波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

白百合を愛した男     第38回

2010-10-29 09:23:06 | Weblog
戦災で家を焼かれ、岡山へ帰ってきて既に20年が過ぎていた。言われるままに社宅の
小さいところに住い不自由な生活をしていた。子供たちも成長し、それぞれいなくなってしまったが、会社と隣接した場所ではゆっくり気の休まる事はなかった。妻は女として
尚更であったろう。美継は会社ということと、仕事という事を生活の場の中心としていたので、寝るだけのことと言う思いがあったが、それではすまないことを感じていた。
そして自分たちの「終の棲家」を願って祈っていたのである。願いはある知らせから始まった。川向こうのの一軒家が売りに出ているという。希望者が何人かいて、入札によって、決まると言う方法と聞いた。美継は早速応札した。後は結果を聞くだけであったが、その時間は長かった。そして幸いにもその家は美継に決まったのである。
武家屋敷跡とされるその家は見るからに重厚な門構え、そして庭、畑、母屋、離れとつながっている。新しくは無いが、どっしりとしたその造りはまだまだしっかりしたものであった。引越しを済ませてその家に落ち着き、美継と妻は神に感謝の祈りを捧げるのであった。妻は殊のほか嬉しかったらしく、顔色も良くなり、明るくなった。
少しづつ野菜物も作ることが出来るし、庭の木々からも成り物を取ることが出来た。
生活が落ち着いてくると、美継は又新たに会社の将来が気になり始めていた。
新しい仕事が立ち上がり、東京に営業所も出来た。しかし、これだけでは安心できない。
まだまだやることがある。日々の業務をしながらそのことを真剣に考えていた。
誰に相談するのでもなく彼の頭にだけあることであった。岡山の田舎の片隅でいると、
情報は限られたものでしかなく、まして新しい事柄を吸収することは至難であった。
これでは世の中の流れに遅れてしまう。企業として仕事をしている以上、同じことを同じようにしているだけでは何時か置いていかれるのではないか。そんな不安が何時も頭の片隅にあった。
D社は環境問題が発生したときに協力してもらい、助けてもらったことがきっかけで、その後もお付き合いが続いていた。もちろん取引もあった。何しろ上場会社とあって、地方の一企業と違って大きな組織であり、人材も豊富である。この会社の応援を何らかの形で取り付けたい。そんな思いがあった。どんな形が良いだろうか。慎重で冷静な検討が必要とされた。

      思いつくままに     

2010-10-27 09:33:37 | Weblog
「あなたは健やかな時も病めるときも、いつも○○を愛しますか」「愛します。」
結婚式には、誓いの言葉としてこの言葉が使われ、どんな夫婦も真剣に愛を誓うのである。愛と言う言葉が正式な意味で使われ、意識するのはこの時かもしれない。(好きだよ。愛しているよという言葉も男女交際が始まると使い始めるが、それは口先での表現の一つで意識よりも感情が先であろうか。)そして始まった二人の関係がその誓いの通りの愛情で結ばれているのは、どれくらいの時間であろうか。様々であろうが、そんなに長くは続いていないのだろうか。又その「愛情」なるものも、何時の間にか形を変え、その
存在もお互いの自己都合に左右されるところとなっている。
「愛」と言う言葉にはどんな意味があるのだろうか。ギリシャ語では大きく分けて二つあるといわれている。一つは「エロース」であり、もう一つは「アガーぺ」でその違いは
百科事典によるとエロースは「性愛」であり、熱烈だが永続きしない。アガーぺは
くじくことのできない慈悲、打ち破ることの出来ない善意とある。こうしてみると、二つの愛は同じ愛でもその本質は全然違うことが分る。しかし私たちはエロースの愛を愛として追っかけ、アガーぺの愛のことを知らないでいるような気がする。
そこでこのアガーぺの愛を調べてみるとこの愛こそが純粋で最も献身的なもので、報われることのない愛でもあるとされている。相手がどのような態度で出ても怒らない。
相手が忘恩的であったり、ある時は悪意に満ち裏切りをもって報うことがあってもくじけない。人間は成長と共にこの愛についてもエロースからアガーぺへの成長が無ければ、その人間関係も崩れることになっていくような気がする。
ギリシャ語の愛にはこのほかに「ストルゲー」親子愛、「フイリア」師弟愛というのもあるそうだが、これらも含めてアガーペ以外は自然になるものであり、アガーぺは人間だけが持つことの可能な意思の愛であることが分る。生まれたままの状態からそれを超えて
いこうとする時に人間らしくなるような気がするのだが、本当の愛を身につけたいと思うこの頃である。
さて、先日「秋バラ」を鑑賞するために近くの公園へ出かけた。まだ少し早かったが、
その甘い香りに魅了されるところとなり、満足することが出来た。
かえでの葉が真っ赤に染まり、落ち葉となっている。日本の四季のありがたさも充分に味わうことが出来た。

      白百合を愛した男    第37回       

2010-10-25 08:50:40 | Weblog
営業は何といっても会社のエンジン部門であること、そのエンジンが充分力を発揮する形にならなければ、これからはやっていけない。自分が東京の市場を開拓し、拡販してきた経験からもそれは実感として分っていた。その頃、美継は福島の事業を息子達に一任していたが、その事業が順調に成長し、福島から東京へ進出し兄弟で力を合わせていた。
東京営業所設立には岡山の本社からの派遣で進め様と考えていたが、山内氏と白根氏は
美継に是非協力して欲しいと依頼された。美継は心ならずもこの依頼を受けざるを得なくなり、息子にその仕事を託すことになった。これで足元の基盤を固めることが出来た。
しかし、これだけでは実戦としては不足である。美継は本社の業務を新社長に託し、自ら営業の一線に立つことにした。やはりその熱意と努力がものを言うのである。
A社を訪ねた。「何か岡山の地区で出来る仕事がありませんか。」当時公害問題が全国的に広がり、その規制も厳しくなっていることがあったので、A社の都会工場での仕事に影響の出ることを感じていた美継は積極的に突っ込んでいった。
すると、ある時、「こんな仕事が出来るかね。」と相談をかけられたのだ。それは
「酸化セリュウム」という化学物質の加工の仕事であった。その加工工程では、取り扱いによっては、多少の危険を伴うこともあることが分った。「一度検討させてください。」美継は早速岡山へ帰り、技術者を集め、相談をかけた。工場長は自らそのものに手をつけて身体への影響度を試してみた。手は炎症を起こしただれたが、取り扱いによっては大丈夫であることが確認できた。「やりましょう。この程度なら何とか注意しながらやれば仕事は出来ます。是非この仕事を取ってきてください。」美継は早速A社へ回答し、この仕事を契約することが出来た。従来の会社と並行して、姉妹会社を設立して、別工場を建てスタートすることが出来た。このことは今まで以上の成績を上げることと、A社の特別工場の補償があり、安心でもあった。
これで何とか、当面の心配は無くなった。後は今までの顧客を大事にしながら仕事を続ければよい。
休みの日になると、近くの川を眺めに行く。それはもう一度自分を冷静に見つめることと、もうひとつは妻の愚痴から逃げることでもあった。「自分の家を持ちたい」という
妻の希望を叶えてやりたい。何とか、会社のそばから離れて静かに暮らしたい。そのためにどうすればよいか。悩みは尽きなかった。

       白百合を愛した男    第36回

2010-10-22 09:41:34 | Weblog
話を聞いているうちに美継は世界の技術の目覚しいものを感じて、会社の不安や先のことの心配などすっかり忘れて感動していた。その開発はイギリスから導入されたものであった。当時イギリスのガラスメーカー(ピルキントン社)は何とか最終仕上げ工程の表面研磨をしないで、仕上げることを考えていた。その結果生まれたのがガラスの両面に錫箔を当てて表面を仕上げると研磨が不要でできるという技術であった。
この結果、研磨剤は不用になり、水洗処理その他の工程も省かれ、コスト的にも長期的には下がることになる。(初期投資は必要)A社はこの技術を購入し、その設備の準備をしていたことになる。現在の設備も新しくまだ数年の使用であったが、それを廃止してまでも採用すると言うのだ。
話を聞き終わり、呆然としていると、「まだ、暫くは弁柄も使いますが、何れそう遠くないうちになくなることだけは承知して置いてください。」と言われた。
「私どもとしては、最優先で御社に供給してきましたので、これがなくなってしまうと、会社としても大きな影響が出てくるので、今後のことについて相談に乗ってもらわなければ」と交渉に入る。「そうですね。わが社としても全く責任がないわけでもありませんので考えておきましょう。」その報告はすぐさま本社へ連絡された。
本社での受け止め方は聞いた人よりも大きな衝撃だと見えて、「これからどうするんだ」
と怒鳴るように言うだけであった。
美継は冷静であった。このことは仕方の無いことであり、どうすることもできないことでもある。又誰の責任でもない。ただ、時代と共に新しい技術の発展とその技術に伴う生産のあり方、またそんな時代についていかなければならない自分たちのおかれた立場を噛みしめるのみであった。
しかし、あきらめてしまうわけにはいかない。この売り上げの穴を埋めるだけの、これからの会社の進むべき道を探さなければならない。その道は必ず見つかるはずだ。
まず、現在このままでは今までの売り上げの50%ダウンになる。これでは完全に赤字である。まして環境設備の投資をしたばかりで、その償却もある。これから営業の拡販をするにしても、従来の市場を二倍にするわけにはいかない。さりとて、このまま何もしないわけにはいかない。
美継はまず営業強化をすることを実行することにした。それは東京を中心に関東地区を
代理店に任せていたが、本社直結の営業所を設置することであった。

思いつくままに

2010-10-20 10:06:07 | Weblog
この世の人生を生きていて思うことは、「自分の人生は安楽で平和だと言えるのだろうか」と言うことである。新聞やTVで伝えられるニュースを聞いている限り、日本だけでなく、世界中で様々な問題が起きており、その内容は決して明るいものばかりではない。
むしろ暗いものが多い。とすればこの現世は安楽と言えるのだろうか。私はそういう場合もあるだろうし、そうでない場合もあると思う。
例えば私も自分があの人と同じだったらと思うことなどが何度もある。しかしその人の生活をよく見ているうちにたじろいでしまうことが多い。それは私がその人の立場になったとしても必ずしもその生活が良いとは限らないと考えるようになるからである。だとすれば同じ苦労をするなら、自分の置かれた立場で苦労をする方が楽だと思うからだ。
今、日本では年間三万人以上の人が自殺をしていると言う統計が出ている。この数字を単に異常だと解釈して済ませることも出来るが、誰でもそれでは死にたいすることを考えないかと言うとそんなことは無いはずである。ある老人会での話題が必ず、近所の人たちの病人のことであったり、死亡通知のことであったりするのも、まもなく覚悟をしなければいけない死に対する問題であることを知っているからだ。
ある人がこんなことを言っています。「地上の人生、それは試練にほかならないのでしょうか。誰が苦痛や困難を欲するものがありましょう。あなたは耐えよと命ぜられますが、それを愛せよとはお命じにはならない。耐えることを愛する人はあっても耐えるべきものを愛する人は居ません。自分が耐えている事に喜びを感じても、できればしかし耐えるべきものなどないようにと願うのです。私は逆境にあっても順境を熱望し、順境にあっても逆境を恐れます。この二つの境遇の間に人生は試練ではないといったような、中間の場所はありません。」人生が試練であるとするならば、その試練を如何に乗り越えて生きるかを考えなければならない。それは自分自身であり、人に頼ったり、羨むことではないはずである。
ようやく秋も本格的なって来た。我が家の庭にも球根が植えられ、ホトトギスの花が咲いて秋の訪れを知らせてくれます。今週は秋の桜と言われるコスモスを鑑賞に訪れたいと計画しています。それぞれに秋を満喫して欲しいと願わずにはいられません。

      白百合を愛した男     第35回    

2010-10-18 10:09:09 | Weblog
「何とか工夫すれば、使えるかもしれない」操業を続けること、対策費を最小限に止めることが最大の目的だった。会社へ帰り技術者を含め検討を始めた。難色を示していたものもいないわけではなかったが美継は全員が力を合わせてこの問題に当ることが大事だと
根気よく説得した。少しづつその具体案が見えてきた。希望と元気が出てきた。水の方は出来るだけ廃水を減らすと同時に、中和剤を使用しその色を変えるようにした。
元来鉄剤が主であり無毒であることは証明されていたので、水については大きな障害は無く、許可は取れそうであった。夜も眠れない日もあったが、美継は朝礼の時のみんなの顔を見ると慰められ元気が出た。こうして大問題も解決に向かい、ホッとしていたところ東京の代理店から電話がかかってきた。「至急上京してもらえませんか。大手のお客さんのA社から呼び出しなんですよ。うちだけでは心配なので本社からも是非お願いします。」A社は美継が東京時代に開拓した大手のガラスメーカーである。この会社の取引を始めるには長い時間がかかった。当時ガラスの表面研磨にはこの弁柄が最適とされ大量に使われていた。戦争中もガラスが飛行機に使用されるとあって、軍需品とされ、弁柄の供給も特別扱いであり、そのための物資は豊富だった。最初は門前払いの毎日であったが。根気よく営業訪問を続けていた。当時先方の担当者は美継の姿が見えると、こそこそと身を隠し、居ながらにして不在を示し、商談をしてもらえないことが何日も続いたこともあった。しかし、その熱心さと誠実さが認められ、ベンダーとして承認され、納入できるようになっていたのだが、そのA社に異変が起きたのだろうか。美継は何となく不安を覚えながら、急遽上京することにした。
「何時も大変お世話になっています。何か私どもの方に不手際でもありましたでしょうか。」「いやー。何もございません。お陰さまで助かっています。弁柄は何も問題は無いですよ。ただ、来年から弁柄を使わくなることになって、いらなくなるんですよ。」
A社の売り上げは全体の50㌫を越えていた。そのA社の売り上げがゼロになる。
全く予想の出来ない、青天の霹靂であった。頭をがーんとたたかれたような思いで、言葉も無くいたところ、担当者は静かに話し始めた。「実はですね。お話していなかったのですが、社内で長い間検討していた開発問題があったんですよ。」

     白百合を愛した男     第34回      

2010-10-15 08:53:02 | Weblog
当時、日本は東京オリンピックを期に経済復興が目覚しく、新生日本としての歩みを始めていた。今まで放置されていた道路の整備を中心に各産業の環境整備が見直されるようになって来た。垂れ流しであったり、従来のままの企業中心の工場のあり方が見直されて、働く者の立場を考えた環境作りを法整備の基に始まったのだ。美継の工場は元来、そのことは想定されていた。赤い水が出ることと、原料を焼く時に煙が出ることは創業立地のときにその村との約束があった。人家から離れていること、作物への影響が無いこと、この二つの条件を備えている場所として、許可されていた。従って工場付近の山に生えている木々は成長が止まり、中には枯れた物もあった。条例が発行された時、この場所は除外されるかという思惑もあったが、例外は許されることは無かった。
煤焼によるガスの発生中止、水洗による汚染水の排出中止、これを違反する場合多額の違反金を徴収する。この規制は会社の操業を左右することになりかねない大きな試練となった。今までの作業の方法では到底この規則を守ることは出来ないことは分っていた。
と言って簡単にそのための対策法があるわけでもなかった。美継は早速専門の先生を訪ね相談をした。公害対策としてどのような設備を持てばよいのか、そしてその費用はどのくらいかかるのか、その数字は想像をはるかに超える膨大なものであった。「数億ですか。」「2億から、3億かかる」この数字を聞いた時、美継は自分たちの力でこの資金を準備することの不可能なこと、あきらめざるを得ないことを知った。同業者の中では、この規正法のために操業を中止して転業したところもあった。
「何とか続けていきたい」その思いは山内氏をはじめ、全社員の願いでもあった。就任浅い新社長も心配するばかりで具体的な考えが浮かぶわけも無い。所詮美継が一人で悩むことになった。何か方法があるはずだ。このまま止めるわけにはいかない。試行錯誤の日々が続いた。規制執行の期限にはまだ充分時間はあったが、方策が浮かばなければ無いのも同然であった。美継は何の方策も無く、ある日取引先の地元の会社D社を訪ねた。事情を話して相談するとも泣く話を進めていると、「それじゃあ、うちの山から出ている原料を使ってみませんか」と勧められた。それは今まで放置されていたが、何とか工夫すれば
代替品として使えないことも無いかもしれないと言うヒントであった。

思いつくままに

2010-10-13 09:21:48 | Weblog
「あなたは自分で行動するときに何を考えますか。」そんな事を聞かれたことがある。
「特別何も考えないで動く時もあるし、場合によっては少し考えてすることもあるけど」と言うと、「人は90パーセント脳に占められている利害得出の影響を受けて行動することになっている。」とある数学者が言っているということを聞いた。つまり人は無意識のうちにその事が自分にとって「損か」「得か」を判断して動くものだと言うわけである。
「そうかなあ」と改めて思うところもあるが、概ねそんなところかもしれない。
この話には、その後がある。「9割がメリット、デメリットで判断されるとして、後の1割の内容で人間としてのスケールが決まる」のだと言うのである。
つまり僅かな1割に過ぎない脳の働きで人間の大きさや、差が現われ、違いが出てくるというのである。その違いとはその人が持っている情緒でなくてはならない。この情緒の感応は人によって様々であるが、他人の痛みや自分の痛みとして感じる心であったり、美的感覚であったり、ものの哀れ、また懐かしさを思うことであったりする。そんな心を大事にしたいと思う。
最近、新聞を読んでいて思うことにまだ70歳代でなくなる方が多いことである。人は何れ一人で死んでいくのだが、誰かと一緒に死ぬことが出来ればと思うこともあるらしい。(特に女性の場合)その良い例が相思相愛の夫婦の場合などに良く見られる。
ある本に「今からは妻のあるものはないもののように、泣く者は泣かない者のように、
喜ぶものは喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様はすぎさるからである。」とあった。人は様々だが、小心な人間はあらゆるものを得た瞬間から(夫婦、親子、ペットほか)失うときの用意をしておいた方がいいのか。
それらは一時的に私たちに貸し出されたものなのだろうと考えるべきだ。私は弱い自分を救うために、そう思うことにしているのだが。
10月に入って、少しは涼しい秋らしさを味わえるかと思っていたが、蒸し暑さのある日が続いている。どうやら今年の気候は今までと異なる新しいスタイルのようである。
そのことが、どのように影響してくるのか分らないが、後から気付く前に健康には一層注意しながら過ごしたいと思う。

白百合を愛した男    第33回

2010-10-11 09:11:08 | Weblog
どんな会社でも三代続かずという事が昔から言われているが、子供の出来ない山内氏の会社も三代目(美継が名目上2代目となる)となると、養子と言うこともあり、なかなか、
簡単には落ち着かなかった。会社という組織は郵便局と比べ一事が万事、仕事の内容が
違い、戸惑いがある。美継はその一つ、一つを丁寧に説明を加えながら、伝えていった。社内のことだけではなく、対外的な町内の公的な人間関係から、銀行を中心にした範囲までその範囲を広げていったのである。「私は人付き合いが嫌いで、得意ではないからよろしくお願いします。」と自分でも言うように、内向的なその性格はそのまま行動に出ていた。山内氏と同じように子供がいなくて、養女を迎えていたがすべてにおとなしめであった。実務は財務を中心にすることになり、美継はその分、外交面(主に営業面)へと
その時間が向けられたが、元来東京で営業を中心に仕事をしていたので、違和感は無かった。大阪の営業所には若い者が派遣されてユーザー管理をしながら市場の拡販に勤めていたが、東京は戦災で美継が引き上げた後、取引先の商社に看板を預けて代理店としていた。月に一回平均の東京、大阪の出張をかねて営業強化に務めながら、社長を補佐して社内の管理をすることは、決して楽ではなかったが、信条としての真面目さがその負担を消していた。与えられた務めをベストをつくして果たす、それは誰に言われたことでもなく、利害得出に影響されるものではなかった。
月日が過ぎていく中で、会社も落ち着きを取りもつつあるように見えていた。その頃、
日本は戦災の痛手からようやく立ち直り、経済復興と環境を整備しながら、新しい日本作りが始まっていた。その一つに今まですべての廃棄物が垂れ流し状態であったものの見直しがあった。その指摘は当然先進国からのものもあっただろうが、国民の目で、要望として湧き上がってきたものでもある。その一つが美継の会社で排出されていた、煙と川への水洗汚染の問題であった。元来原料の加工過程で最初に培焼がある。石炭を燃料に大きな窯で焼くときに強烈な亜硫酸ガスが発生していた。長い歴史の流れでそれは当たり前であり、自然であった。しかし、それは厳密には鼻とのどに強い刺激を与え、健康上決して
良い影響は無かった。(しかし有毒性のものではなかった。)従業員の中には咳き込みながら作業をしていたものもいたが、それが問題になることはなかったのである。

白百合を愛した男     第32回

2010-10-08 08:54:18 | Weblog
東京から岡山へ都会から田舎への生活への変化はいろいろな面で大きな影響があった。特に戦後の食糧難、物不足は今までの何不自由なく暮らしていた生活からは大きな変化であり、不自由さがあった。その中で美継の生活は変化があるよう様には見えなかった。
休みの日でもどこかへ出かけるわけでもなく、好きなことをするというものも見えなかった。時間が出来ると聖書を静かに読み、祈りを捧げ、書に親しむ姿が見えた。小さい時に寺の住職に手ほどきを受けたことがあり、そのとき以来時間があれば筆を持つことが多かった。会社は平穏に過ぎているように見えていたが、少しづつ周りの環境が変化していた。社長不在であることも大きな問題であった。財務関係をかねた公的な仕事は美継が
責任者として処理していたが、このままでよいということにはならなかった。創立者であり、会長職で引退した形になっていた山内氏も何とかせねばと悩んでいた。
いつものように朝礼が終わり、工場視察をして事務所に下りた美継は「ちょっと」と奥座敷に呼ばれた。そこは会長夫妻の居間であり、庭に面した静かな部屋になっていた。
「何でしょうか。」とふすまを閉めながら聞く。「いやー。他でもないのだが、前の人間が帰ってくる様子も無いので、そろそろ後を考えなければと思っているんだが、あなたにはご苦労かけているが、何時までもかのままというわけにもいかず、この前から悩んでいたんだが」其処で提案されたのは養子、養女で生まれた子供がまだ小さく、大人に成長するまで、何とか経営に携わる人間として養女の兄に当る人を迎えたいということであった。その人は田舎の郵便局長をしていたのだが、親戚筋にもなるので、この人を頼みたいと言うことであった。美継に異論は無かった。何時までも自分が責任者として(当時支配人)いることは考えていなかったし、社長になってと言うような野心も無かった。
美継の頭には最初の山内氏の信頼に応えて、その勤めを果たすことだけであったが、いつのまにか、社長代理のような責任を負わされていただけであった。
「ついては済まないが、其処まで行って話をしてきてくれないか。」
自分にとって何のプラスにもならないことではあったが、嫌な顔もせず「分りました。
会社のこともよく説明して、お出でいただくように話してまいりましょう。」
そんなやり取りの後、三代目後継者として、養女の兄に当る白根氏が着任したのである。