【明日26日に誕生日、生國魂神社に銅像建立】
小説『夫婦善哉』で知られる作家・織田作之助は1913年(大正2年)10月26日、大阪市天王寺区の生國魂神社の近くで生まれた。今年でちょうど生誕100年。33年ほどの短い生涯。しかも作家活動は僅か8年ほどだったが、「東の太宰(治)、西のオダサク」「無頼派の旗手」といわれ、大阪を舞台にした小説を書きまくった。その足跡をちょっとばかりたどってみた。
オダサクといえば、まず法善寺のぜんざい屋さん「夫婦善哉」だろう。小説『夫婦善哉』の最後の場面で、どもり癖のある柳吉が「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った店だ。苔むした水掛不動(写真㊧)のすぐ南側にある。入り口には赤い大きな提灯。店内の壁面には有名人の色紙や小説の初版本などがずらりと飾られていた。その中に映画「夫婦善哉」に主演した森繁久弥の書や淡島千景の色紙もあった。
注文すると小説そのままに1人前がお椀2つに分けて運ばれてきた(写真㊨)。口直しの塩昆布付きで800円。なかなか上品な甘さだ。最高級の「丹波大納言」という小豆を使っているという。店を出て1筋北側の法善寺横丁にある「正弁丹吾亭」へ。柳吉・蝶子が関東煮(かんとだき)の店を始める前に、暖簾をくぐって味加減などを調べた店だ。店の前に「行き暮れてここが思案の善哉かな」というオダサクの句碑が立っていた。
オダサクは千日前の洋食店「自由軒」(写真㊧)にもよく通った。小説でも柳吉に「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、まむしてあるよって、うまい」と言わせている。店頭には店を取り仕切る若女将・吉田純子さんの等身大の写真パネル。名物カレーのメニュー見本(写真㊨)には「織田作之助好み」と書き添えられていた。
中に入ると、左手のレジに〝看板娘〟の吉田さんが座り、正面に「虎は死んで皮をのこす 織田作死んでカレーライスをのこす」と書いたオダサクの写真が飾られていた。普通のカレーライスもあるが、ここは勿論、名物カレー(680円)を注文。まずそのままに、次にウスターソースをかけて、最後に生卵をかき混ぜて食べる。スパイスが利いたなかなか濃厚な味だ。吉田さんの父親が考案したという。名物カレーを持つ吉田さんの写真が台湾のガイドブックに載ったことなどもあって、最近は海外からの観光客も多いそうだ。
地下鉄谷町9丁目駅のすぐ南西側にある生國魂神社は幼い頃のオダサクにとって大切な遊び場だった。この神社は『木の都』『放浪』『雨』などオダサクの作品にもしばしば登場する。バイオリニスト辻久子をモデルにした『道なき道』や6年前に見つかった未発表の『続夫婦善哉』にも。『木の都』には「幼時の記憶は不思議にも木と結びついている。それは、生國魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり……」と書いた。
神社の権禰宜・中村文隆さんに尋ねてみると、そのクスノキ(写真㊧)は境内の一角にまだあった。残念ながら落雷に遭って焼け焦げ枯れていたが……。今は御神木として注連縄が飾られている。不思議なことに、その枯れた大木に今も「巳さん」が棲んでいるという。中村さんも緑色がかった蛇を見たことがあるそうだ。若い女性が願掛けのために放したらしい。
オダサクは東京を中心とする文壇から「作品に品がない」などと激しく攻撃された。その反発もあって大阪の人情や風情にこだわった作品を多く残した。『夫婦善哉後日』には「万葉以来、源氏でも西鶴でも芭蕉でも近松でも秋成でも、文学は関西のもんだ」と書いている。
オダサクは生前「井原西鶴の再来」ともいわれた。自身も志賀直哉の勧めもあって西鶴の作品を読み漁り、『西鶴新論』など評論も残した。誕生日の26日、生國魂神社の境内にある井原西鶴像(写真㊨)のすぐそばで、オダサクの銅像の除幕式が行われる。オダサク文学のファンでつくる「オダサク倶楽部」が同神社での「生誕100年記念祭」に向けて準備を進めてきた。
西鶴は1680年、生國魂神社の境内にあった南坊で「矢数俳諧」の興行を行い一昼夜に4000句を独吟した。その後、住吉神社ではなんと2万3500句を達成! 高浜虚子が生涯に詠んだ俳句は20万句を超えるといわれるが、それにしても西鶴の一昼夜で2万句とは……。オダサクの永眠(1947年)から約66年。心酔していた西鶴のすぐそばに銅像が立てられることになってオダサクも本望に違いない。