く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実」(吉本貞昭著、ハート出版発行)

2013年10月16日 | BOOK

【副題「GHQの検閲下で報じられた『東京裁判は誤り』の真相」】

 今年は極東国際軍事裁判(東京裁判)によってA級戦犯7人が処刑されてから65年目に当たる。東京裁判については戦後、様々な〝定説〟がまことしやかに語られてきた。「マッカーサーは再審査権(減刑権)という権限を行使せず戦犯を処刑にした」「占領期間中、マスコミによる東京裁判批判は全くできなかった」等々。著者は膨大な書籍や新聞を丹念に再検討したうえで、それらの定説の誤りを指摘した。

   

 著者吉本貞昭氏は1959年生まれで専門は中国研究。その傍ら、日本の開戦と終戦の原因、特攻の戦果、東京裁判などについて研究している。著書に「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」「世界が語る神風特別攻撃隊」。終戦直後の1945年9月14日に割腹自決した陸軍大将、吉本貞一は親類に当たるという。

 本書は「『東京裁判は誤り』の謎と真実」「GHQの設置と言論検閲の実態」「マッカーサーの解任の内幕と『東京裁判は誤り』の謎と真実」の3部から成る。連合国軍最高司令官マッカーサーは1950年10月15日にトルーマン米大統領と会談した際、「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をしたという。翌51年5月の米上院軍事外交委員会でその秘密文書が公表された。

 それを「東京裁判は失敗」と報じた北海道新聞の記事を偶然発見したのが、著者が東京裁判とマッカーサーの関係に強い関心を抱くきっかけになった。著者が国会図書館などで当時の新聞を調べた結果、全国54紙のうち約8割の43紙がマッカーサーの東京裁判への批判を報じていた。GHQの検閲があった時期になぜ「東京裁判は誤り」と報道できたのか。

 マッカーサーは回想記で「戦いに敗れた国の政治的指導者に犯罪の責任を問うという考え方は、私にはきわめて不愉快であった……。戦争犯罪の責任を問うなら、(宣戦布告がなかった)真珠湾攻撃に対する告発にとどめるべきだと思い、またそう進言した」と記した。判事の中にも少数意見ながらインド(当時英国領)のパール氏のように、国際法に規定されていない〝事後法〟によって戦争責任を一方的に敗戦国の指導者に押し付けべきでないとして全員無罪を主張した判事もいた。

 だがマッカーサーの米国政府への進言は聞き入れられなかった。こうした背景もあって、「占領当初から東京裁判の批判については、間接的な表現を行ったり、たとえ直接的な批判であっても検事側の主張も同時に行ったりすれば、GHQの検閲をパスできた」という。それは「マッカーサーはもとより、GHQの中にも多くの東京裁判の反対論者がいたからだと思われる」。

 判決と量刑の再審査権については、マッカーサーには「刑を承認あるいは軽減する権限が形式的に与えられているに過ぎなかった」。権限の制約によりA級戦犯を救えなかったマッカーサーは「彼らの名誉を護るために、死刑執行場面の写真撮影を拒否すると同時に、東京裁判を仕掛けた対日理事会の3人(オーストラリア、ソ連、中国の代表)を処刑に立ち会わせることで東京裁判に対する鬱憤を晴らそうとした」。

 マッカーサーは在任中、1度だけ「原審破棄再裁判」を命じた。それはBC級戦犯、加藤哲太郎元陸軍中尉(後に映画化された「私は貝になりたい」のモデル)に対する一審の死刑判決。再審で終身刑になり、さらに服役中30年に減刑された。著者はその背景について「BC級裁判が東京裁判や(マニラでの)本間(雅晴)や山下(奉文)両裁判のような政治的裁判ではなかったことが考えられる」とみる。こうしたことからマッカーサーについては「敗者をいたわる『騎士道の精神』を持った温情の厚い人物だった」と、これまでの負のイメージを否定する。

 本書では第1部で「天皇はなぜ不起訴になったのか」という1章を設け、その経緯も詳しく紹介している。天皇の訴追回避はマッカーサーの働きかけによるというのが従来の定説。事実、彼が本国政府に訴追しないよう進言したのは間違いない。だが、著者はここでも「マッカーサーの権限にはやはり制約があった」と指摘する。

 その権限は連合国の指導者たちにあり、米英中ソの四カ国の「天皇に対していかなる措置も講じない」という保留・棚上げ方針が続くまま外交交渉から立ち消えになり、やがて占領状態が終わって日本は主権を回復する。折しも国内では今年7月から昭和天皇の戦争責任を題材にした米国映画「終戦のエンペラー」が公開されている。

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<シオン(紫苑)> 薄紫色の可憐な花、草丈は2mにも

2013年10月15日 | 花の四季

【「鬼の醜草」の異名も、今昔物語に由来】

 キク科シオン属の多年草。アジア東北部に分布し、日本でも中国から九州地方にかけ山野に自生する。ただ、古い時代に薬用植物として中国から朝鮮半島を経由して渡来し、栽培していたものが野生化した帰化植物ではないかともいわれる。花期は9~10月。花びらが薄紫で中心部が黄色の直径3~4cmほどの小花をたくさん付ける。

 和名のシオンは漢名の「紫菀」の中国読みが転訛したものといわれる。平安時代前期の古今和歌集では「シオニ」と呼ばれていたが、枕草子や源氏物語には「シオン」と出てくることから、平安中期にはシオンの呼び名が定着していたとみられる。シオンは「オモイグサ(思い草)」や、中秋の名月にちなみ「ジュウゴヤソウ(十五夜草)」とも呼ばれる。

 「オニノシコクサ(鬼の醜草)」という異名も。これは今昔物語に由来する。親を亡くした兄弟のうち兄は悲しみを忘れようと墓前にワスレグサ(萱草=カンゾウ)を植えて墓参りをやめる。一方、弟はワスレヌグサ(紫苑)を植えて毎日墓参りを欠かさなかった。墓守の鬼は弟の孝行心に感心し、弟に霊力を与える――。

 シオンはいわゆる野菊の1種だが、草丈は1.5~2mにもなる。葉も大きく、ヨメナやノコンギクなどに比べるとたくましい。ただ花は可憐で色も「紫苑色」と形容されるほど美しいため、古くから生け花や茶花としても用いられてきた。花色は晩秋になるほど冴えてくる。ちなみに伊藤左千夫の小説「野菊の墓」(「野菊のごとき君なりき」として映画化)の野菊については、関東地方に多いカントウヨメナまたはノコンギクが有力という。いずれもシオン属の同じ仲間だ。

 シオンの根は紫色を帯びており、咳止めや去痰、利尿などの生薬に使われる。シオンの野生種は環境省のデータレッドブックに絶滅の危険性が増大している絶滅危惧種Ⅱ類として掲載されている。県別にみると、宮崎と鹿児島が絶滅の危機に瀕している絶滅危惧種Ⅰ類、大分と熊本が同Ⅱ類。「紫苑にはいつも風あり遠く見て」(山口青邨)。

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<小泉神社秋祭り> 圧巻! ふとん太鼓の激しい練り回しと宮下り

2013年10月14日 | 祭り

【重さ最大2トン、6台が砂煙を巻き上げながら】

 ふとん太鼓が激しい練り回しを始めると、神社境内はもうもうと砂煙に覆われた――。秋晴れの13日、奈良県大和郡山市の小泉神社で行われた秋祭りの最大の見どころ、ふとん太鼓6台の練り回し。その迫力に圧倒された。直後の宮下りも圧巻。最大2トンもある太鼓台を担ぎ、参道の階段をゆっくりと下っていった。

 

 小泉神社の本殿は室町時代造営の一間社春日造で、国の重要文化財に指定されている。正午から拝殿で神事が始まった。境内にはふとん太鼓(通称・大太鼓)、提灯太鼓(小太鼓)など20台近くが勢ぞろい。神事のうち5色の御幣を奉納する「奉幣の儀」は500年近く前から古式そのままに連綿と続くという。その後、かわいい巫女さん3人による神楽の奉納などが続いた。

   

 練り回しは神事が終わった直後の午後1時から始まった。氏子5地区の大太鼓が計6台(河原、北之町、本町、西方、市場、市場第三)。練り回しが始まるや、境内は砂煙がもうもうと巻き上がった。1台を50~60人ほどで担ぐ。鳴り響く太鼓と笛の音。「ヨーイソレ」の掛け声に合わせ大太鼓は上下しながら10分間ほど激しくもみ合った。

 

  

 この後、「西方(にしほう)」の大太鼓を先頭に宮下り。最も大きく龍と獅子の彫刻が美しい「本町」の大太鼓は重さがなんと2トンもあるという。高さもかなりあるため鳥居をくぐるのもやっとのこと。長い階段を必死の表情で担いで下りていった。この後に今年1000万円ほどかけて修復したばかりという「北之町(きたんちょう)」なども続いた。

 

 門前まで下りた大太鼓は台車に乗せられ、中学男子が担ぐ小太鼓や、女子と男児が引っ張る小型の太鼓台とともに各地区を巡行した。途中、ご祝儀があると大太鼓や小太鼓は感謝の印に上下・前後させ、女の子たちは一斉に「ありがとうございました」とお礼を述べていた。午後2時半ごろには大半の太鼓台がいったんJR大和小泉駅前に集合した。女性や子どもたちも大勢参加した活気にあふれた祭りだった。

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<大和文華館> 江戸時代の肉筆浮世絵師「宮川長春展」が開幕

2013年10月13日 | 美術

【全国の美術館・博物館蔵、個人蔵の作品74点が一堂に】

 奈良市の大和文華館で「宮川長春展」が12日始まった。宮川長春(1682~1752年)は江戸時代に活躍した浮世絵師。「宮川派」の祖で、版画ではなく1点制作の肉筆画に没頭した。長春1人に焦点を当てた展覧会は国内で初めてという。展示作品74点(一部は展示時期限定)のほとんどは全国20カ所を超える美術館・博物館の所蔵品や個人蔵の作品。よくぞここまで集めることができたものだと感心させられる。11月17日まで。

  

(㊧大和文華館蔵の重要美術品「立美人図」=部分、㊨個人蔵「風俗図屏風」のうち「市川門之助図」=部分)

 長春は浮世絵の祖ともいわれる菱川師宣(1618~94年)に私淑した。師宣の代表作に「見返り美人図」がある。女性がふと足を止めて後ろを振り返る。より美しく見せる〝演出〟ともいわれる。長春も1人立ちの美人図を多く残した。この特別展には重要美術品の大和文華館蔵のものを含め「立美人図」だけで10幅も出展されている。いずれも流れるような線で背筋を伸ばしたふくよかな女性が描かれており、凛とした表情の中に気品と色香が漂う。

  

 会場入り口正面には「蚊帳美人図」が3点展示されている。蚊帳の間から半身を乗り出して長いキセルで悠然とたばこを吸う。寝巻きや掛け布団などの柄は異なるが、全体の構図は蚊帳の位置やキセルの角度なども含めほとんど同じ。これも立ち美人図とともに長春が得意とした図像のようだ。長春の作品の大半は年記が入っていないため制作時期が不明。この3点については「菱川師宣様式を強く残す早期の作品」という。蚊帳と美人を描いた作品は他に「蚊帳の遊女と禿図」「蚊帳、読書美人図」も出品されている。

 この他にも同じ作品名を持つものが多い。「身支度の図」や「几帳美人図」「遊女聞香図」はそれぞれ2点ずつ、「柳下腰掛美人図」は3点出品されている。「遊女聞香図」は双六盤に腰掛けた遊女が足元の着物の裾の間で香をたき、着衣に香を籠めている姿を写したもの。自らも香を楽しむように襟を立て、胸の隙間からは漏れた香が一筋立ち上る。なかなか艶っぽい作品だ。

 

 (徳島市立徳島城博物館蔵「風俗図巻」=部分)

 長春は師宣同様、遊里の吉原や隅田川の船遊びなどの風俗画も多く描いた。同展にも「吉原風俗図」「四季江戸風俗図巻」「室内遊楽図巻」「風俗図屏風」などが並ぶ。いずれも当時の庶民の娯楽や着物の図柄などを知るうえでも興味深い。最上段の写真㊨は六曲一隻の「風俗図屏風」のうちの1枚で、描かれているのは虚無僧姿の初代市川門之助。門之助は享保元年(1716年)、江戸・森田座の「洛陽愛護若」で虚無僧を演じ人気を博したという。そこから制作時期が享保年間の前半とほぼ類推できる。

 「朝鮮使節騎馬図」は馬上の男性が長いキセルでたばこを吸う構図。朝鮮使節は幕府の慶事や将軍の代替わりに合わせて訪朝してきた。長春が活躍した18世紀前半の訪朝は1711年、19年、48年の3回。そのことから、この絵が描かれたのは48年では遅すぎるため11年か19年の訪朝の際のものではないかという。

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<コスモス(秋桜)> メキシコ原産…今では日本の秋を彩る草花の代表に

2013年10月12日 | 花の四季

【各地でコスモスまつり開催中、多くの町がシンボルに】

 キク科の1年草だが、こぼれ種で翌年また芽を出すことが多い。原産地はメキシコ高地。ヨーロッパには18世紀後半、スペインを経て広まった。日本への渡来時期については「幕末」から「明治12年」「明治29年頃」まで諸説ある。磯野直秀氏の「明治前園芸植物渡来年表」では、文久2年(1862年)に遣欧使節が持ち帰った種子約250種の中に、ルピナスやワスレナグサなどとともにコスモスも含まれていたという。

 和名の「アキザクラ(秋桜)」は春に種を蒔くと秋に咲くことによる。コスモスといえば「うす紅の秋桜が秋の日の……」で始まる山口百恵の歌が思い浮かぶ。さだまさし作詞・作曲のこの歌も題名に「秋桜」の漢字を当てた。俳句でもコスモスの季語はもちろん秋。ただ最近は品種改良により大輪で真夏に咲く早咲き種や倒れにくい矮性種なども生まれている。

 「キバナ(黄花)コスモス」は同じメキシコ原産で、日本には大正時代に渡って来た。「チョコレートコスモス」は花が黒紫色の一重咲きで、チョコレートのような甘い香りがするのが特徴。この2つを交配して「ストロベリーコスモス」という品種が生まれた。さらにチョコレートコスモスに近い品種に「キャンディーコスモス」や「ミルキーコスモス」と呼ばれるものもあるそうだ。晩秋に咲き始める「ウィンターコスモス」(ビデンス)は同じキク科だが、コスモス属とは異なりセンダングサ属に分類されている。

 花が明るく色も多彩なコスモスは市町村のシンボルとしても人気が高い。福岡県内では中間、古賀、直方、飯塚、行橋、久留米と、なんと6つの市が「市の花」に定めている。関西圏でも大阪の貝塚市、兵庫の相生市と加東市、京都の木津川市、奈良の大和高田市など。2007年に3町の合併で誕生した木津川市は「様々なコスモスが寄り添い、ひとつの壮大な景観を造る姿」からコスモスを市のシンボルに決めた。

 コスモスは休耕田などを活用した地域起こしにも活躍している。長野県飯島町は12~13日「信州最大級200万本の秋桜」を歌い文句に「2013秋桜まつり」を開く。翌14日からは無料でコスモスを摘み取ることができるという。兵庫県加古川市のコスモスまつりは12日から20日まで。2006年の兵庫国体でおもてなしの一環として始まった。今年は市内8会場・19.2ヘクタールをコスモスの花で埋め尽くす。

 高知県越知町のコスモスまつり(20日まで)は今年で31回目。約150万本が咲き誇る。このほか山口県下関市豊浦町(14日まで)、栃木県益子町(20日まで)、宮崎県小林市の生駒高原(27日まで)などでも開催中。三重県桑名市の「なばなの里」のコスモスまつりは11月上旬まで続く。「コスモスの夜の花びら冷えわたり」(中村汀女)。

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<村屋神社秋祭り> 数百年続く素朴な〝代々神楽〟を奉納

2013年10月11日 | 祭り

【巫女2人、鈴・扇・榊・薙刀・矛・剣などをかざして】

 奈良県田原本町の村屋神社で10日秋祭り本宮が行われ、数百年前から代々受け継がれてきた「代々神楽」が巫女2人によって奉納された。奈良県中央部に残っている神楽舞のほとんどが、この代々神楽が原形になっているともいわれる。静かで素朴な巫女舞だが、薙刀(なぎなた)や剣(つるぎ)など採り物をかざして時に激しく舞った。

 

 村屋神社は大神神社(桜井市)の別宮といわれ「縁結びの神様」として知られる。飛鳥と平城京を結ぶ古代官道の1つ「中ツ道」沿いにあり、壬申の乱の際には村屋神が大海人皇子(後の天武天皇)に神託を与えたと日本書紀に記されている。社殿の周りにはイチイガシなどの巨樹が林立し、鬱蒼とした社叢は県の天然記念物に指定されている。

 

 代々神楽は予定の午後2時より少し早く「平神楽・三々九度」から始まった。宮司がたたく太鼓に合わせ、巫女2人が1人ずつ交互に舞を奉納。次いで「榊の舞」「扇の舞」「薙刀の舞」「矛(ほこ)の舞」「二本剣の舞」と続き、最後は「一本剣の舞」で締めくくった。この間40分余り。真夏並みの暑さとあって、巫女は舞い終わるたびに汗をぬぐっていた。

 「二本剣の舞」では始まってまもなく巫女が「もう1回やっていいですか」と宮司に声を掛け、最初からやり直す場面があった。奉納神楽ではあまり目にすることがないハプニング。だが後で、舞っていたのが宮司のお孫さんとそのいとこ(2人とも高校2年生)と分かって納得。そう言えば始まる前にも、宮司に「おじいちゃん」と話しかける小さな声が聞こえていた。だから家族的な雰囲気にあふれていたわけだ。

 

 この日の神楽はいずれも1人舞だったが、宮司の守屋広尚さん(82)=写真㊨=によると、以前は2人が一緒に舞う「銚子の舞」という神楽もあったという。ところがこの舞で使う鉄製の大釜が終戦直後、盗難に遭い、以来「銚子の舞」と1人舞の「御湯(みゆ)の舞」が奉納できずにいるという。守屋さんは「何とか早く復活させたい」と話していた。

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<奈良県馬見丘陵公園> 多彩な色・形のダリアが120品種も!

2013年10月10日 | 花の四季

【第3回フラワーフェスタ開催中、20日まで】

 奈良県馬見丘陵公園(河合町~広陵町)で「第3回馬見フラワーフェスタ」(20日まで)が開かれている。会期中、花壇コンテストやステージでの音楽演奏、大道芸、巨大木琴、ネイチャーゲーム、植木市など様々なイベントが繰り広げられる。その中でとりわけ来場者の目を楽しませてくれるのがダリア園。フェスタに向け丹精込めて栽培された色とりどりのダリア120種が咲き誇る。

 ダリアは奈良県を代表する花の1つ。古くから宇陀市など県北東部で盛んに栽培され、球根生産量は日本一を誇る。原産地はメキシコやグアテマラなど中米だが、原種をもとに世界中で交配が繰り返され、園芸品種は今では3万種を超えるという。色は青以外ならほぼあるといわれ、背丈も15cm程度のものから4~5mの巨大なものまで。

 

(㊧「太平洋」、㊨「きらり」)

 花の形も実に多彩。代表的なものに一重のシングル咲き、球状のポンポン咲き、八重で花びらの枚数が多いデコラティブ咲き、花びらが反り返るカクタス咲き、内側に色変わりの小さな花びら(副花弁)が輪状に並ぶコラレット咲き、平たい花びらが2―3列並ぶアネモネ咲きなどがある。

 

 

(上=㊧「ミスター・フジノ」、㊨「クロイドン・エース」、下=㊧「ショーン・テル」、㊨「エモリー・ポール」)

 ダリア園を回って改めて多種多様な品種の豊富さに感心させられた。中には「これが同じダリアの仲間?」とびっくりさせられるものも。12日にはダリア園北側の「集いの丘」を自然のキャンパスに見立て、ダリア3万輪を使って来場者と一緒に「ダリア花じゅうたん」を作り上げる予定という。これは14日まで一般公開する。

 

 

 

(上=㊧「日和」、㊨「プリンセス・マサコ」、中=㊧「白満」、㊨「おぼろ月」、下=㊧「大正浪漫」、㊨「リド」)

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<BOOK> 「チャールズ皇太子の地球環境戦略」(君塚直隆著、勁草書房発行)

2013年10月09日 | BOOK

【熱帯雨林保護へ積極的に講演活動や各国歴訪!】

 英国のエリザベス女王の長男、チャールズ皇太子(1948年11月14日生まれ)。王位継承順位1位だが、皇太子在任期間はすでに60年を超え、王室の最長記録を更新中。チャールズといえば、どうしても〝ダイアナ事件〟がまず思い浮かぶ。国民からの風当たりはなお強く、次期国王にはウィリアム王子のほうが望ましいとの声もまだ多いそうだ。そのチャールズが長年、地球環境問題に真摯に取り組み、近年は熱帯雨林保護のため奔走していることを本書で初めて知った。

   

 著者の君塚氏は1967年東京生まれで、立教大学卒業後、英オックスフォード大学に留学。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史で、東大客員助教授などを経て現在、関東学院大学文学部教授。著書に「肖像画で読み解くイギリス王室の物語」「女王陛下の外交戦略」などがある。

 本書は「チャールズ皇太子の社会活動」「環境問題への関心と取り組み」「熱帯雨林プロジェクト」「地球環境と国際政治」の4章で構成する。社会活動といえばダイアナ妃の地雷禁止やエイズ患者救済活動が広く知られるが、著者は「慈善活動や博愛活動といった面では、チャールズのほうがその取り組みにしろ活動歴にしろ、はるかに年季が入っていた」とまず指摘する。

 「彼が公の場で環境破壊、とくに農業における化学肥料の使用(ひいては生態系の破壊)などについて強い懸念を表明したのは、1970年のことである。当時の社会ではそれは『変人扱い』される発言であった」。チャールズは自ら有機農法を実践する一方、海洋資源の保全など地球環境問題に数々の提言を行ってきた。1991年にヨーロッパ環境賞、2007年には米ハーバード大学から地球環境市民賞を受賞。その年2007年には宮廷に「皇太子熱帯雨林プロジェクト」を立ち上げ、伐採・減少を食い止めるキャンペーンに乗り出した。

 チャールズの環境政策のキーワードは「持続可能(サスティナブル)な発展」と「自然との調和」。「『近代的な』農法や漁法を批判し、『持続可能な』農業・林業・漁業・牧畜業のあり方を提唱してきた」。熱帯雨林についても今すぐに動かなければ「白亜紀(6500万年前)末期以来で最大の種の絶滅が予想される」と訴える。

 これまでにチャールズが訪ねた世界の国々は2013年4月現在で105カ国(延べ389カ国)に及び、エリザベス女王の95カ国(延べ350カ国)をすでに上回る。とりわけ近年は南米や東南アジアなどの熱帯雨林諸国の周遊を重ねている。一方で、G20(主要20カ国首脳会議)やCOP(国連気候変動枠組条約締結国会議)などの機会をとらえて、各国首脳に熱帯雨林保護の重要性を訴え続けてきた。

 その熱意が通じ、チャールズは「いまや地球環境問題の専門家として誰もが認める」存在になっている。2009年12月、デンマーク・コペンハーゲンで開かれた第15回COPで、チャールズは演壇からスピーチをこう締めくくった。「私たちの子や孫の世代は、私たちが何を言ったのかではなく、何を成し遂げたのかを問うていくのです」。地球環境保全に残された時間はもうない、議論ではなく実践あるのみ――チャールズはこう訴えたかったのだろう。

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<ヤブラン(藪蘭)> 晩夏~初秋に紫色の小花を穂状に

2013年10月08日 | 花の四季

【仲間にコヤブランとヒメヤブラン、斑入りの園芸品種が人気】

 常緑多年草で、日が差し込む樹林の木陰に自生する。藪地に生え葉がランに似ていることから「ヤブラン(藪蘭)」の名が付いた。葉は長さが30~40cmほどで幅は1cm前後。9~10月頃、長さ30cmほどの花穂に紫色の小花をたくさん付ける。最近は葉の縁に白い筋が入った園芸品種の斑入りヤブランが花壇の縁取りや観葉植物としても人気を集めている。

 ヤブランの仲間に「コヤブラン」と「ヒメヤブラン」がある。コヤブランは文字通りやや小型で葉の幅も4~7mmと細い。別名「リュウキュウ(琉球)ヤブラン」。ヤブランが1株ずつ株立ちして大きくなるのに対し、コヤブランは地下茎を伸ばして群落をつくる。ヒメヤブランはコヤブランよりさらに小型で、葉は短く幅も2~3mmほど。花数もヤブラン、コヤブランに比べると少ない。

 万葉集に「山菅(やますげ、やますが)」を詠んだ歌が13首ある。そのうちの1つ「ぬばたまの黒髪山の山菅に 小雨降りしきしくしく思ほゆ」(柿本人麻呂歌集)。この山菅が何かについては諸説あるが、ヤブランではないかという見方がある。ほかにジャノヒゲ(リュウノヒゲ)や山中に生えるカヤツリグサ科のスゲの総称との見方も。

 ヤブランの根を漢方では「大葉麦門冬(だいようばくもんどう)」と呼ぶ。ジャノヒゲの根は単に「麦門冬」。いずれも根の肥大部分を水洗いして乾燥させ煎じて使う。のどを潤して咳止めや痰切りに効くほか、利尿、催乳、風邪、解熱、滋養強壮などの効果もあるそうだ。

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<ならまち格子の家> 「行ってよかった無料観光スポット」全国で第7位!

2013年10月07日 | メモ

【世界最大の旅行口コミサイト 仲川市長も出席し受賞記念式】

 奈良市の観光施設「ならまち格子の家」が「口コミで選ぶ〝行ってよかった〟無料観光スポット2013」で国内第7位に! 世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」(米マサチューセッツ州)に投稿された口コミに基づいて選ばれたもの。6日、仲川げん奈良市長も出席して行われた受賞記念式典の場面に〝遭遇〟、市長の写真も撮らせてもらった。

  

 格子の家は古くから商工業地域として栄えた奈良市の旧市街地「奈良町」のほぼ中心部にある。観光客に伝統的な町家と町民の暮らしぶりを体験してもらおうと、市が1992年に整備した。延べ床面積約260㎡で、2階建ての主屋、中庭、離れ、蔵などから成る。町並みにマッチした外観で、内部を自由に見学できる。

 トリップアドバイザーからは「旅行者からの支持を集めた貴施設の栄誉をたたえこれを賞します」との表彰状の盾(下の写真㊨)が送られた。入り口などには早速「7位に選ばれました」という案内板も(写真㊥)。仲川市長(写真㊧)は「この町家はいつも入り口を開放しているので、受賞を機にもっと多くの方々に気楽に訪ねてきてほしいですね」と話していた。

  

 ちなみにランキングのベスト3は1位が富山の黒部ダム、2位が大阪府池田市のインスタントラーメン発明記念館、3位が航空自衛隊浜松広報館だった。以下④青森・三内丸山遺跡⑤東京・椿山荘庭園⑥北海道大学札幌キャンパス⑦奈良町の町家(ならまち格子の家)⑧大阪府島本町・サントリー山崎蒸溜所⑨北海道・ニッカウヰスキー余市蒸留所⑩愛知県美浜町・えびせんべいの里――と続く。

 また「外国人に人気の日本の観光スポット2013」部門では奈良市の東大寺が全国で第3位に選ばれた。こちらのベスト10は以下の通り。①広島平和記念資料館②京都・伏見稲荷大社③東大寺④広島県廿日市市・厳島神社⑤京都・金閣寺⑥京都・清水寺⑦長野県山ノ内町・地獄谷野猿公苑⑧東京・新宿御苑⑨千葉県成田市・新勝寺(成田山)⑩東京・築地場外市場。

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<日本ペンクラブ京都例会> 梅原猛氏・下重暁子さんの特別対談「このごろ思うこと」

2013年10月06日 | メモ

【近著やスーパー歌舞伎、憲法九条、環境・原発問題まで幅広く】

 京都市の平安女学院を会場に5日開かれた日本ペンクラブ(浅田次郎会長)の京都例会で、哲学者で元会長の梅原猛氏と作家・評論家で現副会長の下重暁子さんが「このごろ思うこと」をテーマに対談を行った。梅原氏は88歳の米寿だが、今春には「人類哲学序説」を著すなど執筆意欲はますます盛ん。「年とともにやりたいことが多くなって困っている。業(ごう)だな、一生書き続けることは」と話していた。(写真は㊧=対談後、懇親会場で花束を受け取るお2人、㊨=有栖館庭園での懇親会の1こま)

 

 対談は下重さんが質問し、梅原氏が答える形で進んだ。「人類哲学序説」は人類の未来に大切な思想として〝草木国土悉皆成仏〟を挙げる。「『本説』は90歳を過ぎてから書きたい。その前に親鸞(浄土真宗開祖)について今までとは全く違った解釈で書こうと思っている」。親鸞の妻としては恵信尼が知られるが、最初に法然の勧めで結婚したのは九条兼実の娘・玉日という。「(結婚によって)女性差別を否定したもので、鎌倉時代の仏教界にとっては革命ともいえるものだった」。

 下重さんは梅原氏の「湖の伝説―画家・三橋節子の愛と死」(1982年)が好きで今も大切に持っているという。「三橋の画集を見て涙が出た。これこそ芸術家の魂を持った人ではないかと思って、この本を書いた」と梅原氏。対談はアイヌ民族や3歳年上の瀬戸内寂聴さんのことなど次々に話題が広がった。アイヌ民族については「日本の基層文化の伝達者。日本の古い文化を保存してくれた」と評価する。

 寂聴さんについては「最近書くものには色気がある。すごい。尊敬している」。梅原氏が影響を受けた作家には川端康成と坂口安吾を挙げた。「17歳の時、康成が同じ17歳の時に書いた小説を読んで驚いた。康成の小説を読んだことが私の人生を変えた。ただ私には文学の才能がないので哲学の道に進んだ」。

 梅原氏といえばスーパー歌舞伎や狂言の作者としても知られる。「ヤマトタケル」(1986年初演)は三代目市川猿之助の度重なる依頼に応えて書き下ろした。それを読んで感激した猿之助から「先生はシェークスピアかワーグナー(の生まれ変わり)です」と電話があったそうだ。梅原氏は今でも「本当に俺が書いたのかなあと思う」そうだ。「素人の野球選手がプロ野球でホームランを打ったようなもの」とも。

 梅原氏は「九条の会」の呼び掛け人の1人でもある。「最近戦争を肯定するような空気が流れている。戦争は絶対にしてはいけない。憲法改正に熱が入らないように、ペンクラブにも頑張ってほしい」。また世界的な環境破壊や原発問題にも言及し「人類文明が生きていけるのか不安でならない。原子力は大変危険なもの。日本は反原爆・反原発でいくべきだと思う」と話した。対談後は会場を同大学有栖館(有栖川宮旧邸)の庭園に移して懇親会が開かれた。

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<北野天満宮> 瑞饋祭(ずいきまつり)のハイライト「還幸祭」華やかに

2013年10月05日 | 祭り

 【ずいき神輿と鳳輦・牛車の行列、北野界隈を雅に巡行】

 京都の秋祭りの先陣を切る北野天満宮の瑞饋祭(ずいきまつり)。その最大の見どころである還幸祭が4日行われた。1日の神幸祭で西ノ京の御旅所に奉安されていた「ずいき神輿」が北野界隈を練り歩き、鳳輦(ほうれん)や牛車の行列も3時間余をかけて天満宮まで巡行した。最終日の5日には「后宴祭(ごえんさい)」が行われ、八乙女(やおとめ)による田舞が奉納される。

 

 瑞饋祭は神輿の屋根を里芋の茎であるズイキで葺くことからその名が付いた。神輿全体も赤ナスやユズ、唐辛子、ユバなどの乾物類で色鮮やかに飾り立てられる。ずいき神輿を中心とした祭りはすでに室町時代には行われていたという。もともとは天満宮の神人(じにん)たちが余暇に自作した作物に草花を飾り付けて天神様に五穀豊穣を祈願したことに始まる。最盛期には8基のずいき神輿があったそうだが、今では西ノ京の1基だけになってしまった。

  

 この日、ずいき神輿は行列よりひと足早く午後零時半に御旅所を出発した。行列は獅子舞を先頭に太鼓、馬上の神職、導山、松鉾、梅鉾と続く。その後にも牛車、鳳輦、御幣持、宮司が乗る馬車……。沿道の人たちは魔よけのため獅子舞に頭をかんでもらっていた。中には行列に向かって丁寧に手を合わせてお辞儀する年寄りも。子ども用の小さなずいき神輿にも盛んに声援が送られていた。

 

 

 午後4時、神輿と行列が京都最古の花街として知られる「上七軒」の緩やかな坂道を上がってきた。上七軒は天満宮の東門に通じる。この春、電柱地中化が完成したため、すっきりした町並みに変わっていた。沿道はカメラを手にした観客であふれんばかり。お茶屋さんの前にはきれいに着飾った芸妓(げいこ)・舞妓さんたちも。カメラマンは神輿と行列の撮影に加え、きれいどころもカメラに収めようと大忙しだった。

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<アンビリバボー> 昆布お化け? その名も「キソウテンガイ(奇想天外)」

2013年10月04日 | アンビリバボー

【アフリカ・ナミブ砂漠原産、葉2枚だけで2000年の長生きも!】

 地面にへばりつくように伸びる昆布のような長くて大きい葉っぱ。終生、1対2枚の本葉だけしか出さない。長寿植物として知られ、推定なんと2000年というものもあるそうだ。ヴィルヴィッチア科の1科1属1種の裸子植物。その奇怪な姿や特徴から「キソウテンガイ(奇想天外)」という和名が付けられている。京都府立植物園でその珍奇な植物に初めてお目にかかった。

 原産地はアフリカ南西部。アンゴラからナミビアにかけてのナミブ砂漠に自生する。19世紀半ばにオーストリアの探検家ヴェルヴィッチアがアンゴラ南部で発見した。学名の「ヴェルヴィッチア・ミラビリス」も彼の名前にちなむ。「ミラビリス」は「脅威の」。和名キソウテンガイは1936年、原産地から初めて種子を輸入した園芸商・石田兼六氏が自ら名づけ園芸誌上で発表した。

 このグロテスクな植物の発見は植物学者にとっても衝撃的だったようだ。「種の起源」で知られるダーウィンも「植物界におけるカモノハシ」と驚きを隠さなかったという。砂漠の高温少雨の中で生き延びるため、葉の両面に気孔があり、そこから大気中の湿気を吸収する。ただ葉はやや厚めだが、サボテンのような多肉植物にも見えない。葉の基部に細胞分裂を活発に行う分裂組織がある。

 

 雌雄異株。京都府立植物園にある雌株は1973年、アンゴラの植物園から譲ってもらった種子から育てたもの。日本に現存するものとして最古という。その雌株が92年、国内で初めて開花した。その3年後に再び開花したため、日本新薬京都山科植物資料館が育てた雄株の花粉を使って人工授粉を試みた。(写真㊧=雌株、㊨=雄株の花)

 それがうまくいって結実、その種子からの実生栽培にも成功した。まさに世界的な快挙! ところが2004年夏、その実生株2株が温室から盗まれた。世の中、心無い人間がいるものだ。この植物園の開園は今から90年ほど前の1924年(大正13年)。日本で最初の公立植物園として誕生した。警察に被害届を出したのは開園以来、この時が初めてだったという。

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<BOOK> 「神の島 沖ノ島」(藤原新也・安部龍太郎著、小学館発行)

2013年10月03日 | BOOK

【〝海の正倉院〟の写真集と航海録・掌編歴史小説】

 沖ノ島は福岡県宗像市の沖合約60キロの玄界灘に浮かぶ絶海の孤島。古くから航海の安全を祈るための祭祀が行われてきた。戦後の学術調査ではササン朝ペルシャのガラス片なども含む約8万点に上る祭祀遺物が見つかり、一括して国宝に指定されている。そのため沖ノ島は〝海の正倉院〟とも呼ばれ、2009年には「宗像・沖ノ島と関連遺産群」として世界遺産暫定リストに掲載された。

   

 島の中腹には宗像大社の分社・沖津宮が鎮座し、若い神職1人が交代で常駐する。島全体が御神体で、原則神職以外には立ち入りができない。今も女人禁制。その島に作家の安部龍太郎と作家・写真家の藤原新也が渡った。本書はその体験を踏まえた写真集兼文集である。2人とも福岡県出身。安部氏は「等伯」で直木賞を受賞し、藤原氏は「全東洋街道」などの写真集のほか小説作品もある。

 A4版の大型ハードカバー本で、藤原氏の「沖ノ島航海録」と写真集、安部氏の「古代宗像一族の物語」から成る。藤原氏は幼少時、沖ノ島から出土したとみられる泥色の茶碗を漁師が持っているのを見たという。「あの島のものを持ってくるとバチが当たる」。航海録はそんな思い出話から始まる。宗像を出港して約1時間、ようやく水平線に島影が。「沖ノ島はとりつく島もない、茫洋とした海の彼方に現れた〝とりつく島〟であり、すなわちそれは神そのものなのである」。

 写真集はその遠景の島影をはじめ断崖絶壁、苔むした飛び石、鬱蒼とした原始林、古代祭祀が行われた巨岩、そこかしこに散らばるかわらけ、祠や石を根元で覆う巨木など30点余り。見開きA3版の巨大サイズだけに迫力満点だ。神秘の島の写真が広く公開されるのは初めてだろう。これら風景写真と併せ、藤原氏の「沖ノ島祭祀と宝物」の一文に続いて勾玉、純金製の指輪、奈良三彩小壺(日本最古の釉薬陶器)などの出土品も写真で紹介する。

 安部氏の「古代宗像一族の物語」は序の「宗像大社」「沖ノ島上陸記」の後に「三韓征伐」「磐井の反乱」「白村江の戦い」「壬申の乱」の4話が続く。結びの「海の男の心の支え」で、安部氏は「おそらく初期には宗像氏が地方豪族として祭祀を行い、大和朝廷と朝鮮半島との関わりが深くなった頃から、朝廷による祭祀が行われるようになったのだろう」と推測。さらに遺跡から鉄の延べ板が出土していることから「朝廷が沖ノ島の祭祀にかかわるようになったきっかけは、鉄の輸入の必要性だと考えられている」とする。

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<ベトナム交響楽団> 東大寺大仏殿で「蜘蛛の糸」「ベートーベン7番」

2013年10月02日 | 音楽

【本名徹次指揮、日越外交樹立40周年記念の日本ツアー最終日】

 本名徹次指揮・ベトナム国立交響楽団の演奏会が1日、奈良市の東大寺大仏殿内で開かれた。日越外交関係樹立40周年を記念した日本ツアー(全国7カ所)の締めくくり。752年の東大寺大仏開眼供養ではベトナムからの渡来僧、仏哲(ぶってつ)が伝授した〝林邑楽(りんゆうがく)〟という舞楽が奉納された。そのゆかりの地での熱演に、大仏様も優しく微笑んでいるように見えた。

     

 指揮の本名(写真㊥)はトスカニーニ国際指揮者コンクール2位、ブダペスト国際指揮者コンクール1位。2001年から同交響楽団の音楽顧問を務め、09年に音楽監督・首席指揮者に就任した。長年の貢献に対し昨年、ベトナム政府から文化功労賞が授与されている。演奏会場ではオーケストラが大仏様の真正面に位置し、聴衆はその両側に座った。本名だけが大仏様に背を向ける格好。演奏に先立ち、まず全員が起立して大仏様に三礼(さんらい)、続いて僧侶の読経、再び三礼、両国の国歌演奏と続いた。

 最初の演奏曲は作者不詳でゴ・ホァン・クァンがオーケストラ用に編曲したベトナムの曲「入寺」。荘厳な鐘の音に続いて奏者が立ち上がり「ナモアジダファット」(南無阿弥陀仏)を合唱。その後、弦の深く豊かな響きが続き、最後にまた合唱と鐘の音。本名は棒を持たず、両手両指の微妙な動きで音を紡ぎだすように指揮した。奉納演奏にふさわしい曲目と演奏だった。

 2曲目は芥川也寸志が父・龍之介の短編小説を基に作曲したバレエ音楽「蜘蛛の糸」。ベトナムを代表する女優レ・カイン(写真㊨)が物語をベトナム語で朗読した。地獄の様子を描いたような、鋭く甲高い弦の響きから始まった。太鼓の連打、静寂、管と打楽器の激しい響き、強さを増す不気味な音、そしてフルートが奏でる優しい旋律――。蜘蛛の糸をよじ登り、下の罪人に「降りろ」と喚き、ぷっつり糸が切れて元の地獄に落ちていくカンダタ。その様子が目に浮かぶような演奏だった。

 次にベートーベンの交響曲第7番。第1楽章はややゆったりと始まったが、中盤からは明るく軽快なテンポで乗ってきた。葬送行進曲風の第2楽章は逆にやや速めのテンポでスタート。演奏時間は最終第4楽章までで約38分。管と弦のバランスなど少し気になった部分はあったものの、日越両国の友好を祝うにふさわしい明るく力強い演奏だった。アンコールは本名の出身地福島の民謡「会津磐梯山」と美しい旋律が印象的なベトナム民謡「セ・チ・ルオン・キム」だった。

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