『いばらぎじゃなくていばらき』の最初の項目が
「わげしを都会に連れでって(ディレクターズ・カット版)」で、
私としては この項目名からして、
可笑しくて、懐かしい。
そうして 思い出したこと。
昔 実家の辺りには ‘わげぇしのあづまり’があった。
ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt
変わった色の イトトンボ。
青緑のメタリック・カラー。
子供のころから、こんな色のイトトンボは
見た事ない。
22日撮影。
ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt
‘わげぇし’または ‘わげし(と、茨城王は言った)’。
それは、たぶん、‘若い衆’のこと。
‘若い’→‘わげぇ’、この変化は 方言としては
基本的なものだと思う。
そして‘わげぇしのあづまり’、
すなわち、‘若者たちの 集まり’とは・・・。
文字通り、若者たちが集まる事。
(なんのこっちゃ。)
実家に 時折 若い男の人たちが
夜に 大勢 集まっていた。
それは 一月に一度か二度程度だったのかもしれない。
わたしはまだ幼くて、
集まってくる若者たちが
身体も声も大きくて、怖かった。
もしかしたら 幼い私には大きく見えても
高卒程度の年齢だったかもしれないが。
それとは 別に、B型気質、人が大勢集まるのが
嬉しかった。
食べたり、
飲んだり(何を? 知らない、寝かせられてて)、
しゃべったり。
もてなす母は 今考えてみれば大変だったかも。
母は、‘わげぇし(=若者たち)’という
複数を意味する接尾辞をつけたこの単語に
さらにいろいろくっつけて 口にしていた。
曰く、‘わげぇてえ’、‘わげしてぇ’、‘わげぇしら’。
さらに、‘わげしてぇら’。
‘てぇ’も ‘ら’も 複数を意味する。
‘てぇら’はもっと大勢?
‘衆・てぇ・ら’は、もっと、もっと、大勢?
私は姉と二人姉妹。
男の兄弟はいなかった。
お寺という家業(家の業:ごう)に生まれた
二人目の女の子は
少々、厄介だ。
要らないものを見る目つきをされることがある。
これは ヒガミかもしれない。
ヒガミかもしれないが、
「この子が 男の子だったら、ねえ。」
とは よく言われた言葉。
いろんな人から。見知らぬ来客からも。
そして 父も母も
異常なまでに 男の子が可愛いかった。
もしかしたら そんな父が
言いだしっぺ(‘ぺ’がつくけど、共通語だよね?)
になって 始めた 集まりかもしれない。
自分の周りに、男の子をはべらせて
悦に入っていたのかも。
男の子、と書いたが、
記憶では 結婚すると 脱退、という
暗黙の了解があったような気がする。
また、これは もしかしたら、
‘若衆宿:わかしゅうやど’と呼ばれる制度
(テレビで見た事がある)をまねして
始めたものかもしれない。
また、或いは、
戦後 日本各地のお寺で盛んになった
仏教子ども会や 仏教婦人会の流れの中の
仏教青年会の ひとつの形態だったのかも知れない。
B型で 人と交わるのが好きな父が
真面目に布教に取り組んだかどうかは別として、
集まってくる人たちも
結構楽しみにしているように見えていた。
いつの間にか
そう、各家庭に テレビが普及してからかも知れない、
消えてなくなっていた 集まりだった。
あんな集まりも それなりに意義があったようだったし
(なんとなく そう感じていた)、
今でも あれば それなりに 意義が見出せると思う。
先輩や 大人(父は30代前半だったか?)から
助言ももらえるし。
イジメがないようにも 気を配れると思うし。
人と人との交わりが 少なくなりすぎる時に、
今あると 結構 いい役割が与えられそうな気がする。
そんな面倒な事を 寺の人間がするかどうか、
そんな面倒なことろへ 引きこもり気味の人が
出かけてきてくれるかどうか、
そこのところは わからないが。
父が亡くなって、
あれは、密葬の時かもしれない。
(なにしろ、その前後の記憶は、極めて曖昧。)
お清めの席の一角に 懐かしい面々が集まっていた。
あのころの‘わげぇし’のメンバーたちだ。
面影が消えないどころか、そのままなのが可笑しい。
彼らは
騒ぐでもなく
大声を上げるでもなく
しゃべりまくるでもなく
ただ そこに座って 静かに
語り 飲み 食べ
時折 ぽつりぽつりと 何かを語り
そして
いつまでも 席を立たなかった。
もしかしたら
父の突然の死を
一番 心から 痛んでくれていたのは
あの頃 父を アニキのように慕ってくれていた
彼らだったのかも知れない。
(なにしろ、私たち親族は
悲しくも辛くもなかったので。
その時はまだ。)
「わげしを都会に連れでって(ディレクターズ・カット版)」で、
私としては この項目名からして、
可笑しくて、懐かしい。
そうして 思い出したこと。
昔 実家の辺りには ‘わげぇしのあづまり’があった。
ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt
変わった色の イトトンボ。
青緑のメタリック・カラー。
子供のころから、こんな色のイトトンボは
見た事ない。
22日撮影。
ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt
‘わげぇし’または ‘わげし(と、茨城王は言った)’。
それは、たぶん、‘若い衆’のこと。
‘若い’→‘わげぇ’、この変化は 方言としては
基本的なものだと思う。
そして‘わげぇしのあづまり’、
すなわち、‘若者たちの 集まり’とは・・・。
文字通り、若者たちが集まる事。
(なんのこっちゃ。)
実家に 時折 若い男の人たちが
夜に 大勢 集まっていた。
それは 一月に一度か二度程度だったのかもしれない。
わたしはまだ幼くて、
集まってくる若者たちが
身体も声も大きくて、怖かった。
もしかしたら 幼い私には大きく見えても
高卒程度の年齢だったかもしれないが。
それとは 別に、B型気質、人が大勢集まるのが
嬉しかった。
食べたり、
飲んだり(何を? 知らない、寝かせられてて)、
しゃべったり。
もてなす母は 今考えてみれば大変だったかも。
母は、‘わげぇし(=若者たち)’という
複数を意味する接尾辞をつけたこの単語に
さらにいろいろくっつけて 口にしていた。
曰く、‘わげぇてえ’、‘わげしてぇ’、‘わげぇしら’。
さらに、‘わげしてぇら’。
‘てぇ’も ‘ら’も 複数を意味する。
‘てぇら’はもっと大勢?
‘衆・てぇ・ら’は、もっと、もっと、大勢?
私は姉と二人姉妹。
男の兄弟はいなかった。
お寺という家業(家の業:ごう)に生まれた
二人目の女の子は
少々、厄介だ。
要らないものを見る目つきをされることがある。
これは ヒガミかもしれない。
ヒガミかもしれないが、
「この子が 男の子だったら、ねえ。」
とは よく言われた言葉。
いろんな人から。見知らぬ来客からも。
そして 父も母も
異常なまでに 男の子が可愛いかった。
もしかしたら そんな父が
言いだしっぺ(‘ぺ’がつくけど、共通語だよね?)
になって 始めた 集まりかもしれない。
自分の周りに、男の子をはべらせて
悦に入っていたのかも。
男の子、と書いたが、
記憶では 結婚すると 脱退、という
暗黙の了解があったような気がする。
また、これは もしかしたら、
‘若衆宿:わかしゅうやど’と呼ばれる制度
(テレビで見た事がある)をまねして
始めたものかもしれない。
また、或いは、
戦後 日本各地のお寺で盛んになった
仏教子ども会や 仏教婦人会の流れの中の
仏教青年会の ひとつの形態だったのかも知れない。
B型で 人と交わるのが好きな父が
真面目に布教に取り組んだかどうかは別として、
集まってくる人たちも
結構楽しみにしているように見えていた。
いつの間にか
そう、各家庭に テレビが普及してからかも知れない、
消えてなくなっていた 集まりだった。
あんな集まりも それなりに意義があったようだったし
(なんとなく そう感じていた)、
今でも あれば それなりに 意義が見出せると思う。
先輩や 大人(父は30代前半だったか?)から
助言ももらえるし。
イジメがないようにも 気を配れると思うし。
人と人との交わりが 少なくなりすぎる時に、
今あると 結構 いい役割が与えられそうな気がする。
そんな面倒な事を 寺の人間がするかどうか、
そんな面倒なことろへ 引きこもり気味の人が
出かけてきてくれるかどうか、
そこのところは わからないが。
父が亡くなって、
あれは、密葬の時かもしれない。
(なにしろ、その前後の記憶は、極めて曖昧。)
お清めの席の一角に 懐かしい面々が集まっていた。
あのころの‘わげぇし’のメンバーたちだ。
面影が消えないどころか、そのままなのが可笑しい。
彼らは
騒ぐでもなく
大声を上げるでもなく
しゃべりまくるでもなく
ただ そこに座って 静かに
語り 飲み 食べ
時折 ぽつりぽつりと 何かを語り
そして
いつまでも 席を立たなかった。
もしかしたら
父の突然の死を
一番 心から 痛んでくれていたのは
あの頃 父を アニキのように慕ってくれていた
彼らだったのかも知れない。
(なにしろ、私たち親族は
悲しくも辛くもなかったので。
その時はまだ。)