波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

       思いつくままに

2013-01-29 10:27:45 | Weblog
楽しみの少ない1月の中で大相撲1月場所が行われ楽しむことが出来た。日馬富士の
優勝は見事だったが、全体的には寒さのせいもあるのか相撲の内容が低調だった気がした。怪我をしないようにすることが先入観にあるのは仕方がないにしても、辛抱して
粘って自分の相撲の形に持っていく姿が見たかったが、残念ながら余りなかったようだ。だんだん暖かくなって体が動くようになれば内容も変わることを期待したい。
1月も終わりに近づき寒さも峠を越しつつあるのかと思いながら、数少なくなった友人知人のことを思い出していた。年齢とともにその交わりも少なくなり、中には若いころ共に仕事を励んだ人たちも亡くなってしまった人もいる。
そんな中で10年ぶりに中国から帰国していた古い知人に会うことが出来た。海外で仕事を求めてそのまま住居と仕事の本拠を中国に移し、日本へは盆暮れだけぐらいしか
帰ってこない人がいるのは聞いていたが、彼もその一人である。
もう70歳と言うから、家族もそれぞれ独立して生活しているのだろうが、家族を離れ日本を離れて海外で生活をすることは誰でも出来ることではないと思う。
(中には家庭もばらばらになったり、離婚と言う場合もあると聞いている。)
しかし、中には色々な事情やその人の信念からそういう人生の道を選ぶ人もいることを知ったのである。身なりは立派だったが、やはり顔には老人性のしみが大きく浮かび
耳には補聴器をつけて肌の色もやや薄黒くその背後の心労、苦労をしのばせるものを
見た気がしたが、これも人生なのだろうか。
庭の盆栽の梅がいつの間にか、赤いつぼみを膨らませて春を告げている。今年は
近所からいただいた「ムスカリ」の苗がある。初めて見る花を楽しみにしている。
孫から誕生日のお祝いメッセージが届いた。そこには「いくつになったの」と添え書きがあったので、「まーだ78歳だよ」と返事をしたら「ふふっつ。長生きしてね」と
返事があった。ケーキも何もない一人ぼっちの誕生日だが、心が温まったひと時であった。今年は昨年より、何らかの形で成長して「生かされている意義」と「生かされている喜び」をしっかりと味わいたいと思っている。

コンドルは飛んだ  第37回

2013-01-25 14:54:58 | Weblog
会議は終わった。静かになった会議室には社長と専務が残っていた。誰もいなくなった部屋は先ほどまでの騒がしさが消えて、いつもの静寂さと部屋の下を流れる谷川の水の音だけが聞こえてくる。冷えたお茶を飲み、おいしそうにタバコをくゆらせて二人はぼんやりと外を眺めていた。どちらもヘビースモーカーなのでタバコは欠かせない。
「予想はしていたけど、少し予想以上に抵抗が強かったね」と社長は専務へ声をかけた。専務は黙って聞いている。「こんな田舎で仕事をしていると海外に出ることなど想像もできないほどの大事件なのかもしれないな。」と独り言のようにつぶやいている。
専務は黙ったまま聞いているが、社長の言うことには納得するところがあった。
岡山とはいえ、こんな田舎の奥にいると東京はおろか都会での生活や様子を想像することも仕事が成り立つことなど考えられないことなのだろう。
つまり外部の動きに関心が回らず、日々の目の前のことだけしか気がいかないのだ。
「無理だと思いますよ。みんな自分たちの周りのことしか分からないし、仕事がどうなっているのか、これから自分たちの仕事がどうなるのかと言うことなど見当もつかないんじゃあないでしょうか。」専務もそういうとため息のように息を大きくついている。
「ところで、君はどう思っているかね。」改めて社長は専務を正面から見つめながら
聞いた。「正直言って海外工場には興味はあります。出来れば進出もしたいと思いますが、それには資金もさることながら市場が確保できるか、採算が取れるかどうかと言うことでしょうね。営業の拡販がどこまで伸ばせるのか。」
「自分もそれを考えていたんだ。資金は財務が言うように自社の力だけでは無理にしてもやりようによっては何とかなる。しかし、せっかく作った工場が採算が取れないのでは作る意味がないからなあ。問題はこれからの営業計画なんだ。」と頷いている。
「ところで営業の見通しはどうなんだろう。一度営業の考えをしっかり聞いて見なければならないなあ。」
国内の生産能力は月産、約一千トンで現状はそれを上回っている状況が続いている。
しかしそれがいつまで続くかは分からない。それに国内は飽和状態で今後は日本の
ユーザーも海外へ進出せざるを得ない状況にあることも間違いない。
その意味では売るほうも作るほうも国内だけでは飽和状態になりつつあることだけは間違いなかった。

思いつくままに

2013-01-22 09:31:57 | Weblog
或る日、何気なく午後のTVを見ていたら山田洋次監督の「おとうと」と言う映画だった。(2010年作)この頃は映画館で見る機会がないので映画を見ることが少ないのだが、山田監督の映画は「男はつらいよ」シリーズが続いていたときは年二回は必ず足を運んでみていた思い出がある。その作品は一貫して「家族愛」をテーマにして
人間の弱さと愛とを見る私たちに前面に訴えてくるものがあり、忘れかけていた大切なものを思い出すとともに、自分本位になりがちな生活を反省させ、感動を呼んだものであった。計算されない一方的な人間的な愛が如何に儚いものであり、本当の愛は男女を越えたものであることもこの映画は教えてくれていた。
そんな思い出の中でこの「おとうと」を見ていて、途中でふと「あれっ」と気がつくことがあった。主人公は薬局を営む姉と風来坊的生活をしているおとうとだが、それは
「男はつらいよ」のさくらと寅次郎の兄妹の設定とほぼ同じであることだった。
(この場合は姉と弟で逆だが。)弟は姉に色々な場面で迷惑をかけて、姉は腹を立てながら弟を決して見放さず(兄は縁を切っていた)、最後の弟の病死の場面では手を握って別れを告げている。全編を通じて特別な場面はないが、一つ一つの場面が普段の生活では見られない、あるべき姿を表現し(他人にはどう見られようとも)こうあるべきであることを教えている気がした。それは普段忘れかけていたり、見かけなくなった
「隣人への愛」であったりするのだが、これは監督自身も今の日本になくなりつつある
大切な本当の「人間愛」を私たちに気づかせ、忘れないでほしいとの願望がこめられていたような気がした。
人はとかく無意識のうちに自分本位な行動に走り、とくに自分に利することがない人との関わりを敬遠する傾向がある。それは弱い人、苦しんでいる人悲しんでいる人たちである。そんな人たちのために、何ができると言うことではなくても共に悲しみ、共に
苦しみ、共に泣くことが出来る人が「そばにいる」と言うことが必要なのである。
一人ひとりがそんな気持ちを持って、寄り添って共に「歩く」人となりえたら、世の中がもう少し暖かいものになるのではないかと思う。
そして及ばずながら、自分自身がその一人になれたらと映画を見終わったとき、
そんな思いに浸っていた。そんな、ある日の午後のことだった。

コンドルは飛んだ  第35回

2013-01-18 10:39:54 | Weblog
「確かにこの部門は伸びるだろう。しかしお客が海外に出たからといって、一緒に自分たちも海外へ行こうというのは、飛躍が過ぎる考えだ。第一どれだけの建設資金がいると思っているのか、当社のメインバンクで資金を調達できる額も限界である。
そんな金はどこからも出ない。どうするつもりなんだ。そうでなくても現在公害規制によって守らなければいけない排煙設備、廃水設備など金のかかることが多く、組合からの条件改善の意向も強くオルグの後押しもあって大変なときだ。海外工場建設などとんでもない。」この木村役員の理論は確かに正論であったろう。財務を長く担当し、かつて創立以来自前の個人企業としてスタートし、こつこつと顔料用の弁柄として販売をし自給自立をしてきた
経緯からすれば尤もである。同業他社も数社あるが、こんな状況でも海外に出るなどという話は聞いたこともなく、そんな気配もなかった。辰夫は話を聞きながら、無理もないと思わざるを得なかったが、と言って簡単に同意したわけでもなかった。
それは彼の本来の信念と生来の困難になればなるほど、燃えてくる闘志のようなものであり、それは不可能と言われれば言われるほど強く燃えてくるものであった。
木村はまだ言い足りないのか、賛成者の意見が出ないのが不満なのか、さらに語を強めていた。「もしこの提案が承認されて海外工場を作ると言うことになったら、私は役員としても株主の一人としても責任が取れません。従って会社を退社します。私が会社にいないとなれば組合もその他の人たちも、恐らく居なくなることだと思います。」と言い切った。かなり熱くなって、思い余って冷静さを欠いた発言でもあった。
専務がこの辺で発言があっても良いのだが、生来のボンボン的性格といつもそのような修羅場になるとどこか冷めて引いてしまうところがあり、何の反応もなかった。
辰夫はそろそろ出番かなと言う感じで話し始めた。「この問題は確かに会社にとっても大きな問題であり、影響も大きい。従って慎重に調査を進め検討をしなければならず、軽々に結論は出せないと思う。結論を急がず、継続としよう。」と言って締めくくった。会議に出た面々もそれぞれの思惑はあったと思われるが、地方育ちの環境に居る人たちにとっては、まだピンと来ないらしく他人事のようなところがあった。
ただ辰夫だけは「この大事業はなんとしてもやり遂げなければならない」と深く思うところがあり一人静かにこの計画の実現を夢見ていた。

思いつくままに

2013-01-15 10:23:32 | Weblog
昨日は思いがけないドカ雪になり(出かける予定があったが)自重して欠席の連絡をしておいたので、何となく「難」を逃れた気がした。
こうして日常生活をしていての楽しみは「TV」ということになるのだが、それも限られてきて何でもということはない。主にスポーツ番組に絞られるが冬の間は野球、ゴルフもない。そこで大相撲一月場所は「頭休め」をかねて貴重な時間である。
相撲は国技であり貴重なものだが人気としてはどうだろうか。若者やご婦人方にはそんなに人気があるとも思えないが、見ようによっては内容もさることながら、色々な見方が出来て興味深いものがある。
一瞬のうちに勝負が決まり、やり直しや挽回、言い訳は効かない。そして一場所ごとに順位が変わる。サラリーマンでも格付けは年一回が原則だろうし、その評価もさまざまな要素が加わり中々微妙なものがある。
しかし相撲は「あっつと言うまもなく」その地位は変わり、保証はない。まして身体が資本だから怪我でもしようものなら、場合によっては止めなければならないこともある。
そんなことを考えながら見ていると、まるで人生の縮図を見ているようで複雑な思いになることもある。
そんな中で考えれば、何となく相撲の内容が「怪我」を意識しているようで、イマイチ
迫力に欠けているように見えるのは気のせいだろうか。
野球も今は一年一度のオフシーズンで身体の手入れとトレーニングでの準備期間だが
チームの編成も進んでいる。毎年どのチームも補強にお金をかけるが、やはり若い人の力を育て、成長させることを考えて強くしてもらいたいものだ。そしてその地道な努力で成績を出しているところが頼もしい。(特にメジャーリーグから帰国した選手を高いお金で補強することは、できるだけ避けてほしいところだ)
ゴルフは日本の選手のレベルの向上を期待したいところだ。ここ数年外国選手の(主に韓国だが)成績が目立つのは何故だろう。
ゴルフも身体能力が基本ではあるが、それ以上にメンタルな要素が大きい競技だ。
その点で選手がそのことに気づき、真剣に取り組む姿勢がないとそれは結果として
つながってしまう事が多い。
今年も海外選手との争いだが、どこまでその点で成長が見られるか楽しみでもある。
そんなわけで今年も期待と予想と結果とを楽しみにして春を待ちたいと思っている。 

コンドルは飛んだ  第34回

2013-01-11 10:33:06 | Weblog
着任以来の業績はその時代背景もあり(成長期に入っていた。)順調に伸びていた。特に新しく始めた磁性材料はモーター生産に寄与することもあって時流に乗り、供給に追われるほどの生産になり、そのために新工場を増設するほどであったことは辰夫にとっても
幸運だったと言える。
毎月上京しての関係会社関連の報告も肩身の狭い思いをしないでいることができた。
帰郷すれば自宅へ帰り数日を自宅で過ごすのだが、子供たちとの関係は昔のままだった。娘はいつの間にか銀行関係の男性と付き合うようになっていたと思ったら、あっという間に結婚式を挙げ親はその席に座っただけでなにもすることがなかったし、特別なセレモニーもなかった。息子も学校(大学)を卒業すると自分で仕事を見つけて独立して
通勤していたし、父親との関係は家族的な触れ合いのないままだった。ただ久子だけが献身的に世話をしていたが、それは結婚依頼変わらない姿勢であった。辰夫はそんなときにもアルゼンチンに住んでいるカミラたちのことを忘れたことはなかった。毎月の送金はもちろん、手紙に書かれた日本の生活物資なども久子が用意してそれを送ることもあった。皮肉のひとつもあるかと思うときもあったが久子の姿勢は変わらず、女らしい心遣いが其処にはこめられていた。
東京での仕事中は自宅から通勤できることでなんとなく岡山とは違った心の癒しがあったが、それもほんのわずかな時間であり、再び岡山での生活に戻ることになる。
その頃岡山では東京、大阪を含めた全体会議で一つの大きな提案事項が持ち上がっていた。それは磁性材料の販売先の客先が日本から東南アジアの国々へ進出するという現象である。日本の人件費の高騰、人材不足を海外で満たし生産量を上げつつ、利益率も高めるということで業種を問わず日本離れが進んでいたが、その影響が自社にも及びつつあったのである。
その日は管理職を含めた普段より大勢の集まった会議であった。テーマは「海外進出について」であり、そこではかなり活発な意見が出ていた。
そのうち、次第に賛成派と反対派がはっきりと分かれてきた。辰夫は黙ってみんなの意見を聞いていたが、反対を唱える一人に財務を担当する藤江の部下のものであった。
彼の意見は「時期尚早である。当社はまだそれだけの財力はなく、まだむりである」と主張した。確かにそれには一理あり、決して間違っているとは思わないと辰夫は思いつつその場の様子を注意していた。

      思いつくままに

2013-01-08 14:40:52 | Weblog
「七草粥」が終わると急に正月気分もなくなり元の気分に帰るような気がする。
でも落ち着いて自分を振り返ると少しづつ疲れやすくなった肉体と、ともすれば折れやすくなっている心に気づいて、変わりつつあることを自覚できる。
しかしこうして健康を持って生かされていることは大切であり、貴重な時間でもある。そう思い直すと日常生活を如何に充実して過ごすか、そのために何を柱にして生きるかを
きちんとして、忘れずに生きることが肝心だと自戒している。
初詣に出かけて願うことが正月(年の初めの)恒例になっている。この時ばかりは神(各人異なるが)の前に神妙に祈り、ささげもの(お賽銭)をする。その願い事であれ、望みごとがかなうことを願うのである。しかし、それはその時だけであり、その願い事や希望が適わないと、殆どの人がその神も祈ったことも忘れて自分の力、考えで行動している。
神はその時点ですっかり消えてしまっていることになる。
しかし本当の神に近づき神に語り、向き合うこととは本当の祈りにあるのだ。それは
その求めや願いが叶うとか、叶わないと言うことではない。祈りは神の求めに応えて語り合うことにある。決して自分の思いを聞いてもらう(それは良いのだが)叶えてもらう事にあるのとは違う。従ってまず自分が生かされ神と語り、神に求められることに「感謝すること」が第一にならなければならないと思う。
現実的にはこの世における様々な苦しみ、悲しみ、悩みはなくなることはない。時には
欠乏、喪失を味わうこともある。自分自身の悲しみや苦しみも当然生まれてくる。
それらを消してもらいたいと求め願うこともあるが、その中にあってもまず感謝して
祈る姿勢が求められているのだ。自分がどんな状況、状態に置かれてもこの姿勢を忘れず
この姿勢のうちで心の嘆き、願いを注ぎつつ生きることが大事だと考えたいのだ。
この一年にどんなことが待ち受けているのか、何が起きるのか、誰もわかっている人はいない。政権が変わっても大きく自分たちの生活が変わるわけでもない。
とすれば、自分自身でどんなとき、どんな状況におかれても「感謝して祈る」ことを
忘れずに守ることができれば、不安な時を持たないで生きることができるとそう信じて
そう願っている。

 コンドルは飛んだ   第33回

2013-01-04 10:55:04 | Weblog
新しい着任地の岡山本社は県北の村はずれの峡谷にあった。製造中に出される煙(亜硫酸ガス)であったり、使用される水(無害)が真っ赤に染まって川に排出されることがあり、住宅生活圏から離される原因となったらしい。(後年この事が公害問題として大きな障害となるのだが、その時点では法的規制はなかった。)
辰夫は着任すると住まいを親会社が管理していた社宅に入ることにした。とは言っても
そこは嘗ては立派な来客用の施設であったが、歴史を経て古びたままと言うこともあり、
座敷には夏になると蚊帳のうえにムカデが落ちてくると言う古さであった。まかないは近所の人によって用意されたが、今までのような内容の食事はとれず、都会の生活から考えればとても想像できないお粗末さであったが、辰夫は何の不満も言わなかった。
本社工場までは距離で20キロほどあり、少し時間がかかるが、始業の一時間前には出社して社員の出てくるのを待っていることになり、以前と違う空気に社員の間にも今までと違う空気を感じていた。本社工場は7時からの体操から始まり工場長の挨拶で仕事に就く。
会議は役員会議、管理職会議が定期的に行われていて、それが踏襲された。
役員は自分とともに出向してきた財務の藤江氏との二人で後はプロパーの全役員がそのまま留任している。(社外役員でT社の株主が名簿上登記されている。)
専務は前オーナーの孫に当たる木内氏であり、その他主に生産部門の責任者であった工場長、また藤枝氏の前に財務を担当していた大村氏、その他東京、大阪の営業所の所長などがいた。辰夫はそれらの人物をつぶさに観察し、その評価と力を見極める事から始めていた。やはり大会社と違いその人物構成も大きく違うのは仕方がないとしても、これらの人物を如何に生かし、これからの成績をのばすかということの長所と欠点をみきわめなければならない。辰夫は当面の地元のあいさつ回りが終わるとすぐ、社内の内情を内外含めて把握することに専念した。
そしてその結果、この会社の欠点、また今後の将来そして利益追求への道筋をどのようにすべきかに計画立案することに着手することであった。
しかし彼は表向きには田舎の老人風に振舞い、決して目立つことなく権力を振るうこともなく、目立つことはしなかった。
それは日常の行動にあらわれていた。昼休みなるとほほかぶりに麦藁帽子、長靴での事務所脇にある畑の農作業、その成果は社員も目を見張るほどにプロのできばえで立派だった
が訪れる来客がその姿を見ては「社長さんはどちらでしょうか」と間違えていたのも
むべなるかなと言ったところである。、

思いつくままに

2013-01-01 10:23:06 | Weblog
「元旦や冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」正月を迎えるたびにこの句を思い出し、妙に納得していた。しかし今年の気分は少し違う。
前半はこれで良いのだが、後半は「目出度くもあり、目出度くもあり」としたい。年をとるごとに迎える正月を健康であることを感謝する気持ちが年々強くなることとこの尊い命を
無駄にすることなく、成長させたいと考えるからである。
今朝の新聞に「人間の個性と言うものはその人の持って生まれた貴重なDNAと長い年月の間に培われた止むを得ない生活の重荷からできた性癖との相乗作用で生まれたもの」とあった。そして所詮人間はすべて善と悪、賢と愚を併せ持った存在でもある。そしてまたそれぞれが個性を持って生きるべきものだ。
ここ数年、衰える肉体と精神を自ら叱咤激励しながら生活してきた気がしている。
(もちろん無理はできないので、適当に心も体も休ませながらであるが)
そんな中で少しづつ芽生えてきたのは今までに考え得なかった、新たな思いである。
それは自分本位な生活ではなく、自分を犠牲にする控えめな(少し大げさだが)生活態度の構成であると思っている。それは自慢でも大げさでもなく自分自身が平安の中にいることができる喜びでもある。
人は生きている限り(生かされている限り)その意味があるのだ。それは存在が何らかの形で意味を持たなければならないであろう。
老いてすべてに役に立たない存在におかれながら、迷惑をかけないでいる存在であることは自分自身の「成長」でしかない。
その為にはわがままも忍耐も困難もあるかもしれない。しかしそれらを克服しつつ努力を重ねることがその存在感を生かすことになると思うからだ。
昨年も振り返ると僅かながらそんな時間を持ちえたと一人で微笑むことができる事もできた。(まだこんなことができるのかと自分でも信じられない時間でもあった。)
今年はどんな一年を過ごすことになるのだろうか。まったく予想も想像もつかない。
こうしたい。ああしたいと思っても思うようにならないのが人生でもある。
その中で生かされている尊い時間を如何に苦悩しながら成長を目指すのが大人の魂であり、勇気と言うものの証でもあると思う。
良いことばかりあると言う期待ではなく、どんな状態に置かれても「GО FOR
BREAK」の精神でいきたいものだと考えている。