波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

 コンドルは飛んだ 第45回

2013-03-29 09:43:31 | Weblog
常務と話をしながらどうしても頭を離れないことがあった。それはシンガポールのことでもなければ、岡山の会社のことでもない。常務が約束してくれた「いつか、必ず本社役員として迎える。」と言う言葉だった。それは二人だけしか分からない暗黙の約束事だったのだ。しかしそれを口にすることが出来るわけではない。だけど会うたびに「今度こそ」「今度か」と言う思いは消えていなかった。
いつもどおりの報告と近況を伝えるともう他には話はなかった。辰夫は「まだその時期ではないのか」と言う気持ちと「やっぱり自分は迎えられないのか。」と言う思いとで揺れ動きながら別れるしかなかった。帰る新幹線の中で、まだあの岡山の田舎で燻っていなければいけないのかと言う、釈然としないものを消すことが出来なかった。「
会社の再建」と「シンガポール工場建設」という、大仕事を無事終えてしまうと辰夫には何か
背負っていた大きな重荷を下ろしたような気もあり、何となく自分の役目が終わったものを感じていた。昼休みの休憩時間だけが彼の心を癒していた。山へ入ると枯れ葉を集め、畑の堆肥として土を掘り起こし、次に作る野菜の準備をする。その時間だけが彼を無心にさせ平安な時間を持たせていた。
久子から電話が来た。「どうした。健一は」と聞く。「大丈夫よ。少しづつよくなっているわ。でもまだ当分入院は続くわね。」「お前、病院通いは大丈夫か。」「それがね。大丈夫になりそうなの。」「何だね。何があったんだ。」「健一に彼女がいたのよ。その彼女がナイチンゲールになりそうなの」「何だ、それは」「つまり、ずっと付き添って介護をしてくれそうなの。」「お前知ってたのか。」「知るわけないでしょう。突然見舞いに来てくれて、健一から紹介されたのよ」「そうか、それは良かった。」いつの間にか大人になっていた息子の一面を見た思いと、地獄に仏と言うほどではないが、こんな時である。ありがたいことだとほっとしていた。
何もしてやれないし、又会いに行っても喜んだ素振りもしない息子が、そんな友達がいたなんて、考えもしていなかっただけに安心感も大きかった。
会社は日本工場とシンガポール工場とが本格的に軌道に乗り、何とかあまり大きな赤字を作らず、収支をまかなうようになりつつあった。
ある日、専務が社長室に顔を出した。「何か、問題でも起きたかね。」このごろは
会社が落ち着いてきただけに、ほっとしながらも、いつか、何か起きないかと言う心配がないわけでもなかった。

思いつくままに  「太陽の黒点」

2013-03-26 10:12:04 | Weblog
彼岸を過ぎた頃からあれだけ寒く厳しかった天気も嘘のように温かくなり、一気に春が訪れた気持ちになり、その変化に驚かされている。
しかし今年の冬を振り返ると未曾有の寒気の連続で北陸を始め、北海道と北日本は過去にない豪雪に見舞われ除雪、その他の雪害にあい、大変であったと連日聞かされてきた。その事は『地球温暖化』を含めてここ数年、寒さも緩み、雪も少なく冬らしくない季節感からすると違和感を覚えていたし、又昨年の夏は30度を越す真夏日が連日続き東南アジアの熱帯地方の気温も顔負けのような厳しい暑さに閉口したことを思い出す。
つまり余り気付かない内に少しづつ気温に変化が生じているらしい。そんなことを思っていたら、この気温の変化に「太陽の黒点」が無関係ではないと言う記事が出ていた。
太陽にある黒点の数が少しづつ減っていると言うことが分かっている。
その影響で地球への気温も影響を受けて変わりつつあると言うのである。と言っても
それでどうなるものでもないし、「だからどうなの」ということでもあるのだが…
ここで言いたいのは私たちの生活のあり方なのだ。ぶつぶつ不平を言いながら、日々何事もなく平々凡々と安住して暮らしているだけだが、
近所のお年寄りを訪ねてきた仲間の年寄りが「あなたいつもそのTVの前にちょこんと座ってお茶飲みしてるけど」と言うと「ここにこうしていないと、このTVを誰かに
持っていかれるんじゃないかと思ってね。一日中番をしているのよ」と笑えないジョークをとばしていたが、高齢者の生活は多かれ少なかれこんな生活なのかもしれない。
しかし、こんなに平和で自由な生活ができる時だからこそ各人がおかれた環境の中で
自身が錆付かないようにすることも大事なのだと思う(勿論、日々多忙な高齢者も多数居られると思うが)
「災難は思わぬ時にやってくる」また、「あなたの足元に斧が置かれている。」と裁きがあることを示している言葉もある。自然界も二年前の大地震の記憶も新しいほどに、どんな災害が起きるか
誰もわからない日々であるはずだ。
そんな日々を思い、何時何が起きても最低の覚悟と「悔いのない一日の歩み」を頭の隅においておく習慣をつけて「今日は本当に良い一日だった」を思う日を持ちたいものだ。

 コンドルは飛んだ  第44回

2013-03-22 09:27:38 | Weblog
小さい時から、普通の親のように一緒に遊んだり、抱っこしたり遊園地へ連れて行ったりという時間を持ったことがなかった。物心がつく一番大事なときに外地へ行き、たまに帰国して抱こうとすると母親のほうへ逃げて「あのおじさん何処の人」と言われたことがあるような関係だった。たった一人の息子で跡取りとは言うものの人間関係としては他人同様な関係を認めざるを得なかった。日本での勤務が岡山とあって、帰郷して自宅にいても二階に上がったまま、口も聞くことは殆どない。
しかしそう言っても今回の事故を聞いては、帰宅して様子を見ないわけには行かなかった。本社への用事をかねて急遽東京へ帰ると、その足で病院へ向かった。ベッドで片足をギブスで固定している様子を見て、元気そうである。それを確認するとほっとしたが
元通りに歩けるようになるのだろうか、ベッドのそばに座り、「どうだ、痛むか。」と声をかける。「たいしたことはない。」「暫くかかるのか。」「骨がついてからリハビリだから暫くかかる」ぽつんぽつんと短い会話の中に親子の感情が通う。
そのまま、会話もなく時間が過ぎる。買い物をした久子がやってくる。「パパ来てたの
たいしたことなくてよかったわ。足だけなら治ったら仕事も出来るみたい。」と相変わらず、気楽である。辰夫は一服するために外へ出た。病院の空気はやはり普通の家屋の空気と違い病んでいる人の重い空気が漂っているようで重苦しい。
開放された外でタバコを胸いっぱいに吸いながら、辰夫は「さて、これからどうしたものか」とこれからの介護や身の回りの世話のことを心配していた。久子はフリーだが、元来余り丈夫ではない。持ち前のリュウマチの気があり、あまりパキパキと動けるわけではないし、器用でもない。長期になればなお更である。
と言ってこれと言って妙案があるわけでもなかった。嫁に行った姉も子供が二人もいて手が放せない状態では見舞いには来ても、世話が出来るわけではない。
「ヘルパーのような人でも探すほかないか。」などと考えていた。
想像していたよりも、会って様子を見て安心できたこともあって辰夫はひとまず久子に息子を託して東京へ顔を出すことにした。
常務と会うためである。いつものように二人だけの時間を持ち、会社の業容について説明と報告をして、シンガポールの土産話に花が咲いていた。
「中々良いところだなあ。町もきれいだし、暑いのは閉口したけどホテルは快適だし、
食事も日本料理だし、問題ないよ」常務の泊まったホテルは日航ホテルで当に日系なので違和感は殆どなかったようだ。

思いつくままに   「道徳化教科」

2013-03-20 09:00:30 | Weblog
阿部内閣が発足して今までに余り聞かなかった政策を少しづつ提示されている。
先日の国会の質疑応答で阿部内閣が提示した学校教科に「道徳」を採用したいとの発言に対し公明党の山口代表が「それは親の問題であって学校で教育する問題とするには
いささか問題があるのではないかと質問があったやに聞いた記憶がある。
この問題に関連して、その数日後にある評論家が「親がしつけを中心にモラルを教えられない状況だからこそ学校が取り上げて少しでも子供にモラルを習得させようと言うことだから、もしこの提案が成立しないのなら親の責任を問うことも考えられる。例えば親の側に一定の約束を果たさせることを考えたらどうだろう。例えば自治体で所管で
レポートを提出させることを義務化させるとか、講習会の出席を最低限出ることを課すとか親の側に責任を持たせることも出来るのではないか」というものであった。
これらの意見を聞いていて私も親の一人としていささか無関心でいられない気持ちになった。「あなたはどう思うか、親として子供の躾に自信を持っているか」と自問自答することになった。
人様にどうのこうのと言える立場でも、何でもないが子供への関心、子供への向き合い方についてはその年齢に応じて避けられないものであったし、その場面場面でこれで
よかったのかと言う反省と後悔の繰り返しのようであったと思う。
今になって考えてみると親が思っている以上に、又親が子供を知る以上に子供のほうが正確にそして冷静に見ているように思う。(親が気づいていないことも含めて子供のほうが知っていることも多いのである。)従って親が自分の立場や権力?で子供に接する場合は誤ることが多いのではないかと思えるのだ。
「子は親の背中を見て育つ」とは昔から良く聞く言葉だが正に当たっている気がするし、この言葉の意味をかみ締める必要を思う。
しかし、この大事な基本を親は充分自覚できているのだろうか。幼児のときはいざ知らず10歳を越せば昔なら元服の歳でもあり、国によっては立派な成人とみなしているところはいくらでもある。ある意味一人前の人間として接して大人としての所作を身をもって示すことが大事であり、それが出来なければ親失格とされても仕方がないのでは
ないかと思う
こう考えてくると今日の「モラル」問題は理屈とか、規律の問題ではないのではないかと思えるし、普段の日常生活の中で自然に行われるべきものであり、「裃」を着て
登城するようなものではない気がしている。

コンドルは飛んだ  第43回

2013-03-15 09:38:21 | Weblog
完成式が終わり工場が操業を始めると日本からの来客が連日続くようになった。主に
本社の役員であったが、その中には建設に反対であったり批判をしていた人もいたが、こうして出来上がってしまうとそんなことは関係なくなっていた。良い海外旅行の言い訳が出来たかのようににこやかに振舞いかえっていくのである。
辰夫はそんな様子を冷ややかに見ながら、自分自身の決断と責任を重く感じていた。
幸い製品は各ユーザーで評価が進み、出荷が始まったのだが海外工場ということで価格を下げろと言う要求が新たに出たことは予想外していなかった。
営業の努力もあり、販売は下がることなく順調であったので大きな影響はなかった。
日本の工場分を含めると月産2000トンを超える能力を備え、業界一と言うことになる。このまま需要が続けば償却計算は成り立つのだが、そんなにうまくいくとは思えなかった。そんな悩みを持ちながら辰夫はいつもの業務についていた。
海外工場が完成した後、何となく大きな荷物を降ろしたような無力感を感じるようになっていたがこの会社に派遣され地方独特の因習や情報不足を補い、業績を改善して利益が年々計算できるように基礎が出来てしまうと自分の役目が終わったような気持ちが生まれてきた。「自分のこの会社での仕事は終わった。後は専務を中心に若い人たちに継承して自分は交代する時期ではないか。」
そして本社への思いがよみがえってくる。「君を本社役員として迎えるから、しっかりこの仕事を果たしてくれ」と肩をたたいた常務の言葉が今更のように思い出される。
それを期待して不自由な生活を我慢していたとは思っていないつもりだったが、心のどこかに何時東京へ呼ばれるのだろうかとの思いは消えることはなかった。何時しか電話がなるたびに
そんなことを期待するようになっていた。
そんなある日、「東京から電話です。奥様からです」と呼ばれた。久子の声はいつもと違って興奮気味だった。「健一が交通事故にあったの、今病院だけどあなた帰れないかしら」「怪我はどうなのか。まさか命に別状ないだろうな」「それは大丈夫だと思うけど、足が大変なの」「分かった。出来るだけ早く帰るから落ち着いて看病していてくれ」息子の健一は成田の空港会社へ仕事で自宅から車で通っていた。
時間によっては近道を使ったり、スピードを出すこともあるのは若い者だけに仕方がないと思っていたが、普段接触していない自分としては何も言う資格がないと辰夫は
父親としての歯がゆさを感じていた。

思いつくままに    「高齢者の健康」

2013-03-12 09:10:26 | Weblog
先日の新聞に石原維新代表(80歳)の入院記事が出ていた。風邪との事で2月中旬の代表質問を終えた直後のことだったとの事。余り気にしないで見過ごしていたが、最近
私の古い友人が電話に出ないので夫人に様子を聞くと「ちょっと風邪をこじらせて会社を休んでいます」という。この友人も77歳で高齢者であることに間違いない。
そしてもう一人いつもとても元気な女性の友人(77歳)が「先日の健康チエックで血糖値が高く糖尿病だ」と診断されたと言う。日ごろお互いに健康に注意してそれをじまんしていた仲である。先ほどの友人の後日談がある。
彼の話によると、実は数年ぶりにある用件で台湾から招待を受け出かけることになり、
多忙な日程をすごし歓待を受けた。帰国後様子がおかしくなり発熱と呼吸困難の自覚症状がでた。緊急入院して診察を受けたところ、「急性肺炎」になっていますとのことで
そのまま入院して絶対安静のまま治療を要したとの事であった。
これらの事例で分かったことは70歳以上の高齢者には健康体と思える状態であっても若い人(50代まで)に比べれば、体力的には約半分くらいに落ちていると思わなくてはいけないのかもしれない。従って体力以上のエネルギーの消耗が継続すると、(個人差があるとは思うが)風邪他のわずかな病菌による身体への影響で発病の頻度が高まると言うことが分かる。つまり日ごろから過度の体力消耗を避け、ぜいたく?怠け病?と思われる程度の状態を保つことが必要なのかもしれない。
最近は高齢者の運動が盛んになり、スポーツジムなどは高齢者のクラブとなっている。
健康自慢をする人たちが多く見られる。
「自分は大丈夫だ」と若い時の気持ちを持ったままでいるが、そんな時こそ「セーブ」する勇気を持たなければいけないのかもしれない。
今となっては「健康管理」一番の勤めだけに何によらず申し訳ないことかもしれないが少し「楽な姿勢」に専念させてもらうことにしたいと思っている。
先日も近所の老人会のメンバーの一人が「毎日自分は水泳クラブで3000メートル泳いでいる」と自慢していた人が、青い顔をして例会に出てきた。
食事も出来ないでいるので「どうしたの」と聞くと、「食あたりだ」と言って強がっていたが、やはり「年齢は年齢だから」あまり「意気がらないないよう」に謙虚な姿勢が必要な気がしている。

コンドルは飛んだ  第42回

2013-03-08 10:25:24 | Weblog
その後の辰夫は常務の言葉を信じて、何も周囲の言葉が気にならなくなった。本社の中では彼のシンガポール進出をやっかみも含めて批判めいたことを言ってる人たちもいることを知っていた。「本当に大丈夫かい。何しろ、うちの会社は昔から「板こ一枚波の上」みたいなところがあって、一発当てると大きいが失敗することも多いからなあ」
確かに世界の山を探査しそこに鉱量があることが分かると投資して人を出し採掘を始めるが、かなりのリスクがあることは確かだ。そんな体質はあるのかもしれない。
逆に言えば、プロパーで育っていない辰夫にはそんな考えは余りなかったが、男の信念として自分が決断したことは「やり遂げる」ことだけが目標であった。
工場完成が間近くなった頃、現地のメンバーから主だったスタッフを選んだ。それは
工場を動かす主要な幹部であった。そのメンバーは20名で、その人たちを日本へ派遣し、研修を受けさせることにあった。
出発前に彼らを集め誓約書をおいた。「2年間はこの会社において誠実に従事すること
他社へ転職したり、会社への謀反的行為をしないこと」等を約束させサインさせた。
メンバーにはインド系、マレーシア系、中国系、そしてシンガポール系と多種だったが、
比較的おとなしかった。
無事に日本での研修も終わり工場は予定通り完成した。日本からの来賓として常務をはじめ関係役員、そしてこの建設に協力した日本の工事部門関係会社とを招待して華々しくオープンセレモニーは行われた。何処から聞いてきたのか、ローカルTV会社、新聞記者なども集まり、狭い工場も賑わいを見せた。(ここではホテルなど何によらず、新しい建物が出来るとかなりニュースとなることが多いと聞いていた。)
辰夫は専務と並び二人だけにしか分からない感情をお互いに共有していた。
何しろ赤道直下の暑い国である。(平均気温28度)吹き出る汗を抑えながらセレモニーも終わり、会社はスタートした。
とにかく、新製品を作り、それをユーザーへ届けテストして評価を受け使用可能の承認を得なければならない。これが最初の仕事である。
最初の一年はあっという間の時間であった。当初トラブルや問題がなかったわけではなかったが、経験と技術の習得が良かったこともあり、おおむね順調であった。
唯一つ、2年間の契約をして技術を習得させ、サインさせた幹部のメンバーは一人を除いて、この一年の間に一人もいなくなっていたことだけが計算外であった。

     思いつくままに   「春一番」

2013-03-05 09:51:15 | Weblog
先週(3月2日)に”春一番”と呼ばれる突風(風速17m)が全国的に二年ぶりに
吹いた。又、2季連続の「寒冷」でもあった。(降雪量も過去最高といわれた)
ここ10年ほどは「地球温暖化」が世界的な合言葉のように言われ続け南極の氷塊も年々減少していると聞き、同時にCO2対策が叫ばれ久しいのだが、何となく今年のような昔に返った寒さはもうないのかと思っていただけに、今年の現象には戸惑いを感じた人も多かったのではないだろうか。
世界的な不況感が消費経済を圧迫してすべての生産量を低下させたことも影響しているのかと愚にもつかないことまで想像してしまう始末だ。
しかし先週に引き続いて思いつくこととしては「アベノミクス」のスタートはやはり
閉塞感の強かった日本の突破口となったことは間違いないようだ。
それももっと言えば日銀の「金融政策」の変更にあるようだ。「ものには順序」というものがあるから、何もかもいっぺんに一気に変えるというわけにもいかない。
一年先二年先を見てどのような順序で手を打って(政策)を実行していくことでしょう。従って「デフレ対策」はまだ効果が出ていないが、慌てることはない。
「TPP」もスムーズに運ばないと思うけど慎重に進められるはずだ。
事ほど左様に日本は「動き出した」のである。つまり「春一番」が吹いたようなものだと思う。そんなわけで私たちも一人ひとりが「我が家の生活」「我が家の設計」の
見直しを迫られている気がするのだ。しっかり足元を見つめなおしてみたい。
そして6ケ月、一年先の目標をきちんと見据えて手順良く、遅滞なく進めたいものである。東日本大震災もまもなく満二年目を迎えようとしている。
まだまだ復興には時間と努力が続くが着実に目標に向かっているようだ。対象になった道県別の統計でも予想通り進んでいるとした所が50%をこえていて予想を下回るとした所が30%であった。
考えれば日本の立場も世界的な立ち位置からすれば大きな変更を余儀なくされてきた。
それは中国との関係一つ取り上げても言える。しかし日本古来の伝統的民族意識には
変わりはない。まだまだ恵まれた位置なあるのだからその優位性をたゆまない努力で
磨きつつ、それを発揮していく義務があると思う。
そしてひとりひとりがそういう意識の基で生きていくことが日本を動かし、良い方向へ世界へ発信することになると信じている。
























 コンドルは飛んだ  第41回

2013-03-01 10:52:53 | Weblog
計画は予定通り進んでいった。着手前に色々とあった問題もいつの間にか片付いて
時間の経過と共に具体的にそしてはっきりと現れた。社長は現地のシンガポールを定期的に訪問し、現場のスタッフを激励し提示される問題を共に検討し処理していった。
建屋となる工場は建ち、その中に設置される設備のためのピットも掘られ、別棟には
簡素な事務所も出来た。唯一問題となったのは「水」の取入れだった。当地は全ての
水源をマレーシアから取り入れ依存していることもあり、配水管を何処から取り入れて
どうパイプを繋ぐかと言うことは、簡単ではなかった。
当初は工場前から簡単に繋ぐことができる目算であったが、手続きをしているうちに
その場所からの取水は許可が取れないことが分かった。そして新たに取水のルートを
検討するとかなり遠方からのルートになり、そのことの工事費用は莫大な金額になることが分かった。そのほかにも当初の計画を上回る費用項目が出て、計画予算内では到底収まらないことが分かった。
それらの様子は日々現地から報告として入り、専務から社長へ伝えられた。
「どれくらい上回りそうかね。」出来るだけ感情を抑えながら静かに聞く。「最終的には当初計画した10億の倍くらいかかりそうです。」専務は遠慮がちに答える。
「と言うことは20億か」胸のうちを見透かされないように社長は確認する。そして
「そうか。止むを得ないなあ、いまさら中断するわけにもいかんだろう。明日東京へ行って来るよ。」とだけ専務に告げた。
如何に計算違いや計画変更があったとしてもこれほどの違いが出てくるとは考えられなかったし、と言ってその予算内での完成は到底無理だとも思った。
常務は「任せておけ」と言ってくれていたが、これだけ予算オーバーでは説明の言い訳も出来ないと辰夫は内心忸怩とならざるを得なかったが、いまさら言い訳もならず
常務に率直に報告した。黙って辰夫の話を聞いていた常務は、話を聞き終わると
「シンガポールは一度ぜひ行ってみたいと思っていたところでね。大変だろうが
頑張って立派なものを作ってくれ。完成を楽しみにしているよ。」と肩をたたいた。
ぐっと胸のうちが熱くなるものを感じながら、辰夫は「申し訳ありません。ご迷惑をかけます。しっかり良いものを完成させたいと思っています」と頭を下げた。