もうひとつ、環境省に ガムバッテもらいたいこと。
それは、デポジット制の 導入。
今日の朝刊に、
「はじめまして。自動車リサイクル法です。来年2005年1月にスタートします。」
等と書かれた、自動車リサイクル促進センターの 広告がありました。
新車を買う時に、リサイクル料金を払うんだって。
または、今度の車検の時か、廃車にする時。
これって、モノは 大きめだけど、デポジットですよね。
もっと身近では、飲料用の瓶、缶、ペットボトルなど。
ごみは出したくないけれど、飲み物は、ついつい 自販機で買ってしまうもの。特に、こう暑い日が続くと、冷えた飲み物が いつでも買える自販機は、ありがたいものです。
もっとも、省エネ、省ゴミ、打倒!糖尿病 などのためには、自販機は 宿敵のひとつですが。
(田舎道では、自販機は 貴重な 街灯代わり、という話は ひとまず置いといて。)
我が家の周りには、畑がたくさんあります。
畑を耕す前に、農家の人は いっとき 空き缶拾いをしなければなりません。
道路を走る車から 投げ捨てられた 飲料缶が、落ちているからです。
きれいに耕作された畑にも、投げ込まれています。
苗が植えられた、ふかふかの お野菜のベッドにも、投げ込まれます。
しばらく人が入らなかった畑は、瓶や缶も、たまっています。
信号のある交差点付近は、特に多いようです。
日本人のモラルの失墜、なんて論議も、したくないわけでは ありませんが、
(私は、恥ずかしながら、性善説を かなり 素直に信じてまして)
それでも さまざまなムダを考えると、デポジット制に 考えが 行き着きます。
私が幼い頃---小学生が大きく思えた頃、近所の大きくてナマイキな お兄ちゃんたちは、針金が落ちていると、拾っていました。
ピンク色っぽい針金が あると、あかがねだー、と騒いでいました。
ためて、廃品業者に持っていくと、お金になるらしいのです。
もちろん、子供に集められる量では、お小遣いとして 充分な金額になるまでは、相当の日数がかかったでしょうけれど、
子供が 親や先生にしかられずに、合法的に 小遣い稼ぎが できる、一方法では あったわけです。
いまでも、PTAを中心に、廃品回収(または、リサイクル活動などと呼ぶ)は 盛んに 行われていると思いますが、雰囲気がなんとなく違います。
洗浄すれば、何回でも使える。
溶かして、また 同じものを作ることが出来る。
リサイクルすれば、新しい物に 作りかえることが出来る。
まだ 生命や使命が 残されているのに、
「もったいない。」
という感情は、集めている人たちの、誰も 持っていないのではないでしょうか。
学校などに 頼まれなければ、誰もやらなくなるでしょう。
でも、
「お金がほしい、少しでも余計に、お金がほしい。」
と思う人は、(私も含めて)結構いると思うんです。
デポジットにすれば、最初に購入するときに、5円程度 多くお金を払う必要がありますが、回収すれば、戻ってきます。
お金になるんです。
小学生でも、幼稚園生でも、浮浪者でも、不良でも。
拝金主義は好きじゃないけど、お金になることから モノを大事にすることを教えるのは、そんなに 難しくはありません。
反対に、「もったいない」のココロを 今の人たちに わかってもらうのは、これはけっこう、至難の業。
なぜなら、物質文明の効率主義とは対極の、‘たましい’を尊ぶ感情が 欠かせないから。
泥にまみれたガラス瓶の、ひしゃげたアルミ缶の、残った水が異臭を放つペットボトルの その中に、
確かに‘たましい’が あることを、うすうすでも 感じていないと、わからないものが あると思っています。
私の家のそばには、土手があって、河が流れています。
この河原もまた、捨てられた‘たましい’たちが 行き場を失い、意欲をなくして 寝転がっている名所です。
デポジット制が 導入されれば、みんな こぞって 拾っていってくれるのに、と思わずにはいられません。
・・・・・・ついでに、鉄くずが もっと高く売れたら、
河原の さまざまな 朽ちたオブジェたちは、引き取り手に 恵まれるものを、と 残念に思っています。
それは、デポジット制の 導入。
今日の朝刊に、
「はじめまして。自動車リサイクル法です。来年2005年1月にスタートします。」
等と書かれた、自動車リサイクル促進センターの 広告がありました。
新車を買う時に、リサイクル料金を払うんだって。
または、今度の車検の時か、廃車にする時。
これって、モノは 大きめだけど、デポジットですよね。
もっと身近では、飲料用の瓶、缶、ペットボトルなど。
ごみは出したくないけれど、飲み物は、ついつい 自販機で買ってしまうもの。特に、こう暑い日が続くと、冷えた飲み物が いつでも買える自販機は、ありがたいものです。
もっとも、省エネ、省ゴミ、打倒!糖尿病 などのためには、自販機は 宿敵のひとつですが。
(田舎道では、自販機は 貴重な 街灯代わり、という話は ひとまず置いといて。)
我が家の周りには、畑がたくさんあります。
畑を耕す前に、農家の人は いっとき 空き缶拾いをしなければなりません。
道路を走る車から 投げ捨てられた 飲料缶が、落ちているからです。
きれいに耕作された畑にも、投げ込まれています。
苗が植えられた、ふかふかの お野菜のベッドにも、投げ込まれます。
しばらく人が入らなかった畑は、瓶や缶も、たまっています。
信号のある交差点付近は、特に多いようです。
日本人のモラルの失墜、なんて論議も、したくないわけでは ありませんが、
(私は、恥ずかしながら、性善説を かなり 素直に信じてまして)
それでも さまざまなムダを考えると、デポジット制に 考えが 行き着きます。
私が幼い頃---小学生が大きく思えた頃、近所の大きくてナマイキな お兄ちゃんたちは、針金が落ちていると、拾っていました。
ピンク色っぽい針金が あると、あかがねだー、と騒いでいました。
ためて、廃品業者に持っていくと、お金になるらしいのです。
もちろん、子供に集められる量では、お小遣いとして 充分な金額になるまでは、相当の日数がかかったでしょうけれど、
子供が 親や先生にしかられずに、合法的に 小遣い稼ぎが できる、一方法では あったわけです。
いまでも、PTAを中心に、廃品回収(または、リサイクル活動などと呼ぶ)は 盛んに 行われていると思いますが、雰囲気がなんとなく違います。
洗浄すれば、何回でも使える。
溶かして、また 同じものを作ることが出来る。
リサイクルすれば、新しい物に 作りかえることが出来る。
まだ 生命や使命が 残されているのに、
「もったいない。」
という感情は、集めている人たちの、誰も 持っていないのではないでしょうか。
学校などに 頼まれなければ、誰もやらなくなるでしょう。
でも、
「お金がほしい、少しでも余計に、お金がほしい。」
と思う人は、(私も含めて)結構いると思うんです。
デポジットにすれば、最初に購入するときに、5円程度 多くお金を払う必要がありますが、回収すれば、戻ってきます。
お金になるんです。
小学生でも、幼稚園生でも、浮浪者でも、不良でも。
拝金主義は好きじゃないけど、お金になることから モノを大事にすることを教えるのは、そんなに 難しくはありません。
反対に、「もったいない」のココロを 今の人たちに わかってもらうのは、これはけっこう、至難の業。
なぜなら、物質文明の効率主義とは対極の、‘たましい’を尊ぶ感情が 欠かせないから。
泥にまみれたガラス瓶の、ひしゃげたアルミ缶の、残った水が異臭を放つペットボトルの その中に、
確かに‘たましい’が あることを、うすうすでも 感じていないと、わからないものが あると思っています。
私の家のそばには、土手があって、河が流れています。
この河原もまた、捨てられた‘たましい’たちが 行き場を失い、意欲をなくして 寝転がっている名所です。
デポジット制が 導入されれば、みんな こぞって 拾っていってくれるのに、と思わずにはいられません。
・・・・・・ついでに、鉄くずが もっと高く売れたら、
河原の さまざまな 朽ちたオブジェたちは、引き取り手に 恵まれるものを、と 残念に思っています。