く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ゴマ(胡麻)> 葉の付け根ごとに白やピンクの筒状花

2017年07月31日 | 花の四季

【国内有数産地の喜界島に〝セサミストリート〟出現!】

 ゴマ科の1年草。草丈は1mほどで、真夏に上部の葉腋に1つずつ白や淡いピンク、紫色の筒状の花を付ける。花後30~40日で種子がびっしり詰まった円筒形の蒴果ができ、熟すと果皮が裂けて種子が飛び出す。ゴマには外皮の色で白ゴマ、黒ゴマ、茶ゴマなどがあるが、白ゴマには白い花、黒ゴマにはピンクの花が咲くことが多いそうだ。「日照りにゴマの不作なし」。ゴマはこういわれるほど乾燥に強い植物として知られる。

 ゴマの英名は「セサミ」、学名は「セサムム・インディクム」。学名の名付け親はスウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネ(1707~78)で、当時は一大生産地だったインドがゴマの発祥地と考えられていたようだ。だが、現在では元々の原産地はアフリカのサバンナ地帯とする見方が一般的。アフリカ中部のナイル川流域では5000年以上前から栽培されていたという。世界の主要生産国はインド、ミャンマー、中国、エチオピア、スーダンで、この5カ国で世界の生産量のほぼ3分の2を占める。日本はゴマの消費大国で、「ごまぞう」「まるひめ」など国内で品種改良されたものもあるが、99%は輸出に頼っている。

 日本には古く中国から薬用や燈油用として渡来し栽培されてきた。ゴマも漢名「胡麻」の音読み。漢名は西域からやって来て、麻に似た種子を付けることが語源といわれる。縄文時代後期の遺跡からは炭化したゴマが見つかっており、飛鳥時代に編纂された「大宝律令」の中にもゴマに関する記載がある。国内では鹿児島・奄美群島の喜界島が白ゴマの有数産地。毎年9月頃には刈り取った株が天日干しのため石垣など道路沿いに整然と並ぶ。この光景を〝セサミストリート〟と呼んで、ゴマ収穫期の風物詩になっているそうだ。

 ゴマは含油量が多く全体の約50%を脂質が占める。「胡麻の油と百姓は搾れば搾るほど出るものなり」。江戸中期の享保の改革を裏で支えた勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)の言葉と伝わるこの表現が、当時の年貢の取り立ての厳しさを物語る。ゴマに関する成句は「ゴマをする」「ゴマ塩頭」「開けゴマ」など多いが、「ごまかし(誤魔化し)」もその一つ。これは一説に江戸時代、小麦粉にゴマを混ぜ焼いて膨らました中が空っぽのものを「胡麻胴乱」や「胡麻菓子」と呼んだことに由来するという。「裏山から来る風すずし胡麻の花」(富澤統一郎)

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<水郷柳川> どんこ舟に揺られ詩情豊かな川下り

2017年07月29日 | 旅・想い出写真館

【北原白秋生家、柳川藩主立花邸「御花」…】

 柳川藩の城下町として栄えた柳川(福岡県柳川市)は水郷の町として知られる。2年前の2015年3月には川下りコースが「水郷(すいきょう)柳河」として国の名勝に指定された。「御花(おはな)」の名で親しまれている柳川藩主立花邸も「立花氏庭園」として国指定の名勝。近代日本の〝詩聖〟北原白秋の生家は柳川地方で一、二を競う造り酒屋だったという。この生家は県指定の文化財史跡。市内には白秋をはじめ高浜虚子、檀一雄らの詩碑・歌碑なども多く、これらの碑を巡る文学ファンも多いそうだ。

 

 

(写真上段=㊧北原白秋生家、㊨立花氏庭園「西洋館」、下段=㊧立花氏庭園「松濤園」、㊨川下りで最も狭くて低い橋の下を通るどんこ舟)

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<九州北部豪雨> 災害の爪痕が生々しい朝倉市杷木町の中心部

2017年07月28日 | メモ

【記録的豪雨から3週間、なお道路脇に流木や土砂がうず高く】

 記録的な集中豪雨で大災害を引き起こした〝九州北部豪雨〟から3週間余。これまでに犠牲者は35人に上り、なお6人が行方不明になっている。最も被害が大きかったのは福岡県中東部の朝倉市、東峰村から大分県の日田市にかけて。中でも朝倉市は犠牲者が28人と多く、行方不明者も全員朝倉市在住の方ばかり。日田からバスで久留米方面に向かっていた24日朝、朝倉市杷木町(はきまち)で途中下車した。

 

 杷木町。今回の豪雨災害を伝えるニュースで何度も耳にした地名だ。大分自動車道杷木インターに近く、県道52号八女香春線が東西を貫く。「杷木寒水(はきそうず)地区」。県道北側の河川は橋の鉄パイプが折れ曲がり、コンクリートで固めた法面も崩落、周囲の住宅や田畑は流木や土砂で埋め尽くされていた。県道南側では住宅の壁面に土砂流の跡がくっきり刻まれていた。高さは地面から1m余り。路地が川と化し、大量の土砂が激流となって下っていったのだろう。その突き当たりは筑後川。その堤防上にも黄色い土砂がうず高く積まれていた。改めてすさまじい自然の猛威を実感した。

 

 朝倉市内には筑後川水系の小さな河川が多く、橋に流木などが引っかかって各地で氾濫を引き起こしたらしい。市内には農業用ため池も100カ所以上あり、脆弱なため池が決壊して被害を拡大させたのではないかとも指摘されている。杷木町中心部では水害の直撃を受けた場所と被害がなかった場所がくっきり分かれていた。町並みを見下ろす東側の高台に杷木神社が鎮座する。そこに向かう途中、何人もの住民と擦れ違ったが、全員さわやかに「おはようございます」と声を掛けてくれた。神社で早期の復興を祈願して杷木の町を後にした。29日には夏越祭(輪越し)が行われるという。

 

 翌25日のJR小倉駅前。「西南女学院大学 観光文化学科」と大書したノボリを持つ学生たちが豪雨災害の募金活動を行っていた。6年ほど前に「東峰村応援隊ガールズ」を結成し、農作物・加工品の販売などを通して東峰村の魅力を発信する活動に取り組んできたという。その東峰村が豪雨による土砂崩れなどで一時孤立状態となり犠牲者も出た。応援隊としては居ても立っても居られないということだろう。女学生6人の懸命の呼び掛けに、多くの通行人が快く応えていた。

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<日田祇園祭> 昨年12月のユネスコ「無形文化遺産」登録後初の開催

2017年07月27日 | 祭り

【豪雨災害を乗り越えて豪華な山鉾9基が巡行】

 大分県日田市で7月22~23日、長い伝統を誇る曳山行事「日田祇園祭」が繰り広げられた。国指定の重要無形民俗文化財で、昨年12月にはユネスコの「無形文化遺産」にも登録された。今年は約3週間前に「九州北部豪雨」による水害や土砂災害の直撃を受け、山鉾関係者も犠牲になったこともあって開催が危ぶまれていた。恒例のJR日田駅前での「山鉾集団顔見世」(20日)こそ中止になったものの祇園祭は例年通り行われ、高さ10m級の豪華な山鉾が祇園囃子に乗って古い町並みを曳き回された。

 祇園祭は悪疫鎮護の守護神、牛頭(ごず)天王を祀る祇園社の夏越し祭り。日田地区には古くから各地に祇園社が置かれ、約300年前の正徳4年(1714年)に隈・豆田地区で小規模な山鉾が造られたのが始まりといわれる。山鉾はその後次第に大型化し、文化文政期(1804~30年)には高さが15mを超えるものも登場した。太鼓・笛・三味線で奏される祇園囃子もその頃に作られ、今も40曲余りが伝承されているという。山鉾を飾る見送りや水引きも豪華絢爛。19世紀に制作されたものも数多く残っているそうだ。

 

 巡行する山鉾は現在、高さ10m級も含め全部で9基。23日正午すぎ、隈町の日田祇園山鉾会館前には隈・竹田地区の山鉾5基が勢揃いしていた。いずれも地元の人形師の手による武者人形などで美しく飾り立てられ、「平成山鉾」には「壇ノ浦の戦 八艘飛びの場」が再現されていた。この後、日田駅の北西に位置する豆田町に向かうと、昼休みを終えた山鉾4基が順次巡行を始めていた。雅なお囃子に合わせ、ゆっくりと進むきらびやかな山鉾。その落ち着いた風情が古い町並みに溶け合って、前日22日にあった「戸畑祇園山笠」(福岡県北九州市)競演会の豪快さとは対照的な優美さに包まれていた。

 

 日が落ちると山鉾の提灯に灯が入って〝晩山〟に模様替えし、祭り情緒も最高潮に。豆田町の上町・港町・下町・中城町の4基は午後8時、花月川に架かる御幸橋に結集した。橋の北端まで進んだ山鉾2基は180度方向転換して、2基と2基が向かい合う形に。橋の上で山鉾はポーズをとるように角度を変えていたが、そのうち1基の上部が街灯と接触して街灯が割れ、警備中の警察官が駆けつけるハプニングも。今回の記録的豪雨では花月川に架かるJR久大線日田~光岡(てるおか)間の鉄橋が崩落するなど、日田市内も甚大な被害に遭った。祇園祭の開催が復興への力強い第一歩になるように心から祈りたい。「帰ってきてよかった~」。すぐそばで晩山を見上げていた若い女性が連れの女性にしみじみとこう話していたのが強く印象に残った。

 

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<ネジバナ(捩花)> 螺旋状の花穂にピンク色の小花を横向きに

2017年07月20日 | 花の四季

【ラン科、別名「モジズリ」、園芸界では「小町蘭」とも】

 ラン科ネジバナ属(スピランセス属)の多年草。日本のほか朝鮮半島、中国、インド、オーストラリアなどに広く分布する。ランといえば気品のある華やかな花姿を連想するが、このネジバナは日当たりのいい野原や芝生などに生え、草丈10~30cmほどでか細く目立たない。6~8月頃、螺旋状に捩(ねじ)れた花穂にピンク色の小花を横向きに多数付ける。属名「スピランセス」もギリシャ語で「螺旋状の花」を意味する。

 全国でごく普通に目にすることができるだけに方言名も多種多様。「ネジリバナ」「ネジネジバナ」「ノコギリバナ」「ナワバナ」のほか「ヒダリマキ」「ヒダリネジ」などもある。ただ実際には捩れる方向は一定しない。左巻きや右巻きのほか捩れないものもあり、花色も濃淡に差があって、まれに白や緑のものもある。ネジバナは古くから「モジズリ(捩摺)」とも呼ばれてきた。江戸前期の園芸書『花壇地錦抄』(1695年)にもモジズリとして登場しており、ネジバナが当時から栽培されていたことが分かる。

 モジズリの名前は花姿が東北地方で昔作られていた絹織物の「信夫(しのぶ)捩摺り」の模様に似ていることに由来する。この模様は小倉百人一首にも登場する。「みちのくのしのぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(河原左大臣=源融)。屋久島には草丈が10cm前後と小さい矮性種「ヤクシマモジズリ」が自生する。園芸界では斑(ふ)入り葉や花変わりなどが「小町蘭」と呼ばれ珍重されている。「ねぢれ花ねぢれ咲けるも天意かな」(山口いさを)

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<高良神社> 和太鼓が鳴り響く勇壮な「やわた太鼓まつり」

2017年07月17日 | 祭り

【「ヨッサー、ヨッサー」男衆に担がれ練り歩く屋形御輿】

 石清水八幡宮(京都府八幡市)の摂社、高良(こうら)神社で16日、「太鼓まつり」として親しまれている例祭が繰り広げられた。同神社は八幡宮が鎮座する男山の麓にあり、八幡宮一の鳥居の奥に位置する。太鼓まつりは約190年前の文政年間(1818~30年)に、厄病などの災いを祓うため町内ごとに太鼓を載せた屋形御輿(やかたみこし)が造られ男衆に担がれて練り歩いたのが始まりという。

 現在あるのは旧八幡地区の1区、2区、3区、6区の計4基。前日の15日は〝足固め〟といわれ各地区内を練り歩いたが、最大の見どころは各御輿が高良神社と石清水八幡宮の頓宮前に勢揃いする16日夕の〝宮入〟。太鼓が「ドン、ドン、ドドドン」と繰り返し打ち鳴らされる中、法被姿の男衆が「ヨッサー、ヨッサー」の掛け声も勇ましく、御輿を大きく左右に揺らしながら参道を練り歩いた。この日はやや小ぶりの子どもみこし2基も参加した。日が暮れて提灯が灯った御輿の姿も見たかったが、急に激しい雨に遭い早々に引き上げたため目にすることができなかったのが少々心残りだった。

 

 高良神社の社殿は明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの際に焼失したという。現社殿は小規模で目立たないが、かつては京都・仁和寺の法師が石清水八幡宮の本殿と間違えるほど立派だったらしい。吉田兼好の『徒然草』52段にはその時の様子をこう記す。「年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく(残念に)おぼえて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得てかへりけり」。法師はこれがあの有名な石清水八幡宮かと早合点して京都に戻ってしまった。

 

 

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<ギンバイカ(銀梅花)> 白梅に似た清楚な花を上向きに

2017年07月16日 | 花の四季

【地中海沿岸地方原産、別名「マートル」「ミルテ」「イワイノキ」…】

 フトモモ科ギンバイカ属(ミルトゥス属)の常緑低木。主な原産地は地中海沿岸地方で、日本には明治末期に渡来した。樹高は1.5~3mで、6~7月頃、梅に似た径2cmほどの白い5弁花を上向きに付ける。長い雄しべの花糸が放射状に伸びる花姿が印象的。花や葉、果実にはフルーティーな芳香があり、乾燥してポプリや肉料理のスパイスなどとして使われる。その香りから「ギンコウバイ(銀香梅)」や「ギンコウボク(銀香木)」という別名を持つ。ハーブの世界では英名からしばしば「マートル」と呼ばれる。

 ギンバイカの栽培の歴史は月桂樹やオリーブなどとともに古い。古代エジプトでは愛と歓喜の女神ハトホルに捧げられ、ギリシャ神話では愛と美の女神アフロディーテの神木に、また古代ローマでもヴィーナスの神木とされた。ギンバイカは結婚式など祝い事の花飾りや花嫁のブーケとしてよく用いられることから「イワイノキ(祝いの木)」とも呼ばれる。2011年の英国ロイヤルウエディングでは、ウィリアム王子と結婚したキャサリン妃のブーケにもスズランなどとともにギンバイカが使われていたそうだ。

 ドイツでは「ミルテ」の名前で親しまれ、文学や音楽などにもしばしば登場する。「君知るや 南の国」で始まるゲーテの詩『ミニヨンの歌』には「ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く…」(森鴎外訳)と詠まれている。ドイツ・ロマン派を代表する作曲家シューマンには全26曲からなる歌曲集『ミルテの花』がある。シューマンは1840年9月12日の結婚式前日、名ピアニストでもある最愛のクララに「愛する花嫁へ」と書いたこの歌曲集をミルテの花で飾ってプレゼントしたという。

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<シチョウゲ(紫丁花)> 紫色の小花が愛らしい日本固有種

2017年07月15日 | 花の四季

【紀伊半島の和歌山・三重県と高知県の川岸の岩場に自生】

 アカネ科シチョウゲ属(レプトデルミス属)の落葉小低木。同属の植物は日本から中国、ヒマラヤ地方にかけて約30種分布するが、日本産はこのシチョウゲ1種のみ。主な分布域が紀伊半島南部の和歌山・三重県と高知県に限られる日本固有種で、熊野川流域や四万十川流域などの岩場に自生する。環境省のレッドリストでは将来的に絶滅の危険性があるとして準絶滅危惧種に分類されている。

 樹高は30~70cmほどで、よく枝分かれし細い小枝を多く出す。花期は7~10月。枝先や上部の葉の脇に淡紫色の漏斗状の愛らしい小花をいっぱい付ける。花冠は長さ1~2cmで、先端は5裂する。学名「レプトデルミス・プルケラ」。種小名プルケラはギリシャ語で「愛らしい」を意味する。岩場に生え、紫色の花をハギ(マメ科)に見立てて別名「イワハギ(岩萩)」とも呼ばれる。

 「紫丁花」の名は花色が紫で、釘のように細長い花の形がチョウジ(丁字)に似ることに由来するといわれる。ただチョウジに似るとして名付けられたのはハクチョウゲ(白丁花)の方で、シチョウゲはそのハクチョウゲの花に似ることからの命名との説もあるそうだ。シチョウゲは花期が長く可憐な花をたくさん付けることから、盆栽や庭木としても人気を集めている。

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<ナンキンハゼ(南京黄櫨)> 長く黄色い花穂はミツバチなどの蜜源に

2017年07月12日 | 花の四季

【名前は中国原産でハゼノキのようにロウが採れることから】

 中国中南部原産のトウダイグサ科の落葉広葉樹。標準的な樹高は5m程度だが、大きなものは高さ15m、直径1mにも達する。日本には江戸時代に渡来した。雌雄同株・異花。7月頃、若枝の先から10~20cmほどの黄色い総状花序を伸ばし、花序の上部に無数の雄花、下部に数個の雌花を付ける。ミツバチの蜜源植物の一つでチョウなども集まってくる。秋になるとスペード形の葉が赤や黄、紫など色とりどりに紅葉して美しい。緑色の果実は熟すと黒紫色になって果皮が割れ、白いロウ状物質に包まれた3つの種子が姿を現す。この種子は落葉後も付いたままのことが多く、寒い季節にムクドリやシジュウカラなどの鳥が盛んに種子をついばむ姿をよく見かける。

 学名は「トリアディカ・セビフェラ」で、種小名セビフェラは「脂肪のある」を意味する。和名は中国産でハゼノキ(黄櫨)のようにロウが採れることから。かつては各地で栽培されて種子が和ロウソクや石鹸の原料とされた。別名に「トウハゼ」「カラハゼ」「カンテラギ」など。ただハゼノキはウルシ科に属し、分類上は全くつながりがない。漢方では根皮を乾燥したものを「烏臼(うきゅう)」と呼んで利尿薬に用いる。春の若葉と秋の紅葉が美しいうえ、成長が早く乾燥や大気汚染にも強いとことから、関東以西の暖地で街路樹や公園樹として植栽されることが多い。

 ナンキンハゼは長崎市や京都府南部の京田辺市の「市の木」。日本には長崎に初めて入ってから各地に広がったといわれ、長崎市は1975年(昭和50年)に市の木に制定した。ただ一方で、外来種であるナンキンハゼの分布域拡大に頭を悩ます地域も。奈良県の奈良公園事務所は2016年11月、春の山焼きで有名な若草山(奈良市)でナンキンハゼの駆除作業を実施した。ナンキンハゼはアシビ(馬酔木)とともにシカが食べない忌避植物で、その繁殖によって生態系への影響が懸念されるというのが理由。ナンキンハゼは国の特別天然記念物で世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つになっている春日山原始林にも侵入しており、県は詳細な調査を踏まえて今後駆除方法などを検討していく方針という。「冬めきぬなんきんはぜの道行けば」(星野麥丘人)

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<大阪市大理学部付属植物園> アサザ、ガガブタなどの水草類も開花中

2017年07月11日 | 花の四季

【実がイガ栗のようなミクリの仲間たちも】

 大阪市立大学理学部付属植物園(大阪府交野市)には受付を兼ねた事務所棟のすぐ前に、長大なスイレンプールや水生植物コーナーがある。湿地や池沼に自生する水生植物は環境の変化にとりわけ敏感で、開発や水質の悪化などにより絶滅の危機に瀕しているものも多い。水生植物コーナーにはそうした貴重な浮葉植物や沈水植物など約80種を展示しており、9日に訪ねると花弁が毛むくじゃらのアサザやガガブタ、花後の果実がイガ栗のようなミクリの仲間たちがちょうど開花中だった。

 

 

【写真上】㊧アサザ、㊨ガガブタ【写真下】㊧ヒメシロアサザ、㊨ミズキンバイ

  ミツガシワ科のアサザ、ガガブタは環境省レッドリストで準絶滅危惧、ヒメシロアサザは絶滅危惧Ⅱ類になっている。ガガブタは「鏡蓋」で葉の形が鏡の蓋に似ていることに由来するという。ガガブタとヒメシロアサザは同じ白花でよく似るが、ガガブタは花弁の内側全体に毛が密生するのに対し、ヒメシロは葉が小さく花弁の縁にだけ毛がある点が異なる。ミズキンバイ(アカバナ科)も絶滅危惧Ⅱ類で、花は一日花。ガマ科のオオミクリは絶滅危惧Ⅱ類、ナガエミクリは準絶滅危惧種。いずれも花序の上部に雄性頭花、下部に雌性頭花を付ける。ナガエミクリのナガエは雌性頭花に柄ができることに由来するそうだ。園内ではスイレンも見頃を迎えており、7月15日に「水生植物観察会」(解説=厚井聡・理学研究科講師)を開く。

 

 

【写真上】㊧ナガエミクリ、㊨オオミクリ【写真下】㊧チャワンバス、㊨ポンテデリア

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<大阪市大理学部付属植物園> ハーブ園、約30種のうち半数近くが開花中

2017年07月10日 | 花の四季

【ミントやタイム、セージ、ベルガモットなどの仲間が見頃に】

 大阪府交野市にある大阪市立大学理学部付属植物園。1950年の設立で、70年近い歴史を誇る。約1カ月前の6月7日には日本植物園協会の総裁でもある秋篠宮さまがご視察された。大阪市内の同大学で開かれた協会の第52回大会に先立って学長らの案内で見学されたという。久しぶりにその植物園を訪ねると、多種多彩なスイレンや水生植物の花などが出迎えてくれた。約30種のハーブ類を集めたハーブ園もミントやタイム、セージ、ベルガモットの仲間など半数近くが開花中だった。以下の写真はそれらのハーブの中から。

  

  

  

【上段】左からオレガノ、パイナップルミント、ソープワート【中段】左からチェリーセージ、サマーサボリー、ワイルドベルガモット【下段】左からアップルミント、タンジー、キャットニップ

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<シマトネリコ(島梣)> 涼しげに風にそよぐ姿が人気の常緑樹

2017年07月08日 | 花の四季

【沖縄など南国に自生、円錐状に小さな白花を密に】

 モクセイ科トネリコ属の高木。沖縄、台湾、中国、フィリピンなど亜熱帯~熱帯地方に自生し、原産地では高さが10m以上にもなる。日本の分布域は沖縄本島をはじめ久米島、西表島、石垣島など。その名も「島」に自生する「トネリコの仲間」に由来する。枝葉が風にそよぐ涼しげな風情が人気を集め、庭や玄関そばのシンボルツリーとして植樹されることが多い。鉢植えの観葉植物としても親しまれている。

 葉の構成は奇数羽状複葉といって9~13枚ほどの小葉が左右対称に規則正しく並ぶ。5~7月頃、その葉や枝の付け根から円錐花序が伸び、小さな白花を密に付ける。花後には細長くて白い翼果が鈴なりに。シマトネリコの仲間にはトネリコやアオダモ(コバノトネリコ)、ヤマトアオダモ(オオトネリコ)、シオジ、ヤチダモなどがある。これらはいずれも落葉樹だが、シマトネリコだけは常緑(または半常緑)というのが大きな違い。シマトネリコも含めトネリコ属はいずれも雌雄異株で、材が緻密なうえ弾力に富むことから建築・器具材などに使われてきた(トネリコやアオダモはバッド用材としても知られる)。

 シマトネリコは日本特産のシオジに似ることから「タイワンシオジ(台湾塩地)」という別名もある。トネリコの語源には諸説。その1つに「トヌリキ(戸塗木)」転訛説。樹皮に寄生する虫が分泌する白蝋を、敷居などの溝に塗って滑りを良くしたことからというもの。「共練濃(ともねりこ)」転訛説は樹皮を煮て膠(にかわ)状にし墨を混ぜて練り濃くしたものを写経などに使ったことに由来するという説。枝を10回ねじってものの結束用に使ったという「十練り」説もある。

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<マダガスカルジャスミン> 純白の花からジャスミンに似た甘い香り

2017年07月07日 | 花の四季

【マダガスカル原産、結婚式のブーケやコサージュにも】

 その名はアフリカ大陸の南東に浮かぶマダガスカル島原産で、純白の花が放つ甘い香りがジャスミンに似ることから。ジャスミンはマツリカ(茉莉花)やハゴロモジャスミンなど、モクセイ科オウバイ属の植物の総称。一方、このマダガスカルジャスミンはガガイモ科シタキソウ属で、ジャスミンと付くものの同じ仲間ではない。日本には明治時代の中頃に渡来した。

 常緑のつる性植物で、つるの長さは成長すると5mにもなる。通常あんどん仕立ての鉢植えとして栽培されることが多い。5~9月頃、葉の脇から5弁花のように見える純白の筒状花を数輪ずつ付ける。花びらは肉厚で花径は4cmほど。同属で日本(関東以西)に自生する似た植物にシタキソウがあることから「マダガスカルシタキソウ」や「アフリカシタキヅル」などとも呼ばれる。

 学名は「ステファノティス・フロリブンダ」。花が純白で芳香があって花もちもいいため、結婚式などのブーケやコサージュとしても使われる。また光沢のある深緑色の葉が年中生い茂ることから観葉植物としても注目され、中でも「バリエガタ」と呼ばれる斑入りの品種は人気が高い。ただガガイモ科の植物は有毒なアルカロイド成分を含むものが多い。このマダガスカルジャスミンもその一つで、葉や茎の切り口から乳液を出す。取り扱うときには少し注意したほうがよさそうだ。

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<BOOK> 「邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡」

2017年07月05日 | BOOK

【七田忠昭著、新泉社発行】

 「遺跡には感動がある」をキーワードに新泉社(東京都文京区)が2004年に刊行を開始したシリーズ「遺跡を学ぶ」の1冊。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は筑紫平野のほぼ中央部に位置する。その遺跡が一躍注目を集めたのは1989年1月。新聞やテレビで「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼が住んでいた集落とそっくり同じつくり」と大々的に報じられた。それから約28年。邪馬台国論争は収束するどころか、激しさは増す一方。吉野ヶ里に関しては「邪馬台国とは無関係」「邪馬台国より時代が古い」といった声も聞こえる。こうした見立てに対し、著者七田氏は「はたしてそうか」と疑問を投げ掛け、「いまあらためて発掘成果と魏志倭人伝の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」と主張する。

       

 七田氏は1952年、佐賀県神埼市神埼町生まれ。まさに吉野ヶ里遺跡のすぐそばで幼少期を過ごし、遺物の収集に没頭したという。大学では考古学を専攻し、卒業後、佐賀県教育庁に入庁。1986~2008年の22年間、吉野ヶ里遺跡の発掘責任者を務めながら国営吉野ヶ里歴史公園の整備事業に携わってきた。吉野ヶ里への思い入れが人一倍強いのも当然のことだろう。遺跡の場所にはもともと佐賀県の工業団地が建設される予定だった。発掘調査が始まったのは86年5月。七田氏にとっては「自分の手で発掘できる期待感と、発掘が終了したら壊されるという遺跡の運命を感じながらの発掘調査となった」。

 調査が進むにつれ大規模な環壕跡や厖大な土器、甕棺(かめかん)、日本初の巴形銅器の鋳型などが次々に出土した。弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀)の環壕集落が前期の2.5ha.から中期に20ha以上に、さらに後期には40ha超と、時代を下るにつれ「ムラ」から「クニ」に大きく発展する様子が明らかになっていく。後期の遺跡からは4基の物見櫓や弥生時代屈指の大きさを誇る大型建物、高床倉庫群などの遺構が出土した。こうした中で89年春、佐賀県知事が遺跡保存を表明。そのニュースを見て「これまでの精神的、肉体的な疲労も吹っ飛び、喜びがこみ上げてきた」。七田氏はその直前に佐賀を訪れ遺跡の重要性を強調した佐原眞氏(当時奈良国立文化財研究所指導部長)を〝吉野ヶ里の救世主〟として名を挙げる。吉野ヶ里遺跡は90年史跡に指定され、翌91年には特別史跡へ格上げされた。

 本書は5章構成で、1~4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。その中で両者の共通点として、①弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する②卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている③鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。吉野ヶ里遺跡はいま国営吉野ヶ里歴史公園に姿を変え、年間70万人の観光客が訪れる。その中核の環壕集落ゾーンには集落が最も繁栄した弥生時代終末期(3世紀前半)の大規模集落が復元されている。その時期はちょうど卑弥呼が倭国の女王だった時代とも重なる。

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