波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに  「愛しき日々」

2015-04-29 12:13:30 | Weblog
~生真面目すぎた真っ直ぐな愛、不器用ものと笑いますか、~愛しき日々のはかなさは
消え残る夢、青春の影」先日友人から電話を受けた。もう40年近く、つかず離れずの
親交を暖めているが、なにぶん遠距離なのとお互い高齢のため会う事もならず、電話での会話であったが、「実は最近まで20日ほど入院していた」と言いながら懐かしい笑顔が浮かぶように明るい声であった。然しその病気は深刻なもので「代謝不良」と呼ばれ体内に吸収された水分が体外へ出なくなり、8リットルの水分を体内に抱え込んだ状態になってしまい、救急車で運ばれ離尿剤の注入で何とか回復したとのことであった。
毎日の新聞を見ていてもつい「訃報」や病気の記事に目がいち早くいくのだが、やはり他人事に思えず、いずれ自分も何らかの形で消えることを覚悟しなければと思わされる。
そんなことを考えるとき、毎日の日々が何でもない時間ではなくて、とても貴重な大事な時間として愛しく思えるのだ。
確かに一日は待つことなく確実に過ぎていく。それを止めることは出来ない。その日々のはかなさは歌にあるように消え残る夢の様でもあり、青春の影のようなものかも知れない。しかし考え方を変えれば生かされている喜びを感じる時間でもある。生かされ生きている時間として如何にこの時間を喜びと感謝を持って過ごすことができるかを考えなければいけないかと思えるのだ。
何気なくあれこれ仕事や用事に追いまくられていた日々から開放されて自由の身になったのである。この時だからこそできること、しなければいけないことを考えて過ごすことが大切であり、ただぼんやりとTVを見て過ごしてはならないと戒めている。
ただ残念なことに何をするにも体力、知力、気力の衰えは覆うべくも無く、なすすべも無い。何をしても疲れを感じて続かないことは仕方が無いとしても、少しでも寝る前に、今日一日を思い起こし、平安のうちに休む事が出来ることを願うものだ。
人はどんなに恵まれていても又貧しい環境におかれていても、そんなに変わりは無い。全ては僅かばかりの健康を維持しながら青春の日々を追い求めていくことが大切なのである。

泡粒の行方    第3回

2015-04-25 10:08:17 | Weblog
死にかけている赤子の前で父親は聖書を片手にしていた。そこには紀元前3千年前に
流浪の民であったイスラエル人が奴隷になっていたエジプトから脱出することが書いてあった。その夜、神のお告げで家の門に羊の血を塗ることを命じられていたイスラエルの民はその赤子の命を助けられて、エジプトの初子は殺されたとある。そしてエジプトから脱出することになった。その箇所を読みながら父親は祈っていたことだろう。
母親は過ごしてきた自分の生活を省みてざんげし、これから生活を改めることを神の前に約束して祈りつつ赦しを乞うたのである。
大きな声を上げた後、赤子は急に乳を吸い始め、少しづつ健康を取り戻していた。
そして一家は平和な生活が戻っていた。上の男の子は小学校へ行くようになり落ち着いたはだが、母親は赤子の病気が治り元気になったことが忘れられず、この赤子は神に助けられたと一途に思い込んでいた。そしてある日牧師のところへ赤子を抱いて訪ねたのである。「先生、この子は助からない命を神様の恵みで助けられこうして元気になりました。
本当にありがとうございました。先生、この子は大きくなったら先生のように神様の役に立つ人になるように育てたいと思います。どうかよろしくお願いします。」と相談した。
牧師は「それは結構なことです。然し神はこの子をどのようにお用いになるかわかりません。それは神がお決めになることですから、親が勝手にしないことがだいじです。」と答えた。そして礼拝において赤子の儀式を行ったのである。
それは自然であり、大きな恵みであった。人並みとは言えない小さいからであり、弱弱しい身体であったが。それからは元気に育っていたのである。
借家ではあったが、倉庫があり事務所をかねていたその家は三階建てであった。二階が今であり、三階が子供部屋になっていた。その男の子も学校へ上がるようになると近所の子供たちが集まって遊ぶのは三階の部屋であり、そこのもの干し場であった。
その後に男の子が生まれて母親は二階で赤ん坊の面倒を見て家は賑やかであった。
長男はそんな弟たちをうるさそうに横目で見ながら一人部屋にこもっていた。

思いつくままに  「80歳のリハビリ」

2015-04-22 09:18:47 | Weblog
70歳を過ぎてもこれと言った病気も無く過ぎていたところ、75歳を過ぎた頃からめまいや動悸を感じるようになり、体調に変化が起きた。
そしてある日駅構内でしゃがんで立ち上がる瞬間めまいで気を失いエスカレーターの中段から転倒した。顔に擦り傷が出来たが、それだけで済んだが病院の神経内科で診察を受け半年ほど薬で落ち着いたかに見えたが、完全ではなく、緊張、疲労血圧などの体調に身体に影響を覚えていた。そんな時、昨年暮れに突然失神して救急車で運ばれるという事態になってしまった。このときも幸い診察では特別な異常な無く「迷走神経反射」という一過性の症状ということで帰宅したのだが、さすがに車に乗ることは止めることにして様子を見ることになった。
そんな時、知人から簡単に出来るリハビリの方法を教えられたのである。
①壁(ふすま)に沿って背中をつけて後頭部、背中、臀部をつけた状態で立ち、約20分程度たち続ける。これを一日2回行う。
②テーブル用の椅子の後ろを持ってたち、つま先を上下に上げる運動。これを50回
③椅子に座り、其のまま立っった里、座ったりの運動を20回程度繰り返す。
この③セットを一日出来れば2回程度行うのである。もちろん個人差で出来ない人も居ることなので、そう回数やその方法は自由であるが、私の場合は2月から始めて現在までの様子でいえば、毎日起きていたいやな動悸はおさまるようになってきたこと、失神のような気配は感じないし、むしろ頭が以前よりすっきりしてきた感じがしている。
このリハビリの効用の理由や結果は定かではないが、落ち着いてきたことは事実として言えるような期がする。
各人によってその効果や影響は違うだろうし、分からないことばかりだが、私は暫く続けるつもりである。なんでも知人のコメントで3ヶ月続ければほぼ完治するといわれているので、楽しみである。

     泡粒の行方     第2回

2015-04-18 10:20:54 | Weblog
生まれた男の子は長女になる女の子が亡くなった5年後に生まれただけに母親の思い入れも強く大事に育てていた。それは取り上げた産婆が顔を見に立ち寄ったときに断ったほどであった。それほどに注意していたにも関わらず、ある日突然高熱を出しぐったりと弱ってしまった。手の施しようが無く大事をとって会社の社長の親戚に当たる医者を紹介してもらい赤坂まで飛んでいったのである。医者はしばらく赤子の胸に聴診器を当て診ていたが「注射をしておきますが、これ以上手の打ちようもありません。今晩が峠でしょう」とだけ言わなかった。両親はこの医者なら何とかしてくれるとの期待があっただけに、その
言葉に力を失い肩を落として帰るしかなかった。
二番目の子を亡くしその心の傷も癒えないままに、この子も亡くすのかという思いが頭から消えないことも一層不安を強くしていたのだ。
父親は田舎の神官の次男坊として生まれていた。長男が神主としてあとを継ぐために自分は親戚を訪ねて勉学を志したのだが、その時英語を学びたく、教会の門をたたいた。
そして程なく信者になっていた。浜町には古い教会があり、日曜毎に礼拝へ行き祈りをしていた父親は信仰から祈りをささげることしかないと考えていた。
母親もそんな夫の考えを理解してともに教会へ入っていたが、信仰に対してはそんなに熱心とは言えなかった。人形町、日本橋と軒を連ねる町の影響を受けて時間が出来ると
買い物と見物に時間をつぶすことが多かったのである。
そんな母親ではあったが、この時ばかりは気が動転して何とかこの子を助けたいと必死の思いであった。それは父親とは違った本能的な危機感であったであろう。
静かに聖書を片手に祈っている父親の姿のそばで母親も手を合わせ自分の日ごろの生活を省みて神の前に許しを請いつつ「どう過去のこの命を守ってください。これからは毎日の生活を正しく守ります」と誓いつつ泣きながら激しく祈ったのである。
その夜、二人はまんじりともせず祈り続けていた。やがて夜が明けて白々しく窓が明るくなった時、赤子は急に「おぎゃあ」と大声を上げた。そして少しずつ母親の乳房を口にしたのである。

思いつくままに  「家族」

2015-04-15 09:45:18 | Weblog
私たちの生活は家族という形態で構成されている。然しこの形の内容はどのようなものといえるのだろうか。外側から見ている分には均等に微笑ましく、美しいそしてきれいなイメージで存在しているが、果たしてその内容はどうなのだろうか。
私はこの家族という言葉を思うとき、何故か「寅さん」の映画のワンシーンを思い出してしまう。旅から帰ってきた寅さんを囲んでいつものメンバーがあれやこれやと和気藹々と話し合っている雰囲気は作者がイメージした家族の典型なのかもしれない。そしてお決まりの騒動があり、寅さんは再び旅に出かけることになるのだが、その時そっとさくらが
兄に寄り添い「もう行っちゃうの。」となけなしの小遣いをそっとポケットへ忍ばせるシーンは毎度涙を誘ったものだった。
家族は親子を中心に構成されているが、夫婦二人から子供が出来て家族となり、その子供も小さいときは親の付属物のような存在が成長するに従って「子離れ」「親離れ」の
現象が始まる。これは単にともに暮らすことをしないということだけでなく、同時に精神的な信頼関係の分離というものも起こりうるということを考えておかなくてはならない。
親は何時までも子は親の言うことを聞くものでは無いという意識を持つべきだと思うし、
子も自分の意思と信念はできるとしても、親としての尊厳は尊重して接すべきだと思う。
然し、その境界線が年齢とともに崩れ、時としてそのけじめがはずれ、逆転もあればその立場が混乱する現象が起きるようになる。
私は最近現実に実際にそのような場面に出会うことになってしまった・
ひとつは父と子とのやりとりで親は子供が成長するまで会社を守り、維持していたが、体を壊して子に譲ることになった。そしてある問題の進め方で話し合いが行われていたのだが、親の考えを頑として受け入れず、自分の主張を譲らず、親を悲しませていたのだが、
(最近新聞でも話題になっていたが、)その場にいたたまれない気持ちになった。
もうひとつは姉妹でのはなしだが、どちらも嫁いで主婦である。両親が亡くなり、その遺産の問題で意見が合わず、それがきっかけで断絶状態が続いているという話を聞いたのだが、とても悲しい問題である。
然し、これが現実なのである。とすれば家族とは何か。親子とはどうあるべきか。
最初のあの美しい和やかな心の共有は何処へ行ってしまうのか、と思わざるを得ない。
どんなに成長して力をつけても人はその分がなくなるわけではない。その立場とそれまでの歴史もある。それは大切に何時までも家族の絆を大切にしたいものだと思う。

泡粒の行方     第1回

2015-04-11 10:54:32 | Weblog
1935年1月、その日は東京でも珍しく雪がちらつく寒い日であった。東京の隅田川のそばの小さな家で一人の男の子が生まれた。当時は出産のために病院へ行くという習慣は無く、出産を取り扱う「産婆」と呼ばれる助産婦が家に呼ばれて各家で出産は取り扱われていた。陣痛が始まり父親はあらかじめ頼んでおいた産婆へ連絡を取ると、お手伝いの女性にその準備をさせて待機していた。準備が整い、それから暫く時間が過ぎていたが、やがて奥から「生まれましたよ」という声にせきたてられて、部屋を覗くと産婆が「この子は女の子だと思っていましたよ。身体は小さいし、華奢で手足も優しげで、でもおちんちんがついてるから立派な男の子ですよ」と抱いて見せた。
こうして下町のある一軒の家で一人の男の子がこの世に誕生した瞬間だった。当時は東京も関東大震災から10年が過ぎていて、復興の兆しも目覚しく立派な都会になりつつあったが、昭和に入って経済的な不況のときでもあり、人々の生活は楽ではなかった。
しかしそこは下町である。今でもそのときの面影は残っていて浜町に繋がる人形町は明治座や水天宮とともに人通りは繁く、甘酒横丁を中心に賑やかである。
両親には10歳になる男の子が居たが、その後の子供に恵まれていなかった。とは言っても
元気で居れば5歳になる女の子が居たはずだったが、生まれて一年足らずで病死したため、この男の子が生まれるまで10年が過ぎていた。父親は二番目に生まれた女の子をとても可愛がっていたが、亡くなってしまった為にかなりのショックを受けその後その写真をずっと持ち続けて離さなかったことも子供が出来ない理由のひとつだっぶかもしれない。
10年ぶりの子供とあって母親は今度こそという思いも自然に働いたのであろう。何時になくその赤子は大事に育てられていた。
ある日のこと、通りかかった取り上げた産婆がその家に立ち寄り「ちょっと通りかかったんだが、赤子は元気にしているかな。顔でも見ていこうと思って寄ったんだが、」と母親に話すと「今お乳を飲ませてやっと眠ったところで起きるとかわいそうなのでこの次にしてください。」と何気なく産婆に断わり、帰ってもらった。
あろう事か、私が取り上げた赤子の顔を見たいといっただけなのに、そんなことで断られるとは夢にも思わなかった産婆は、驚くと同時に腹を立てて「ああ、そうかい。じゃあね
」と言うと二度とその家には顔を出すことは無かった。

思いつくままに   「 お見舞い」

2015-04-08 16:19:57 | Weblog
手術が終わって2日後落ち着いた頃を見計らって病院へ行く。玄関前の桜が見ごろで院内の患者さんが車椅子で花見に出ている光景も見られた。
面会は時間が規制されているのはもちろんだが、名前や時間の初めや帰りの時間まで厳重にチエックされる。面会者も殺到して行列が出来るほどである。
当人はまだ身体に数本の管をつけて窮屈そうであったが、元気で迎えてくれた。
前日までは様々な後遺症や傷の痛みで身体の不自由さがあったが、日に日に楽になり、今日は楽になった機嫌もよさそうでほっとする。一通りの話が終わると余裕が出てきたのか、院内の様子を話始めた。入院患者はその殆どが70歳前後の高齢者で占められていて
若い人は居ないとのこと、そしてその大半が部屋に閉じこもったままの(4人部屋)状態で何をすることも無く過ごしているのだという。その光景は病院とはいえ、あたかも何かを待っているような雰囲気が漂い、不気味でさえあるものを感じたという。
人間は環境によってその人生の生き方が影響を受けることは仕方が無いとしてもその内側にある精神的な面は各々違っていても良いはずである。
その身体の状況にもよるが、可能な限り、気力、体力、知力を働かせてその日の時間を大切にしたいと思うものだ。
一人暮らしの生活も考えようによっては入院生活と変わらないと思えるが、その時間の考え方や過ごし方、使い方によってはいかようにも変わる気がする。
つまり考え方で方向を変えることはいくらでも出来る気がする。違うのは正しい道を考え付くこととそれを実行する意思を強く持つことであろう。意思が弱いとその環境に負けるか、気力がなえて惰性に流れやすくなる。何も考えない何もしない、ただ無気力に時間を過ごすことが寂しさと孤独の中に追いやること事になるのだ。
どんな環境におかれても、この一日を大切にどのように過ごすかを生きがいに生きることを取り組むことこそ大事なことなのだと思う。
そして「継続は力」の言葉通り、「継続」から力を得ることが大事だと思っている。

思いつくままに  「筋書きの無いドラマ」

2015-04-04 11:13:16 | Weblog
毎日の生活の中で「頭休め」のためにTVをみる。その番組は「プロ野球」と「囲碁」
である。どちらもその勝敗にこだわるのではなく、その過程を楽しむのである。
今年もペナントが始まったが、その予想が大きく外れて本命が苦戦をしている。出来ることならこのまま全チームが混戦のまま続くのが望ましい。その為には全チームが5割の勝率でゲーム差なしであれば理想的である。
そしてゲーム内容は想像できない場面を生んでいく。無名の選手の活躍であったり、実績のある選手が不調であったり、どんでん返しがあったり、何が起きるか分からないところが面白い。しかし、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」といわれるように負けにはそれなりに原因があるようだ。
その原因は一時的なものか、分かっていて修正できないままにペナントに入ったのか、
そしてけが人が出るのは日ごろの準備とかかわりがあるのか、色々と考えさせられる。いずれにしても、弱いところが強いチームに勝つのは判官びいきも兼ねて興味深い。
まだ始まったばかりで、結果はやはり予想通り強いチームの優勝になるのかもしれないが、戦前の戦力で予想していた内容がそのままでないのは、まさに「ドラマ」であり、
これからも予想を覆す試合が続くことだろう。それを楽しむのも一興である。
囲碁は今年から関心を持ってみている。正直言ってプロの棋士が打つ石は内容が深く、見ていてもどちらが優勢であり、どちらが勝つか分からないことが多いが、それだけに興味深いところがあり、一手、一手に目が離せない。そして次はここへ打つぞとじぶんで予測して同じであると嬉しくなり、違うと(当たり前だが)どうしてそこなのかと考えさせられる。どちらにしてもその石がどのように自分の勢力を蓄えていくのか、そして優勢に持ち込めるのか、それは時間を忘れ夢中にさせる。これもまた、「ドラマ」なのである。
若いころは推理であり、犯罪であり、恋愛であり、のドラマに関心があった。
しかし、それらは筋書きが見えて興味が薄れる。歳をとるにつれて筋書きの無い、何が起きるか分からないドラマに関心があるのは、ある意味自分の人生を重ねているのかもしれないのだ。