く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ルナリア> 花後にできる扁平で丸い莢がドライフラワーに人気

2016年04月30日 | 花の四季

【和名「ゴウダソウ」、パリから種を持ち帰った版画家「合田」の名前から】

 ヨーロッパ原産のアブラナ科ルナリア属の2年草。和名は「ゴウダソウ(合田草)」。版画家で東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)のフランス語教授だった合田清(1862~1938)の名前に因む。合田は1901年(明治34年)にパリのフランス画家宅の庭にあったルナリアの種子を持ち帰って日本で初めて栽培したといわれる。

 4~5月ごろ、直立した茎の先の総状花序に紅紫または白の小花をいくつも付ける。花径は2cmほどで、アブラナ科特有の十字花。草丈は開花が進むにつれて高くなり、時に1mほどにも。なかなか愛らしい花だが、花後にできるユニークな莢(さや)の形からドライフラワーとしての人気も高い。

 花が散った後、雌しべの子房は段々円盤状に膨らんで直径が3~5cmほどになる。その円形の莢は初め緑色だが、次第に薄茶色に。そして実が熟し外皮が外れて中に納まっていた数粒の種がこぼれると〝隔膜〟と呼ばれる薄い膜だけが残る。その隔膜が半透明で銀色に光って美しく、傷まずに同じ状態が続くことが人気につながっている。

 ルナリアの語源はラテン語で「月」を意味する「ルナ」から。隔膜の姿をまん丸い月に見立てた。ルナリアは「オオバンソウ(大判草)」や「ギンカソウ(銀貨草)」とも呼ばれる。これらも銀色に輝く円形の隔膜を大判や銀貨にたとえたもの。このほかに「ギンセンソウ(銀扇草)」という優美な別名も。共通するのは花姿ではなく、花後のおもしろい莢の色・形が名前のもとになっている点だ。

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<へぐり時代祭り> 倭建命、役行者、長屋王、行基、松永久秀、島左近…

2016年04月29日 | 祭り

【今年で7回目、平群町役場から道の駅「くまがし」まで練り歩く】

 奈良県の北西部に位置する平群町で29日「へぐり時代祭り」が繰り広げられた。2010年の平城遷都1300年祭を機に始まり、今年で7回目。平群一帯は5~7世紀に活躍した豪族平群氏の本拠地。町内には奈良時代初めの左大臣長屋王の墓や夫人の吉備内親王の墓もある。こうした平群にゆかりのある歴史上の人物を中心に約200人の行列が平群町役場から道の駅「くまがしステーション」まで約1.3キロを練り歩いた。

 行列は午前11時にゆるキャラ「長屋くん」と「左近くん」を先頭にスタートした。「長屋くん」はもちろん長屋王に因む。「左近くん」は戦国時代に大和を守るため松永久秀と戦い、晩年は石田三成に名家老として仕えた島左近。この後に地元の平群南小学校金管バンド「平群マイスターズ」が続いた。昨年のマーチングバンド関西大会で生駒市立あすか野小学校ブラスバンドと組み金賞を受賞、12月の全国大会に出場し銀賞に輝いた実力バンドだ。

 

 

 歴史人物で行列の最初に登場したのは倭建命(やまとたけるのみこと)。その後、古い時代から順番に平群木菟(へぐりのずく)、聖徳太子、役行者、長屋王と吉備内親王、平群廣足(長屋王に仕えたとされる倭舞の名人)、行基菩薩と続き、戦国武将の松永久秀、島左近(清興)の2人は勇壮な甲冑装束で引かれる馬に騎乗していた。町立こども園の園児たち数十人も3つのグループに分かれて行列に加わり、愛らしい表情で主役の歴史人物たちから沿道の人気をさらっていた。お祭りスクエアやグルメ街、にぎわい市などが設けられた主会場の道の駅は多くの来場者で終日ごった返した。

 

  

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<クマガイソウ(熊谷草)> 平敦盛を討ち取った源氏の熊谷直実の名前から

2016年04月27日 | 花の四季

【アツモリソウとの対で命名、ユニークな花姿を武者の母衣に見立て】

 ラン科アツモリソウ属の多年草。北海道から九州まで全国各地の竹林や雑木林などでしばしば群生する。葉も花も実にユニークな形。葉はフキに似て団扇(うちわ)のように大きく放射状の縦じまが目立つ。4~5月頃、その2枚の葉の間から花茎を伸ばし、丸い袋状の花を1つ付ける。これは唇弁(しんべん)と呼ばれるもので、白地に紅紫色の網目模様が入る。その外側の花被片はうすい黄緑色。

 別名「ホロカケソウ(母衣掛け草)」。膨らんだ唇弁を武者が矢を防ぐため背中にまとう母衣(ほろ)に見立てた。同属のアツモリソウも同じような唇弁を持つ。クマガイソウの名は源氏の武将熊谷直実から。一方のアツモリソウは平家の平敦盛から名付けられた。『平家物語』の中の「敦盛の最期」の場面。一の谷の合戦で直実は逃げ遅れた若い敵将敦盛(平清盛の弟、経盛の末子)を討ち取る。敦盛はまだ10代半ば、自分の息子と同じ年頃だった。笛の名手でもあった。無常を感じた直実はその後出家する――。

 木陰で咲くクマガイソウは花色がやや地味で、葉が大きく広がる様から男性的な印象。これに対し、日当たりを好むアツモリソウの花はあでやかな紅紫または淡紅色で優しく女性的。そんな両者のイメージからそれぞれに熊谷、敦盛の名前があてがわれたとみられる。一方でこんな見方も。源氏は白旗、平氏は赤旗を立てて戦った。そのため花が白っぽいクマガイソウに源氏の熊谷、赤っぽいアツモリソウに平氏の敦盛を当てた。

 『日本植物方言集成』(八坂書房編)によると、クマガイソウはその花姿から「おーぶくろばな」「きつねのちょうちん」「たぬきのきんたま」など各地で親しみを込めて呼ばれてきた。ただ最近は園芸採取などで野生種が減少しており、環境省はアツモリソウと同様、絶滅の危険が増大しているとして絶滅危惧Ⅱ類に分類している。近縁種に台湾クマガイソウ、中国クマガイソウがある。「竹取るや熊谷草の母衣のうへ」(綾部仁喜)

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<キリ(桐)> 花・葉をデザインした〝桐紋〟は日本政府の象徴

2016年04月26日 | 花の四季

【名前は「切り」から? 材は箪笥、下駄、琴など様々な木工品に】

 ゴマノハグサ科(ノウゼンカズラ科とも)の落葉高木。生長が速く、直立した幹は高さが10m以上にもなる。5月ごろ、葉に先立って枝先にブドウの房のような大きな円錐花序を立て、うす紫色の筒状唇形花をたくさん付ける。原産地は解明されていないが、中国説が有力という。その中国では古くから瑞鳥の鳳凰がすむ、めでたい樹木とされてきた。

 キリ属の学名「パウロヴニア」は医師・植物学者シーボルトの支援者だったオランダ王妃アンナ・パヴロヴナ(1795~1865)の名前に因む。和名の語源には「切り」や「木理」など諸説。キリは生長が速く切ってもすぐ新芽を出す。そのためキリの栽培では植えて2~3年目に根元から台切りし強い萌芽を育てるという。それが「切り」説の根拠になっている。一方の「木理」説は木目が美しいことによる。

 キリの材は軽い、狂いや割れが少ないなど優れた性質を持つ。このため家具や下駄、琴、茶器、羽子板、漆器、卓球のラケット、釣りの浮きなど様々な木工品に利用されてきた。中でも桐の箪笥(たんす)は高級家具の代名詞にもなっている。大阪泉州、名古屋、春日部(埼玉県)、加茂(新潟県)の桐箪笥は国指定の伝統的工芸品産地。かつては娘が生まれるとキリの苗木を植え、嫁ぐときにそのキリで箪笥を作って持たせたともいわれた。

 高貴な紫色の花を付けるキリは古くから愛され、清少納言は枕草子で「紫に咲きたるはなほをかし」(35段)と称えた。源氏物語第1巻の「桐壺」も宮中にキリが植えられていたことに由来する。花と葉をデザインした桐紋は菊花紋とともに日本を代表する紋章でもある。後醍醐天皇は足利尊氏に桐紋を下賜し、室町幕府15代将軍足利義昭も織田信長に桐紋を与えた。豊臣秀吉の「五七桐」は〝太閣紋〟と呼ばれることでも有名。桐紋は武士にとってまさに垂涎の的だった。

 「五七桐」は葉の上中央に7つ、左右に5つの花を配した紋様。現在でもその桐紋は日本政府・内閣の紋章になっている。法務省や皇宮警察の紋章は「五三桐」。そのため法務省が管轄する司法書士の徽章(バッチ)にも「五三桐」がデザインされている。桐紋はもっと身近なところにも。小銭入れの中にある500円硬貨だ。キリは岩手県の県花になっている。「あを空を時の過ぎゆく桐の花」(林徹)

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<京都地名研究会> 講演「『京都』とは何か~地名『京都』の成立とその背景」

2016年04月25日 | メモ

【井上氏「『きょうと』と読まれ今の京都を指すようになったのは平安後期」】

 京都地名研究会(網本逸雄会長)の総会・講演会が24日、龍谷大学大宮学舎で開かれ、立命館大学名誉教授の川嶋将生氏(写真㊧)が「上杉本洛中洛外図屏風と地名」、京都市歴史資料館館長で京都産業大学名誉教授の井上満郎氏(写真㊨)が「『京都』とは何か~地名『京都』の成立とその背景」と題して講演した。井上氏は「みやこ」を指す一般用語だった「京都」が「きょうと」と読まれ今の京都を指すようになったのは「平安時代の後半、12世紀になってからだろう」などと話した。

  

 井上氏によると、京都という単語はもともと漢語で、「大漢和辞典」の「京都」の項にはまず「天子の都。京師に同じ」とあり、2番目に「京都府にある市。古の平安京」と続く。日本書紀の景行天皇17年3月条には「京都而歌之曰」とあり、万葉集には志貴皇子の有名な歌「婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用爾布久」(原文)がある。これらに出てくる「京都」の読みはいずれも「みやこ」であり、それはもちろん今の京都ではなく大和の都を指した。

 その後、平安時代前半の「日本三代実録」貞観7年12月条(865年)や「尾張国郡司百姓(ひゃくせい)等解」(988年)などの古文書では「京都」や「京」の表現が混在する。井上氏は「混在するということはまだ京都という表現が定着していなかったことの表れ」「京の一字ですむところをわざわざ京都と2字表現にしたのは文調を整えるためだろう」とみる。そして京都が「きょうと」と読まれ今の京都を指す地名として明確に登場するのは経典「倶舎論記」(1135年)巻29の中に見える「於京都宮處」という表現が初見ではなかろうかと指摘した。

 井上氏に先立ち登壇した川嶋氏によると、洛中洛外図屏風はこれまでに約170点(うち海外10点余)の所在が確認され、うち4点が江戸時代より以前のもの。狩野永徳作の上杉本はその1つで、1574年に織田信長から上杉謙信に贈られたといわれる。洛中洛外図屏風の中で唯一の国宝でもある。井上氏が詳細にチェックしたところ、上杉本に記された地名や寺社名などは132カ所にも上る。それらを当時の古文書や神事、風俗などと比較照合した結果から「かなり正確に当時の姿を写しているといえる」などと話した。

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<天理参考館> 企画展「大和名所絵図めぐり」

2016年04月23日 | メモ

【地元の版元「絵図屋庄八」の絵図や宿屋の観光案内ちらしなども】

 天理大学の付属博物館、天理参考館(奈良県天理市)で企画展「大和名所絵図めぐり~一枚刷りに見る、ふるさとの風物」が開かれている。地元奈良を拠点とした版元「絵図屋庄八」の絵図や観光案内書から、有名社寺の門前にあった宿屋の広告を兼ねた観光ちらしまで、江戸~明治時代の観光パンフレットや冊子を一堂に展示中。これらを寺社や名所巡りの旅の友とした往時の庶民の姿が垣間見えるようだ。6月6日まで。

 

 絵図屋庄八は東大寺大仏殿前にあって、大和の観光絵図のみならず全国各地を紹介した1枚刷りや冊子も扱った。出版事業の継続期間は前身の「井筒屋庄八」なども含めると少なくとも明和6年(1769年)から昭和10年代まで170年余にわたる。木版色刷りの『大日本早引細見絵図』(1848年、上の写真=一部)もその版元の編集で、松前~琉球の主な街道、宿駅、里程、名所などを図示し、主要な西国巡礼道は朱線、大和巡り道は黒線など一見して分かるように示す。横幅は全長148cmもあるが、携行できるように小さく折り畳める。

 

 同版元については「絵図屋庄八のしごと」として別に1つのコーナーも設けている。そこには『いせ大和まハり名所絵図道のり』(1789年)、『西国順礼道中絵図』(1800年)、幕末期に発行された奈良図の代表格といわれる木版墨刷り『和州奈良之図』(1844年、上の写真㊧=一部)なども並ぶ。明治末期発行の『奈良名勝全図』(1908年、写真㊨)は派手な色使いで、奈良・猿沢池の周辺には多くの旅館の名前も見える。

 一枚刷りの絵図とは別に、17世紀中頃からは旅行者や参詣者の増加と相まって『南都名所記』(1702年)など冊子の名所記や道中記も多く出版された。さらに18世紀後半になると、風景画など多くの挿絵を取り入れたものの発行も盛んに。『大和名所図会』(1791年)、絵図屋庄八の『改正絵入南都名所記』(1818年)などだ。「宿屋の引札」コーナーには東大寺門前にあった「とうふや庄吉」(下の写真㊧)や「小がたなや善助」の広告入り観光案内図など12点が展示されている。

 

 ユニークなものとして目を引いたのが江戸時代の『大日本神社仏閣御領』(写真㊨=一部)。相撲番付のように全国の神社・仏閣を石高によって別々にランクづけしたもので、中央に「伊勢両皇太神宮」と「高野山金剛峯寺」、右側の神社の欄に上から「春日社」「石清水」「出雲大社」など、左側の仏閣には「興福寺」「東叡山」「延暦寺」などの名が見える。『西国三十三所順拝納経帖』は大阪の女性が1895年(明治28年)から97年にかけ西国巡礼を行ったときのもの。この女性はなかなか信心深かったらしく、1912年(大正初年)には小豆島八十八ケ所、淡路島四国霊場なども巡拝しているという。

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<ゲッケイジュ(月桂樹)> 雌雄異株 クリーム色の小花が枝にびっしり

2016年04月22日 | 花の四季

【「ローレル」「ローリエ」、ギリシャ神話では妖精ダフネの化身】

 地中海沿岸地方原産のクスノキ科の常緑中高木。「ローレル」または「ローリエ」とも呼ばれる。雌雄異株。日本で目にするのはほとんどが雄木で、雌木を見かけることはあまりない。ただ花は雄木の方が華やかで、4~5月頃、小枝に淡いクリーム色の小花をびっしり付ける。精油成分を含み芳香のある葉は「ベイリーフ」と呼ばれ、料理の香味料などに用いられる。

 ギリシャ神話で月桂樹は美しいニンフ、ダフネの化身といわれる。太陽神アポロンの求愛を拒絶し捕まりそうになったとき、川の神である父ペネイオスがダフネを月桂樹に変身させて救う。アポロンはかなわなかった恋の思い出に、この木の枝で冠を作る――。月桂樹はギリシャ・ローマ時代、勝利と栄光のシンボルとして、葉が付いた若枝を編んだ月桂冠が競技の勝者や大詩人、戦勝した将軍らに授けられた。民間では病人が出ると月桂樹の枝を戸口に下げる風習も。この霊木には落雷しないという俗信もあった。

 英国では16世紀のエリザベス朝以降、ワーズワースら優れた詩人に「桂冠詩人」の称号が国王から贈られた。桂冠詩人は国家・王室の大事に際し慶弔の詩を詠むことが任務とされた。世界共通の大学入試資格が得られることで注目を集める教育プログラム「国際バカロレア」。そのバカロレアの語源も「月桂樹の実」を意味するラテン語に由来する。

 日本には1905年(明治38年)にフランスから渡来したといわれる。翌年に日露戦争の戦勝記念樹として連合艦隊司令長官・東郷平八郎が東京・日比谷公園に植樹したことで、その名が全国に知れ渡った。その月桂樹は残念ながらその後焼失してしまったそうだ。ただ日本最古の学校といわれる足利学校(栃木県)の中に今もある月桂樹3本は、同じ年に東郷ら海軍の軍人3人が戦勝記念として植えたものといわれる。「枝引けば春ふりほどく月桂樹」(秋尾敏)

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<BOOK> SB新書「認知症をつくっているのは誰なのか」

2016年04月20日 | BOOK

【村瀬孝生・東田勉共著、SBクリエイティブ発行】

 共著者の村瀬氏は「宅老所よりあい」(福岡市)代表で、著書に「ぼけてもいいよ『第2宅老所よりあい』から」などがある。一方、東田氏は介護や認知症、薬害を主要テーマとするフリーライター兼編集者。主な編著作に「認知症の『真実』」「介護のしくみ」など。本書は「『よりあい』に学ぶ認知症を病気にしない暮らし」を副題に掲げ、介護の現場を知り尽くした2人が対談を通じて認知症高齢者を取り巻く環境やケアの問題点などを鋭く浮き彫りにする。

        

 「認知症は国や製薬会社や医学会が手を組んでつくりあげた幻想の病」「2004年に認知症という病名が厚生労働省によってつくられた」「認知症と診断されると抗認知症薬が投与され、興奮や徘徊といった副作用が出たら、それを抑えるために向精神薬が投与される。そのことによって、お年寄りは本物の認知症にされてしまう」――。「はじめに」に綴られた東田氏の刺激的な表現に引き込まれるように、続く6章+終章(三好春樹「生活とリハビリ研究所」代表の特別寄稿)を一気に読んだ。

 厚労省は今年1月、国内の認知症患者が10年後の2025年に現在の1.5倍の700万人になると発表した。村瀬氏は「認知症は制度的に増えて当たり前」と指摘する。「公的介護サービスを受けようと思って申請する際、認知症がないと要介護度が高く出ない」ため、「加齢による物忘れやそこから生まれる勘違いを認知症にした方が、給付が受けやすくなっている」からだ。

 「認知症」という言葉が使われる以前は広く「ぼけ(呆け)」や「痴呆」という言葉が使われた。「呆」の字の成り立ちは赤ん坊がオムツをされるときに両手両足を開いている状態を表すそうだ。だから「お年寄りがぼけたからって慌てる必要はない。子どもに戻ったようなものだから」と村瀬氏は言う。東田氏も「痴呆やぼけという言葉を刈り取った結果、年相応にぼけていたお年寄りまでも全部、認知症にさせられてしまった」と指摘する。

 第1章「介護保険制度と言葉狩りが認知症をつくっている」に続く第2章「あらゆる形の入院が認知症をつくっている」では「病院の白い無機質な空間は……健常なお年寄りでさえ見当識障害を起こしかねない」として入院の怖さに触れる。第3~第5章では認知症をつくっている主体として「厚生労働省のキャンペーン」「医学会と製薬会社」「介護を知らない介護現場」を挙げ、さらに第6章では「老人に自己決定させない家族」にも責任の一端があると指摘する。東田氏は第4章で他の薬剤に例を見ない増量規定など抗認知症薬の問題点も列挙する。

 村瀬氏は多くの認知症高齢者らと接してきた体験から「人は『できる自分』と『できなくなる自分』を精神的にも肉体的にも『行ったり来たり』しながら老いていくように思える。そこにどう具体的に付き合い、支援していくのかが問われている」という。終章の寄稿で三好氏も「私たちの仕事は老いと障がいという、アイデンティティを失いそうな危機に直面している人を支えること」「アイデンティティを支えているものの一つが生活習慣である。チューブやオムツや機械浴といった特別なやり方をしたのでは、老人の生活習慣を根こそぎ壊してしまう」と指摘。そして「いい介護とは何か。高度な専門性でも、やさしさやまごころでもなくて、『老人がイヤがることはしない』ということではないか」と自問自答する。

 本書を読んでいて、何度かつい笑ってしまった。その1つが村瀬さんの目の前で、認知症予防のための脳トレとして92歳の夫が82歳の妻から掛け算をやらされる場面。「1かける1はなんぼね」。夫が答えると「2かける2は?」。夫が正しく答えるたびに妻の顔が輝く。ところが「2かける5」になると、なかなか答えが出てこない。妻は「ほら、言うてごらん。2・5たい」と繰り返す。「2・5はどうなっとるとね」。そしたら、夫がパッと顔を挙げて「10」ではなくこう答えた。「俺には二号はおらん」。「もうびっくりです」と村瀬氏は当時を振り返る。

 

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<ムレスズメ(群雀)> 鈴なりに咲く黄花をスズメの群れに見立てて

2016年04月19日 | 花の四季

【別名「金雀花」、中国原産のマメ科植物】

 中国原産のマメ科の落葉低木。4~5月ごろ、小枝にマメ科特有のチョウのような形の黄色い花を下向きにいっぱい付ける。その様子をスズメの群れに見立てて「群雀」と名付けられた。地ぎわから小枝を多く伸ばし、樹高は1.5~2mほどになる。

 別名「金雀花」。英名では「チャイニーズ・ピー・ツリー(中国生まれの豆の木)」と呼ばれる。花は長さが2~3cmほどで、漢字で「金雀枝・金雀児」と書く同じマメ科のエニシダ(地中海沿岸原産)とよく似る。花色は初めの黄色が次第に赤みがかってくる。花色の変化を楽しめることもあって、庭木のほか盆栽としてもなかなか人気がある。

 日本には江戸時代に渡ってきた。江戸後期の本草学者、毛利梅園(1798~1851)の『梅園草木花譜・春3』(1826年)にムレスズメの写生が掲載されていることから、それ以前に渡来していたことは間違いない。花後には本来、鞘状の豆果ができるが、日本ではなぜか結果しない。このため繁殖は株分け、または挿し木で行う。

 ムレスズメ属の仲間に「オオ(大)ムレスズメ」や「イヌ(犬)ムレスズメ」。オオムレスズメは中国東北部~シベリア原産で、樹高が4~5mにもなる。イヌムレスズメは朝鮮半島原産で、樹高は0.5~1mと低い。ムレスズメは根の発酵エキスが美容液などの成分として用いられている。4月24日の誕生花。花言葉は「集い」「自由な生き方」。

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<アンビリバボー> 室内の床の上に、またまたキアゲハが!

2016年04月16日 | アンビリバボー

【3月25日から22日後、なぜ?なぜ?】

 一体どうなっているんだろう。3月25日のブログで、ガラス戸の内側の床の上で羽化したばかり(?)のアゲハチョウ(キアゲハ)がじっとしていたと書いたが、あれから22日目の4月16日、またまた同じようなアゲハが室内のほとんど同じ場所、ガラス戸の30cmほど内側で見つかった。時間は午後1時すぎで、同じようにじっとしたまま。「えっ! どういうこと」と思わず大声。ガラス戸は早朝、野鳥用にヒマワリの種を吊り篭に入れてから花粉が入り込まないようずっと閉めたまま。午前中、そこには確かに何もいなかったはずだが……。

 

 よく見ると右側の翅(はね)の尾っぽ(尾状突起)が欠けていた。前回と同じようにガラス戸のすぐ外側のノースポールの花に乗せてあげたが、少し元気がなさそう。手に乗せ指で水を1滴、2滴垂らすと、らせん状の口で吸っているように見えた。間もなく飛び立ったが、飛び方がまだ弱弱しく、前のアゲハほどには飛翔力がない。行く末が心配。その後、改めて室内を前回より丹念に見回した。が、蛹の痕跡などはやっぱり見つからなかった。こんな不思議なことがなぜ繰り返すのか、さっぱり分からない。

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<アケビ(通草)> 雌雄同株 下垂した大きな雌花の脇に雄花が数個

2016年04月15日 | 花の四季

【若葉は山菜に、つるは生薬「木通」や籠細工に】

 日本、朝鮮半島、中国原産のアケビ科の落葉性つる植物。雌雄同株異花で、春に若葉の展開とともに開花し、秋にうす紫色の楕円形の実を結ぶ。花は直径2~3cmの雌花とそれより小さい1~2cmの雄花数個が葉の間から垂れ下がる。花弁はなく、3枚の花びらのように見えるのはいずれも萼片(がくへん)。雌花の雌しべの周囲には雄しべが退化した痕跡、雄花の中央には雌しべが退化した痕跡が残る。自花不和合性が強いため1株だけでは結実しにくい。

 アケビは漢字で「通草」、生薬名で「木通(もくつう)」。導管という根から吸収した水分の通路の組織がよく発達し空気の通りが良いことによる。生薬の「木通」はつるを輪切りにし乾燥したもので、つるに含まれるアケビンなどの成分によって利尿や腎臓機能の向上などに効き目があるという。強靭なつるは長野の民芸玩具「鳩車」などのような籠細工にも利用される。

 アケビは別名「アケビカズラ」。名前の由来には諸説あるが、最も一般的なのは実が熟すとパカッと縦に割れる「開け実(あけみ)」からの転訛というもの。ほかに「赤実(あかみ)」転訛説、「開玉門(あけつび)」の略語説など。実が割れた様子を人のあくびにたとえた「あくび」転訛説というものまである。全国の山野に自生するアケビは「あけご」「からすうべ」など各地で様々な呼び方がある。その中で多いのが「ねこぐそ」「ねこんくそ」「ねこくそかずら」など猫とくその組み合わせ。熟した実の見た目からだろうが、アケビには少々気の毒な気もする。

 アケビの葉は5つの小葉からなる。同じ仲間に小葉が3つの「ミツバアケビ」。つるが細く、アケビ細工によく用いられるのも主にこちら。実も大きく甘みも強い。「ゴヨウアケビ」はアケビとミツバアケビの雑種といわれる。アケビの若葉は山菜として和え物や炒めもの、汁の実などに使われる。東北地方では果皮を干して保存食にも。アケビを地域の特産物として積極的に栽培しているのが山形県で、全国の出荷量の大半を占める。「おもひ出も遠き通草の悲し花 きみに知らえず散りか過ぎなむ」(斎藤茂吉)

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<ミツガシワ(三槲、三柏)> 多年生の水草 白花の内側に縮れた毛が密生!

2016年04月12日 | 花の四季

【高層湿原に群落、尾瀬では鹿による食害が深刻化】

 ミツガシワ科ミツガシワ属の一属一種の多年生水草。主に北半球の寒冷地に広く分布し、日本では尾瀬国立公園など高地の湖沼や川のほとりなど水深の浅い場所で群落が見られる。太くて長い地下茎が泥の中を這って根を下ろす。「(水半夏(みずはんげ)」や「水柏」「沼牛蒡(ぬまごぼう)」「唐沢瀉(とうおもだか)」といった別名も。

 葉は3枚の小葉からなる。名前はその小葉がカシワの葉の形に似ていることに由来するといわれる。一方でカシワの葉を3枚組み合わせた「三つ柏」の紋に似ているところから、という説も。花期は春から初夏にかけて。直立した高さ20~40cmの花茎に、筒状で先が5つに裂けた直径2cmほどの白い花を十数個つける。花の内側には白く縮れた毛がびっしり密生。下から順に咲き上がるため花期は結構長い。

 葉にはゲンチアニンなどの苦味成分が含まれる。ドイツではかつてビール原料のホップの代わりに使われたそうだ。葉を天日乾燥したものは漢方で「睡菜葉(すいさいよう)」と呼ばれる。腹痛や胃もたれなどの際に煎じて服用する。ヨーロッパでも古くから民間の健胃薬として用いられたという。

 尾瀬の見頃は例年6月中旬から7月上旬にかけて。ただ1990年代半ばから姿を現し始めた鹿による食害が広がっている。特に根茎が大好物らしく掘り起こして食べるため被害が甚大という。ミツガシワは暖地にも氷河期の〝遺存植物〟として群落が点在する。京都市北部の深泥池(みどろがいけ)や東京都練馬区の石神井公園内の三宝寺池などで、いずれも多様な植物群落として国の天然記念物に指定されている。

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<豊田狐塚古墳> 現地説明会開催「首長を支えた有力者の墓の可能性」

2016年04月10日 | 考古・歴史

【玄室から出土した多くの土器・玉類、鉄製品なども公開】

 6世紀中葉に築造されたとみられる横穴式石室が発見された奈良県天理市の「豊田狐塚古墳」で9日、発掘調査を担当した天理市教育委員会文化財課による現地説明会が開かれた。同古墳は直径が20m程度の円墳とみられ、約150~200基ある石上(いそのかみ)・豊田古墳群の円墳の中でも有数の規模。さらに石室も円墳の中では大型であること、単独で小高い丘に立地していることなどから「首長を支えた有力者の墓である可能性が高い」とみている。

 この古墳があるのは天理教本部神殿の北側の丘陵地。1年前に大型の横穴式石室が発見されたばかりの「豊田トンド山古墳」のすぐ近く、南東約100mに位置する。眼下に広がる布留川の扇状地は古墳時代中期~後期に繁栄した有力豪族、物部氏の拠点だったとみられる。見つかった石室は南方向に開口し、玄室は床面で全長約4.4m、奥壁の幅は約2.2m、高さは約2.2mだった。玄室の広さはトンド山古墳(長さ4.9m、奥壁の幅2.0m)とほぼ同じ。天井石と側壁の一部は失われていた。壁面には30~100cm程度の大きさの石を7段程度積み上げ、床面には直径5~10cmほどの石が敷き詰められていた。

 

 玄室内は盗掘を受けていたものの、馬具や玉類、土器などの副葬品が多数残されていた。床面にはこげ茶色に変色した部分から木目の痕跡が残っており、少なくとも3基の木棺が安置されていた可能性があるという。羨道側に近い玄門付近から見つかった須恵器の中に、奥壁付近の須恵器よりやや新しい時期のものがあることから、まず奥壁に近い北側に初葬され、その後南側に2つの棺が追葬された可能性が考えられるとしている。

 

 出土した須恵器は50点を超え、直口壷など土師器も見つかった。玉類には琥珀製平玉(写真㊧)、水晶製切子玉(㊥)、管玉、土製丸玉、ガラス製小玉、銀製空玉(うつろだま)など様々な種類があった。轡(くつわ)、杏葉(ぎょうよう)、辻金具などの鉄製馬具や鉄刀、鉄鏃などの武器も見つかった。また「旋回式獣像鏡」と呼ばれる小型の鏡(直径9cm)(㊨)も残っていた。玄室の入り口に近く、床面からかなり高い場所から出土したことから、盗掘されたものがその後埋め戻されたのではないかという。この古墳を巡っては1875年(明治8年)当時の文書に江戸末期に盗掘が行われ、一部の遺物が別の場所に再埋納されたと記されているそうだ。

  

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<飛鳥寺> 釈迦の生誕を祝う花会式 日本最古の飛鳥大仏を前に

2016年04月09日 | 祭り

【万葉朗唱や万葉学者・上野誠氏の講演も】

 4月8日はお釈迦様の誕生日。各地の寺院で生誕を祝う潅仏会や花会式、仏生会が行われたが、奈良県明日香村の飛鳥寺でも花曇りの中、花会式が開かれた。飛鳥寺は日本最古の大寺院として蘇我馬子の発願により創建された。潅仏会も日本で最初にこの寺で行われたといわれる。

 飛鳥寺ではこの日、いつも閉じられている本堂の扉が開け放たれ、境内から本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)を参拝することができた。日本書紀によると、本尊の完成は推古天皇14年(606年)。渡来系氏族の鞍作鳥(くらづくりのとり、止利仏師)が造ったと伝わる。だが度重なる落雷による火災などで激しく破損し、当時のまま残っているのはお顔など一部にとどまるという。この日法要後に講演した万葉学者・上野誠氏(奈良大学教授)は「お顔の傷が飛鳥の歴史を物語る。この場所にいらっしゃることそのものが尊いのだ」と話していた。(写真㊨は以前堂内で撮ったもの=飛鳥寺は有名寺院としては珍しくふだんも堂内撮影OK)。

 

 飛鳥寺では花会式のこの日、参拝者たちに甘茶が振る舞われた。法要は時折桜吹雪が舞う中、午後2時から始まった。本堂前には色とりどりの花で飾られた花御堂。奠供(てんぐ)、散華(さんげ)などに続き、参拝者たちは読経が流れる中、花御堂の前に行列を作って甘茶を誕生仏に注ぎ手を合わせた。

 

 法要後には明日香村伝承芸能保存会による「万葉朗唱」があり、地元明日香にちなむ万葉集の歌が境内に響き渡った。まず志貴皇子の「采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたづらに吹く」(巻1-51)。旋律を作ったのは作曲家の黛敏郎。彼は万葉集の研究に生涯を捧げた犬養孝の横浜第一中学時代の教え子で、犬養の還暦を祝って〝万葉歌碑のうた〟を作ったという。

 

 朗唱の締めくくりは山部赤人が神岳に登って詠んだ歌「三諸(みもろ)の神名備山に五百枝(いほえ)さし……」(巻3-324)と短歌「明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに」(同325)だった。その2つの歌を刻んだ大きな歌碑が境内の一角に立つ。書は歌人・国文学者の佐佐木信綱。朗唱に続いて上野誠教授が「万葉に学ぶ・飛鳥に学ぶ」と題して講演し、最後に家内安全と所願成就を祈念して参拝者全員で「般若心経」を唱和した。

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<ツルニチニチソウ(蔓日々草)> 薄紫の清楚な花、葉に斑入りも

2016年04月07日 | 花の四季

【地中海沿岸地方原産、旺盛な繁殖力で野生化】

 ヨーロッパ南部~アフリカ北部の原産。キョウチクトウ科ツルニチニチソウ属(ビンカ属)で、花がニチニチソウに似て茎がつるとなって地面を這うことから、その名がある。ニチニチソウが寒さに弱く1年草として扱われるのに対し、こちらは寒さに強く常緑の多年草という違いがある。

 花期は主に3~5月頃。直立した茎の先に、直径4~5cmの爽やかな薄紫色の花をつける。基部は筒状で上部がプロペラみたいに5つに裂け平たく開く。葉の縁に黄色い斑(ふ)が入るものは「フクリン(覆輪)ツルニチニチソウ」と呼ばれる。変種に葉や花が小さい「ヒメ(姫)ツルニチニチソウ」がある。

 明治時代に観賞用の園芸植物として渡って来たが、繁殖力が強く最近では路地などで野生化したものもよく見かけるように。属名から「ビンカ」や「ツルビンカ」とも呼ばれる。「ビンカ」の語源は「ひも」や「巻きつく」を意味するラテン語から。「ツルギキョウ」という別名もある。ただし、日本の在来種でキキョウ科に同じ名前の植物があるので注意を要する。

 古代ローマではいけにえを捧げる儀式のとき、この草花で花輪を作ったという。中世のイギリスでは死刑囚を刑場に連れて行く際、頭上にこの花の冠をかぶせたとも。さらに中世ヨーロッパでは亡霊の魔よけになると信じられ墓地によく植えられたらしい。一方で、身に付けていると繁栄や幸福をもたらしてくれるという言い伝えもあるそうだ。

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