波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思い付くままに   「バザー」

2013-09-30 10:37:40 | Weblog
最近はこの言葉を聞くことは殆どなくなった。一昔前は公共施設(学校)他では様々な形で派手ににぎにぎしく行われ、そのたびに大勢の人がお祭り騒ぎのように押しかけ、その成果も大きかった。しかし時代とともに世の中も変わり「物不足」から「物あまり」の時代になり、人々は豊かに又ぜいたくな状況になった。生活用品は何でも手じかに手に入るし、しかも安い。(100円ショップ)従って一時人気のあった「フリーマーケット」もいつの間にかすたれて、来客につながらなくなりました。
そんな中で、しかも台風が関東を通過するという天候の中で(16日)「バザー」を開くことになったのです。「物品販売コーナー」には電化製品、文房具、衣類などが並び、(すべて会員の献品)もちろん新品に近いものばかりで良いものであった。併せて食堂部は、カレー、コーヒーのほかにデザートにジェラード、チジミ、ホットクなど、子供用にはかき氷に
お菓子のつかみ取りが用意されていた。会場は10時30分としていたが、こんな悪天候にもかかわらず、時間前に来た人もいた。何となく一般の客とは違ってある種の品を物色するためのような雰囲気で生活物資はどこに置いてあるかと聞いていて、何か目的の品を探す風であったのが、気になった。そして始まったのだがさすがに出足は悪く、主催者がウロウロするのが目立っていたが、台風がおさまり、天気も回復すると同時に客足も増え、終わるころにはそれでも70人ぐらいの来客があり、そこそこの売り上げもできたのである。
終わってみるとその成果はともかくこの行事に参加して共にこの仕事に携わったこと自体が大きな収穫であったことに気が付いたのである。
普段は交わすことのない楽しい会話、笑顔、笑い声、それは日常の生活から解き放たれたストレス解消のの場でもあり、交わり睦びあいの場を自然な形で全員が味わうことが出来た時間でもある。「ばざー」は収益を目的にするのではなく、こうして人と人とを自然に結びつけて交歓の場とすることが出来ると考えるとき、それは予測できない喜びをそこに発見することが出来るのである。
日々の暮らしに戻ると現実に戻り、深刻な問題を抱えながらそれに立ち向かう日々がやってくるのはやむを得ないが、だからこそこんな機会、時間があっても良いのかなとつくづく思わされたのである。老いも若きも年を忘れたひと時であった。




パンドラ事務所  第三話  その5

2013-09-26 15:49:32 | Weblog
会社の所在地も自分が勤務した場所から移っていた。受付にて来訪を告げると訪問部署の名前を聞かれる。かすかな記憶をたどりながら名前を告げると「お待ちください」とロビーへ案内された。当時は「奥ノ院」と称されていた役員室へもしばしば出入りをして気軽に話が出来ていたが、今では鉄壁の「鉄のカーテン」になっていた。
暫く待たされたが、見慣れた昔、一緒に仕事をした女性事務員が近寄ってきた。「青山さんじゃない。暫くです。お元気でしたか。」と懐かしそうに私の顔をしげしげと見ている。「こちらこそご無沙汰しています。お元気でしたか。」とあいさつを交わす。一人だけでも知っている人がいてくれたことをほっとした思いで感じていた。
同じ部署に一人だけ配属されていた女性だったが、まだ在籍していることは婚期を過ぎて
独身を通しているのか、結婚して共稼ぎで働いているのかであろうか。
「忙しいところ、突然で悪いけど30分ほど時間をもらえるかな。」率直に聞いてみる。
「いいわよ。ちょっと断ってくるからここで待ってて」というと、戻っていったが、ほどなく帰ってきた。「会社では話しにくいでしょう。下にお茶するところがあるから、そこへ行きましょう」と案内してくれる。
テーブルについて落ち着く。「会社もすっかり変わって若返ったみたいだね。」「そうよ。だから私なんかすっかり小母さん扱いだわ」と口をとがらせている。それ以上は詮索しないで早速本題に入ることにする。
「君、昔一緒に仕事をした杉山君のこと覚えているよね。」「もちろん知っているわ。あのときのことは忘れられないもの」「そうだろうね。一緒に仕事をしていたことだし、あんな事になっていたなんて夢にも思わなかっただろうから。だけどあの日は昼間だったし、誰か杉山君のことを知っている人はいなかったのかな」と探りを入れてみる。
「私は気が付かなかったけど誰かいたかもしれないし、居なかったのかも、良く覚えていないのよね。」「机の上にはパソコンや書類が置いたままだったと聞いているけど、本人が
居ないことに不思議に思った人はいなかったんだろうか。」「気にしていなかったのかもしれないし、もし気がついても当人がそのうち帰ってくると思ってそのままになっちゃたんじゃあないかしら」このまま会話を続けても新しい情報は得られそうもないと気が付いてきた。そして時間だけが過ぎていた。「いやあどうもありがとう。忙しいところ悪かったね。」そういうと青山は伝票も持って立ち上がった。

思い付くままに  「続 術後所感」

2013-09-23 07:05:57 | Weblog
過日「7/8号」で胃がんの手術を受けた友人の様子を書いたが、友人はその後7月の初めに退院していた。入院中は点滴が主体のため体重も減り、少しやつれていたが元気で退院した後その後もともに食事をしたり、語り合う時間が持てるようになっていた。
(もっとも食事は形だけでほとんど食べれなかったが、)そして8月の末ごろ、家族旅行に出かけると言っていたが、帰ってきてから姿を見せなくなった。
9月になって連絡があり、近所の病院で入院しているという。どうしたのかと聞いたら旅行から帰って腰を痛め(ぎっくり腰?)、食事がとれなくなり、食べても吐いてしまう状態が続き、このままでは体が弱ってしまうということで点滴入院をしたということだった。そしてその後大学病院での検査をしたところ尿道が詰まっていてひ尿科の検査の結果を小水袋をつけて、再び点滴入院を継続することになった。
食事は相変わらず取れず、栄養剤の点滴を再開して様子を見ている状態が続いている。
これからの予定としては泌尿科での治療(手術?)月末頃する予定であり、其の後のことは様子を見ながら進めるようである。食事は3分がゆ程度は口に入るようになり、徐々には回復に向かっているが、果たして健康体にどこまで回復するのか、まだ予断を許さない状態だ。
あるドクターのコメントによると「高齢者が突然の入院とか、手術と言う環境に置かれると今までの習慣をある意味、忘れた状態になり、精神的な変化をきたすこともありうる」と言うことを聞いたが、ギリギリのところで保っているようにも見える。
これから泌尿かの手術を受けて9月いっぱいは病院生活が継続することになる。考えてみれば胃がんの手術を受けてから3ケ月を病院で過ごしていることになる。
会って話す分にはとても元気で変わらないが、さすがに体力は落ちていて、体の動きもおぼつかない状態である。胃がんの手術は順調に終わり、徐々に健康を回復すると思われたが、これほど長く又余計な処置を要する箇所が発見され、そうでなくても弱っている老体を弱くしている姿を見て、他人事には思えず「他山の石」として、励ましながら
自分の体調に注意を払っているのだが、高齢に向かうことがいかに体力を上手に保つことにあるかをつくづく思わせるのである。
縁あって、友人となり、隣人としての付き合いが出来ている。早い回復を心から願っている。

パンドラ事務所  第三話  その4

2013-09-19 10:59:18 | Weblog
私も嘗ては一緒に机を並べて仕事をした仲である。口下手で学歴もなかったが、人間性では誰にも負けないものがあった。朴訥さの中に真面目さがあり、その熱心な集中力は誰も負けなかった。自宅が館林にあって通勤には2時間以上かかっていた(早朝から深夜まで)ただ一つの楽しみは帰宅時の列車で飲むワンカップの酒であり、飲んだ後の転寝で見る夢は可愛い娘たちと愛する妻の姿であったろう。それはカラオケで歌う彼の「関白宣言」の詩に込められていた。私は彼の歌を聞くたびにそのこめられたものを感じていた。
いつもは静かな酒であり、良い酒なのだが忘れられない酒にまつわるエピソードがある。
一つはゴルフ場での出来事で昼食の後の午後プレーまでの待ち時間が長く、彼はその時間に相当の酒を飲んでしまっていた。いざ午後のプレーが始まると彼はドライバーを取り出し最初から最後のグリーンまでそのドライバー一本でプレーを続けてしまった。キャデーが何度か注意していたが、全く聞こえないかのようにプレーして終わったのが、あの光景は忘れられない。そしてもう一度はある年の正月早々のあいさつ回りの出来事である。
当時はまだ景気が良かったこともあり、得意先回りに行くと玄関のテーブルに祝い酒が置いてあり、挨拶が終わるとすすめられたものである。嫌いでない彼は行く先々でその酒を
一杯づつ飲んでいたのだが、お昼頃行った台湾との貿易をしている華僑の社長から中国製の強い酒(白酒60度)を紙コップ一杯すすめられた。さすがに彼も遠慮していたが、頑として飲めとすすめる相手に負けて、一気飲みをした。それからあいさつ回りは続いて
最終の会社へ向かった。時間も夕方近く、その会社では早じまいをして乾杯をしている最中であった。そこでも出された酒を飲んだのは良かったのだが、その後彼の態度は豹変したのである。飲み終わった酒瓶を持ったまま立ち上がりそのまま動かず、帰ろうとしない。何人かで何とか車に乗せて仲間の東京のアパートまで連れて帰り、そこで寝かそうとしたのだが、頑として車から降りない。(どうやら自分の家でないことを無意識に悟っているらしい)仕方がないのでそのまま東京から館林まで車で飛ばして、家まで送り届けたのだが、その時すでに靴は片方ゆくへ不明、スーツはどこで汚したのか、泥だらけと散々だったが、無事に返すことが出来た。
青山は彼の奥さんと話しながらそんな彼のことを思い出していた。そんな彼の優しい姿をもう見ることはない。
「わかりました。私も定年後会社には顔を出していないので、その当時の人がいるかどうかわかりませんし、話を知っている人もいるかどうかわかりません。でも一度訪ねて聞いてみましょう」そう言って彼女と別れた。

思い付くままに  「集中豪雨と新幹線」

2013-09-16 06:02:56 | Weblog
過日10数年ぶりに所用で姫路まで行くことになった。東京駅で手土産の買い物をして、現役のころ出張で出かけるとき、良く買った「牛めし」弁当を探してみた。一頃この弁当が人気で、買いたいときに「売り切れ」になることが多く、悔しい思いをしたが、今回は買うことが出来た。定時にスタートした列車は順調に走り、名古屋を通過したころ弁当を開けた。昔は大きく薄く柔らかい肉が白飯の上に一面に載っていて口に入れると肉の香りがしてその柔らかな噛み味がマッチして、何とも言えない食感を十分に味わえたのだが、やはり時を経て、その中身も変わったようで牛肉も昔に比べて固く、筋っぽい感じで味も大味であった。しかしその弁当を食べながら当時のことを思い出すには充分であった。
要務を終えて会社を出るころから土砂降りの雨になっていて、何となく悪い予感を覚えながら駅まで行くと、案の定ダイヤは大幅の遅れである。取りあえず姫路駅に停車中の新幹線に乗ってはみたが、一向に走る気配はない。
時間は午後の3時過ぎであったが、それから西明石、新神戸とノロノロ運転となり、新大阪でこの列車は運転中止、東京へは乗り換えて大阪までの折り返しの列車に乗り継ぐことになる。ホームには乗客があふれ、いつ来るともわからない列車を待っている。
ようやくのことで乗った列車は午後の6時ごろ大阪をようやく発車、雨が小降りになったこともあってそのまま新横浜まで定時で走った。これでいけば9時ごろまでには東京へ着くとほっとしていたら、品川駅で止まったまま一向に動かない。
東京駅へ入線の列車が数珠つなぎになっていて、いつ順番が来るかわからないので、ここで山手線への乗り換えを勧めますとのアナウンスである。
しょうがないので降りたものの、特急券の払い戻しの清算所は長蛇の列でこれまた何時までかかるかわからない。あわてて後日の清算の証明書をもらい、上野駅へ、この時すでに午後10時を過ぎていた。
そして自宅へたどり着いたのは11時過ぎと言うことで、定時なら7時ごろには家に着く予定が4時間も延着と言う、まさに綱渡りの一日で「行きはヨイヨイ、帰りは恐い」を字で言った一日となった。
もう二度とすることはないと思われる貴重な経験であったと思うと同時に、雨に弱い新幹線であることと、最近の天候不順を身をもってした経験であった。
途中で一泊も考えたり、夕食のこともよぎったが、それどころではなく、帰ることだけで夢中だった。

パンドラ事務所 第三話  その3

2013-09-12 13:33:32 | Weblog
彼の死の知らせを受けた時から青山は疑問を持っていた。事は勤務中のことであり、仕事中である。デスクの上にはパソコンが開かれていて書類(資料)が置かれそばには筆記用具もおかれていたことだろう。時間は正確にには不明だが、おそらく午後の早目の時で昼食後間もないころだろうか。そしてその儘彼の姿を見たものはなく、その日は過ぎたのである。つまりその部屋の人たちは外出していた人も中で仕事をしていた人も定時または残業を終えてそのまま帰宅したことだろうと思われる。彼の机の上はそのまま誰もその状態であることに関心も持たず、奇妙さも不思議さも持たなかったのだろう。
(中には一人ぐらいおかしいと思った人がいたかもし得ないが、そのことで行動した者はいなかったらしい。)
「死因は分かったのです」「警察医の話ではくも膜下出血とのことでした。詳しいことそれ以上話してくれませんでしたが、発見が早く緊急の手当てが出来れば後遺症は残ったとしても命は助かったかもしれないと思うと悔しくてたまりません。」と涙を流している。
「そうでしたか、それは残念でした。それにしても驚きましたね。信じられないくらいのことで、誰か気が付いた人がいても良かった気がしますね。会社からは何か説明がありましたか。」「特別話はありません。葬儀の時にお世話になり参列していただいただけです。」その後、家族と親戚の者が集まって話をしたときに、会社のほうへ仕事中のことでもあるし、労災事故として取り扱っていただけないか聞いてみたらと言う意見もありましたが、先方から言われないでこちらからの話となると裁判に持ち込まれて結局は力関係で負けることになり、時間と経費だけが無駄になることになるのが落ちだからやめましょうとなりました。」そうかもしれない。世の中のことは正義とか、道義とか言っても、
いざとなれば法律でしばられて、力関係で終わってしまう。人情とかと言うものはあっても別のところで泣き寝入りになってしまうことが多いことは分かっていた。
「それで今回のお話へどんなことでしょうか。」「もう終わってしまったことなので、いまさらどうのこうのと言うことはないのです。ただ、その時の様子が少しでもわかれば、聞きたいという思いがあって、その時にいた人から話が聞ければ知りたいと思っているのです。」そうか、そういうことか。妻とすれば死んだ夫のことが忘れられずにいることも
その時のことを知りたいのも人情であろう。
青山は話を聞きながら自分も同じ思いになっていくのを感じていた。

思い付くままに  「新聞」

2013-09-09 11:45:35 | Weblog
日々の生活に欠かせないものに「新聞」がある。しかしその新聞も年に何回か休刊日があり、今日がその一日になった。この日は発刊、配送ほかこの仕事に携わる人たちが休息できる日として理解できるが、それでも新聞がない一日の朝は何となく忘れ物をしたような
寂しさを感じるのは長い習性の為なのか、それともそう思うのは私だけなのだろうか。
その新聞の読者が年々減っていると聞いたことがある。(実際の統計は不明だが)その人の話によるとパソコンをはじめスマホの普及の影響だと言っていたが、もしそうだとすれば大変さびしい思いだ。
それは新聞は単なる情報伝達だけが目的ではないからだ。この事はもう少し大きくいえば若者の「文字離れ」にもつながっている気がする。最近は読書の時間を持つ人も少ないと聞いているが、この様な流れが何時か人間自体を変えていくことにつながっていないだろうかと思うからだ。
確かにこれだけTV、ラジオ、その他の機能が普及すれば世の中の動きについてはすぐわかることだろう。しかし、「知る」と言う段階から「気付く」「考える」「省みる」
「改める」「反省する」段階へと進むのは「文字」を読み、自分の心をそこに置き、そこから生まれてくる新しい思いがなければならないと思うのだが‥
私の好きな欄として「コラム」と「海外」がある。その欄から海外情報の最小限の動きが読み取れる。そしてその海外の動きが何時、どのような影響をもたらすかは何となくわかるのだ。(例としてガソリン価格他)そして現代では海外の影響なしには日本の存在はないともいえる。「コラム」はその時局にあった問題をその人なりに解釈した解説として
自分も理解と勉強をして共有する場でもある。当然自分なりの理解と考えをそこに映してみて、足りなさを補い、知見として加えてみたいからだ。
嘗ては新聞の連載小説も楽しみの一つであった。短い文章のためにその続きを、結末を
早く知りたいと焦って読んだ覚えもある。しかし、時代とともに内容も変わり、自分の年齢に合わせて考えるとき、昔ほどの情熱と興味はなくなってきた。
また、「連載漫画」も新聞の呼び物であり、人気であったが、これも「さざえさん」を最後に見る機会がなくなった。サザエさんのあの人情と機微とユーモアにあふれた内容の漫画は今後生まれないだろうか。さびしい限りである。
新聞とともにその日の一日が始まる。それは人生において二度と来ることのない日々を
過ごすことでもあり、その日をどのように過ごすかと言うことでもある。そんなことを覚えながら新聞を思う。

パンドラ事務所  第三話  その2

2013-09-05 11:24:27 | Weblog
杉山氏は同業他社からの入社で異色だった。考えてみると青山と一緒に仕事をした仲間は何人かいたが、全部現地採用で本社採用の人間はいなかった。人手不足の時代背景もあったが、一人は青山の自宅の隣にあった電気店へ集団就職で田舎から出てきた中卒の青年で
転職の相談に乗ったのが、きっかけで採用が決まった。もう一人は優秀なゴルファーの道を歩んでいたが、周りからちやほやされて酒を毎日ごちそうになっているうちに糖尿病で体をかわしゴルファーを断念しなければならなくなり取引先の兄が何とか引き取って
仕事をさせてくれと頼まれた変わり者だった。女性事務員も青山の友人であった人形作りの指導していた女性の所へ習いに来ていた人を紹介してもらった。
「そんなに困っているなら言ってあげても良いわ」と言う感じで、何となく頼んできてもらった形になっていた。こうして全員をそれぞれ見比べるとそれぞれ個性があり、寄せ集めでできたチームであり、ある意味ばらばらのメンバーであった。昔映画で見た
「荒野の7人」黒沢監督作品を思わせる顔ぶれだった。
青山自身も転身組だから、本社から見れば「外人チーム」とみられていたことだろう。
その中で杉山君は同業他社で中堅の営業マンとして経験があり即戦力で計算できた。
彼のいた会社が事業部の刷新で当該事業部をクローズしただけのことであった・
そんなわけで彼とは特に話が合い、青山とはゴルフを通じて親密にしていたが、、青山が定年で去った後も親会社に引き取られて頑張っていたらしい。
青山は親会社との合併後のことは知らなかったが、彼は定年まで仕事を続けたいとエリートの中で肩身の狭い思いをしながら頑張っていたと聞いていた。
いつの間にか、「去る者は日々に疎し」の言葉のようにいつの間にか忘れていたが、ある日突然昔の同僚から電話があり、彼の「死」を知らされた。
苦らしいことは分からなかったが、仕事の勤務中だったということであった。
「あの日のことは忘れられません。主人から電話もなく世を過ごした朝、警察から電話があり、呼び出しを受けました。駆けつけると汚物にまみれて冷たくなった主人が霊安室に横たわっていたのです。警察の話ではビルの清掃員がトイレで発見したとのことで一応変死体として取扱い手続きが終わったとのことでした。
いつもならどんなに遅くなっても駅から電話があり、迎えに行っていたのにどうして電話がないのかと思っていた矢先でした。」奥さんの話は初めて聞く彼の死の様子だった。

思い付くままに   「心の病」

2013-09-02 11:12:06 | Weblog
最近の新聞のニュースに「心の病」にかかっている人が急増していると出ていた。
(2008年から2011年の3年間で20%増)統計によると原因は仕事のストレスによることが主でリーマンショック後の景気低迷から企業のリストラ、そして雇用不安が発端となり具体的には「仕事量のノルマの消化」「集中力の時間荷重」「部署内の意見の食い違い」「結果が実績にならない」などの現象である。改めて自分がサラリーマンの頃を省みて時代背景の違いと環境の違いからくる適応性の難しさを思わされる。
単に比較と違いだけで片づけるのは簡単だが、それだけでは済まないと思うのは、その当事者の責任として片づけられない問題だと思うからである。
す人を取り巻く家庭環境、家族、友人など関わりのある人たちの影響も考えなければいけないと思うしもう一つは将来への展望をどう見ることが出来るのかと言うこともある。
今は「薬物治療」でしのいだとしてもそれは根本的な解決にはならないし、永久的な回復とは言えない。それは何の保証もなからだ。「心の病」であれば対処療法ではなく、やはり「メンタル療法」と言うことではないだろうか。
ゴルフのトーナメントではその成績がその選手の体力、技術だけではなく、精神的な面において如何に平常心でプレーできるかを重視してその総合力をはっきさせるべく、メンタルトレーニングを住してトレーナーをつけていると聞いている。
つまり現代的な「セラピスト」の必要を認めているのである。サラリーマンの場合も同じように、何か精神的な支えになるような存在が必要な時代なのだろうか。
日本では最近「うつ病」「アスペルガー症候群」ということで治療を受けていると聞いているが、残念ながら日本では海外(とくにアメリカ)のような専門のメンタル治療が進んでいないことも増える原因になっているのかもしれない。
この分野は短期的な結果は得られない。患者と相対して長期的に心の動きを丁寧に分析しながら、進める必要があるので、忍耐と困難を伴うことになることもある。診るほうも診られるほうもそれだけの正直な病理的な時間が必要である。(途中で中断すれば、そこから悪化することもあるだろう)これからの日本の若者が少しでも能力を損なわないで力を発揮する環境と能力を維持するためにもこの分野の充実が急がれ宇野ではないだろうか。