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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈おん祭⋅後宴能〉 能「釆女」、狂言「口真似」など奉納

2024年12月19日 | 祭り

【御旅所そばの特設土俵では奉納相撲も】

 「春日若宮おん祭」の4日間があっという間に過ぎ去った。17日には最大の祭典「お渡り式」と「御旅所祭」が繰り広げられ、若宮様は同日深夜「還幸の儀」で御旅所の仮御殿から若宮神社の本殿へ。最終日の18日には祭の無事終了を祝し「奉納相撲」と「後宴能」 が執り行われた。

 仮御殿正面の芝舞台(「芝居 」の語源とも)で後宴能が始まったのはこの日午後2時から。今年は金春流による能が「釆女(うねめ)」など二番、大蔵流による狂言が一番奉納された。「釆女」は帝の寵愛が薄れたことを嘆き悲しんだ女官の釆女が奈良の猿沢池に身を投げたという故事に因む。

 南都を訪れた旅の僧3人が若い女性に声を掛けられ猿沢池に案内される。そこで女性から釆女の悲話を聞く。 そして実は自分がその采女の霊だと打ち明け池の中へ姿を消す。僧たちが霊を弔っていると、再び釆女がーー。

 采女の霊を勤めたのはシテ方能楽師の櫻間右陣さん。演能時間は約1時間15分だった。この後、狂言の「口真似」(シテ茂山千五郎さん)や能 「鵺(ぬえ)」(シテ金春穂高さん)などもあった。

 「後宴能」に先がけ午後1時からは御旅所の南側で1時間にわたって奉納相撲も行われた。参加したのは20人ほど。神妙な表情で横一列に並び、春日大社の神職のお祓いを受けた後、中学生の部と団体の部と個人の部で熱戦を繰り広げた。

 好天の日中とはいえ厳しい 冷え込み。土俵の周りには数カ所、暖を取るため 薪が焚かれていた。土俵を幾重にも囲む大勢の観客たち。その中には観光客とみられる外国人の姿もちらほら。最前列のちびっ子たちからは「がんばれー」という熱い声援が飛び交っていた。

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〈おん祭⋅大宿所詣〉 JR奈良駅から餅飯殿町まで神子の行列

2024年12月16日 | 祭り

【神子4人のはずが 3人! 八嶋神子の姿見えず】

 今年もまた奈良の師走を彩る「春日若宮おん祭」 (12月15~18日)の時季がやってきた。春日大社の摂社若宮神社の例祭で、平安時代の1136年に始まって以来、一度も途切れることなく続く。今年で889回目。祭は例年15日の神子(みこ)の行列「大宿所詣(おおしゅくしょもうで)」 から始まる。

 行列は祭に奉仕する神子を輿に乗せ、大宿所(奈良市餅飯殿町)まで送り届けるもの。そこで神子たちは祭の無事執行などを祈願する「御湯立(みゆたて)神事」に参列しお祓いを受ける。

 行列の参加者は参集場所のJR 奈良駅前でまず集合写真を撮った。最前列には白の被衣(かずき)をかぶった神子たち。あれ? 神子は4人のはずだけど3人しかいない! おん祭の日程などを記すチラシを再確認。確かに神子は辰市⋅八嶋⋅郷⋅奈良の4人となっている。数人の方に伺った。それによると、どうも今年は八嶋神子(やしまのみこ)が不参加らしい。どんな事情からだろうか。

 行列の一行は午後0時45分ごろ、駅前を出発した。行列の到来を告げる太鼓を先頭に三条通りを東へ 。後ろに奈良市観光大使を務める演歌歌手川井聖子さんや 雅楽の奏者たちが続く。

 その後に3人の神子。それぞれ輿の上から沿道の観客に笑顔を振りまいていた。神子の列の後ろには小型の御所車が続いた。

 行列は三条通りを左に折れてアーケード街の東向商店街の中へ。普段でも人通りの多い商店街は人がひしめき合って大混雑。

 3台の輿にはそれぞれ先導する形で「NARA  CITYコンシェルジュ」(旧ミス奈良) が1人ずつ付いていた。

 行列はその後、幹線道路の登大路を越えて東向北商店街を北上 した。そして奈良女子大学正門そばにある春日大社の境外末社初宮神社の前でUターン。この後 小西さくら通り商店街を南下し、もちいどのセンター街に面した大宿所に向かった。

 おん祭最大の呼び物お渡り式は17日正午から。古式装束をまとった総勢約1000人と馬約50 頭が参加、華麗な時代絵巻が繰り広げられる。

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〈たかとり城まつり〉 旧城下町の土佐街道で時代行列

2024年11月24日 | 祭り

【火縄銃実演、太神楽、南京玉すだれなども】

 日本三大山城の一つ高取城の旧城下町、奈良県高取町で23日「たかとり城まつり」が開かれた。今年で36回目。呼び物の時代行列をはじめ火縄銃や殺陣(たて)の実演、太神楽、よさこい踊りなどもあり、石畳の土佐街道やイベント会場の高取児童公園は多くの見物客でにぎわった。

 時代行列は午後1時に出発、1時間ほどかけて児童公園まで練り歩いた。先導は和太鼓グループ「鼓城」。これに高取国際高校の生徒による「旗行列」が続いた。その後ろには勇ましい「高取甲冑隊」と「子ども甲冑隊」。

 続いて高取町自治会と女子高校生が扮した「姫と家老」。橿原青年会議所の「大名駕籠」には可愛らしい女の子がちょこんと乗っていた。

 「奴行列」で息の合った掛け声と所作を披露したのは土佐時代行列保存会のメンバー。その後には高取町福祉協議会の女性陣による「忍者くノ一」、「紀州九度山手作り甲冑真田隊」が続いた。

 奈良県立万葉文化館の「万葉びと」の後ろには再び鎧兜姿の「甲援隊」。舞を披露し、「エイ、エイ、オー!」と勝ちどきを上げた。

 行列はなおも続く。南都銀行の行員による「江戸両替商」、「大阪城鉄砲隊」、少年野球チーム「高取ホークス」。

 そしてトリを務めたのは昨年同様、神戸に本拠を置く「日本南京玉すだれ協会」の女性陣だった。

 時代行列に先駆け、児童公園では午前10時から和太鼓を皮切りに多彩な出し物が繰り広げられた。太神楽の豊来家幸輝さんは城まつり初登場。土瓶を口にくわえた棒で自在に操ったり、木製のクワに水を入れたコップを乗せ上下にぐるぐる回したり。巧みな曲芸に、あちこちから「すごい!」という声が飛び交っていた。火縄銃や殺陣の実演、よさこい踊りなどもあった。

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〈関宿街道まつり〉 東から西へ「宿場大行列」

2024年11月04日 | 祭り

【37回目、山車が“舞台回し”を披露】

 三重県亀山市の旧東海道関宿街道一帯で11月3日「東海道関宿街道まつり」が開かれた。今年で37回目。「宿場大行列」をはじめ盛り沢山のイベントが用意され、好天に恵まれたこともあって多くの観光客でにぎわった。

 行列は午前10時すぎ「三味線道中」を先頭に関宿の東側の入り口「東の追分」を出発、一休さんに因んで小学生が小坊主姿に扮した「子ども時代行列」、公演が近い亀山ミュージカルの「まほろばの夢~新ヤマトタケル」、「関ふれあい音頭」の手踊りと続いた。

 その後に続くのは地元で歌い継がれてきた「正調鈴鹿馬子唄」、そして「時代行列」。馬子唄の馬は遠目からは実物と思わせる出来映え。「本物?」と聞く小さな子どもに「そう。近づくとかまれるよ」と親が答え、笑いが広がる一幕もあった。

 行列のトリを務めたのは「木崎の山車(やま)」。関にはこの木崎も含め現在4台の山車があるが、江戸後期の文化年間(1801~19年)にはその4倍の16台もあったという。祭りのときにはそれらの山車が狭い街道にひしめきあい、「これ以上は無理」ということから「関の山」という言葉が生まれたそうだ。

 行列の終点は「西の追分」側にある関地蔵院。巡行を終えた山車はそのそばで”舞台回し“を披露した。山車の上部が高速で回転するという見せ場だ。元は狭い街道で追い抜けないため、上部を回して方向転換できる構造になったのが始まりという。半時計回りに20回ほど回っただろうか。静止すると観客から大きな拍手が沸き起こった。

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〈ならまちわらべうたフェスタ〉 12会場で多彩なイベント

2024年10月21日 | 祭り

【 紙芝居、大縄跳び、絵本ライブ、ふれあい動物園】

 奈良市のならまち界隈で10月20日「ならまちわらべうたフェスタ 2024」が開かれた。 ならまちは世界文化遺産元興寺の旧境内を中心とする旧市街地。ならまちセンターをはじめ12の会場で多彩なイベントが繰り広げられ、多くの子どもたちでにぎわった。

 ならまちセンターの芝生広場ではコンサートや紙芝居、アナウンサー体験などが行われ、周りには飲食などの模擬店も出店。奈良市のキャラクター「しかまろくん」の前には行列ができていた。(写真奥の高層ビルのように見えるのは 修復工事中の興福寺五重塔の素屋根)

 「どじょうつかみ」も人気を集めていた。1回100円で制限時間1分間。ぬるぬるしてなかなか難しそうだか、6匹つかまえたという子も。飼い方や「食べられる?」と聞いて持ち帰っていた。

 市民ホールでは「良弁一座」によって大紙芝居が上演された。演目は「不審ケ辻子の鬼」など奈良の昔ばなし。畳1畳分もある紙芝居は迫力満点だった。館内ではお手玉遊びやおもちゃの手作りなども行われていた。

 「春日若宮おん祭」の大宿所会場では子どもたちが大縄跳びや羽根つきに興じた。「郵便屋さん ハガキが十枚落ちました~」 などわらべうたに合わせてジャンプ。中には 100回以上跳んだ女の子もいた。秋晴れの下、みんなも笑顔で輝いていた。

 奈良町物語館では「言の葉の羽」 による“絵本ライブ”が開かれていた。ここも親子連れで盛況だった。

 もちいどのセンター街の駐車場は「ふれあい動物園」の会場に。手にはめた軍手で恐る恐るミニ豚など小動物を触るチビッ子たち。ここでは有料でメダカすくいも行われていた。

 奈良市史料保存館には大和の民謡やわらべうたの録音⋅採譜に取り組んだ牧野英三さん( 1921~2003 )に関する資料などが展示されていた。江戸時代の子どもたちが遊ぶ様子を描いた「大和名所図会」(1791年)も。

 その隣の奈良市杉岡華邨書道美術館や奈良町にぎわいの家、奈良市音声館、奈良町からくりおもちゃ館なども子どもたちでにぎわった。 

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〈米原曳山まつり〉 子ども歌舞伎「恋飛脚大和往来 封印切」

2024年10月14日 | 祭り

【小学生の男児7人、湯谷神社で熱演を披露】

 滋賀県米原市の「米原曳山まつり」が10月12~14日の3日間、秋晴れの下で繰り広げられた。江戸時代からの長い伝統を誇る祭り。“本楽”の13日には鎮守社の湯谷神社で子ども歌舞伎が奉納され、熱演に観客から温かい拍手と声援が送られた。

 この曳山まつりは長浜の曳山祭を見習って始まったという。曳山は北町の旭山、中町の松翁山、南町の壽山の3台あり、今年は松翁山で子ども歌舞伎が披露された。役者は3つの町から選ばれた小学1~6年の男児7人。13日には午前9時から”御渡り“があった。

 市役所前を出発した行列は途中小休止を挟みながら1時間かけて湯谷神社へ。その後、神事が営まれ、歌舞伎を演じる男児たちは神妙な表情でお祓いを受けていた。

 子ども歌舞伎の今年の演目は近松門左衛門の「恋飛脚大和往来」の2幕目「封印切」。市川団四郎さんが振り付けを指導した。語りの太夫は竹本龍豊さん、三味線は豊澤賀祝さん。三番叟で幕開けした。物語の舞台は大坂。大金を扱う飛脚問屋の若旦那忠兵衛は遊女梅川と恋仲になる。

 だが、身請けに必要な250両という大金はとても用意できない。そんな中、忠兵衛の友人、八右衛門が梅川を身請けしたいと言い出す。廓「井筒屋」の主人はその申し出を断った。

 すると、八右衛門は忠兵衛の悪口を散々言い立て、金がないことをあざ笑う。カッとなる忠兵衛。次の瞬間、懐に入っていた店の金を出し50両、100両と次々に封印を切ってしまう。

 忠兵衛は罪の大きさにおののき、梅川にすべて打ち明ける。そして二人は心中を決意するのだった。

 終演後、曳山の周りには多勢の観客が押し寄せ、熱演を称えていた。役者の子どもたちも大役を果たした安堵からか、柔和な表情を振りまいていた。

 この後、曳山は神社を出て、だらだら坂を下り、南北に走る目抜き通りへ。そこでもほぼ2時間おきに場所を変えながら3回、子ども歌舞伎をお披露目した。

 米原では囃子のことを「シャギリ」と呼ぶ。それぞれの山組に保存会があり、独自のシャギリが伝わっているそうだ。リズミカルなシャギリの響きが心地いい。宵宮の12日には曳山が6年ぶりにJR ⋅ 新幹線の線路を跨ぐ米原跨線橋を越えて西町を巡行した。伝統の祭り保存へ地域を挙げて取り組む熱気がひしひしと伝わってきた。

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〈明日香村稲渕〉 「案山子祭り」棚田を囲み50体

2024年09月24日 | 祭り

【テーマは「絆」 能登への応援作品数多く】

 「日本の棚田百選」や「日本の里100選」に選ばれている奈良県明日香村の稲渕棚田。その展望台や案山子(かかし)ロードを会場に、9月22~23日「案山子祭りin明日香村」が開かれた。

 主催は地元の住民や棚田オーナーでつくるNPO 法人「明日香の未来を創る会」。今年のテーマは「絆」で、主催者側製作のジャンボ案山子は石川県輪島市に伝わる「御陣乗太鼓」だった。大地震に襲われた能登地方への連帯や復興支援への思いが込められている。そばに募金箱も置かれていた。

 一般公募の作品にも能登に向けたものが目立った。輪島の有名な棚田「白米千枚田」も地震で大きな被害を受けた。『棚田を結ぶ絆』(制作者:田中一憲さん⋅智恵美さん)は輪島の市鳥トキと奈良の県鳥コマドリをお地蔵さんが温かく見守る。「同じ棚田の仲間として心が痛みます。今後、美しい千枚田が甦ることを願って止みません」との言葉が添えられていた。

 『御陣乗太鼓天高く響け』(キトラとらい塾)はのぼりに「能登の皆さん頑張れ」、『明日香より愛をこめて』(かずくん⋅ようさん)はハートに「能登」と「一日も早い復興をお祈り致します」というメッセージが記されていた。

 『渋沢栄一も応援!がんばれ、能登!』(大阪在住の4人組「陸女部」)と題した作品も。ところが能登では大地震に加え今度は豪雨災害。案山子を制作した皆さんのご心痛はいかばかりか。

 絆がテーマということで「家族」を表現した作品も数点見られた。上の案山子は『絆って家族のことだわ。』(軽費老人ホーム明日香楽園)、下は『家族の絆~誕生日祝』(植村雪子さん)。

 時節柄、パリ五輪を題材にした作品も。『絆の力で金メダル』(せせらぎの園)、『「のこたん」with エッフェル塔』(大和高田市かたらい教室)などだ。

 下の作品は上から『マリンと遊ぶ』(新川ムツ子さん)、『キキとジジ』(烏頭尾南美さん)、『私の中の百目鬼(どうめき)』(久保仁美さん)。百目鬼は百の目、顔を持つ鬼案山子で、栃木県宇都宮市大曽の伝説に登場する妖怪をモチーフに制作したという。

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〈休ケ岡八幡宮〉 社殿前のミニ土俵で奉納子供相撲大会

2024年09月17日 | 祭り

【薬師寺管主ら僧侶も参列し秋季大祭】

 薬師寺の鎮守社、休ケ岡(やすみがおか)八幡宮(奈良市西ノ京町)で敬老の日の16日、秋季大祭が執り行われた。神事に続いて、社殿の前に設けられた土俵では近畿大学相撲部の協力のもと「奉納子供相撲大会」が開かれた。

 大祭は午前10時すぎ、鮮やかな朱色の社殿の前で始まった。現社殿は1603年に豊臣秀頼によって造営されたもの。国の重要文化財に指定されている。献饌に続き巫女舞、土俵清祓(きよはらい)の儀、薬師寺僧侶による読経と続き、最後に薬師寺の加藤朝胤管主(かんす)の挨拶で1時間余にわたる神事を終えた。

 厳かな神事の後は恒例の子供相撲。近大相撲部員3人が登場し、参加するちびっこたちに禁じ手としてパンチ⋅足蹴り⋅髪を引っ張るの3点を挙げた。男児の勝負の多くは短時間で決着。ところか女児2組の対戦はいずれも約3分にわたる大熱戦に。大相撲ならたぶん水入りだろう。観客から「がんばれー」「押せー」という熱い声援が飛び交っていた。

 この後はちびっこたちと大学生の対戦。最初は小学低学年、次に高学年、そして最後は全員で相撲部員に向かっていった。締めくくったのは大学生同士のガチンコ勝負。その迫力に圧倒された。

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〈筒井順慶まつり〉 勇壮な僧形⋅武者行列が練り歩く

2024年09月09日 | 祭り

【地元の高校⋅中学の先生や生徒たちが扮して】

 奈良県大和郡山市で9月8日「筒井順慶まつり」が繰り上げられた。地元の「筒井順慶顕彰会」の主催で、今回で21回目。主会場の筒井城跡の広場で多彩なイベントが開かれ、多くの市民でにぎわった。(写真は近鉄筒井駅前で)

 筒井順慶(1549-84)は筒井城最後の城主。筒井城は外堀で囲まれた東西500m、南北400mに及び、平城式城郭の中では大和で最大規模を誇った。しかし1580年、織田信長の命で破却され、順慶は居城を郡山城に移した。

 順慶は山崎の戦いで洞が峠で形勢を眺めていたとして日和見主義者の代名詞のようにいわれてきた。ただ史実は異なり、順慶は実は洞が峠に出陣していなかったという。顕彰会は順慶を「領民第一の徳将」「状勢判断の天才」と讃える。

 順慶まつりは午前10時半、大阪堺鉄砲隊による祝砲でスタート。出陣式などに続いて「僧形⋅武者行列」が近鉄筒井駅前に向けて出発した。これまで市長が務めてきた順慶役は県立ろう学校の校長、嶋佐近役は県立大和中央高校の校長が務め、近隣の学校の先生や生徒たちが家臣などとして参加した。僧形は筒井家が元々興福寺の僧兵出身のため。

 行列の一行は筒井駅前で記念写真を撮って小休止した跡、再び城跡のまつり会場へ。行列帰着後、会場では「やまと獅子太鼓」の演奏や一般参加の水攻め合戦、堺鉄砲隊の実演などが繰り広げられた。近くの光専寺ではまつりに合わせ安置する木造順慶像が一般公開された。

(写真はまつりで曳き回された光専寺の木造順慶像を模した像)

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〈東大寺二月堂〉 参拝客でにぎわう「功徳日(およく)」

2024年08月10日 | 祭り

【1日で4万6000日分参拝のご利益! 福引の楽しみも】

 8月9日は1年の中でも特別な観音様の縁日「功徳日」。この日参拝すると、なんと4万6000日参拝したと同じご利益があるという。十一面観音菩薩像を祀る東大寺二月堂もこの日が「功徳日(およく)」。朝早くから参拝客でにぎわった。

 4万6000日は約126年分に相当する。この日数はどこから? 一説ではお米1升が約4万6000粒であることから来ているという。加えて一生分の功徳があるとして「1升=一生」とかけたともいわれている。「およく」は「お浴」で「功徳に浴する」ことを意味する。

 参拝客にとっては福引もこの日の楽しみの一つ。灯明料(1口500円)を納めると、1口につき1枚の福引券がもらえる。午前8時半ごろ、二月堂の石段を上ると、福引引替所の前に列ができていた。

 引替所の中をのぞくと、様々な景品が三方の壁面にびっしり。正面の上段には大きなテレビや東大寺管長の色紙などもあった。福引券を1枚入手。直前の男性はたこ焼き機が当たった。もしかしたら正面の┄┄。手に入ったのは可愛いふきん1枚だった。

 二月堂に隣接する無料休憩所「北の茶屋」もにぎわっていた。入り口そばで販売していたのは名物の「およく餅」。その向かい側にはみたらし団子を買い求める客の行列ができていた。かき氷やそうめん、冷やしぜんざいなども販売。どれも100円と格安だった。

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〈大鳥神社「花奪い神事」〉 「神花」で飾られた花傘を青竹で乱打!

2024年07月25日 | 祭り

【花笠姿の愛らしい子どもたちの太鼓踊りも】

 滋賀県甲賀市甲賀町の大鳥神社で7月23~24日、無病息災や五穀豊穣を願って「大原祇園祭」が執り行われた。24日は前夜の宵宮祭に続いて本祭。「花奪い(はなばい)神事」が一番の見どころで、この祇園祭は県指定無形民俗文化財にもなっている。

 本祭は花火の号砲で午後3時から始まった。朱塗りの楼門前には白装束で鉢巻き姿の男衆約50人がずらりと整列。その間を花鉾を先頭に、太鼓踊りを奉納する子どもたち、赤い造花の「神花(しんか)」で飾られ酒樽を乗せた花傘が進む。

 太鼓踊りの踊り子は花笠を被り、和太鼓を「トントト、カカカ」と打ち鳴らしながら進んだ。昼過ぎ一時雨が降ったこともあって、太鼓は透明のビニールシートで覆われていた。

 楼門は京都⋅八坂神社の西門を模したもの。花傘はその楼門を潜って神輿が安置された拝殿へ。そこで酒樽などを奉納した後、再び楼門に姿を現した。

 境内の入場順は毎年、第1番が氏子総代を務める地区。第2番以降はくじ引きで決まる。今年は第1番が大原上田。その後に大原中、高野、大久保、大原市場、鳥居野、神、相模、櫟野と続く。

 いよいよ花奪いの始まりだ。第1番の花傘が笛の合図で石段を駆け下りて男衆の間へ。すると、一斉に青竹による集中攻撃を始まった。

 大鳥神社の祭神は素盞鳴命。花奪いは素盞鳴命のヤマタノオロチ退治に由来するという。花傘は数往復する間に竹の棒でしこたま叩かれ、「そこまで」という笛の合図で観客側に倒された。

 赤い造花「真花」には無病息災や家内安全のご利益があるという。参拝者たちは花傘が倒れるやいなや、我先に駆け寄り競って花を奪い合っていた。

 祭りを支えるのは旧大原村の氏子地域9地区。花傘は各地区から6基ずつほど奉納された。9地区を合わせると50基ほどに。

 花奪いは1時間20分ほど繰り返し行われた。この間に抱えきれないほどの花をゲットした人もいた。

 楼門前で花奪いが繰り広げられる最中、本殿や拝殿の前では子どもたちによって太鼓踊りが奉納された。輪になって和太鼓を打ち鳴らし、「インヨーソーライ(陰陽栄)」の掛け声で輪の中央で太鼓の胴をぶつけ合っていた。

 踊り子はかつて男児に限られていたそうだが、今は女児も加わった地区も見られた。踊り終えた子どもたちにはアイスクリームなどが配られ、親御さんが「お疲れ」というように団扇であおいでいた。

 花奪いの後は氏子総代や役員による楼門からの粽(ちまき)投げ。笹の葉でくるまれた粽の中には当たり券も。当たると酒樽がプレゼントされる。

 当たりの確率は結構高かったようだ。この男性は仲間5人で手にした10個ほどの粽の中に当たり券が4枚も入っていた、と見せてくれた。別の男性は一人で3つの酒樽を持っていた。

 粽神事に続いて神輿の渡御が行われた。担ぐのは花奪いで奮闘した白装束の男衆。汗だくになりながら「ワッショイ、ワッショイ」とお旅所まで担ぎ、獅子頭が沿道の人たちの頭を噛んでいた。

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〈祇園祭神幸祭〉 神輿3基、勇壮に御旅所へ渡御

2024年07月18日 | 祭り

【「ホイット、ホイット」沿道からも手拍子と掛け声】

 京都の夏を雅に彩る祇園祭の前祭(さきまつり)が17日都大路で華やかに繰り広げられた。日中の山鉾巡行に続く神幸祭の神事の後、夕刻からは四条通の御旅所まで神輿3基の渡御が行われた。

 神輿渡御は午後6時から。八坂神社のシンボル、朱色の西門の石段下に神輿3基が勢揃いし出発式が行われる。石段はその様子を上の方から見物できる“特等席”。2時間前には多くの人で既に埋め尽くされ、境内も身動きがままならないほどごった返していた。

 午後6時すぎ、神輿を先導する行列がやって来た。先頭は「豊園泉正寺榊」。神様を遷した神輿の進路を清める役割を担う。かつては3基の神輿にそれぞれ榊台があったが、今では泉正寺町の1基だけになったという。

 その後、白馬に乗ってやって来たのは綾戸國中神社のお稚児さん。胸の前に馬の首の彫り物「駒形」を掲げており「久世駒形稚児」と呼ばれる。

 盾や矛など神宝を掲げて進むのは八坂神社のお膝元祇園町の氏子組織「宮本組」。今年は「志丁組」というボランティア組織も立ち上げ、参加者を公募した。神宝奉持列に続いて神輿が「三若神輿会」の旗を靡かせながら現れた。

 この神輿は「中御座神輿」と呼ばれ、八坂神社の主祭神素戔鳴尊が乗る。四若神輿会の「東御座神輿」は櫛稲田姫命、錦神輿会の「西御座」は八柱御子神。重さは2~3トンもあるそうだ。

 石段下を出発した各神輿はそれぞれの順路で氏子地域を巡行。途中で神輿を高く持ち上げる“差し上げ”などを披露した。

 神輿は3時間ほどかけて御旅所へ。威勢のいい「ホイット、ホイット」という掛け声と「シャン、シャン」という神輿の鈴の音が夜遅くまで鳴り響いた。神輿は後祭の山鉾巡行が行われる1週間後の24日に神社へ戻る。

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〈石上神宮〉 国宝の拝殿で「神剣渡御祭」と「御田植神事」

2024年07月01日 | 祭り

【神田神社への渡御行列は6年連続中止に!】

 日本最古の神社の一つといわれる奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮で、6月30日「神剣渡御祭」が営まれた。末社神田(こうだ)神社へのお渡り(渡御行列)は梅雨空のため中止となり、一連の神事は全て国宝の拝殿内で執り行われた。

 お渡りは神剣渡御祭の一番の見どころ。太鼓を「でんでん」と打ち鳴らしながら進むため「でんでん祭」とも呼ばれる。この日の天候は「雨のちくもり」で、神事が始まる午後1時ごろには薄日も差していた。だが「諸準備の都合もあって」結局中止に。これでお渡りは6年連続中止となった。(写真は拝殿に参進する宮司ら神職)

 拝殿では雅楽が奏される中、まず「本宮祭」が営まれた。お祓いに続き、お供え物を捧げる献饌、祝詞奏上、玉串奉奠┄┄。

 神事は粛々と進んだ。拝殿には多くの一般参拝者も自由に上がって参列し、厳かな神事を見守っていた。

 拝殿前の境内にも多くの参拝者。神事の節々に神前に向かって低頭していた。

 本宮祭が終わると、続いて「神田神社例祭」。拝殿内に設けられた遥拝所に神剣を供えて神事が執り行われた。

 この後は五穀豊穣を祈る御田植神事。拝殿内を神田に見立て、作男と牛役が田起こしなどの所作をユーモラスに演じた。途中、お疲れ気味の牛役を、脇に控えていた早乙女が立ち上がって励ます一幕も。

 田んぼが整うと、早乙女3人の登場。早苗を一つ一つ丁寧に並べていった。その苗は本物の稲。神事が終わると、参拝者たちは競って苗を手に取り持ち帰っていた。

 この日は半年間の罪⋅穢れを祓い清める「夏越の大祓式」も夕方から行われた。

 社務所前の参道には高さ2mほどの大きな茅の輪。神職らが古歌を唱えながら輪をくぐった。「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」

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〈奈良⋅菅原天満宮〉 5年ぶりに「鷽替え神事」

2024年06月26日 | 祭り

【「誕生祭」に続き約110人が鷽のお守りを次々に交換】

 奈良市菅原東の菅原天満宮で6月25日、祭神菅原道真公の「誕生祭」と「鷽(うそ)替え神事」が執り行われた。鷽替えの開催は新型コロナ禍もあって実に5年ぶり。約110人の参拝者が太鼓に合わせ「替えましょ、替えましょ」と木彫りの鷽のお守りを交換しあった。

 鷽替え神事は九州の大宰府に流された道真が蜂の大群に襲われたとき、鳥の鷽に救われたという故事に因む。鷽は嘘(うそ)に通じ、災厄⋅悪事をうそとし吉に転じてくれるとして、道真を祀る各地の天満宮で行われている。

 神事の開催時期は年の始めの1月というところが多い。太宰府天満宮も大阪天満宮も道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)も1月に斎行。ただ、この菅原天満宮では古くから道真の誕生日(陰暦6月25日)に合わせて行ってきた。

 鷽替えは午前11時、中村眞一宮司の挨拶に続いてスタート。太鼓の「ドン⋅ドン⋅ドン」という音に合わせ「替えましょ、替えましょ」と鷽のお守りが入った箱の取り替えっこが始まった。

 お守りの交換は回数が多ければ多いほど厄が払われ幸運に恵まれるといわれる。そのため参拝者は次々に相手を見つけては取り替えていた。

 太鼓が鳴り止むと、交換は一旦終了。そのたびに抽選会が行われた。当たりくじを引くのは中村宮司。くじの番号と箱の番号が一致した当選者には梅茶や毛筆、奈良⋅特産赤膚焼の焼き物などが贈られた。

 お守りの交換と抽選は30分余り繰り返された。そして抽選も最後の特別賞1本を残すだけに。景品は高さが30㎝ほどもある「大鷽」。拝殿前の三方の上に飾られていた一品だ。

 「63」。番号が読み上げられると、どっと歓声が起きた。幸運の主は73歳の男性だった。大鷽と副賞の抹茶茶碗を受け取った男性はその後、報道陣に囲まれ取材に応じていた。

 この日、境内にはしばしは「ピ、ピ、ピーッ」という鷽の鳴き声が流された。まるで人の口笛のようなやや甲高い鳴き声だった。鷽の「ウソ」の名前も古く口笛を意味した「オソ」が語源らしい。(上の写真は天満宮の東約100mの住宅街にある「菅原道真産湯の池」と伝わる遺跡)

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〈近江神宮〉 「時の記念日」恒例の「漏刻祭」

2024年06月11日 | 祭り

【時計関係者参列し、時計の献納や舞楽の奉納】

 6月10日は「時の記念日」。約1350年前、671年のこの日、天智天皇が近江大津宮に漏刻台(水時計)を設け時報を始めたとの故事に因む。天智天皇を祭神として祀る近江神宮(大津市)で10日、時計メーカーなど関係者が参列するなか恒例の「漏刻祭」が開かれた。

 祭典が始まったのは午前11時すぎ。王朝装束を身に着け“漏刻博士”などに扮した3人の時計関係者や、采女役のびわ湖大津観光大使の女性ら奉仕者が列をつくって拝殿の石段を上ってきた。

 修祓(しゅばつ)に続いて網谷道弘宮司による本殿の御扉開き、祝詞奏上┄┄。神事が粛々と進む。この後、いよいよ見どころ時計の献納だ。

 先頭は献納目録を捧げもつ”漏刻博士“。その後ろに采女4人が続く。献納台に載っているのは最新の腕時計や置き時計など。

 采女たちはやや緊張の面持ちで本殿の石段を上っていった。観光大使の2人は4月に就任したばかり。2人とも大津市在住の立命館大学の学生さんだ。

 この後、本殿と拝殿の間に設けられた仮設舞台で舞楽が奉納された。拝殿では招待者の後ろ側に一般の参拝者が詰め掛け、立錐の余地がないほど。

 “時の祖神”を祀るだけに、境内には様々な時計が設置されている。最も注目を集めていたのが「古代火時計」(ロレックス社寄贈)。龍の背で巨大な線香が煙を上げていた。銅球が等間隔で糸で吊り下げられており、線香の火が糸を焼き切ると、銅球が落ちて下のドラが鳴る仕組みだ。球の落下はおよそ2時間おきとのこと。

 「時計館⋅宝物館」のそばには漏刻の模型も。こちらは1964年に日本⋅スイス修交100周年を記念して、オメガ社の総代理店から贈られた。

 「時計館⋅宝物館」は漏刻祭のこの日、入館無料だった(通常大人300円)。1階の時計館には古い大名時計や高松宮家寄贈品などとともに、過去3年の漏刻祭での献納目録と献納時計も展示されていた。

 帰り際、びわ湖大津観光大使と遭遇、早速写真を撮らせてもらった。右が片山桃花さん、左が平良優さん(この春高校を卒業し大学生になったばかり)。お二人とも大役を終えた安堵からか、笑顔満開の柔和な表情が印象的だった。

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