波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡   「シャローム」

2017-02-27 10:16:31 | Weblog
私たちにはなじみのない言葉に「ヘブライ語」と言うのがある。現在世界中で用いられている
キリスト教における聖書はこのヘブライ語で書かれていたとされている。つまりキリストが生まれたユダヤ人の言葉でもあり、現在のパレスチナ地方の言葉でもある。
意味は「平和」「平安」と言われ、普段使われる場合は「こんにちわ」と言うほどの挨拶でもある。しかしこの言葉は考えようでは大きな意味があるような気がしている。
何故なら毎日が「平安」であり、平和であることが少ないからである。中には何も問題がなく自分に不都合なことがなければ、否、むしろ都合の良い事があればそれは当たり前であり、当然と考える人も多いかもしれない。
しかし現実の生活で日々過ごしていて、何事もなくその日が何事もなく無事に過ごせる事はとても大事であり、貴重な事なのである。当時おそらくユダヤ人たちは食べる事、着ること、寝ることつまり生活を無事にできる事は困難な事であった。だからこその日が一日食べることが出来て
仕事が出来て家族が全員無事でいることができることがどれだけ貴重な事だったかと言う事を知っていた。だから一日無事に過ごせた事を感謝して「シャローム:と」祈ったのであろう。
先日TVでメキシコからアメリカへの脱出を試みる人たちの現実を見た。国境に張り巡らされた高い塀の向こうへ脱出しようと命をかけて努力をしている姿はあまりにも生々しく悲惨であった。仮に脱出できたとして果たしてその向こうに「幸せの青い鳥」がいるかどうかも分からない。まして警備の軍隊に見つかればまた還らされるだけの苦しみである。
殻らの一日の現実を見ても一日がどれだけ厳しいものかが分かる。
日本は現在は移民の問題もまだ現実的にはないに等しい。従って「平和」が当たり前と言う概念しかない。しかし何時、災難があるか分からない。また何時どんな問題が起きるかわからないのが本来の姿なのだ。
そのことを忘れず一日を大切に生きる事を改めて知らされた一日だった。

思い付くままに  「春一番」

2017-02-23 10:18:28 | Weblog
このところ毎日のように強い風が吹く。昨日も散歩中に風で体が揺れるのを感じると共に
体感温度も下がる気がしたが、この風こそ「春」を告げる特徴であり、その兆しだと思うと
何故か苦にならない。むしろ春を待つ期待感と四季の移り変わりをはっきりと覚える事のできる喜びをおぼえる。毎年行っていた墓参り帰りの公園での「土筆」もきっとそろそろ土から覗くころかと思うと懐かしく「ぽっこりと土筆のふくらみ去年の土手」と歌ってみたくなる。
昨年は孫の高校受験で家族も落ち着かず、何となくそわそわしていたが、無事に合格し家族でお祝いをしたのも昨日のように思えるが、もう一年たってパソコンを組み立てたり、英検2級をパスしTOECKを目指すとか聞くとその速さに驚いたりしている。
それに反して自らの「老い」に対する準備ができていない事に不安を感じる。昔仕事の先輩から性格は簡単には直せない。だから己の弱点を自覚し自らその対策を具体的に立てて乗り越えなさいと言われていた事を思い出す。囲碁ゲームをパソコンで毎日戦っているが、一分の考慮時間も取らないで打っている自分がいる。これなども時間をかけてできるようになら泣ければとおもうのだが、直せない。年をとったらドンのんびりできると思っていたら逆にどんどん努力が必要になってきている。「老い」が思いのほか厳しい事をこの春は学ばされているこのごろである。

思い付くままに  「春。そして旅立ち」

2017-02-20 10:20:56 | Weblog
今年は未曾有の大雪が何度もふり、難儀をした人たちが多くあった事を知らされている。しかしそんな寒さと雪、そして風の寒さも何時しか和らぎ散歩しながら隣の庭を覗くと白梅、紅梅の花が満開を迎え「春一番」の風も過ぎていつの間にか春を迎える時期が近くに迫っている。
家の中にいるようになって昔ほど寒さを身体に感じることがなくなっているが、それでも気をつけないと体力のない老体には影響が大きい。しかし今年の冬も風邪らしい風邪も引かないですみそうだ。風邪も疲労と過労との積み重ねであることがよく分かる。のんびりして身体を休ませて充分な栄養と睡眠をとっていればそのリスクは少ないことが分かる。
そんな日々を迎えるこのごろ、18歳の少年が去年の9月に家を出て先週つまり2月の半ばを過ぎて青森県のある道の駅で逮捕されたと言う話が出ていた。
私たちには想像もできない行動で何が理由で何が動機になったのか、分からないが、何かしら
行動を起こさせるものがあったのだろう。人は他人には分からない行動が年齢を問わずあることであるし、自分以外の人の意見もよく理解できないことが多い。そしてなにが原因で誤解があり、錯覚があり、人間関係もギクャクする事も起きる。
この少年も何かの衝動に駆られて周りのことも考えず飛び出した事だろう。自分のしたことが
どんな影響をもらすかを考えたわけではないだろう。ただ無性に飛び出しただけの事かもしれない。「分別」がつかない。周りのことが分からない。先のことが分からない。危険な事もよそくできない。それが若者の特色でもあろう。そして経験し世の中を如何にじん生きていくかを学んでいくことが成長であろう。
その間には危険や冒険、失敗、後悔など人生経験をつんでいく事になるのだがそれはその人の運命であり、人生であろうと思う。
それはそれぞれの旅立ちであって、それがどんな事であっても勇気を持って立ち向かわざるを得ないと思うからである。

足跡    「心が揺れる時」

2017-02-17 10:08:51 | Weblog
最近体調保持を理由に長い間通っていた場所を近くへ変えて通う事を決めた。
(一時間半から30分以内に変わる)それは家族が一人暮らしで80歳を過ぎた私の行動に不安を持ちリスクを出来るだけ減らすことを願っていること、私自身も身体の負荷を減らし安全を願うためであった。しかしその手続きは簡単には決まらなかった。
長い間の実績や同じような立場の人もいるが、(理由はあってもそのまま在籍してある場合の人もいる)名前だけでも残巣ことを勧められた。私の心は揺れた。
何時、何が起きるか分からない、高齢者としては常に万全の構えでいなければならない。そのために出来るだけ対処できる事も考慮して行動しなければならない。
変わるべきか、残るべきか、私にとっては重大な決意のときでもあった。
そんな時、曽野綾子さんの随筆を読んだ。「~しかし不変ではない。人間を理解する段階では常に変化、変質を知ろうとする謙虚さこそ人間理解の本道であろうということは変わらないだろう。~それでも変わらない証を示すに値する相手は神のみである。~」とあった。
私は尊敬する先輩の意見も聞き、自分自身も真剣に考えた上で再度変わることを決意し、正しく責任あるつとめを果たすためにじぶんがいかにあるべきか、それは変質を問われてもその謙虚さをもって臨むべきであることを知らされたからだ。
人間は弱く、時に情けに流されたり、すがるときもある。しかし変わらないものを大切におく
基本を守る事の謙虚さ(自分のことではない)を忘れてはならないと考えたからである。

足跡   「冬来たりなば春遠からじ」

2017-02-14 10:34:30 | Weblog
最近になって最高気温10度を越す日が出てきた。今年は未曾有の大雪になり、あちことで
雪による障害が出たのだが、そろそろ春が近づいているようだ。
昨年敬老の日に民生委員の人と中学生の女子生徒が一鉢の花を手に訪ねてくれた。その鉢には
小さなかわいい花が二つほど咲いていて、今にも彼おちそうな状態であった。私は何気なくそれをデスクの上において眺めていたが、そのうちに急にその鉢が気になり始めた。
それはペットを飼う人がペットをかわいがるように毎日気になり始めたのである。朝起きるとすぐ鉢のところへ行き、元気がどうか様子を見る。そして水吹き出水を駆けてやり日当たりの良いところへおき、「今日も元気で過ごそうね」と声をかけてやる。夜にはあたたかいストーブのそばへおき、「おやすみ」と声をかけて寝る。
そんな毎日が続いているうちに鉢の様子が次第に変わってきた。一本か二本のしょぼくれていた花がいつの間にか鉢いっぱいになり、満開になっている。10本以上の花がつぼみを持ち咲き誇っている。「こんなに元気になり目いっぱいに咲いてくれるんだ」と嬉しくなり、元気をもらう事になった。「今日生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。」とは聖書の言葉だが。まさにそのままの美しさを与えてくれるのだ。
それは一千本のバラよりも尊く、何百万の欄の花よりもけなげである。
私はこの小さな鉢の花に日々元気をもらいながらすごすことが出来ている。
苦しかった日々も少しづつ和らぎ、新しい前進への道が見えてきた。苦しくても貧しくても
それを乗り越えていく力と知恵を与えられていることを知ることが出来た。
厳しい冬を越し、暖かい春を待ちかねる思いである。
希望を持ち、夢を持ち、生かされている限り健康を大切に日々を過ごしたいと願っている。

思い付くままに   「息子と共に」

2017-02-11 11:57:22 | Weblog
小さいときの思い出には小学校時代に「いじめ」にあい(40年以前)親として友達の家に注意してもらいに行った事、運動会が苦手で靴が脱げてびり名なりながらその靴を履きに戻っている姿、そして狭い倉庫の中で汚くなりながらキャッチボールや野球ももどきのあそびをむちゅうでやったことなどが思い出として残っている。その中でもある日、3時間ほど行方不明になり近所が交番へ届け探したところ一人でおもちゃやさんまで行っていて驚かされたことなど明るくて
かわいい息子だった。親の言うことをいつも素直に聞いて言うなりになっていたことがむしろ成長してからの自立が遅くなったのかもしれない。
体質が弱く特に人間関係では自己主張が出来ずパニック状態になりやすく長続きがしなかった。そして手元に呼び親子で仕事を続けていたが、私の定年と共に会社も閉鎖となり親子で自衛を始めたが長く続かず資金ショートと共に閉鎖となった。過程もあり子供(孫)もいるために
就職活動をしばらく続けたが、何処からも断られ現実の厳しさを味わう事になった。
「日雇いのバイト」を続けながら、何とか就職をと願っていたが心当たりもなく、何時まで持つかと悩んでいたところ、思いがけなく取引先の関係者から求人募集の集荷愛を受けることが出来た。昨年の暮れから試用期間として3ケつきの実習注であるが、人生の試練を親子で味わう事になった。当然ながら身体への影響もあり、息子は心臓の手術を受け私も心臓の検査を受けて現在も薬事治療を続けている。
しかし二人で励ましあい、助け合い、家族の協力もあり、現在は健康を取り戻しつつ仕事に励むことが出来ている。そして具体的な目標も出来て苦しいながら立ち上がる勇気を持ちつつある。
人生をはじめて厳粛に受け止め自らの力歩き始めたのである。
将来のことはわからないし、何の保証もない。しかし自らの力で歩き始めた事は事実である。
早い時期に社員としての仕事を認められルコとを願いながら
そんな息子の姿を日々願いながら自らもできる事でこれからも力になれるようにともに歩き続けたいと願っている。

足跡   「娘の変身」

2017-02-08 09:55:04 | Weblog
昨年の暮れ突然娘から電話があった。「今度の土曜日の休みに行くからね」といつもの愛想のない知らせである。学生のころも充分な事をしてやれず就職したときに母親をなくし、たまたま介護の世話をしてくれていた婦人の世話で母親らしい面倒を見てもらい家のことも殆どしないままに大人になり、年頃になって知人の紹介で嫁に行き、子供が手を離れると近くに仕事を見つけて働いている。自分の娘ながらあまり女らしい雰囲気があるとはいえず、物言いもぶっきらぼうな娘にこれも私の責任かと亡き母親の妻を恨んでみたりする。そんな娘が年に何回も電話などしないのに突然の知らせである。よく考えてみると私の身の回りの事を世話をしてくれていた婦人が80を過ぎて何もできなくなった事を知って、何か帰するところがあったのかもしれない。
当日は夫婦で一日中家の中を掃除して足りないものを補充し、気づいた冬物の衣類などあれこれと動き回って片付けてくれた。
その後も誕生日にかこつけて食事会をするから出て濃いとか、「何かいるものないの」とか、ここ何年も聞いた事もない事を(むしろ嫁にやって初めてかもしれない)
聞くようになった。先日も何かあったらいいなさいよと釘を刺されたが、この変心ぶりにいささか戸惑っている。考えてみれば親らしい事をした記憶があまりないし、まして女だけに男の自分としては息子の事は分かるが分からない事だらけであったが、あまり何もしてやった意識はないが、人は大人としての自覚があるとき突然生まれるのかとも思った。
それは当人もどれだけ自覚しているのか分からないが、その人に備わったものが潜在的にあってそれが突如開花するのかもしれない。
親としての責任がこんな形になって還ってくると嬉しいものである。

思い付くままに  「誘惑」

2017-02-04 09:54:32 | Weblog
人はどんなに強い意志を持った人でも日々の心の葛藤野中に置かれているものである。仕事を持っている人でも、仕事が出来ない人でも各人が考え、思い、望み、悩み時を刻んでいるはずだ。そのすべてが理想的であるわけがない。むしろ自己都合、自己の立場の主張。自己欲と金欲による自己中心の思いである。
自己をお自ら貶める人は泣くそこには様々な誘惑が存在している。すべてが「悪」とは断じ得ないが無意識にそれらは自分の都合の違法へ向かっている。
「禁煙」の欲から離れられない人、酒、ギャンブル他世の中には様々な誘惑が待っている。
それらは決して悪いとは思えない。むしろ人はそれらを通じて心の安らぎを求めまたは心の喜びや楽しみを求めているのだが、果たしてその望みの内で終わっているだろうか。
また逆に成人のように「清く正しく」として生きている人にストレスはないだろうか。そしてそのストレスによって生活がゆがんでいないだろうか。
私は人それぞれに似合った「憩い」の持ち方があると思う。しかし人はそれを中々見つけることが出来ない。嘗てユダヤ人がその生きる目標を「律法」を中心に守りすぎたために、その理解に違いが出て様々な宗教論争の果てに争いや戦い、そしてエルサレムの滅びへとつながったことを
考えると必ずしも「律法主義」が全てとはいえない。
人生には大きな障害が待ち構えている。病気、金、心の病など避ける事のできないことがあることが現実である。
そんなある人に「何か楽しみ、喜びを持てることを考えましょう。あなたならなにをかんがえますか。」「私は平凡だけど車の運転です。」「それはすばらしい事です。」「運転しているときは何もかも忘れることが出来から」それでよいのです。
どんな小さなことでも生活の苦しみを忘れ、心の安らぎを覚える時間が出来るなら、それを大切にして人生の生きがいにすればよいのです。
そうすれ場「悪い誘惑」は自然と消えていくでしょう。

足跡   「愛の像(かたち」

2017-02-01 11:15:26 | Weblog
夫婦になっても夫が妻の事を何もできない場合のほうが多いだろう。それを男の性の違いとするか本能とするか各々違いがあるが、中には稀に夫が妻の仕事(掃除、洗濯、食事。片付け。子育て)が出来る人もいる。(嘗て私の友人にいたことを記憶している。)しかし一般的には夫が妻の仕事を理解する事は少ないと見ていいだろう。(私自身は妻の仕事を手伝った事は殆どなかったことを反省しているが)しかしそんな夫婦でも長い人生を過ごしている中で、ふとした機会と動機で変わることがある。例えば妻が始めての出産を迎えて何も出来なくなったとき、それをサポートする人間がいなければ夫は已む無く全ての家事をせざるを得ない。そして俺がきっかけで夫は妻の立場を理解し、出来ないまでも少しづづ手伝うことが出来るようになる。そこから夫婦はお互いに助け合い守り守られる事を覚えて信頼関係を深くすることができる事になる。
極端な例で言えば二人が警察のような日々危険な職場では足りていて何時しかお互いが守り
守られながら仕事をしているうちに愛が芽生えていくケースもあるだろう。その場合、二人は夫婦とは言えないまでも、相互に力を合わせ危険を避けながら仕事を追及することになる。
二人は何時しか結婚を考えるようになるが、男はその女性を大事に守る事を深く考えるようになり、人質にさえなっても惜しくないと考えるようになる。
すると男は結婚を前にこの女性を生涯守るには自分が危険な警察の仕事を続けることが出来なくなり、(自信を失い)その女性を愛しながらその職場を離れ一人旅立っていく問いう場合もあるのだ。つまり愛と言う像は人間の場合、理想的には結果としては終わることはなく、むしろ悲劇で終わることが多いのかもしれない。
親子であっても強大であっても、時として愛は残酷な形になってしまうことがあることも覚悟しておく必要が人生ではあるのだ。