波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「ボリビアに生きた男」」  最終回

2019-06-24 10:06:47 | Weblog

定年近くまで彼との交わりは続いた。岡山の不便な田舎で数十社ある中で立派に成長させその役目を終えることができた。その中でもシンガポールの海外工場を成功させることができたことは彼の先見の明と大会社の本社の強力な協力があってしのことであり、彼の人徳であったかもしれない。そして錦の旗を立てた彼は当然本社へ役員として迎えられると誰もが思っていたが、伝統の歴史のある本社の人事としては彼を役員として迎えることをせずかろうじて「顧問」として本社への帰還となった。彼はそこで数年の時間を静かに過ごしやがて定年を迎えて家庭へ帰ることになった。私もまた定年までの務めを終えサラリーマンを終了し家庭へと帰ったのだが。その途中において妻を天国へ送ることになったことは後悔の最大なものであり、罪悪感を残す結果となった。そして数年過ぎたある日のこと、彼から電話を受けた。「ぜひ話したいことがあり、また頼みたいことがる」とのことであった。現役時代と少しも変わらぬ姿に接し懐かしく話をしていると突然自分が肺がんであることを告げた。病院での診察でそのことを告げられ治療につては手術は年齢的に無理であり、ほかの治療も限界があってあまり効果がないとのことで余命2年という宣告であった。(つまり象の背中の主人公と同じ)そして残された時間の中で彼が望んだのが海外工場建設に携わさわった一人の役員のことであった。彼の生涯であの事業は一世一代のことであったのだろう。もう一度三人で会い、食事を共にして語り合いたいとのことであった。早速連絡を取りその時間を共にして彼の話を聞くことになったのだが、いつもと変わらぬ彼の姿を複雑な思いで見ることになった。彼はもう一つ最後に済ますことがあった。それはボリビアに残した婦人への最後の送金であった。次第に失いつつある体力を使い東京での手続きを終えてその責任を果たしていた。そして分かれた翌年彼は自宅で静かに最期を迎えたとのことであった。人の人生はそれぞれであるが、私はこの人を通じて人生とその最後の迎え方、そして生き様を彼ほど明確にしらされたのはこの人だけである。そして自分もまたどのように最期を迎えるかを考えさせられたのであった。


「ボリビアに生きた男」  ⑤

2019-06-17 10:22:19 | Weblog

彼がボリビアへの辞令を受けたときに二人の子供がいた。上の娘は小学生、そして下の男の子は入学前の可愛い盛りであった。仕事が忙しく普段でも子供との接触はあまりできないのにこうして海外ヘ離れ離れになり、一年に一度の短期の帰国休暇ではスキンシップもままならない状況の中では無理もない事だったかもしれない「小父さん」と呼ばれ、そのままに育っていく子供の姿に親としてやり切れない思いがあったと思うがその感覚はそのまま帰国後も変わらなかった。彼との関係は仕事の上では今まで以上に親しくなり、理解も深まり時、当に経済成長期と相まって一気に成長していた。日本の企業は海外への進出を図り、取引先のユーのザーは軒並み海外へと進出していった。私は会議ごとにこの変化を見て我々もまた海外へ進出すべきだと主張した。元来海外志向の強い彼の考えとも一致し社内の反対もあったが、彼は東京の本社へ稟議を起こし数十億の予算を獲得させ、早速調査に乗り出した。そして数か国の調査の結果出来たのが、シンガポール工場であった。私もその恩恵を受けて台湾を中心に、中国、マレーシア、ほかの国々との取引ができたことは彼のおかげであったと大会社を親として持った恩恵を思わざるを得なかった。(地方の会社のままでは絶対あり得ない)そんな動きの中で彼のボリビア物語は続いていた。ある日。例によって仕事帰りに夕食をご馳走になっているとき、居間のピアノの上に飾ってある写真を私に見せながら「この人は私の恩人だ」と説明した。見るとスペイン系の鼻筋の通った美形の婦人である。ボリビアでの生活で何度か風土病や現地人の襲撃など危険な状況のたびに身をもって助け、協力して命を長らえることができたことを忘れられないと帰国後も定期的に文通をしながら金銭的にも協力していると語ってくれた。


「ボリビアに生きた男」   ④

2019-06-10 10:22:32 | Weblog

彼もまた人の子であった。人一倍努力もし頭もよかった。そして立身出世を望んでいた。しかし人の運命はその人の思い通りにはいかない。管理職になり人の上に立って仕事ができるようになった時、突然与えられたのは南米はボリビアの事務所の責任者であった。彼の運命はそこから彼の思いとは違った方向へと進んでいったのかもしれない。当時は日本を離れて仕事をすることは家族との別れを思わせ水杯きほどの重さがあった。羽田からの出発には大勢の社員の見送りがあり、万歳の歓声が上がっていた。彼もまた小さかった二人の子供を置いての旅たちであり、複雑な思いの中での決心であったであろう。私との交わりが始まって最初に聞いた話は、ここでの10年以上生活したボリビアでの話であった。外国は台湾だけ始めていったことはあったが地球の裏側になる標高4千メートルの南米の話となると想像もつかない、珍しくまた大きな驚きと好奇心をもたらすものであった。上京し仕事を済ませて郊外にある彼の自宅へ送ると夕食をご馳走になりながら聞かされる話はボリビアの珍しい話で、それは私の好奇心を掻き立ててまるでおとぎ話を聞くように楽しかった。彼は江戸っ子の特有の歯切れのよい口調で何のこだわりもなくすべてを正直に話してくれた。私は話が始まるたびに「今日はどんな話題か?」と興味津々であった。中でも印象に残っているのは「手帳」だ。彼の手帳にはその日の事項が記されているのだが、それが一言一句正確なスペイン語である。「これだと日本では誰に見られても簡単には分からないように」というのが説明だったが、克明に描かれた分厚いその手帳は素晴らしい宝物に見えたものだった。現地での生活は日本人の大半は高山病の影響を何らかの影響を受けて普通の生活に適さないことが多い。どんなに頑丈な肉体でも血液の免疫が合わないと活動ができない。また一日の気温が零度から30度近くまで変化することなど日本では考えられない世界だ。そんな話の中で彼がぽつんと寂しそうに語り始めた。「ママ、あのおじさんいつまでいるの」


「ボリビアに生きた男」」 ③

2019-06-03 08:39:05 | Weblog

「事実は小説より奇なり」世の中の実際の出来事には作られた小説より不思議で変わったことがあるとイギリスの詩人であったバイロンが言っていたとされているが、私もまたただ一度の人生でこれほどに影響を受けた人物との出会いになり、またその感化を受けることになるとは想像もつかなかった。大会社の関連会社ということになったが組織はそのままで営業活動も今まで通りであった。ただ東京駅の八重洲にあった本社へ連絡と報告の義務が課せられ、週に三日ぐらい顔を出すことになった。小さな地方の会社と違い、学閥のエリートで構成された会社の雰囲気はまるでお役所であり、緊張感で包まれ言葉使い立ち居振る舞いなどすべてが異なって息苦しいほどであった。社長のS氏は当然ながら毎月一回上京して関係部署の役員との打ち合わせと報告義務があり、その都度東京事務所に立ち寄り市場状況をヒヤリングして得意先訪問をしていた。こうしてS氏と私の関係が始まったのである。どんな人でどのように振舞うかと悩んでいたが、大会社の人の持つ特別なエリート感もなく庶民的に親しく話してくれるのでほっとしていた。問わず語りで聞いているうちにその人となりが分ってきた。生まれは東京の谷中で、いわゆる「江戸っ子」」といわれる気質で男気をもち、気取りはない。本人は本社の王道を出世街道としたいと夢見ているようであったが、本人の希望がなわず田舎の関連会社となった当社への出向となったらしい。サラリーマンの夢は上り詰めて最後は役員になることであり、あわよくば社長となることであろう。彼もまたその一人だったのである。本社から辞令を渡されたとき「必ず役員として迎えるからしばらくしんぼうしてくれ」と引導を渡されたと話していた。