く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<「御認証の間」初公開> 奈良行幸中の昭和天皇、知事公舎で講和条約批准書にご署名

2013年04月30日 | メモ

【62年前の1951年11月19日、応接間で】

 昭和天皇が1951年11月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の批准書に署名した県知事公舎(奈良市登大路町)の応接室「御認証の間」が28、29の両日、初めて一般公開された。見学したのは約770人の応募者の中から抽選で選ばれた100人。日本と連合国側の戦争状態に終止符を打つ条約を天皇が認証した歴史的な場所だが、広さ20平方メートルほどで意外なほど狭く、飾り気のないシンプルな造りの応接間だった。

   

 講和条約と安保条約は同年9月、サンフランシスコで開かれた講和会議で日本の全権団(首席=吉田茂首相)と連合国側の間で調印された。11月18日、衆議院に続いて参議院も締結を承認し、内閣が条約を批准した。昭和天皇は18日から2泊3日のご予定で奈良県内を行幸中。そのため剱木亨弘・内閣官房副長官が批准書を携えて東京から奈良に向かい、署名・認証は翌19日、天皇のご宿泊先になっていた知事公舎で行われた。

 公舎は県庁の東側に位置する。その応接室は玄関を入って左手突き当たりにあった。部屋の入り口には上に日付を刻んだ「批准書御認證の間」の銅板。中に入ると、円形のテーブルの周りに肘掛け椅子が5つ。その1つに天皇が署名に使われた蒔絵硯箱のパネル写真が飾られていた。近くにある寧楽美術館の所蔵品で、県の要請に応じてお貸ししたという。署名の際、応接室に入ったのは天皇の他には侍従長1人だけだったそうだ。

 

 28~29日には県庁東棟の県民ホール1階で「昭和の日 パネル展」も開催、昭和天皇の奈良行幸の模様を白黒写真で紹介していた。視察先は天理大学付属図書館や森野旧薬園、紡績会社などのほか高校や小学校など教育施設がかなり多い。日程はかなりハードだったようだ。天皇は署名の翌日午前、国鉄奈良駅を立たれた。

 批准書はその後、11月28日に米政府に寄託され、翌1952年4月28日に発効した。ちょうど61年前のことである。その日は日本が主権を回復した日だが、沖縄にとっては本土から切り離され米国の施政権下に置かれた〝屈辱の日〟でもある。沖縄が復帰するのはそれから20年も後の1972年。一方、安保条約を巡っては60年と70年の2回にわたって激しい安保闘争が繰り広げられた。批准書の認証は憲法が定めた天皇の国事行為とはいえ、昭和天皇のその後のご心痛はいくばくだったことか。

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<イザベラ・バード> 旅行記完訳の金坂清則氏、〝ツイン・タイム・トラベル〟提唱

2013年04月29日 | メモ

【京都地名研究会で講演、過去の翻訳本の誤りを正す!】

 明治時代の初め、北海道や東北、関西などを訪ね「Unbeaten Tracks in Japan(日本奥地紀行)」を著した英国の女性旅行家イザベラ・バード(1831~1904年)。そのバード研究の第一人者、京都大学名誉教授で地理学者の金坂清則氏が「完訳 日本奥地紀行」全4巻の完結を踏まえ、28日、龍谷大学大宮学舎で開かれた京都地名研究会で講演した(写真㊨)。タイトルは「イザベラ・バードが記した日本の地名―旅行記の翻訳に求められるべきことに関わって」。

     

 バードは病弱で医師に勧められて各地を旅行、その旅は22歳から70歳までほぼ半世紀にわたり、南米と南極を除く全大陸にまたがった。英国の王立地理学協会最初の女性特別会員でもある。金坂氏(京都地名研究会副会長)がバード研究を始めたのは1989年。バードの旅の足跡をたどりながら写真を撮影し、2004年から内外で写真展「イザベラ・バードの旅の世界」を開いてきた。2010年には京都と奈良で開催、現在も東京大学駒場博物館で開いている(6月30日まで)。

 金坂氏はバードの旅行記研究を踏まえて〝ツイン・タイム・トラベル〟を提唱する。「過去の旅行記に描かれた旅の時空と自らの旅の時空を主体的に重ね合わせる」という新しい旅の形だ。そして旅行記を読むということは「その基となった旅を読み、旅する人を読み、旅した場所・地域を読み、時代を読むこと」であり、翻訳家は「異文化の媒介者でなければならない」と強調する。

 〝ツイン・タイム・トラベル〟を実践するには旅行記が正確に翻訳されていることが前提になる。では過去に出版されてきたバード旅行記の翻訳本はどうか。金坂氏は今回の完訳全4巻の執筆に当たり既存の訳本は参考にしなかった。だが翻訳後、過去の訳本を見て間違いの多さに怒りさえ感じたという。講演でも「批判のための批判ではない」と重ねて前置きしながら、多くの間違いや問題点を指摘した。

 その一部を列挙すると(→は金坂氏の翻訳)――。睡蓮→ジュンサイ、キャベツ→葉ボタン、ズボン(女性の服装)→モンペ、帽子→菅笠、青い着物に翼に似た青白い外衣を着た男性(大津祭で)→裃(かみしも)、長い白いネクタイ(同)→日本手ぬぐい、植物の根の粉でつくったもち→コンニャク、大根を加えた主食→たくわん、軒下を通れる散歩道→雁木(がんぎ)、ハエスハ・ハエスホラ→エッサ・ホラサ

 西本願寺を訪ねたくだりでは「対になった社殿」といった訳もあったという。えっ、お寺なのに社殿? バードは京都で同志社創立者の新島襄・八重夫妻とも面会しているが、新島八重の母、山本さくをある訳本は「おかみ」や「滞在先の夫人」と翻訳し、同志社女学校のことを「二条山屋敷」「二条さん屋敷」と訳していた。秋田県北部の町「森岳」(もりおか=当時の読み)が「盛岡」になるなど地名の間違いも目立った。

 金坂氏は「地名は旅行記にとって極めて重要。既往の翻訳では現地を旅することに耐えられないのではないか。ケアレスミスなら仕方ないが、既往の訳書の問題点は根本的なものと考えざるをえない」と厳しく指摘する。「外国人が記した自国(日本)に関する極めて貴重な書物を訳し、日本人に正確に知らせる責務があるという自覚が欠落していたのではないか。バードは日本の真の姿を見聞し考え、感じたことを鮮やかに記述する希有な能力の持ち主だった。その旅行記は現在の日本を考えるうえでも示唆的である」。

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<山野草展> 富雄南山野草愛好会、丹精込めて育てた140点!

2013年04月28日 | 花の四季

【28日まで、姫石楠花・深山霧島・雪餅草・浦島草……】

 奈良市の「富雄南山野草愛好会」(東健会長)が27日から富雄南公民館で山野草展(28日まで)を開いている。展示会を始めて15年目。会員10人が愛情を注いで育てた寄せ植えや単品植えの〝作品〟が会場を埋め尽くしている。

  

 器が小さいだけに、そこに植え込まれた山野草も小さくてかわいいものばかり。ヒメシャクナゲ(姫石楠花、上段の写真㊧)やヒメウツギ(姫空木、同㊨)など「姫」と付く植物も多い。ヒメシャクナゲやコケモモは高山植物だけに栽培がなかなか難しいそうだ。ミヤマキリシマ(深山霧島、下段㊧)も小さいながら今が盛りと紅紫の花を付けていた。(下段㊨はアカネキンバイ)

 

 

 ユキモチソウ(雪餅草、下の写真㊧)はまるで白熱電球のよう。サトイモ科で近畿や四国地方に自生する。仏炎苞と呼ばれる筒の中の花は真っ白で真ん丸くお餅のように軟らかい手触り。ウラシマソウ(浦島草、写真㊥)もサトイモ科で、花穂の先端から細長いものが伸びる。これを浦島太郎が持つ釣り竿の釣り糸に見立ててこの名が付いた。「蛇草」の別名もあるという。(下の写真㊨はバイカカラマツ)

     

 石に植物を植え付けた〝石付け盆栽〟も多く出展されていたが、その中で葉を勢いよく広げたヤシャ(夜叉)ゼンマイ(下の写真㊧)が目を引いた。愛好会最長老の田中通雄さん(84)によると、5年ほど前、近くで栽培していたヤシャゼンマイの胞子がこの石のコケに付着して大きくなったという。「石付けはいろいろなものが勝手に付いて育つ可能性があるだけにおもしろい」そうだ。(下の写真㊨はベニシタン)

 

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<バレー黒鷲旗> 女子優勝争いはプレミアリーグ上位4強か?

2013年04月27日 | スポーツ

【1日開幕。大学・高校含め16チームが激突】

 第62回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会が5月1日(~6日)、大阪府立体育会館で開幕する。昨年はロンドン五輪世界最終予選を控え有力選手が不参加だったが、今年は各チームともフルメンバーで挑むだけに見どころも多い。JTの3連覇がなるのか、久光製薬がV・プレミアリーグを制した勢いを発揮するのか。東レ、岡山、NECのリーグ上位チームも虎視眈々と頂点をうかがう。社会人を相手に大学・高校チームの奮闘も期待される。

 参加するのは男女とも16チーム。女子はプレミアリーグ8チームに加えチャレンジリーグと大学が各3チーム、高校2チームで、昨年に比べチャレンジリーグが1チーム減った分、高校が1チーム増えた。チャレンジからの出場は上尾、日立、大野石油。大学はインカレ上位の嘉悦大、日本体育大、東海大、高校は1月の全日本選手権(旧春高バレー)を制した下北沢成徳と準優勝の誠英が出場する。

【グループ戦組み合わせ】〔A組〕NEC、パイオニア、日体大、誠英高〔B組〕久光製薬、デンソー、日立、東海大〔C組〕東レ、JT、嘉悦大、大野石油〔D組〕岡山、トヨタ車体、上尾、下北沢成徳高

 前半の1~3日は16チームが4組に分かれ4チーム総当たりでグループ戦を行う。上位2チーム計8チームが決勝トーナメントに進出する。4日の準々決勝の組み合わせはA組1位―B組2位、B組1位―A組2位、C組1位―D組2位、D組1位―C組2位。5日に準決勝、6日に決勝。

 順当ならプレミアリーグ勢が決勝トーナメントに進出しそうだが、B組の予想は難しい。久光製薬のグループ戦突破は間違いない。問題はデンソーと日立。両チームはリーグ入れ替え戦で2戦を行い1勝1敗、セット率でも並んだ。だが得点率で日立が上回り、チャレンジからプレミアリーグへ5季ぶりの昇格が決定、一方のデンソーはプレミアリーグになって初の降格という屈辱を味わった。その両チームが再び黒鷲旗で激突する。同様に入れ替え戦に回ったパイオニアは2戦2勝で上尾を破り残留が決まっている。

【攻守充実の久光製薬、東レに久光苦手意識】

 2006年以降の優勝チームをみると久光―久光―デンソー―東レ―東レ―JT―JT。JTにとっては3連覇がかかるが、なかなか厳しそうだ。日本を代表するセッター竹下佳江の退団もあって、プレミアリーグのレギュラーラウンドは9勝19敗と大きく負け越し6位にとどまった。一昨年には大友愛、昨年は位田愛が最優秀選手に贈られる黒鷲賞を獲得している。その大友愛は今シーズン限りで現役引退を発表しており、この黒鷲旗が最後の舞台となる。ロンドン五輪で攻守にわたって活躍、銅メダル獲得に貢献した大友の姿も見納めというわけだ。

 優勝候補最右翼は中田久美新監督の下でプレミアリーグを制した久光製薬か。長岡望悠(みゆ)がプレミアリーグMVPになり、ベスト6には長岡を含め3人が選ばれた。さらに座安琴希が2年連続2回目のベストリベロ賞。平井香菜子や石田瑞穂らベテラン、中堅に加え、岩坂名奈、新鍋理沙、石井優希、野本梨佳ら若手の成長も著しい。

 木村沙織が抜けた東レはプレミアリーグの前半戦やや苦しんだが、荒木絵里香や迫田さおりらの奮闘もあって尻上がりに調子を上げた。迫田はプレミアリーグの総得点ランキングで2位の活躍。ただレギュラーラウンドで東レは久光製薬に4戦4敗、決勝ラウンドでも2戦2敗と全く歯が立たなかった。3季ぶりの黒鷲旗制覇は久光への苦手意識を払拭できるかにかかる。

【社会人チームの胸を借りる大学・高校NO.1嘉悦大と下北沢成徳】

 NECは最優秀新人賞を獲得した近江あかりや新加入のイエリズ・バシャの活躍がめざましく、レギュラーラウンドは23勝5敗で1位だった。だが決勝ラウンドでは岡山に敗れ4位に終わった。その岡山からは宮下遥、丸山亜季ら若手4人が次の日本代表の登録選手に選ばれており成長途上のチーム。ただ得点源の栗原恵が右膝の靱帯を痛め戦列から離れているのが痛い。この他ではプレミアリーグ得点王のカナニ・ダニエルソン(トヨタ車体)や江畑幸子(日立)らの活躍も注目される。

 大学チームでは5年ぶりにインカレを制した嘉悦大が注目を集めそう。率いるのは4月に監督に就任したばかりのヨーコ・セッターランド。1992年バルセロナ五輪米国代表の銅メダリストだ。大学日本一の実力が社会人チームを相手にどこまで通用するか。

 高校の下北沢成徳は荒木絵里香や木村沙織の出身校。高校選手権準決勝の熊本信愛女戦で28得点を挙げるなど大ブレークした辺野喜未来(べのき・みく)に注目が集まりそうだ。17歳の3年生で日本代表登録選手にも選ばれている。黒鷲旗の常連でもあった東九州龍谷が今年出場しないのは少し寂しい。東龍は長岡望悠や岩坂名奈、鍋谷友理枝(デンソー)ら一流選手を輩出、2008年の春高以降昨年まで5連覇を続けていた。高校女子バレー界も戦国時代に入ったということだろう。

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<ハナイカダ(花筏)> これが花? 葉っぱの真ん中にちょこんと〝鎮座〟

2013年04月26日 | 花の四季

【雌雄異株、「ママッコ」「ヨメノナミダ」の異名も】

 何とも変わった植物だ。小さな花の塊が葉の中央にちょこんと乗っている。雌雄異株で、雌花は通常1個、雄花は3~5個が集まってつく(写真は雄花)。花期は4~6月。花は径2~3ミリの淡緑色の4弁で、雌花は秋になると黒い実をつける。ハナイカダという粋な名前は葉を筏(いかだ)、その上に乗った花や実を船頭に見立てて名づけられた。

 

 北海道南部~九州の山野に自生する。森林内の谷沿いなど湿気の多い日陰を好む。ハナイカダ属は中国大陸やヒマラヤなどにも分布する。仲間にリュウキュウ(琉球)ハナイカダ、タイワン(台湾)ハナイカダ、ヒマラヤハナイカダなど。風変わりな花姿は葉の基部から出る花茎が葉脈の主軸にくっ付いてできた。その証拠に葉の基部から花の所まで主脈が太くて白っぽい。

 別名に「ママッコ(飯子)」。若芽が山菜として菜飯の材料になることに因むらしい。ただ花や実を飯粒に見立てたなど他の説もある。「ヨメノナミダ(嫁の涙)」という異名も。これは嫁の悔し涙が木の葉に落ちて真珠のように輝いたという民話に基づく。江戸時代の植物学者、貝原益軒は植物解説書「大和本草」(1708年)でハナイカダを「ツキデノキ」として紹介している。

 ハナイカダといえば、散った桜の花びらが水面を覆い静かに流れていく様も「花筏」と形容される。花筏は家紋にもなっている。筏の上に描かれる花は主に桜か山吹。古典落語「花筏」も有名だ。病気の大関花筏に代わって瓜二つの提燈屋がプロ相手に負けなしの剛の者と対戦するはめに。仕切りながら「俺を投げ殺す気か」と互いに「南無阿弥陀仏」――。かつて寄席で聞いたこの落語にあやかり四股名を「花筏」に改名した十両力士がいた。「花筏蕾みぬ隈なき葉色の面(も)に」(中村草田男)。

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<中国パワーの源泉と行方> 中国経済「今後20年間比較的高い成長が続く」!

2013年04月25日 | メモ

【劉徳強・京大教授「中国の発展は世界にも恩恵。日中は補間関係」】

 1978年に中国の改革・開放政策が始まって30年余。この間、中国経済は未曾有の急成長を遂げてきた。一方で環境汚染をはじめ様々な問題にも直面する。中国の成長は今後も続くのか、巨大化する中国に日本をはじめ世界はどう向き合っていくべきか。京都大学の春季公開講座(3回)は「アジアにおけるインド・中国のパワー」をテーマに取り上げ、第1弾として劉徳強教授が24日、「中国パワーの源泉と行方」の演題で講演した。隣国中国の動向への関心の高さを示すように、会場の京大百周年記念ホール(500人収容)は熱心な聴講者で埋め尽くされた。

   

 劉教授は東京都立大経済学部卒で同大学教授を経て2008年に京大経済学研究科教授、12年から地球環境学堂教授。開発経済論・中国経済論を主な研究対象としている。講演では①中国経済発展の成果②経済発展をもたらす要因③中国の発展段階④直面する課題⑤中国パワーの行方――について、日米やインドなどと比較した統計を示しながら詳しく解説し、今後を予測した。

 中国の経済規模を改革前後に分けてみると、改革前は26年間で約5倍(年率6.2%)に膨らんだのに対し、改革後は34年間で約24倍(年率9.8%)に達した。これに伴って1985年に米国のわずか14分の1、日本の5分の1だった名目GDP(ドル換算)は、2012年には米国の52%、日本の1.4倍まで上昇した。

 急成長の要因として、「平等」から「豊かさ」追求への発展目標の大転換、労働集約型産業の発展→輸出増加→外貨の増加→生産拡大という好循環、国有企業改革など政府の政策立案・執行能力と〝斬新主義〟と呼ばれる柔軟な姿勢、政治・社会の安定などを挙げる。比較的高い教育水準や工業基盤など計画経済時代の〝遺産〟も発展に貢献した。また所有権制度改革が徹底されていない分、インフラ整備に必要な土地取得が比較的容易だったという側面もある。

 急成長の裏で様々な問題も表面化してきた。豊富な労働力は中国の大きな強みだが、劉教授によると「2003年前後から臨海部だけでなく内陸部でも労働力が不足してきた」。環境問題の深刻化、都市と農村の所得格差、権力の腐敗、治安の悪化なども深刻。中国の発展段階について「経済水準は日本の1960年代の後半頃に相当。社会の発展段階は日本の戦前の1920~30年代、政治は一層遅れている」と指摘する。

 それだけに「中国経済は成長の潜在力が大きい」とみる。「今後20年間は比較的高い成長が可能。先進国からの技術導入と自らの技術革新能力の向上がカギを握る」。政治体制については韓国、台湾などの例から国民1人当たりGDPが一定水準(6000~8000ドル)に達すると、民主的政治体制への転換が行われる傾向があるとし、「中国も政治の季節に入りつつある」とみる。ただし「急激な政治改革は社会混乱をもたらす。早すぎる民主化も遅すぎる民主化も中国にとっていいことではない。経済改革と同じように斬新的に進む方法を模索することが必要だろう。これは共産党の自浄能力にかかっている」。

 周辺国などでは中国の大国化や軍拡への警戒感が強い。だが「中国の人口は日本の10倍、国土は25倍で14カ国と接する。中国の国防費はGDP比率で日本とあまり変わらない。果たして〝軍拡〟といえるのだろうか」と疑問を投げかける。日中関係はいま尖閣諸島の領有権問題などで冷え込むが、「中国がこの30年余り発展を続けられたのも平和あってこそ。中国は平和の最大の受益者といえる。その平和を自ら壊すことはないだろう」。

 劉教授は最後にこう結んだ。「中国の発展は貿易や投資を通じて多くの国・地域に恩恵をもたらす。中国の経済成長は日本にもメリットがあり、一方、中国は環境汚染など国内問題克服のためにも日本の支援や知恵が欠かせない。日本と中国はまさに補完関係にある」。

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<BOOK> 「大東亜戦争の謎を解く 第二次大戦の基礎知識・常識」

2013年04月24日 | BOOK

【別宮暖朗・兵頭二十八共著、潮書房光人社発行】

 まえがきの冒頭に「日本の近代戦史で特徴的なことは『陸軍の影が薄い』ことである」(別宮氏)。太平洋戦争も日本海軍のハワイ真珠湾攻撃で始まった。このため「『当初作戦計画』を立案・実行した大日本帝国海軍軍令部ならびに聯合艦隊司令部の責任は、他の誰よりも重くなくてはならない。これが我々の結論である」と主張する。さらに「『大東亜共栄圏』は単に海軍戦略の手段、すなわち内南洋防衛網の構築のために重要だったのである」とみる。

   

 別宮氏は1948年生まれの近現代史家だが、信託銀行での証券金融ビジネスやロンドンの証券調査会社パートナーなどの経歴を持つ。著書に「中国、この困った隣人」「『坂の上の雲』では分からない日本海海戦」など。兵頭氏は1960年生まれで自衛隊入隊後、大学に入り直し東京工大大学院で江藤淳研究室の最後の院生に。著書に「たんたんたたた―機関銃と近代日本」「有坂銃―日露戦争の本当の勝因」など。別宮氏との共著に「東京裁判の謎を解く」がある。

 別宮氏は明治維新以降の大きな戦争で海軍がイニシアティブを取った点について「日本の戦争のみに見られる世界的に稀な現象」という。本書はこうした日本の戦争の特質を兵頭氏と徹底的に討論しながら互いに原稿を行き来してまとめた。2部構成で第1部は「大東亜戦争はどのように始まったか」、第2部は「大東亜戦争はどのように戦われたか」。1・2部合わせ79項目について事実経過に背景説明を加えている。

 本書の特徴は各項目を「難」「中」「易」の3つのレベルの難易度に分類し符号を付けていること。あまり詳しくない初心者は「難」を飛ばして最初に「易」の項目を中心に読んでいけば理解が深まるというわけだ。かつて日本が米国と戦争したことすら知らない人が増えているという。そんな中で若者世代にも読んでほしいという願いを込めたのだろう。

 各レベルの項目を一部列挙すると――。「易」は「新聞記者が作った『玉砕』の美名」「日系人の強制収容」「ひめゆりの塔」、「中」は「中国にしかない『租界』」「なぜ日本人だけが徴兵を嫌ったか」「天皇に戦争責任はあったのか」、「難」は「統帥権は干犯されていた?」「戦費はどうやって捻出されたか?」「大東亜共栄圏」など。

 そのうち「天皇に戦争責任はあったのか」では南方作戦計画の発動を決めた1941年9月6日の御前会議に触れ「この時、昭和天皇は明治天皇の御製を詠み上げ、発動に反対するお気持ちを伝えた。しかし、それ以上の反対は近代国家の『機関』としての天皇にはできないことになっていた。つまり、昭和天皇に戦争責任はない」とする。また「大東亜共栄圏」は「経済的に誤りであるばかりでなく、戦略的にも失敗だった」と断じる。

 「日系人の強制収容」の項目ではこんなエピソードが紹介されている。欧州から米国に復員した日系人兵士も多くは強制収容所に隔離された。収容所から釈放されたある兵士がレストランに入るや、店の主人が「日本人は出て行け」と怒鳴った。兵士の胸には欧州戦線で得た勲章。店内にいた1人の元兵士が事情を説明すると、店主は慌てて日系人兵士の後を追い懸命に詫びた。米国では「除隊兵士がレストランで食事した際、周囲の人は酒や軽食をおごるのが普通である」という。

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<シャクナゲ(石楠花)> 豪華な花姿から〝花木の女王〟とも

2013年04月23日 | 花の四季

【ネパールの国花、品種改良で世界に1000~1500種】

 ツツジに似た花がブーケのように球状に集まったシャクナゲ。ツツジ科ツツジ属で、漢字では「石楠花」または「石南花」。ただ、これは中国で公園や墓地によく植えられるオオカナメモチという別の植物の漢名を誤って借用したことによるという。シャクナゲの語源は「避難儀(さくなんぎ)」で、これが転訛したものという説もあるそうだ。

  原産地は日本から中国、ヒマラヤにまたがるアジア地域。日本にはツクシ(筑紫)シャクナゲ、アズマ(東)シャクナゲをはじめホソバ(細葉)シャクナゲ、ハクサン(白山)シャクナゲ、ヤクシマ(屋久島)シャクナゲ、キバナ(黄花)シャクナゲなどがある。単にシャクナゲという場合、ツクシかアズマを指すことが多い。ツクシの変種にホン(本)シャクナゲやキョウマル(京丸)シャクナゲがある。

 ヒマラヤ地方はシャクナゲの宝庫といわれるほど種類が多い。ネパール語で「ラリーグラス」と呼ばれる真っ赤なシャクナゲの花はネパールの国花にもなっている。低木が多い日本の自生種と違って10mを超える高木に育つ。「西洋シャクナゲ」は中国・雲南省~ヒマラヤ地方を中心にアジアに自生していた野生種がヨーロッパに伝わり、英国やオランダなどで品種改良が重ねられて生み出された。その品種は1000種とも1500種ともいわれる。

 

 滋賀県と福島県の県花。滋賀では日野町・鎌掛谷のホンシャクナゲの群落、福島では吾妻山のヤエハクサンシャクナゲの群落が国の天然記念物に指定されている。このほか長崎県諫早市・多良岳や福岡県豊前市~大分県中津市の犬ケ岳のツクシシャクナゲ、群馬県草津町・草津白根のアズマシャクナゲとハクサンシャクナゲ、長野県南牧村・八ケ岳のキバナシャクナゲなどの群落も天然記念物になっている。

 最盛期を迎え各地でシャクナゲ祭りが開かれている。主な所では広島市の「花みどり公園」(5月6日まで)、福岡県添田町・英彦山公園(同)、静岡県伊豆市・天城グリーンガーデン(5月12日まで)など。国内の自生種を中心に50種7000本が咲き誇る兵庫県香美町の「全国石楠花公園」は5月3日、ホンシャクナゲの自生地・岡山県新見市の三室峡は4日に開く。

 関西では奈良の室生寺や長谷寺、岡寺をはじめ、月輪寺(京都市)、金剛三昧院(和歌山県高野町)、勝尾寺(大阪府箕面市)、三室戸寺(京都府宇治市)などもシャクナゲの名所として知られる。滋賀県東近江市の村田製作所八日市事業所では200種900株以上を植栽した「しゃくなげ園」を一般公開中(5月12日まで)。「石楠花の紅ほのかなる微雨の中」(飯田蛇笏)。

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<木津川計の一人語り劇場> 映画「無法松の一生」 検閲で映像18分間もカット!

2013年04月21日 | メモ

【当局「卑しくも人力車夫が帝国陸軍の未亡人に思いを寄せるとは何事か」】

 〝無法松〟の未亡人への純愛を描いた映画「無法松の一生」。この映画が公開されたのは戦争真っ只中の昭和18年(1943年)だった。当局による検閲制度の下でどう扱われたのだろうか。奈良県生駒市の市コミュニティホールで20日「木津川計の一人語り劇場『無法松の一生』」(生駒市平和委員会主催)が開かれた。木津川氏は原作と映画を対比したり、時代背景を紹介したりしながら2時間近くにわたって口演、「検閲がいかに芸術を歪めたか」と指摘した。

 

 木津川氏は1935年生まれの77歳。「上方芸能」発行人や和歌山大学客員教授などを務める傍ら、7年前から芝居や映画の再現を通じて時代の本質を明らかにしたいと「一人語り劇場」を始めた。これまでに「無法松の一生」のほかに「瞼の母」「一本刀土俵入」「金色夜叉」「婦系図」「王将」などを取り上げてきた。

 「無法松……」の原作は作家岩下俊作が昭和14年同人誌「九州文学」に発表した直木賞候補作「富島松五郎伝」。舞台は小倉、時は明治30年代~大正初め。怪我をした少年を助けた縁で松五郎(無法松)は陸軍大尉の家に出入りするようになる。ところが大尉が肺炎で急死。息子を立派な職業軍人に育てたいという未亡人吉岡良子のたっての願いで松五郎が父親代わりに。未亡人は地元で評判の美しい女性。松五郎は次第に思いを寄せるが、身分の違いからかなうはずがない。募る思いをすっぱり断ち切ろうとするが――。稲垣浩監督、伊丹万作脚本で映画化された。

 木津川氏は作務衣の上に青の法被姿で映画のシーンなどを再現した。舞台の上に椅子が2つ。原作を読むときには向かって右手の椅子に座り、映画などのときには立つか左手の椅子に座った。原作では酒に酔った松五郎が夫人宅を訪ね手を握る場面がある。「だが映画では指1本触れずに黙って涙を流す。脚本は純愛の物語に書き換えられた。そうしなければ上映禁止になるに違いなかった」。

 公開された昭和18年はアッツ島で玉砕が始まり、「撃ちてし止まむ」のスローガンが連呼された。封切り1週間前には学徒出陣の壮行会も開かれている。こうした中で谷崎潤一郎の「細雪」などは〝軟弱文学〟として禁圧され、この映画も卑しくも車屋風情が陸軍の未亡人に思いを寄せるとは何事かと、内閣情報局の検閲で18分間分もの映像がカットされた。「松五郎が息を引き取る直前、走馬灯のように夫人の顔が3回思い浮かぶが、この場面も全てカットされた。脚本を書いた伊丹氏は無念だっただろう」。夫人が松五郎の遺体に取りすがって泣き続ける原作の場面も映画にはない。

 終戦後の昭和33年、稲垣監督は松五郎に三船敏郎、吉岡夫人に高峰秀子を起用して再度「無法松の一生」をカラーで撮り直した。もちろんノーカット。この作品がベネチアの国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲得する。「トリマシタ。ナキマシタ」。稲垣監督は関係者にこう電報を打ったという。木津川氏は口演の最後をこう結んだ。「澤地久枝は『妻たちの二・二六事件』を書き、橋田壽賀子は『女たちの忠臣蔵』を書いた。『無法松の一生』は『吉岡良子伝』ができたときに完結するのです」。(写真㊨は口演後、本にサインする木津川氏)

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<ヤマブキ(山吹)> 古名「山振」 万葉集に歌われ、兼好は「家にありたき草」と

2013年04月20日 | 花の四季

【バラ科、英語では「ジャパニーズ・ローズ」】

 枝がしなやかに枝垂れ山の微風に揺れる様から、古くは「山振(やまぶり)」といわれた。これがヤマブキに転訛したらしい。万葉集には17首登場する。「山振の立ちよそひたる山清水 くみに行かめど道の知らなく」(高市皇子が十市皇女の死を悼んで)。吉田兼好は徒然草で「家にありたき木は松・桜……草は山吹・藤・杜若・撫子」とヤマブキを挙げた。バラ科に属しており、英語では「ジャパニーズ・ローズ」と呼ぶ。

 ヤマブキの園芸品種には花弁が細く菊に似たキクザキ(菊咲き)ヤマブキや、葉に白い斑(ふ)が入ったフイリヤマブキ、花の色が白みを帯びたシロバナヤマブキなどがある。似た花に岡山など山陽地方に自生するシロヤマブキ(下の写真㊧)があるが、これはヤマブキ属とは別のシロヤマブキ属の植物(1属1種)。花弁が5枚で葉が互生するヤマブキに対し、4枚で葉は対生という違いがある。またヤマブキの山吹色にそっくりな花にヤマブキソウ(写真㊨)がある。こちらはケシ科の多年草で、落葉樹林のやや湿った場所に群落を作る。

    

 「七重八重花は咲けども山吹の 実の1つだになきぞ悲しき」。江戸城を築いた太田道灌の「山吹の里」伝説で有名な古歌(兼明親王作、後拾遺集)である。雨に遭った道灌が農家で蓑(みの)を借りようとしたところ、娘がヤマブキの一枝を差し出した。道灌は怒って帰ってしまうが、後日、家臣からヤマブキの「実の」を「蓑」にかけた平安時代の歌の存在を知らされる。娘は貧しくて蓑一つさえない悲しい思いをヤマブキに託していたのだ。道灌は自らの学のなさを恥じた――。ヤマブキには一重と八重があるが、この歌は実がならない八重のヤマブキを詠んだものとみられている。

 ヤマブキの名所として有名なのが京都・嵐山の松尾大社。境内を横切る一ノ井川沿いなどに八重を中心に約3000株のヤマブキが咲き誇る。ちょうど「山吹まつり」を開催中(5月5日まで)で、5月3日には神前芸奉納、庭園のライトアップなどが行われる。京都府井手町の玉川堤も古くから名所として名高く約5000本が咲き乱れる。ヤマブキを市の花・市の木に制定しているのは京都府宇治市、宮城県白石市、埼玉県川越市など。宇治市では興聖寺や恵心院なども山吹の名所として有名。奈良県では中宮寺や般若寺、壷阪寺などが「山吹の寺」として知られる。「山吹の花揺れうごく野仏に」(原科ともゑ)。

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<丹波一の宮・出雲大神宮> 華やかに鎮花祭 出雲風流花踊りなどを奉納

2013年04月19日 | 祭り

【伊勢大神楽や空手、日本舞踊なども】

 京都府亀岡市の出雲大神宮で18日、「鎮花祭(はなしずめのまつり)」が行われた。神事は午前10時から雅楽が奏される中、厳かに執り行われた。本殿の御扉開きや宮司の祝詞奏上に続いて神楽「浦安の舞」。拝殿で巫女2人が最初は扇、その後は鈴に持ち替えて舞を奉納した。神事終了後には華やかな出雲風流花踊りや伊勢大神楽など神賑行事が拝殿を中心に繰り広げられた。

  

 出雲大神宮はJR山陰線亀岡駅の北約5キロの御神体山(御蔭山)の麓にある。祭神は大国主命と后の三穂津姫命。この神社は古くから「元出雲」といわれており、「元」とつくことから島根県の出雲大社より古いとの言い伝えもある。社殿創建は和銅2年(709年)といわれ、現在の社殿は鎌倉時代のもので国の重要文化財(旧国宝)に指定されている。

 

 鎮花祭奉納行事の最大の見どころは京都府登録無形民俗文化財の出雲風流花踊り。本来は雨乞いの踊りで、起源は古く室町時代には既に行われていたという。明治16年(1883年)の大旱魃を最後に途絶えていたが、約90年前の大正13年(1924年)、昭和天皇御成婚の記念行事として復活した。

 花踊りの構成員は踊り手と唄方・笛方、「新発意(しんぼち)」と呼ばれる笹竹を手にした踊りの進行役から成る。踊り手は四季を彩る造り花で飾った花笠を被り、色とりどりの装束を身にまとう。手には小型の締め太鼓。まず参道で踊りを披露した。縦一列に並び「入端」という曲に合わせて太鼓を上下に打ち振りながら踊る。この後、拝殿を囲んで輪踊り。「ハア、ソリャ」の掛け声とともに、時計回りで「一の宮踊り」「正月踊り」などを踊った。

 

 

 花踊りの後も拝殿を中心に女性デュオの歌唱、伊勢大神楽、空手、地歌舞、日本舞踊、居合道などがにぎやかに行われた。伊勢大神楽は伊勢神宮に参拝できない人のため各地に出向き、お札を配ったのが始まり。この日は丹波地方を回檀(かいだん)中の「渋谷章社中」が勇壮な獅子舞や放下芸(曲芸)を披露した。

 番傘の上で茶碗や5円玉をくるくる回す「傘の曲」などに続いて、放下芸の目玉「魁曲(らんぎょく)」が演じられた。男性の肩に乗った獅子が華やかな花魁(おいらん)に変身し、両手で日傘を広げて片足立ち(上段の写真㊧)。その直後にはオカメに早変わりした。曲芸をする太夫と「チャリ」と呼ばれる道化師の軽妙な掛け合いも観客の笑いを誘っていた。放下芸は大道芸のルーツともいわれる。

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<発掘速報展 平城2012>朱雀門のすぐ南東に平城京造営のための鉄鍛冶工房!

2013年04月18日 | 考古・歴史

【大型の建物群跡も発見、工房の資材置き場?】

 奈良文化財研究所の平城宮跡資料館(奈良市)で、「発掘速報展 平城2012」(6月2日まで)が開かれている。奈文研は国が建設を計画している「平城宮跡展示館」の予定地を、2010年度から昨年秋まで5次(延べ約17カ月)にわたって発掘調査してきた。対象地は平城宮の正門、朱雀門のすぐ南東側で、メーンストリート朱雀大路の東側に面した1等地。それだけに調査前まで広場のようなスペースで遺構はあまりないだろうと予測していたが、意外にも巨大な井戸や鉄鍛冶工房、大型建物群の跡などが見つかった。そうした発掘の成果を写真やパネルなどで紹介している。

  

 井戸跡(上の写真の右下)は最初の調査で見つかった。上段は正方形、下段は六角形の二重構造で、上段内側の幅は2.4m。平城京最大とされた西大寺食堂院の井戸(幅2.3m)を超える規模だった。井戸の中からは木簡や櫛、人形(ひとがた)などの木製品、土器、金属製品などが出てきた。この井戸ができたのは奈良時代後半とみられる。

 鍛冶工房は井戸の西側で見つかった。これまでに工房跡が4カ所発見され、炉跡(下の写真㊧)の周囲からは鉄滓や鉄釘などが出土した。4つ目の工房が見つかったのは昨年6~10月に発掘調査した朱雀門に最も近い場所(写真㊨)。このことから朱雀門が面する二条大路のすぐ南側まで工房群が広がっていたことが分かった。5次のうち2次の調査に携わった川畑純研究員(都城調査部第3研究室)は「炉の構造や規模から小型の鉄製品や工具類などを作っていたようだ。この遺構は奈良時代前半のもので、平城京造営に関わる工房と判明した」と話す。

     

 工房南側からは複数の大型建物群の遺構が見つかった。長い特殊な形の建物だったらしく、地盤が軟弱なのに十分な地盤改良も行っていない。建物の重みに耐え切れなかったのか、柱の穴から沈下した柱根(根っこ部分)も出土している。急ごしらえで建てられ、短期間だけ存続したとみられる。「鍛冶工房のための資材置き場だったのだろうか。関係者が寝泊まりした場所かもしれない」(川畑研究員)。

 調査地域は工房や大型建物が役割を終えて取り壊された後に道路が造られ、奈良時代後半には広場のようになったとみられる。2013年度にはさらに東側一帯を調査する予定。巨大な井戸がどういう目的で造られたのか、分かるかもしれない。速報展では12年度に発掘調査した薬師寺食堂跡などについても写真などで紹介している。

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<ドウダンツツジ(灯台躑躅)>枝々に無数の可憐な小花 〝満天星〟とも

2013年04月17日 | 花の四季

【秋の燃えるような紅葉も圧巻】

 春たけなわ。この季節になると、スズランのような可憐な小花が印象的なドウダンツツジ(単に「ドウダン」とも)が生垣などで咲き誇る。漢字の「灯台躑躅」の〝灯台〟は分枝の形が油皿を載せる灯明台の脚に似ているところから。「とうだい」が訛っていつの間にか「どうだん」になったらしい。漢名の「満天星」は霊薬を作っているうちに誤ってこぼした霊水が木の枝に降り注ぎ、満天の星のように輝いたという故事に由来する。

 本州静岡以西の紀伊半島や四国、九州などの山地に分布する。明治時代から庭木として注目されてきたが、長く自生地が分からず、外来種ではないかと疑われた時期もあった。牧野富太郎博士らが1910年代になって高知県日高村の錦山で初めて自生種を発見した。ドウダンツツジは山地の岩場、中でも蛇紋岩という岩石が多い場所を好む。錦山も蛇紋岩地帯で、秋になると〝ドウダンモミジ〟で全山が真っ赤に染まるため、その名が付いたという。

 ツツジ科だがツツジ属とは異なるドウダンツツジ属に分類され、日本など東アジアやヒマラヤ地方に約10種ある。ドウダンツツジは花が白く、花の先がつぼまった壷形。これに対しサラサ(更紗)ドウダンやベニドウダンなどは紅色で、先がつぼまらない釣鐘形。サラサドウダンは「フウリンツツジ」という別名を持つ。変種にヒロハドウダンやチチブドウダン、ツクシドウダン、カイナンサラサドウダン、ベニサラサドウダンなどがある。

 静岡県島田市の「どうだん原」には8000本を超えるドウダンツツジが群生し、「市の花」にもなっている。4月21日には春のどうだんまつりが開かれる。岐阜県中津川市は恵那山系に多いサラサドウダンを市の花としている。ドウダンツツジを町花とする鳥取県智頭町は5月17~19日に智頭どうだんまつりを開催、〝どうだん娘〟の写真撮影会などを予定している。長野県小海町の松原湖高原には4600本のサラサドウダンが群生、県の天然記念物になっている。見頃は6月中~下旬。

 ドウダンツツジといえば比較的背の低い生垣を連想しがちだが、大木も少なくない。兵庫県豊岡市但東町の安国寺には高さ・幅ともに10mにも達する樹齢150年の名木がある。とりわけ秋の紅葉が有名で、多くの観光客やカメラマンでにぎわう。金沢市・妙法寺のドウダンツツジは樹齢400年以上ともいわれ、市指定の天然記念物。さいたま市・正圓寺のドウダンツツジも高さが4mほどあり、市の天然記念物に指定されている。「雲ひくし満天星に雨よほそく降れ」(水原秋桜子)。

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<ラッパスイセン(喇叭水仙)> 遅咲き系、花も日本スイセンより一回り大きく

2013年04月16日 | 花の四季

【西洋スイセンの代表格、英国ウェールズの国花】

 年末~早春に咲く日本スイセンはとっくに花期が終わっているが、西洋スイセンを代表する遅咲き系統のラッパスイセンは3~4月がちょうど見頃。ラッパスイセンは最初に南欧のピレネー地方で発見され、英国などで改良が重ねられて多くの品種が生み出された。色や形は多種多様だが、1茎1花で「副花冠」と呼ばれる筒状のものがラッパのように突出するという共通の特徴を持つ。

 スイセンの原産地は日本スイセンを含め、スペインやポルトガルなどの地中海沿岸地方といわれる。日本にはシルクロードを通って平安時代末期に中国経由で渡ってきたらしい。このため万葉集にも平安文学にもスイセンは登場しない。ただ、日本スイセンの大群落は淡路島や福井の越前海岸、房総半島など各地に点在している。このため、もっと古い時代に黒潮に乗って中国から球根が漂着していたのではないかとの説もある。

 英国は4つの地域がそれぞれに国花を持つ。イングランドのバラが有名だが、ウェールズはリーク(ネギの1種)とともにラッパスイセンを国花としている。黄色いラッパスイセンはウェールズに春の訪れを告げる花の1つで、「聖ダビデの日」(3月1日)にはリークかラッパスイセンを身に付ける習慣があるそうだ。

 群馬県東吾妻町はラッパスイセンの切り花生産量日本一といわれる。「町の花」はもちろんスイセン。毎春「岩井親水公園」脇の畑を30万本といわれるラッパスイセンが桜並木をバックに咲き誇る。今年は今月14日に「すいせん祭り」が行われ、多くの見物客でにぎわった。長野県上田市では信州国際音楽村で「水仙まつり」(20日まで)を開催中。関西では兵庫県淡路市多賀の「水仙の丘」がラッパスイセンの名所として有名だが、今年は例年より早く見頃は4月5日頃までだったという。

 ラッパスイセンは英語で「ダフォディル」。かつて「セブン・ダフォディル(七つの水仙)」というフォークソングが大ヒットしたことがあった。歌ったのは米国の男性4人グループ「ザ・ブラザース・フォア」。メロディーも歌詞も優しかった。「僕には豪邸も土地もお金もない。でも光が降り注ぐ朝を見せてあげられる。そして口づけと7つの水仙をあげよう……」。

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<西宮市大谷美術館>「とら・虎・トラ展」江戸時代、豹が虎の雌と信じられていた!

2013年04月15日 | 美術

【多様な虎図―怖い虎、かわいい虎、流し目の虎…】

 西宮市大谷記念美術館で「とら・虎・トラ展」(5月19日まで)が開かれている。副題に「甲子園の歴史と日本画における虎の表現」。西宮に阪神タイガースのホームグラウンド甲子園球場が誕生して約90年。そこで往時の写真などで甲子園の歴史を振り返るとともに「虎」に関する作品に焦点を当てた展覧会を企画した。

  円山応挙「水呑虎図」 

 会場は4つの展示室に分かれる。第1は「甲子園の歴史と阪神タイガース」、第2が「近世の虎」、第3が「長崎派の虎」、第4が「岸派と近代の虎」。第2展示室に入ると、真正面に長沢芦雪作の重要文化財「龍図・虎図襖」(下の写真㊧)。襖6枚ずつに巨大な龍と虎が躍動する。1786年、芦雪が円山応挙の名代として和歌山・串本の無量寺を訪れた際に描いたもので、虎図は世界一大きな虎の絵といわれる。今にも襲いかかるような一瞬を捉えた作品だが、その表情は少し猫に似てかわいらしさも漂う。

     

  長沢芦雪の「虎図襖(部分)」と岸駒の「真虎図」

 それに対し芦雪の師、応挙が描いた「水呑虎図」(制作1782年、上段の写真)はよりリアルで迫力十分。長く所在が分からず、美術研究者の間では〝幻の虎図〟といわれてきた。85年ぶりの発見という。写実を重視した森派の祖、森狙仙の「松下虎図屏風」(1816年)もにらみ合う2頭の虎が生き生きと表現されている。落款に「行年七十年筆」。数えで70歳の時の作品ということだろう。第2展示室には狩野派の基礎を築いた狩野探幽の「虎ノ図」(1668年)もあった。

 江戸時代の鎖国下では唯一の窓口長崎で、渡来した中国の画人に絵の手ほどきを受ける日本人画家も多かった。第3展示室にはこれら「長崎派」と呼ばれた作家の作品が並ぶ。独特の表現で描かれた虎が目立ち、中には空想上の動物のように描かれたものも。諸葛監の「松下虎図」(1763年)は眉毛が白く耳が小さい。宋紫石の虎図(1770年)は流し目のような表情。渡辺秀詮の「竹二虎図」(18~19世紀)は目が異常なほど大きい。

 長崎派に対して、京都で岸駒(がんく)を祖として生まれた岸派(きしは)は再び本物の虎のように写実的に描いた。岸駒の「真虎図」(1784年、写真)や「水呑虎図」(1784年)は顔の表情などに迫力がみなぎる。1枚の中に虎と豹が描かれた絵もあった。岸駒の孫・岸礼が描いた「虎図」(19世紀)。「日本美術にみる〝虎〟」の演題で14日講演した木村重圭氏(前甲南女子大教授)によると、江戸時代のある時期まで豹は虎の雌と信じられていたという。このため虎と豹が一緒に描かれた絵はこのほかにも結構あるそうだ。

 極めて構図が似た絵もあった。岸駒の弟子、白井華陽の「猛虎図」(18~19世紀)と長崎派の荒木千洲の「猛虎図」(19世紀)。1匹の虎が松葉の下の岩場で、足をふんばり歯をむき出して威嚇する。木村氏は「お手本とした〝粉本(ぷんぽん)〟が一緒だったのだろう」と指摘する。

 木村氏によると、日本で最も古い虎は法隆寺の玉虫厨子に描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」。釈迦が前世、崖下の飢えた虎の母子を憐れんで身を投げ出す様子が3つの場面に描かれている。涅槃図にはさまざまな動物が描かれるが、虎が出てくるのは鎌倉時代の1200年以降という。京都・高山寺に伝わる鳥獣人物戯画にも虎が登場する。「純粋な虎の絵はこれが最初ではないか」と木村氏。

 春日大社には大袖に虎と竹が描かれた国宝「赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)」が伝わる。17世紀に入ると、生きた本物の虎が南蛮船で運ばれ、その様子が南蛮屏風にも描かれている。「それ以降今日まで、虎は日本画の中心的な画題の1つとして定着し描かれてきた」。

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