く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<秋篠川源流の桜並木> 河畔1.3kmに150本余!

2023年03月28日 | 花の四季

【市民が守り育てて四半世紀、今年も見ごろに】

 奈良市の北西部を秋篠川(佐保川支流)の源流が西から東に流れる。住宅街が広がる学園前からも程近い距離。25年前の1998年、その堤防沿い1.3kmにわたってソメイヨシノ約150本が植樹された。大切に育てられた桜は順調に生育し、今では市内有数の花見スポットに。例年3月下旬から4月初旬にかけ見ごろを迎える。今年もそろそろその時期に。27日訪ねてみると、期待通りにほぼ満開の桜が出迎えてくれた。

 この桜並木は奈良市の市制100周年記念事業の一つとして生まれた。秋篠川沿いを走っていたジョギング仲間の「秋篠川に千本の桜を!」というアイデアが採用され、桜の“里親”を募ったのがきっかけだ。市民でつくる「秋篠川源流を愛し育てる会」(代表青島行男さん)が“川をふれあい・いこい・ときめきの場に”を合言葉に、清掃活動や親子川遊び大会、ふるさとウォークなどに取り組んできた。そんな地道な活動が評価され、10年前の2013年には日本さくらの会から「さくら功労者」として表彰された。

 桜の幹には1本1本、里親の名前が記され、地元の小学生が川や桜への思いを綴った短冊も。色とりどりの提灯が花見気分を盛り上げ、小学生たちが描いた風景や草花の水彩画なども目を楽しませてくれる。川沿いの掲示板には「秋篠川クリーン作戦 実施日:4月15日午前8時30分」という貼り紙。清掃活動は会発足以来、毎月1回行ってきた。

 堤には秋篠川周辺で見られる動植物をカラー写真で紹介したパネルや、ヘイケボタルをもっと増やそうという「ヘイケボタルプロジェクト」という看板も立つ。川べりにいたアオサギを見ていたら、そこに黒いカワウが飛来し、アオサギの目の前で潜水を繰り返していた。そのそばでは十数匹のカメが甲羅干し。顔にちらっと赤い色が見えた。外来種のアカミミガメのようだ。土手ではこれも外来のヒメリュウキンカ(姫立金花)とみられる黄花があちこちに群落をつくっていた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<大和文華館> 壮観!「三春滝桜」見ごろに

2023年03月20日 | 花の四季

【親木は国の天然記念物、約40年前に植樹】

 奈良市学園南にある東洋美術の殿堂「大和文華館」で、本館玄関前の「三春滝桜」が見ごろを迎えた。蛙股池を望む高台にある同館は自然の景観を生かした庭園「文華苑」の中にある。いつ訪ねても四季折々の花木が目を楽しませてくれるが、中でも春の庭園を明るく彩って人気を集めるのがこの滝桜。まさにその名の通り、無数の薄紅色の花が滝のように流れ落ちて、息をのむほどの美しさ。来館者の多くが感嘆の声を上げてカメラに収めていた。

 「三春滝桜」はエドヒガン系のベニシダレザクラ。福島県三春町にある親木は約100年前に国の天然記念物に指定され、根尾谷の淡墨桜(岐阜)、山高神代桜(山梨)とともに“日本三大桜”とも呼ばれる。その桜の子孫が大和文華館にやって来たのは約40年前。1983年に三春町歴史民俗資料館が開いた特別展に、文華館が所蔵する室町後期の画僧雪村周継(1504~89)の自画像を出品、その返礼として苗木が寄贈された。その後、順調に成長し今では高さ10mにも及ぶ大樹に育ってシンボルツリー的な存在になっている。

【特別企画展「隠逸の山水」4月2日まで】

 大和文華館ではいま「隠逸の山水」と題した特別企画展を開催中。隠逸とは俗世間から逃れて隠れ住むこと。室町時代から江戸時代にかけ、禅僧や文人画家たちは巷の喧騒から離れた理想郷として静かな情景が広がる山水画を多く描いた。企画展は「室町山水画前夜」「禅僧の山水」「狩野派の山水」「文人画家の山水」「写生画派の山水」の5章で構成し、絵画や屏風、襖、陶磁器など29点を展示している。

  

 その中に明るい色調でピンクの桜が画面中央に小さく描かれた作品があった。江戸後期に活躍した文人画家田能村竹田の『親鸞上人剃髪図』(重要美術品)。浄土真宗の開祖親鸞は9歳で仏門に入る際「明日ありと思ふこころのあだ桜夜半に嵐が吹かぬものかは」という言葉を残した。慈円僧正の「夜も遅いので得度式は明日にしては」という提案に対し、「明日まで待てない」という心境をこの歌に込めた。その故事を題材に、扇を手にし桜の花を見つめる幼い親鸞と、向かいに立つ慈円の姿を描いている。ちょうど桜の季節ということもあって印象に残る1点だった。

 重要文化財に指定されている作品も3点展示中。可翁筆『竹雀図』と伝周文筆の『山水図屏風』(六曲一双)と有田焼『染付山水文大皿』。可翁は14世紀前半に日本の初期山水画家として活躍した。周文は京都・相国寺の画僧で雪舟の師として名高い。山水文大皿は直径が45.4㎝もある見込み全面に、梅の枝や聳え立つ雄大な山々が鮮やかな青色で描かれている。初期伊万里の傑作の一つといわれる。

 与謝蕪村筆『緑陰渓友図』は木々が生い茂る水辺の景色を描いた作品だが、添えられた儒学者中井履軒の賛文がおもしろい。「渓釣得魚賭多少共飲一壷酒」(釣りで賭けをして共に酒を飲む)。他には渡辺始興の『金地山水図屏風』(六曲一双)や円山応挙の『四季山水図屏風』(六曲二双)などの館蔵品に加え、京都国立博物館蔵の山口素絢筆『雪景山水図襖』4面と香雪美術館蔵の狩野元信筆『四季山水図屏風』(六曲一双=前期右隻、後期左隻)も特別出陳として展示されている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<カラミザクラ(唐実桜)> ソメイヨシノより一足早く満開に

2023年03月15日 | 花の四季

【別名に「中国桜桃」「暖地桜桃」など】

 今年の桜前線は東京からのスタートとなった。平年より10日も早く、3月14日にソメイヨシノ(染井吉野)の標準木で開花が確認された。そのソメイヨシノより一足早く満開を迎えるのがこの「カラミザクラ(唐実桜)」。原産地は中国で、日本には明治時代の初めに渡来した。「シナミザクラ」「中国桜桃」などの別名を持つ。園芸業界では「暖地桜桃」の名前でも流通している。

 樹高は3~6m。3月に葉が出る前に直径2㎝ほどの白または淡い紅色を帯びた小輪の5弁花を平開する。雄しべが1輪に30~40本もあり長いのが特徴。5月になると直径1~1.5㎝ほどのサクランボ(桜坊)が赤く熟す。日本でサクランボといえば一般的に山形などで栽培されている「セイヨウミザクラ(西洋実桜)」を指す。果実は食用にもなるが、「佐藤錦」「高砂」「ナポレオン」などセイヨウ系に比べると、この東アジア系のカラミザクラは小さくてやや酸味もある。

 このため食用というよりも花や実を観賞する庭木などとして植樹されることが多い。サクランボの多くは近くに授粉樹として異なる品種を植えないと着果しない。だが、このカラミザクラは自家受粉するため1本だけで実を結ぶ。十数年前庭に植えた写真のサクラも数年前から無数のサクランボを付けるようになった。その果実はヒヨドリなど野鳥の大好物だ。

 学名は「Cerasus(Prunus) pseudo-cerasus(セラススまたはプルヌス・プセウド-セラスス)」。属名はラテン語の「桜の木」から。種小名のプセウドは「偽の」「似る」「―もどき」を意味する。カラミザクラからは多くの交配種が生まれている。ソメイヨシノとの交配により「ホソイザクラ(細井桜)」、カンヒザクラとの交配で「ツバキカンザクラ(椿寒桜)」、コヒガンとの交配で「トウカイザクラ(東海桜)」……。やや小ぶりの花を多数付ける品種が多いようだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<せいぶ大和学講座> 「『赤田横穴墓群』の謎」

2023年03月11日 | 考古・歴史

【奈良市埋蔵文化財調査センターの鐘方正樹所長が講演】

 「赤田横穴墓群」(奈良市西大寺赤田町)は大和西大寺駅の西北約1.2キロに位置する。これまでに直近の8基も含め24基の横穴墓が確認され、大小様々な陶棺や木棺、副葬品、埴輪などが出土した。赤田の北側に位置する秋篠町でも4年前に飛鳥時代の横穴墓4基が見つかり「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」と名付けられた。奈良盆地北西部で横穴墓が多く出土するのはなぜか。陶棺や埴輪はどこで造られたのか。そんな疑問に答える講演会(せいぶ大和学講座)が3月10日奈良市学園南の西部公民館で開かれた。

 講師は奈良市文化財埋蔵調査センター所長の鐘方正樹氏、演題は「『赤田横穴墓群』の謎―佐紀古墳群と土師氏と陶棺」。同センターでは「春季発掘調査速報展」で新たに見つかった横穴墓8基の陶棺や埋葬品などを公開中。鐘方氏は「横穴墓群が西側の住宅地域(の地下)にも続いている可能性が大きい」と指摘する。これまでに出土した亀甲形陶棺は横幅が2m以上のものから1mほどの小さなものまであった。古いものは大きく、新しいものほど小さくなっていく。(写真は赤田17号墓から見つかった亀甲形陶棺。登り窯に入るように真ん中で切断して焼いた)

 陶棺は突帯と呼ぶ紐状の模様や分布域などで大きく「北大和」と「南河内」の2つの系統に分類される。北大和系は製作集団が奈良盆地北部中心に分布し、格子状突帯・蓋に突起がない・脚部を倒立して製作する――といった特徴を持つ。同じ北大和系でもさらに「a」と「b」の2系列に分かれるそうだ。一方、南河内系は大阪府南部に分布し、波状突帯・蓋に突起がある・脚部を正立して製作する。いずれも埴輪生産遺跡から陶棺やその破片も出土している。

 赤田横穴墓群に近い所に4世紀後半の宝来山古墳(垂仁陵)築造に伴って営まれた集落跡「菅原東遺跡」がある。この遺跡からは古墳時代後期6世紀の集落と埴輪の窯跡も見つかった。近くから陶棺の破片も出土している。使われた土が埴輪と同じことから陶棺もその埴輪窯で作られたようだ。(写真は菅原東遺跡の埴輪窯跡=2021年2月20日、奈良市横領町「菅原はにわ窯公園」で)

 古墳時代前期~中期に巨大古墳が集まる佐紀古墳群への埴輪の供給を担っていた「東院埴輪窯」が役目を終え、埴輪供給の中心地が「菅原東埴輪窯」に移ったとみられる。鐘方氏はそこで作られた埴輪が秋篠川を下って大和北部一帯に造営された中小古墳群に供給されたとみる。

 “埴輪の祖”といえば天覧相撲で当麻蹴速と戦った野見宿禰。垂仁天皇の后日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなったとき、陵墓に殉死の代わりに埴輪を立てるよう進言、その功績によって「土師」の姓を賜った。続日本紀は「土師氏に四腹有り」と記す。「四腹」とは北大和の「菅原」「秋篠」と南河内の「古市」「毛受(もず)」の4つの支族を指す。

 奈良市の菅原、秋篠の地名も土師氏一族が居住地を基に姓を菅原、秋篠に改めた名残。南河内には藤井寺市に「土師ノ里」、百舌鳥古墳群がある堺市にも「土師町」という地名が今も残る。土師氏一族はそれぞれの地に集落を構え窯を築いて古墳の造営に貢献したわけだ。赤田横穴墓に眠るのも土師氏の後裔ではないかと考えられている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<奈良市埋蔵文化財センター> 赤田横穴墓群で新たに8基!

2023年03月09日 | 考古・歴史

【合計24基に、速報展で陶棺や副葬品を公開】

 奈良盆地北西部では古墳時代後期から飛鳥時代にかけ、南側斜面に横穴を掘って遺体を埋葬する横穴墓が多く築造された。代表的な遺跡が奈良市西大寺赤田町にある「赤田横穴墓群」。これまでに16基が確認されていたが、2021年の発掘調査で新たに8基が見つかった。奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺西2丁目)は開催中の「令和4年度春季発掘調査速報展」で、接合・復元作業を完了した陶棺や副葬品などの出土品を公開している。3月31日まで。

 発掘調査は大和中央道建設に伴って実施したもの。新たに見つかった8基(17~24号墓)は従来の16基から西側に続く場所で見つかった。大和中央道建設に伴う発掘調査では2019年に赤田横穴墓群の北側に位置する秋篠町で、飛鳥時代の横穴墓4基が出土している。こちらは新しく「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」と名付けられた。

 17号墓(6世紀後半)は全長9.3m以上で、床面は初葬時と追葬時の2面があった。初葬時の墓室からは全長2.12mの亀甲形陶棺(10行3列合計30本の脚付き)が出土(写真㊤)。未盗掘だったが、棺内に副葬されていたのは刀子1点だけだった。追葬時には木棺が安置されたとみられ、土師器の壷などの副葬品が見つかった。

 18号墓(7世紀中頃)からは円筒形陶棺(写真㊤)が蓋身を合わせ口にして横たわる状態で出土した。棺内から鹿角装刀子と鉄鏃各1点が見つかった。以前に赤田9号墓から出土した円筒形陶棺が縦置き型なのに対し、18号墓は横置き型になっているのが特徴。この横穴墓も追葬時には木棺が置かれていたとみられる。

 19号墓(7世紀中頃)には木棺の底板の一部(写真㊤)が残存していた。木棺は長さ1.67m、幅0.6m程度に復元できる。墓室入り口からは横穴墓築造時より古い6世紀前半~中頃のものと推定される朝顔形埴輪と頭部が欠けた人物埴輪(写真㊦)が出土した。いずれの埴輪も底部が欠失しており、近くの古墳から抜き取って再利用したとみられる。

 20号墓(7世紀前半)には木棺があったとみられ、須恵器長頸壷や土師器椀などが出土。21号墓(6世紀後半)には盗掘によって壊された亀甲形陶棺が出土し、土師器長胴甕を用いた蔵骨器も出土した。23号墓と24号墓(いずれも6世紀後半)にも木棺があったとみられ、土師器の甕、須恵器の台付長頸壷、提瓶などが副葬されていた。なお22号墓には墓室がなく埋葬されずに放棄された可能性が高い。(下の写真は20~24号墓から見つかった副葬品)

 今回の速報展では奈良時代の瓦窯1基が新たに見つかった「平城京南方遺跡」(北之庄町)についても出土物やパネルなどを使って紹介している。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<春庭点景> うちの庭にも春が来た!

2023年03月06日 | 花の四季

【白梅・侘助・クリスマスローズ・姫立金花】

 枝垂れの白梅が見ごろを迎えた。我が家のいわばシンボルツリー。20年近く前、園芸店で購入した。傘を開いたような枝ぶりとS字形にくねった幹の姿が気に入った。店から借りた小型トラックに載せ一路自宅へ。ところが、その後が大変だった。縄で土ごとくるんだ根巻きの植木のなんと重いことか。一人で車から下ろし、庭まで運ぶのに四苦八苦。さらに大きな穴を掘って地植えするのにも難儀した。

 枝垂れ梅も花色や花の大きさは様々。一重咲きも八重咲きもある。枝垂れの白梅の品種も「白滝」「緑萼(りょくがく)」「満月」など数多い。庭には2本の白梅があるが、この枝垂れは純白で、花びらの多い八重咲き。さて、品種は? 買ったとき聞いたかもしれないが失念してしまった。多分「白滝枝垂れ」か。「実梅」と違って花を愛でる「花梅」だが、毎年数個から十数個実を付ける。その実は梅酒が入った瓶の中に投入している。(下の写真は枝垂れ白梅の後ろ姿)

    

 白梅の向かいには紅白の椿「侘助(わびすけ)」が並ぶ。これらも植えてから20年近く。今では「白侘助」が高さ2.5m、「紅侘助」も2mほどになった。花は小ぶりな一重の筒咲きで、白花は盛りを過ぎたが、赤花はまだ見ごろが続いている。清楚な侘助は古くから茶花として用いられてきた。その名の由来には諸説。①豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、侘助という人物が持ち帰ってきた②千利休に仕え、この花を丹精込めて育てた庭師侘助の名前から③堺の茶人笠原侘助が茶花として好んだから――。

 クリスマスローズも相次ぎ咲き始めた。花期は3~4月。では、なぜクリスマス? 原産地の西洋でクリスマスローズといえばクリスマス前後に開花する「ニゲル種」を指し、バラのような白花を付ける。だから「クリスマス」+「ローズ」。ちょうど受験シーズンの頃に咲くので「合格の花」としても人気を集める。花びらのように見えるのは萼(がく)で、通常5枚の萼からなり、しかも長く開き続けて落ちない。だから「5ガク」→「合格」という語呂合わせからもてはやされている。

 クリスマスローズには花がやや下向きにうつむき加減に咲くものが多い。その花姿が控えめで愛らしいところだが、近年は横向きや上向きに咲くニューハイブリッド種も多く出回って人気上昇中。NHKテキスト『趣味の園芸』は2月号で「主役はクリスマスローズ」という特集を組んだ。その文中にこんな一節も。「今や日本は世界でも最先端のクリスマスローズ交配種の作出国になっています」

 数年前「ヒメリュウキンカ(姫立金花)」の小さな鉢植えを購入した。そのこぼれ種から翌年から毎年庭のあちこちで芽を出しては、3月から5月ごろまで光沢のある黄金色の花を咲かせ続ける。原産地はヨーロッパ~小アジア。日本国内の水辺に自生するリュウキンカの花によく似て、草姿が小ぶりなことから頭に「ヒメ」と付けた。同じキンポウゲ科の草花だが、属は異なる。繁殖力はすこぶる旺盛。今では帰化植物として各地で野生化し、奈良市内でも秋篠川や佐保川などの土手で毎春見られるようになってきた。米国では侵略的外来種に指定され、栽培を禁止している州もあるそうだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<中丸三千繪> 「マリア・カラスコンクール」優勝から33年!

2023年03月03日 | 音楽

【感涙「化粧が流れ落ちパンダになったかもと目元を拭った」】

 33年前のこの日、1990年3月3日「第4回マリア・カラス国際声楽コンクール」のファイナル(最終選考)がイタリア・ヴェネチアで行われた。約400人の応募者から第1次、第2次選考を勝ち抜いたのは12人。そのファイナリストの中で最難関のソプラノ部門(応募280人)で優勝を飾ったのが、なんと日本人の中丸三千繪(当時29歳)だった。新聞やテレビが大きく報道し、週刊誌も特集記事を掲載していたのが、つい先日のことのように思い出される。

     

 マリア・カラス(1923~77)といえば20世紀最高のソプラノ歌手として名高い。その名を冠したこのコンクールは世界最高峰の声楽コンクールといわれ、3年に1度開かれていた。コンクールの模様は中丸が自ら綴った『スカラ座への道 マリア・カラスコンクール』に詳しい。中丸はピアニスト横山修司からコンクールの前こう声を掛けられた。「マリア・カラスコンクールといえば、日本でいったら美空ひばりコンクールというものだよ……。美空ひばり賞をイタリア人にやるかな。日本人がマリア・カラスコンクールで優勝するなんて、世界がひっくり返ってもありえないよ」

 ところがコンクールが始まると耳の肥えた聴衆から高い評価を得る。前年の12月、12日間にわたって行われた第1次をパスすると、翌年1月末の第2次(セミファイナル)も突破。この間、2匹の猫を飼っていた中丸は「自分へのささやかなプレゼント」としてもう1匹飼うことにした。第2次では歌い終わるや拍手が鳴り止まず、舞台に4回も引き戻されることに。「コンクールなのにカーテンコールなどしていいのだろうか」ととまどった。「ビス(アンコール)!」の声まで掛かった。

 ファイナルは3月3日午後8時にスタートした。中丸は第1部でヴェルディの『海賊』を歌ったが、ここでも拍手が鳴り止まなかった。「いままで歌った歌手のなかで、カーテンコールがあったのはミチエだけだよ」。誰かからこう耳打ちされた。ところがその後の衣装替えで、銀色ドレスの下のペチコート紛失騒ぎが起きる。中丸は「私のペチコート!」と叫びながら劇場内を駆け回った。お針子のおばさんが劇場衣装と間違えて持ち去ろうとしていたのだ。それでも無事に第2部を迎えてシャルパンティエの『ルイーズ』のアリアを歌い終えた。すると、またカーテンコールが3回も。

 第2部が終わったのは日が替わって午前零時を過ぎていた。審査員9人は劇場内の密室に移動し、しばらくして審査結果の発表があった。「テノールとバリトン、バスおよびモーツァルト賞は該当者なし」。続いてメゾソプラノ部門、そして最後にソプラノ部門が発表された。「第1位ミチエ・ナカマル!」。大きな歓声と拍手。中丸はその時の心境をこう記す。「確か自分の名が呼ばれたような気もしましたが、自信はありません。『そんなはずはない』という気持ちもありました」

 そのとき「地球が四角にでもなったかと思うような状態」だったとも表現する。「審査員からの抱擁とキスの嵐で、私は少しずつ正気を取りもどしていきました。泣いて化粧が流れ落ちて、まさかパンダのようになってしまったのではないかと、目元を拭ったりもしました」。発表では「ミチエ・ナカマル」という前に「審査員全員一致で」という言葉も添えられていたが、中丸は聞き漏らしていたという。

 この後、レストランで大勢の祝福を受けた中丸はホテルに戻って茨城県の実家に電話をする。2年前1988年の第3回「ルチアーノ・パヴァロッティ・コンクール」で優勝した時には母や姉も現地で喜びを共有した。だが今回は家族を呼んでいなかった。それは第1回審査員の「優勝はイタリア人以外にありえない」という発言が頭に残っていたせいでもある。国際電話が繋がって母に「お母さん、優勝したのよ」と呼びかけた。だが、母は「またお前そんな冗談いって、本当はどうだったの」と信じない。「本当よ」と繰り返すと、「本当? 本当に? お父さん、たいへん!」。そのやり取りが目に浮かぶようだ。寝た頃には午前6時になっていた。

 優勝を機に、中丸は世界的なソプラノ歌手として引っ張りだこになった。直後に凱旋帰国した中丸は大阪・鶴見緑地で開かれた「国際花と緑の博覧会」の開会式で君が代を歌った。6月には小澤征爾指揮のチャイコフスキー『スペードの女王』で悲願のスカラ座デビューを果たす。その後も欧米の歌劇場からオファーが相次いで、数々の有名オペラのプリマ・ドンナを務めてきた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<奈良公園> 猿沢池→荒池→鷺池・浮見堂→片岡梅林

2023年03月01日 | メモ

【梅林見ごろに、池の水質改善事業本格化!】

 2月最終日の28日は前日までの冷え込みがうそのような暖かい一日に。そんな春の陽気に誘われて奈良公園の散策に出かけた。まず向かったのは国宝の興福寺五重塔が水面に映える猿沢池。五重塔は藤原不比等の娘、光明皇后の発願で約1300年前に建てられた。現在の塔は室町時代の1426年の再建。傷みが激しいため昨年から約120年ぶりという大規模な保存修理工事が始まった。まもなく塔全体が素屋根で覆われる。工事完了は7年後の2030年の予定。これが見納めになるかもしれない。そんな思いから、猿沢池からの眺めを目に焼き付けている。

 五重塔は高さ約50mで、木造の塔としては京都の東寺に次いで2番目に高い。しかも小高い所に建っているため、遠くからでも望むことができる。下の写真は奈良公園の南端に位置する荒池からの眺望。荒池は「関西の迎賓館」として1909年に開業した奈良ホテルと料亭菊水楼(登録有形文化財)の間にある。荒池を見下ろす国道169号(天理街道)沿いに、池の由来を刻んだ黒御影石の石碑が立つ。それによると、約140年前に相次いた大旱魃に悩んだ3つの村の農民たちが灌漑用として苦難の末に築造したという。

 奈良市内を散策していると、たびたび朽ちかけた土塀に出合う。古都の景観に溶け込みなかなか風情があるが、中には長い風化によって今にも崩れ落ちそうなものも。その最たるものが荒池園地のそばにある土塀かもしれない。近くを通るとき、つい塀の前で立ち止まってしまう。サイクリング中の外国人の方もじっと見つめていた。どれほどの長い歴史を刻んできたのか。興福寺の塔頭寺院を囲んでいたのでは、などともいわれる。そんな遺物を取り壊さず遺しているのもさすが古都奈良!

 荒池園地を東に進むと、景勝地として名高い浮見堂が浮かぶ鷺池が広がる。浮見堂は檜皮拭きの六角形のお堂。100年以上前の1916年に建てられ、その後2回にわたって修復工事が行われた。この浮見堂は渥美清主演・山田洋次監督の映画『男はつらいよ』の第1作(1969年公開)のロケ地にもなった。橋の欄干の前、写真のこの場所で寅さんが御前様役の笠智衆と娘でマドンナ役の光本幸子の記念写真を撮る。寅さんの「笑って」に御前様が「(チーズじゃなくて)バター」と繰り返した場面が忘れられない。

 この後、浅茅が原園地の片岡梅林へ。約250本が植えられた梅林は白梅を中心に見ごろを迎えていた。奈良の梅林として有名な月ケ瀬などと比べると、規模は格段に小さい。だが鹿との2ショットを撮れる梅林は他にない。しかも東大寺や興福寺周辺と違って観光客もまだ少ない穴場だ。梅林の見ごろは例年3月中旬ごろまで続く。

 春日大社の一の鳥居に向かうと、参道沿いは水路整備工事中で青色の導水管が延々と伸びていた。奈良市は夏場を中心に水の濁りがひどい猿沢池などの水質改善事業に取り組んでいる。昨年秋、奈良国立博物館の井戸水を仮設水路で猿沢池まで流し込む実験を行った。

 その結果、水の透視度が実験前の35㎝から91㎝に改善するなど一定の効果があった。確かに、これまでたびたび猿沢池に来ているが、これほど池の底まではっきり見えたのは初めて。かつて我が物顔だった外来種アカミミガメは1匹も確認できなかった。浮見堂がある鷺池も水質改善に向けて池干し中だった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする