分であった。
会社への道東京での生活、全てが変わっている。日本も戦後の復活から急成長しオリンピックを終わってからは、近代化がいっぺんに進んでいた。
元の職場に戻ってからも何となく、違和感を感じていたが、少しづつなじんできていた。
しかし、辰夫に心にはボリビアの空が懐かしくいつも思い出していた。

     思いつくままに

2012-11-27 09:54:36 | Weblog
毎日書いている日記の最後のコーナーに「今日の小さな幸せ」と言う欄をもうけている。
毎日の生活の中で取り立てて目立つような、自分にとって得するような良いことがあるわけではない。だからこそその日の中で「今日は何があったか」と言う反省も込めてトレースするのだ。勿論その中には思い出したくない嫌なことや言わなければよかった言葉も出てきて
様々なことが浮かんでくる。その中で取り分け普段会えない家族との出会いで各々が平安のうちに暮らしていることが確認できた時は心が休まると共に「ほっつ」としてその夜はぐっすりと眠ることが出来る。つまり自分にとって得すること、価値あるものを覚えるのではなくて家族であれ、隣人であれ自分と交わっている人にとって「良かったなあ」と
思えることを知ったときに、自分のことのように喜びを感じることが出来るし、そんな
気持ちになれる事が嬉しいのだ
そして不幸な人、取り分け交わりの中で病いの内にある人のために「祈ること」も大切であろう。その為に何も出来ない自分であるが、せめてこの思いが届いてくれればと願いつつ
祈るのである。そして自分の行動や希望をそこに重ねるのである。
そして最後に自分が健康であることに「感謝すること」である。何を飲んで、何をしているから大丈夫だと言うことでもなく、何かを節制しているからでもない。しかし健康で居られることは最大の感謝のバロメーターのように思っている。
考えてみると「喜ぶこと、」「祈ること」「感謝すること」の三つに絞られている。
この三つの鍵を忘れずに、日々過ごしていくことが出来れば、そこには幸せが備わっているのではないかと思える。嘗てチルチルミチルは幸せを求めて「「青い鳥」を探しに出かけたという。カールブッセはその詩において「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああ我人と尋め行きて涙さしぐみ帰り来ぬ‥」と幸いを求めている。
しかし、身近にこの三つの鍵の中に幸せがあることを、もう一度かみ締めてみたいと思う。

 コンドルは飛んだ  第27回

2012-11-24 10:26:16 | Weblog
ボリビアへ帰任して仕事に戻ったが、あの日息子の言った言葉が頭を離れなかった。幼いまだ何もよく分からないとはいえ、「小父さん」と呼ばれたショックは子供の気持ちを分かる前に大きかった。物心つかないときに日本に居たときにもそばで遊んでやることもままならなかったし、まして海外へ出てからは姿を見ることもない。確かに血はつながっているとはいえ、コミニュケーションは取れなかった。それは誰の責任でもないことだと分かりながら、ただひたすらに悲しかった。
何か良い方法はないかと思いつつも、彼が成長して大人になったときに理解されるのを待つしかないのかと考えざるを得なかった。
ボリビアでの仕事はあまり長引くとは思っていなかったが、辰夫が考えていた以上に時間がかかっていた。時間の過ぎるのは早いものですでに5年以上が経過していた。
日本への帰国は年に一度の頻度で相変わらず、帰国しても家族との接触は深くなることはなかった。辰夫はあまりそのことにこだわらずに過ごした。
ラパスでのカミラとの生活はその後ずっと続いていた。病気以来健康に自信がなくなったことと家庭の団欒をかねた時間は辰夫にストレスを起こさせないで仕事がスムーズに出来ることで安心であった。それは自然であり、全てに平安だったのである。
カミラのことは久子には帰国したとき、包み隠さず話していた。病気のときに看病してもらって助かったこと、暴漢の襲来を避けて危険を免れたことそして仕事の休みのときは
一緒に暮らしていること、不器用な辰夫にはそれを隠したり繕うようなことは出来なかったし、子供のように天真爛漫だった。久子はそれを聞いてもカミラの事に深く触れることはなかった。女としての情感からすれば、嫉妬らしきものが伺えるはずだが辰夫との間でそれを感じさせるものは何もなかった。それはないとも思えなかったが、少なくとも
二人の間では今までどおりの関係であった。
任地への出発が近くなると久子は必ず「カミラさんにもお土産を持って帰って」と女らしいこまごまとしたものを取り寄せて辰夫に託していた。辰夫もまた何の気兼ねもなくそれを持って帰るのである。
事業閉鎖の手続きは次第に進んでいた。それぞれに別の仕事を斡旋し、鉱山の現場の施設は少しづつ終了していた。心配していた暴動も保障の話が出来て収まっていた。
辰夫の説得力のある話が彼らの心を動かしていたことは間違いなかった。

     思いつくままに

2012-11-20 09:57:46 | Weblog
先日ある所で妙齢の女性と話をする機会があった。世間話をしているうちに、ふと何気なく「主人が亡くなってから一日誰とも話すことがなくなり、おしゃべりをしない日が多くなって不安なことがあるんです。このままで大丈夫かしらと思ったりして」と何か聞きたい風情だった。敢えて口を挟むこともないと思いながら、生来のおしゃべりが、つい口にする。「本をお読みになるとき、声を出して誰かに聞かせるように読むようにしたら如何ですか。」と言ってみた。それからどうされているか聞いていないので分からないが、
確かに一人暮らしの生活ではありうることだと思うし、(男性には少ないと思うが)
中には「独り言」をいう癖がついたというご婦人も居る。
そこで私たちが「人と会う時間」というのは、それがどんな人であろうと、名誉な特別な時間だということになると思う。それはだらだらと何もしないで居たり、TVを見ていたり昼寝をしたり新聞や雑誌を何の目的もなく読みふけり惰性で過ごす時間とはまったく違うということを思いたい。
「与えられた時間を活用し、外部の人々に対しては知恵を用いて行動しなさい。
あなた方の語る言葉は常に好意に溢れたものであり、塩味の効いたものでなければいけません。」という言葉が聖書に出ていた。
中々面白い表現であり、私はこの言葉から思わず「塩羊羹」を思い出していた。なぜこの塩羊羹が廃れないで一部の人に好まれているかといえば、甘さの中に隠し味のような塩味があり、甘みと辛味が調和しているからだろう。
会話も常に何か「内容」があるべきで人と会って話すときは相手にとって真に何か役に立つ言葉であることが望ましいと思う。例えば「お宅のお子さんは何でも良くお出来になるけど家のは全然駄目なんですから」「とんでもない。お宅のお子さんは立派ですわ」等という会話ぐらい疲れる会話はないし、聞いていられない気がするがまだ多い。
やはり人と会って、会話をするときは「与えられた尊い時間を活用する」と言う意識の中で効果をはっきり計算に入れることが大切ではないだろうか。
日頃「一日一生」を旨として生活している自分としてはやはり「人との出会い」の時間は
殊更に大切にしたいと思っている。

 コンドルは飛んだ  第26回

2012-11-17 08:55:38 | Weblog
暫くぶりの会社への訪問は何となく外部からの訪問者の感じで、ここが自分の会社だという親近感がすぐには出てこない。受付を通じて役員室へ通される。会長、社長室は特別な個室だが専務以下他の役員は大部屋に会している。
辰夫がそこへ入るなり、一斉に視線が集まったが、そこにはそれほどの感情の変化はなかった。常務に促されて応接室で二人だけになると、常務は辰夫に近づき大きな手でぐっとその手で辰夫の手を力強く握り締め「お疲れ様。大変苦労をかけて申し訳ない」と短いながら暖かい言葉をかけた。その言葉に彼の誠意を知り、辰夫は嬉しかった。
本来「男意気に感じる」という江戸っ子堅気の辰夫にとって、多くのじゃれ言葉よりも
真実の心意気を覚えることが出来れば満足だったし、苦労も報われる思いだったのだ。
それから二人は時間を忘れて話し続けた。特に病気になり、満足な治療も得られない所で
何とか健康を取り戻したこと、暴漢に襲われそうになり親切な女性の計らいで無事に安全に危険を避けることが出来たことなどを聞きながら、常務は「良かった。良かった」と
大きく頷いていた。昼食をはさみ、コーヒーを飲みながら延々と話は続いていた。
秘書の女性が顔をのぞかせ「もう御用はありませんか」と常務に聞いている。「もうそんな時間か」と二人は顔を見合わせた。「君も長旅で疲れているだろう。家族の人も待っていることだし、あわてて仕事に戻ることもないからゆっくり身体を休めて、家族とものんびりして任地へ帰ってくれればいいよ。」とねぎらって貰う。
翌日から辰夫は常務の言葉に甘えて暫く日本に居て家族の団欒と休養にあててのんびりすることにした。性格からすれば飛んで帰るところだが、今回は何となく家が恋しかったのである。初めての家族旅行で温泉へ行ったり、子供たちを遊園地や観光地へ連れて行ったりした。時間が出来ると家の回りの小さな庭を手入れで一日を過ごす。
何しろ土いじりや木々の手入れは得意でもあり、好きだった。一日あちこちと細かく
手入れをしていて飽きることがなかった。
こうして仕事を忘れた楽しい日が過ぎていた。そんなある日の夕食のことだった。
食事が終わってテレビを見ていると、息子が母親に大きな声で「あの小父ちゃん、何時までお家にいるの」言っているのが聞こえた。

     思いつくままに

2012-11-13 10:41:11 | Weblog
老人会の昼食会に出席して聞くとも泣く話を聞いていると、どうやら話題が地元の町内会の話のようである。昔と違ってまとまりが悪くなっているようで「昔はいろいろな行事を全員の協力で楽しかった」という回顧録なのだが、今では人間関係もギクシャクして隣り同士で顔をあわせても挨拶も交わさない現象が起きているとのことで、上のまとめる人が良くないからではないかと盛んに昔を懐かしがっている。
話を聞きながら一体「人が人を許す」(それがどんな人であろうとも)にはどうすればよいのか。何とかならないものか、と考えてみた。
スコットランドの新約学者で牧師でもあったW.バークレーという人がこんなことを書いている。それによると「人を許す」には概ね三つの条件が必要である。
第一には「理解すること」つまり人の行動には理由があって粗野な人、失礼な人、気難しい人には心配事があるか、何か苦痛を持っているのかもしれない。また、人を疑ったり
嫌ったりする人には相手の言動を曲解していることがあるかもしれない。または人によっては環境や遺伝の所為でどうすることも出来ない人も居るだろう。人間関係がうまくいかない人を非難する前に、まずその人を理解しようと務めれば許す気持ちに近づくことが出来るというのだ。第二は「忘れること」で第三は「愛すること」と言っている。
確かに何時までもいやな過去を引きづらないで適当に忘れることが出来る人(出来ない人も居るが)良い意味で「ずぼら」が決められる人はそうかもしれないなあと思える。
しかし「愛する」ということになるとこれは難しいし、誰でもはできない条件かもしれない。この愛するは、いわゆるエロースではなく、アガーペの愛だからだ。
人のために自分の命をささげることが出来るという犠牲的な愛ということになれば、これは誰でも簡単に持つことは出来ないことだろう。
常人には達し得ないかもしれないが、この三つのことを頭に浮かべて考えられるだけでも
人に対する思いが変わってくるのではないだろうか。
そして人間関係も本当の意味で正しい姿にすることが出来るのではないかと思う。
年齢を重ねるということは言い換えればこのことを目標にして、そう願いながら努力
することでもあろうかと思う。愚痴を愚痴のまま終わらせないで浄化することを願いながら昼食会を終わった。

 コンドルは飛んだ  第25回

2012-11-09 10:58:12 | Weblog
ラパスからマイアミへそして羽田へと乗り継ぎながら23時間あまりの機中の旅が終わろうとしていた。数年ぶりに見る日本の国を空から眺め忘れかけていた記憶を蘇らせていた。緑美しい木々の山並みそして川、そこに点在して見える家並みを空中から見下ろしながら辰夫は何時しか涙があふれてくるのを止められなかった。
みやげ物の詰まったカバンを引きずりながら我が家へ急ぐ。出迎えたのは久子と成長して見違えるようになった子供たちだった。玄関で出迎えた家族との再会のシーンはテレビや映画のような抱き合って喜ぶようなものではなく、「お帰んなさい」「ただ今」という
ごく静かなものだった。部屋へ入っても最初は何となくよそよそしい空気が漂っていた。
懐かしい我が家の木の香りのする風呂に入り、夕餉の食卓につく。久子は辰夫の好物の
「うな重」を用意してあった。辰夫は晩酌もなくお吸い物を口にするとすぐうなぎを口にした。口いっぱいに広がるうなぎのほうこうな香りと脂身、そしてたれの味に圧倒されるとそれをかみ締めながら言葉にならない感動を覚えていた。そして日本へ帰ってきたことを噛みしめていた。
畳の部屋、暖かい布団、さっぱりとした寝巻きの感触、その一つ一つが新鮮で夢のようである。子供たちは外国の珍しい動物の置物やぬいぐるみをうれしそうに抱きながらそれぞれ部屋へ戻っていった。居間の片づけをしていた久子が風呂上りのさっぱりとした寝化粧をして二人の部屋へ入ってくる。「お疲れ様、長い間大変だったわね」と言うと静かに横になる。辰夫はその肩を静かに引き寄せて抱き、しばらく黙って長い口づけをした。
何時に間にか辰夫はぐっすりと熟睡をして眠ってしまったらしい。何の物音も聞こえず
静寂のうちであった。「あなた、そろそろ起きなくちゃあ時間ですよ」とどこからか聞こえてくる声で辰夫は目が覚めた。心地よい目覚めである。
すっかりいつもの支度をした久子がきりりとした立ち居振る舞いの中で立っている。
「そうだ。今日は会社へ行って、大事な報告がある」現実に戻った辰夫は、ぼそぼそと口に中で何かをつぶやきながら立ち上がった。

     思いつくままに

2012-11-06 10:00:52 | Weblog
最近は若い人の間でも結婚願望が減る傾向にあるといわれている。私の身の回りにも40歳以上50歳になるひとが独身のまま母親と二人暮しをしている家庭を見るようになり、自分が若いころには想像できなかったことだと思いつつ(適齢期が近くなると、親もうるさかったし自分も一人前の男として結婚して家庭を持つものとして自覚のようなものがあった)感慨もひとしおである。
何時頃からこんな現象が増え始めのだろうか。最もこれらの現象の背景には日本の社会
状況の変化が基盤となって影響をもたらしたことは間違いないし、生活力が男女ともに
豊かになり相互に独立した力を持つことが出来るようになっている事があることも事実だ。それと同時に少子化が進み、家庭も過保護教育となり、家族主義も昔とまったく形態が変わり核家族となり、自己主義がまかり通る社会になった。
結婚に対する考えも、子孫継承、子孫繁栄を目的とすることなく単に自己中心的な自己欲望を満たすことが主となり(もちろん全てとは言わない)その条件に合わなければ、自らを顧みることなく独身を貫くというわけである。(従ってそこには自己犠牲的な配慮はない)敢えて言えば自己保身が強く自己欲の結果とも言えるのだろうか。
昔は三人姉妹がいるとその母親が早世すると長女が結婚を諦めて、残された父親の面倒をずっと見て一生を過ごした人を知っているが、もはやこのようなケースは今の時代には
皆無といえるのだろうか。
そんな時代なのかもしれないが、だからこそ敢えて本来の人間らしい「あり姿」を
望みたいのだが、それは時代遅れの考えなのだろうか。
人間は所詮一人では生きて、終わるわけには行かない。何時か、いずれ誰かの世話になることになる。とすれば、家庭を中心によき隣人とともに助け合い、愛し合うことを心がけ
その中にあって、ともに犠牲を払い忍耐しあうことを思う。
勿論意見の食い違い、けんか、憎しみ合うこともあるだろう。しかしその根底にともに
慰めあい、ともに守り合う存在があることがどれほど力になり、励みになるかを知るときがあることを覚えておきたいと思う。そんな事をこれからの若い世代の人たちが
出来るだけ早い時期に気づいてくれればと思うこの頃である。

コンドルは飛んだ  第24回

2012-11-02 14:58:51 | Weblog
現場の人たちに事業所閉鎖を告げたときから雰囲気が変わってきたことを、このアパートへも連絡を受けていたが、自分がそこで陣頭で指揮を取れないことをもどかしく、悔しく思っていた。しかし体調の回復が大事だと我慢して休んでいたのだがカミラの情報で状況は一変した。責任者である自分を襲うことで言い分を通すという強硬手段に変わったのだ。この場所もすでに分かっているらしい。カミラは冷静に「今晩、ここから逃げましょう。私の両親の田舎があります。少し遠く辺鄙なところですが安全です」という。
日本へ逃げることの出来ない辰夫には今はどうすることも出来なかった。とにかくカミラ
の言うことを聞いて荷物をまとめると車でラパスの市内から脱出した。
それから数日は周囲で何が起こり何がおきているのか、まったく分からず、小さな部屋で一人過ごしていた。一週間が過ぎた頃、ラパスの町へ出かけたカミラが帰り知らせた。
それによると会社の日本人は大使館の保護の下に安全な場所へ移動することが出来たこと狙いは責任者である辰夫一人が目的で襲ったが、そこに居なかったことで諦めて、少しづつ落ち着いてきたとのことであった。
地元のボスの仲介もあって話し合いも進み条件も解決への道筋が見えてきた。
健康をとり戻し、辰夫も最終の決断をする時が迫った。そしていったん帰国して本社の方針の確認と現地の詳細な報告そして今後の事後処理について相談することである。
いつの間にか着任してから二年が過ぎていた。本当にあっという間の思いもある。
帰国への準備を始め、忘れていた家族や日本への思いが一度によみがえり気分が高揚するのを禁じえなかった。仕事をしているときは夢中で忘れていたが一旦帰るということが決まると新たな不安や心配が沸いてくる。
帰りの機中でカンパリを飲みながら少し落ち着いてくるとあれこれと頭に問題が浮かんできた。その中でこの仕事が終わった後のことがあった。
事後処理が終われば撤退ということになる。自分は帰国しまた新たな仕事が待っているのだろう。だけどこのボリビアで過ごした間にいろいろな人と交わり、知り合った人も大勢居る。その中でも忘れられないのは「カミラ」だ。一人の女性というだけではなく、病気がきっかけで、心身ともに世話になり、まして暴動の時には命を助けてもらうことにもなった。これは単に知り合った一人の女性として終わらせるわけにはいかない。