く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ヒメヒオウギズイセン(モントブレチア)>鮮やかな朱の花 繁殖力強く野生化

2012年06月30日 | 花の四季

【祇園祭の花「ヒオウギ」とは無縁】

 植えたり種をまいたりした覚えもないのに、1年前、突然花が咲いてびっくり。当初はてっきり「ヒオウギ」とばかり思っていた。ところが調べてみて全く別物のヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)と判明。しかも繁殖力が旺盛で雑草扱いされることも多く、地域によっては栽培そのものが禁止されていることも分かった。それでも、フリージャのような鮮やかな朱色の花は、彩りの少ない梅雨時の庭にアクセントをつけてくれる。

 アヤメ科クロコスミア属。南アフリカ原産のヒオウギズイセンとヒメトウショウブ(姫唐菖蒲)の交配種といわれ、日本には明治時代中頃、ヨーロッパから観賞用として入ってきた。旧属名の「モントブレチア」が通称名として今でも使われている。花や葉の形がヒオウギとスイセンに似ていることからヒメヒオウギズイセンの名があるが、ヒオウギの花にある斑点がなく、剣のような葉もヒオウギに比べると幅が狭い。同じアヤメ科にヒオウギを小ぶりにした「ヒメヒオウギ(姫檜扇)」があるが、これは南アフリカ原産の球根植物で、ヒオウギやヒメヒオウギズイセンとは全く別物という。あぁ、ややこしい!

 ヒオウギは日本、中国など東アジア原産で、同じアヤメ科だがヒオウギ属で1属1種。扇状に広がる葉がヒノキの薄い板で作った扇に似ていたことから「檜扇」の名が付いた。別名に「射干」「烏扇」など。関西では魔除けの花として祭りに欠かせず、とりわけ京都では「祇園祭の花」として期間中、山鉾町の玄関や軒先に飾られたり生けられたりする。真っ黒な種子は「射干玉(ぬばたま)」「烏羽玉(うばたま)」と呼ばれ「黒髪・夢・夜・雲・暗き」などに掛かる枕詞にもなっている。ヒオウギという花が万葉の時代からいかに大切にされてきたかが分かる。

 一方、外から日本にやって来たヒメヒオウギズイセンは地下茎をどんどん伸ばし野生化して、今ではあまり見向きもされない存在に。それどころか、7年前には佐賀県から「環境の保全と創造に関する条例」に基づき、キショウブやホテイアオイなどとともに〝移入規制種〟に指定された。県内全域で植栽や種子をまくのは、まかりならぬというわけだ。それにしても花が可愛いからと遠く日本まで連れてこられ、その果てには生態系のバランスを壊すからと邪魔者扱い。ヒメヒオウギズイセンには少し気の毒に思えるのだが……。

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<BOOK> 「イギリス矛盾の力 進化し続ける政治経済システム」

2012年06月29日 | BOOK

【岐部秀光著、日本経済新聞出版社刊】

 長い低迷からかつて「英国病」「欧州の病人」と揶揄されたイギリスが、今また国際社会の中で存在感を発揮している。一方、わが日本はバブル崩壊以降すっかり元気がなくなり、このままでは「失われた20年」どころか「失われた30年」になるのではという閉塞感に覆われている。EU(欧州連合)の中心メンバーなのに共通通貨ユーロを使わずポンドに固執する伝統国家イギリス。「ゆりかごから墓場まで」といわれる福祉先進国でもあり、伝統と革新が共存する中でしたたかに変貌を遂げてきた。ロンドンなどでの長い取材活動を基に多くの事例を盛り込んだ本書は、「国のかたち」がなお定まらない日本の先行きを考えるうえでも参考になりそうだ。

    

 序章の「不思議の国イギリス」に続き、4つの章で政治、外交、経済、社会各分野での最新の動向を紹介。最後の第5章を「沈まぬ国の秘密―日本が学ぶべきこと」で結ぶ。イギリスでは若者が政治家を志すハードルが低く、日本のような地盤・看板・かばんは不要。「代わりに求められるのは政策を論理的に説明するプレゼンテーション能力と討論の技能、それに若さ」という。首相に就任した年齢をみると、サッチャー53、メージャー47、ブレア43、ブラウン56、そして現在のキャメロン43。改めて英政界トップの「若さ」に驚かされる。

 イギリス経済は通貨危機に見舞われた1992年のマイナス成長を最後に、日本とは逆に拡大期に入った。小さな島国がグローバル化に成功した背景を英エコノミスト誌編集長に聞くと、「外国人が来てイギリス企業を買いたいと言ったときに全く気にしない開放性だ」という答えが返ってきたという。外資の進出を〝侵略〟と受け止めがちな日本とは実に対照的だ。

 「イギリス企業は外資に買収されたり淘汰されたりして姿を消したかもしれないが、〝貸し座敷〟としてのイギリスそのものは繁栄を続けている」。いわゆる〝ウィンブルドン現象〟だ。今年も今ちょうど大会開催中だが、地元イギリスから男子は70年以上、女子も30年以上優勝者が出ていない。だが世界中から一流プレーヤーやテニス関係者、ファンが詰め掛け、大会そのものは大盛況である。イギリスの開放性は経済分野にとどまらない。サッカー・プレミアリーグでも2010年末現在20チーム中10チームのオーナーが外国人や外資という。「移民との共存に取り組んできたイギリスはもともと〝異質な要素〟に寛容だ」。

 「イギリスは状況に応じて自在に姿を変えることのできる〝カメレオン国家〟」ともいう。輝きを失わないのは多面性と変わり身の早さにあるというわけだ。では日本はどうか? 「日本の多くの問題は柔軟性が欠如していることが原因。終身雇用と年功序列に支えられた日本の硬直的なピラミッド社会では、大学入試や就職試験などでの一度の失敗が致命的と受け止められかねない。また労働市場に流動性がないことが衰退産業から成長産業への人の移動を阻んでいる」とみる。

 著者は日本が学ぶべき点として、このほかに①平等からフェアネス(公明正大)へ②トップダウンからボトムアップへ③失敗を前提にする④異質を受け入れる――などを挙げる。「失敗を許さない日本のシステムの硬直性と、失敗が前提のイギリスの柔軟性の違いは大きい。イギリス流失敗前提主義に立てば、計画立案に多大な時間をかけずに決断を下せるし、次善の策の検討や再チャレンジに時間を割くこともできる」という。異質の受け入れについては「異質な者を排除した凡人の集団は絶滅をただ待つほかない」。なかなか手厳しいが、小さな島国がグローバル化を果たすには外資や外国人労働者、そして海外からの難民の積極的な受け入れも避けては通れないということだろう。

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<クチナシ(梔子)> 黒人女性歌手ビリー・ホリデイも愛した香気漂う白花

2012年06月28日 | 花の四季

【名前の由来に諸説、有力な「口無し」説】

 アカネ科。日本、中国、インドシナ半島などに分布し、風車のような白い6弁花のほか八重咲きのものもある。大輪で八重咲きのオオヤエクチナシ、鉢植えに向いた矮性のコクチナシ、葉の先端が丸く花が小さいマルバクチナシなどがある。熊本市黒髪の立田山ヤエクチナシ自生地は国の天然記念物に指定されている。

  学名は「ガーデニア・ジャスミノイデス」。ガーデニアは「庭」の意味ではなく、米国の植物学者ガーデンの名前に由来する。英名も「ケープ・ジャスミン」というようにジャスミンに似た甘い芳香を放つ。特に夜半で多湿の時ほどよく匂うという。「ケープ(喜望峰)」と付いているのは最初、南アフリカ原産と誤ったためらしい。漢名は「梔子(しし)」または「巵子」。巵は酒などを入れる容器で、花の後の実がその形に似ていることによるという。

 和名クチナシの由来には諸説あるが、有力なのが「口無し説」。実が黄色く熟しても裂開しないためという説だ。このほか黄色い実を果実のナシ、その先端に残る萼(ガク)を鳥の嘴(くちばし)に見立てた「口梨説」や「朽梨説」から、清楚な花と香気から「無言の美」を意味するのではないかといった説まである。クチナシには天敵がいる。スズメガの一種オオスカシバの幼虫。そのアオムシが葉の色にそっくりなため、油断すると葉を全部食べ尽くし、株が丸坊主になることも少なくない。

 熟した実は「クロシン」という色素を含み、古くから染料や薬用、食品の着色料などとして利用されてきた。奈良県橿原市はそのクチナシを「市の花」に指定している。万葉の昔から大和三山の一つ、耳成山に群生していたといわれ、古代に「クチナシ染め」が珍重されていたことによる。静岡県湖西市や埼玉県八瀬市もクチナシを市の花に指定している。

   

 20世紀を代表するジャズ歌手の1人、ビリー・ホリデイ(1915~59年)はクチナシをこよなく愛した。ジャズピアニストのデューク・エリントンと共演し、白人オーケストラと初めて共演した黒人女性歌手。「Lady Day(レディ・デイ)」と呼ばれたビリーは舞台に上がる時、必ず白いクチナシの花を髪飾りに使った。手元にある1枚のビリーのCDジャケット(上の写真)でも、2輪のクチナシで髪を飾っている。人種差別に遭いながら歌い続け、麻薬に溺れて44年の波乱の人生を閉じたビリー。そのビリーの心を唯一癒したのが、クチナシの花だったのかもしれない。

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<三重県桑名市> 六華苑、多度大社、多度峡、安永餅、焼き蛤…

2012年06月27日 | 旅・想い出写真館

     

「上げ馬神事」で有名な多度大社の神馬と国の重文に指定されている「六華苑」

 

宝暦治水で犠牲になった薩摩義士の墓所(海蔵寺)と夏は天然のプールになる多度峡 

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<タイサンボク(泰山木)> 梅雨空に映える大輪の白花

2012年06月26日 | 花の四季

【名も姿も東洋的だが、原産地は北米南東部】

 モクレン科の常緑樹。梅雨の季節に、直径が20cmほどもあるお椀形の白い花を上向けにつける。花の大きさは国内最大級で、芳香を放つ。葉も大きく、分厚くて光沢がある。樹高は10~20mにも。樹形や花、葉の大きさから「大山木」の別名を持つが、「泰山木」と表記されることが多い。

 泰山といえば中国・山東省にある世界遺産の霊山が有名。そのため和名の「泰山木」は漢名から来ていると思っていた。ところが漢名は全く別の「洋玉蘭」または「荷花玉蘭」。原産地は中国ではなく北米東南部だった。日本に入ってきたのは1873年(明治6年)。その6年後、来日したグラント将軍(第18代米国大統領)の夫人が上野公園に植樹したホソバタイサンボク(グラント玉蘭)が、今も元気に毎年花をつけているという。

 「泰山木」の名称は昭和初期に東京の小石川植物園で園芸主任を務めていた人が初めて使ったといわれる。その優雅で雄大な樹形から、中国の泰山を連想して名付けたのだろうか。今となってはそれも不明だ。牧野富太郎博士は花の形を大きな盃に見立てて「大盞木」の字を充てた。タイサンボクはこのほか「白蓮木」「常盤木蓮」などの別名も持つ。

 学名は「マグノリア・グランディフローラ」。マグノリアは18世紀のフランスの植物学者の名前に由来、グランディフローラは「大きな花」を意味する。タイサンボクは米国南部を象徴する花で、ミシシッピ州の州花と州木、ルイジアナ州の州花になっている。2005年8月のハリケーン・カトリーナは米東南部に大災害をもたらしたが、自生していたタイサンボクも大きな被害に遭ったそうだ。日本国内では福岡県直方市がタイサンボクをヤマボウシとともに市の木に指定している。

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<「A-Winds」夏の演奏会> 梅雨空を吹き飛ばす吹奏楽の響き

2012年06月25日 | 音楽

【結成14年目・定演37回目、関西を代表するアマチュア吹奏楽団に】

 奈良県のアマチュア吹奏楽団「A-Winds(エーウインズ)奈良アマチュアウィンドオーケストラ」の「夏の演奏会」が24日、やまと郡山城ホールで開かれた。1999年の結成から今年で14年目。毎年、春夏秋の3回定期演奏会を行っており今回で37回目。この日も多くの熱心なファンが大ホールを埋め尽くし、力強く爽やかな吹奏楽の醍醐味を存分に味わった。

  

 「A-Winds」の団員数は現在46人(この日は別にエキストラ8人が参加)。過半数を女性が占める。結成直後の2000年には奈良県大会でいきなり金賞を受賞し、以来、県内のトップ吹奏楽団として活躍。最近では関西吹奏楽コンクールに県代表として出場して銀賞や銅賞を受賞するなど、めきめきと力をつけている。中でも女性だけで構成するパーカッション部門は打楽器7重奏が全日本アンサンブルコンテストで銀賞を獲得するなど折り紙付き。この日も7人の女性が息の合った演奏でめりはりをつけてくれた。

 ホールでの演奏に先駆け毎回ロビーコンサートを行う。クラリネットや打楽器などのグループ演奏をより近い距離で聴けるため、いつもなかなか好評だ。演奏会は2部構成で、第1部はマーチ風の「ザ・バンドワゴン」(フィリップ・スパーク作曲)で開幕した。続いて「美術館の一日」(ジェームス・カーナウ作曲)。美術館の絵画や彫刻を題材にした5楽章構成で、第3楽章の「肖像画」(マネの「笛を吹く少年」)ではフルートなどの木管が活躍した。ここまでは団員指揮者の魚谷昌克氏が指揮を執った。

 1部最後の「ウィズ・ハート・アンド・ヴォイス」(キングハム作曲)からは客演の吉崎直之氏が指揮台に上がった。奈良県内外の吹奏楽団、交響楽団、合唱団などを指導する重鎮。関西の主要オーケストラにトランペッターとして客演として招かれるなど、プロの演奏家としても活躍している。この日もいつもながらの躍動感にあふれた動きでメンバーの集中力を高める見事な指揮ぶりを見せてくれた。

 「ウィズ・ハート・アンド・ヴォイス」は米国ミネソタ州の高校の委嘱作品ということもあって、青春賛歌風の爽やかな演奏だった。第2部の「吹奏楽のための綺想曲じゅげむ」(足立正作曲)は今年度の全日本吹奏楽コンクールの課題曲の一つ。さまざまな楽器が「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ……」と唱えているようで実に愉快だった。最後の「交響詩モンタニャールの詩」(ヤン・ヴァン・テル・ロースト作曲)にはピアノやコントラバスも加わって、アルプスの自然の厳しさを描写し叙情的なメロディーで愛を歌い上げた。アンコール曲はおなじみの「ラデツキー行進曲」(ヨハン・シュトラウス作曲)。会場内の拍手に合わせた演奏で最後を締めくくった。

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<奈良の〝僧房酒〟>技術革新で誕生 興福寺などお寺の貴重な財源に!

2012年06月24日 | 考古・歴史

【奈良大学公開講座「奈良の酒造り」】

 奈良大学で23日、「奈良の酒造り」をテーマにした公開講座があった。講師は清酒「春鹿」で有名な今西清兵衛商店(奈良市)の今西清悟会長。奈良日仏協会会長も務める文化人だ。「漫談を聞くようなつもりで気楽に聞いて」という言葉で始まった講義は、ユーモアを交えながら日本酒発祥の「奈良酒」の歴史を分かりやすく解説してくれた。以下はその要旨。

 酒造りの歴史は古い。日本書紀の神代の巻にはスサノオノミコトが8つの甕を酒で満たし、ヤマタノオロチに飲ませて退治する場面が出てくる。平城京でも造酒司(みきのつかさ)という役所が設けられ、盛んに酒造りが行われた。平城京からは酒造用の井戸の跡も発掘されている。酒造の目的は祭祀や外交(渡来人の接待)など。一般の民衆は飲酒を禁じられていたが、平城京で働く役人は例外だった。〝役人天国〟は奈良時代からあったわけだ。

 当時の酒造法は主に鰮(魚偏を酉偏に。読みは「しおり」)方式。蒸し米と米麹、水で最初の仕込みを行い、得られた薄い酒にまた蒸し米、米麹を仕込んで発酵させる。これを4回繰り返して高濃度の酒を造る。平城京で本格化した朝廷の酒造りは都が京に移っても続けられた。一方、南都の寺は官寺として待遇(収入)が減少、大勢の学問僧や僧兵、雑務に携わる寺人らを養うために、酒を大量に造って一般大衆への販売を始めた。これが「僧坊酒」の始まりで、興福寺やその末寺が積極的に取り組んだが、中でも正暦寺で造られた「菩提泉」は最高の美酒といわれた。

 僧坊酒はそれまでの酒造法を大きく改めた。従来は玄米を使って仕込んだが、それを精白米に切り替えた。これを諸白(もろはく)造りと呼ぶ。同時に酘(とう)方式という画期的な方法を編み出した。まず少量の蒸し米、麹、生米、水で酵母培養基(菩提もと)を造り、それを母体にして3回に分けて蒸し米、麹、水を加えていく。この醸造方法は今日の日本酒醸造法の根幹を成す。フランスのシャンパンもキリスト教のベネディクト会の修道士によって画期的な方法で造り出された。その人の名は「ドン・ペリニヨン」。洋の東西で、お坊さんが酒造りの技を編み出したところがおもしろい。

 寺での酒造りは次第に民間に広がっていく。興福寺塔頭の多聞院日記(1478~1618年)にも、興福寺の寺男が請われて酒造業者の指導に活躍する様子などが記されている。僧坊酒と酒屋は最初のうちは共存していたが、次第に酒屋の勢いが増す。隆盛を極めた奈良酒だが、江戸には陸路を馬で運ぶしかなかった。流通コストの面で神戸の港から船で大量に運ぶ灘や伊丹の酒にはかなわず、日本第一の名酒の地位を明け渡すしかなかった。

 江戸に送られた酒は「江戸下り酒」と呼ばれた。上方から江戸に下っていくわけである。下り酒は品質の良い酒。一方、関東周辺の酒はうまくないため「下らない酒」といわれた。そこから価値のないことやつまらないことを意味する「下らない」という言葉が生まれた。ところがJRはいつの間にか「下り」を「上り」に変えてしまった。それによって言葉の文化を破壊したわけである。本日は下らない話を最後まで聞いていただいてありがとう。

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<ザクロ(石榴)>実は豊穣・子孫繁栄のシンボル スペイン国旗の紋章にも

2012年06月23日 | 花の四季

【「紅一点」は中国の「石榴の詩」に由来】

 原産地はイランやアフガニスタンなどの西南アジア。日本には中国経由で平安時代初期の10世紀ごろにはすでに渡ってきていたらしい。日本最古の薬物辞典といわれる「本草和名(ほんぞうわみょう)」に、ザクロは「安石榴、和名佐久呂」として出てくる。中国では紀元前2世紀の漢時代、武帝の命で西域に派遣された使者が当時安石国と呼ばれたペルシャから種子を持ち帰ってきた。瘤(こぶ)のような実の形から当初「安石瘤」と呼ばれ、これが変化し略されて「石榴」(または柘榴)になったという。

 ザクロと人間のつきあいは有史以前にさかのぼるらしい。古代エジプトのツタンカーメン王の墓からはザクロをモチーフにデザインされた埋葬品が多く見つかった。紀元前5世紀の古代ギリシャの医学者、ヒポクラテスの書物にもザクロの効能が書き記されている。スペイン国旗にはザクロが中央の下の方に小さな紋章として描かれている。アルハンブラ宮殿で有名な南部の都市「グラナダ」という地名はもともとスペイン語で「ザクロ」を意味するという。ザクロはスペイン最後のイスラム教国グラナダ王国(1238~1492年)のシンボルだった。カスタネットはスペイン舞踊のフラメンコに欠かせないが、グラナディザクロの木)はその高級素材にもなっている。

 男性陣の中の唯一の女性を指す「紅一点」の紅はザクロの花のこと。11世紀の中国・宋時代の詩人、王安石が作った「石榴の詩」の一節「万緑叢中紅一点」に由来する。宝石のガーネット(1月の誕生石)の別名は「ザクロ石」。色や形、光沢などがザクロの実に似ていることによる。ザクロは粒状の実を無数につけるため豊穣や子孫繁栄を象徴する果物ともいわれる。

 安産や子どもの守り神、鬼子母神は左手で子どもを抱き、右手に魔除けの吉祥果ザクロを持つ姿で表現されることが多い。鬼神はインドで訶梨帝母(かりていも)と呼ばれていたころ、近隣の子どもをさらって食べるため恐れられていた。釈迦は子どもを奪われた親の悲しみを教えるため、鬼神が一番かわいがっていた末の子を隠して改心させた。その際、子どもを食べないという約束の代わりにザクロを与えたともいう。そんな言い伝えもあって、鬼子母神の縁日にザクロを供えたり、東京の雑司が谷や入谷の鬼子母神のように、絵馬の図柄にザクロを採用しているところも少なくない。

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<BOOK> 「ポックリ死ぬためのコツ 大往生できる人の7つの習慣」

2012年06月22日 | BOOK

【佐藤琢磨著・佐々木英忠監修、アスペクト文庫】

 人生の最期ぐらい、家族や周りの人に迷惑をかけないでポックリ往生したい――。誰もがそう願っているに違いない。「ピンピンコロリ」の頭文字をとって「PPK」という言葉も一時はやった。ではポックリ往くにはどうしたらいいの? 著者は東北大学医学部老年科で博士号を取得した医学博士。「ポックリ死ねる人、死ねない人」という著書もある。

    

 本題に入る前に「ポックリ」という言葉について。実は浄土宗の「保久利」が語源という。功徳を積んだ人が亡くなると、阿弥陀様がお迎えに来て、浄土で永久にご利益を保ってくださる――。保久利にはそんな教えが込められている。その「保久利と逝く」が「ポックリ死ぬ」に変化したというのだ。知らなかった! ということは生前に功徳を積んでいない人は、ポックリ死はかなわないということ?

 死に方には若くして事故や病気で亡くなる場合を除き、①脳が体より先に衰える②体が脳より先に衰える③脳と体が同じように衰える――の3つに大別されるという。①は認知症などの場合で症状が進むと徘徊などで家族に負担がかかる。②は癌や心臓疾患など病気によるもので、体が思うように動かないことの苛立ちや苦しみ、家族に迷惑をかけているという申し訳なさで、本人がつらい思いをする。ポックリ死につながることが多いのは③のケースで、健康で長生きし、体調が悪くなって比較的短期間のうちに苦しまずにコロリと他界できる。

 では悲願の「コロリ往生」を遂げたといわれる漂泊の詩人、種田山頭火はどれにあてはまるの? いつもの大酒を飲んで、いびきをかいて寝たままあの世へ旅立ってしまった。享年57歳。①でもないし②にもあてはまらない。著者は「ポックリ死」と「突然死」を混同している人が多いと指摘する。ポックリ死は本人に苦しみがなく、家族にも大往生を看取った満足感や達成感が残る。一方、心筋梗塞などによる突然死は本人にほぼ苦しみがあり、家族にも突然の驚きや深い悲しみを与える。山頭火の死因は心臓麻痺といわれている。ということは、ポックリ死ではなくて突然死ということ?

 ポックリ死しやすい人は「ストレスをためないマイペース型の性格の人に多い」。本人も家族も納得のいくポックリ死のためには「早いうちからの準備が大切」という。ポックリ死に必要な習慣として①長生きするように心がける②(食欲・性欲・睡眠などを司る)古脳を鍛える③下半身を鍛える④バランスのよい食事を摂る⑤疲労の管理に注意する⑥がん検診や健康診断を受ける⑦頑張りすぎないようにする――を挙げる。古脳を鍛えるには早寝・早起き、3食の摂取、身だしなみ、趣味、積極的なコミュニケーションが有効という。

 ただ、これまでの診療経験から「ポックリ死といえるような死に方は多く見積もっても5%以下」。えっ! そんなに低いの。じゃ、頼りはやっぱり「ポックリ寺」? 奈良だったら斑鳩の吉田寺(きちでんじ)のご本尊が霊験あらたかといわれているけど……。ホームページにも本尊の前で祈祷を受けると「長患いすることなく阿弥陀如来のお迎えをいただくことができます」。で、祈祷料は? 「当日祈祷はお1人5000円。3日間の別祈祷(1万円)や1週間の特別祈祷(2万円)もあります」。え~っ! それじゃ、もしポックリ死ぬまで毎日祈祷してもらうとしたら一体いくらになるの?

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<アジサイ(紫陽花)> 梅雨の時期を彩る「七変化」

2012年06月21日 | 花の四季

【シーボルト、愛人名にちなんで学名を「オタクサ」に】

 日本原産でユキノシタ科。万葉集にも大伴家持と橘諸兄の2首があるが、不思議なことに古今集や新古今集には1首も詠まれていないという。ようやく平安末期ごろから「よひら」や「四ひら」の名前で登場する。ガクアジサイが母種とされ、大別すると日本アジサイと西洋アジサイに分かれる。

 アジサイの語源は藍色の小さな花が集まったという意味の「集真藍(あづさあい)」といわれる。日本アジサイにはヤマアジサイ、ベニガク、コアジサイ、エゾアジサイ、ヤクシマアジサイ、ツルアジサイ、フイリガクアジサイなどもある。西洋アジサイは中国経由で1790年に英国のキュー植物園に持ち込まれたのが始まり。19世紀に入ってヨーロッパ各国で盛んに品種改良されて赤や白、ピンクなどの大輪の花が誕生、日本に逆輸入された。西洋アジサイの別名「ハイドランジア」はギリシャ語の「ハイドロ(水)」に由来する。最近よく見かけるようになったカシワバアジサイは北米東南部原産。

 花の色が時間の経過とともに薄い色から濃い色へ微妙に変化するため「七変化」や「八仙花」の別名を持つ。花の色は土壌の性質に左右され、一般的に酸性のとき青く、アルカリ性のときに赤くなるが、肥料成分の違いによっても変わるそうだ。窒素が多いと赤色が強くなり、カリが多いと青みを増すという。

 医師で植物学者でもあったシーボルトはアジサイの学名に愛人の「楠本滝(お滝さん)」にちなみ「Otaksa(オタクサ)」と名付けた。牧野富太郎は最初これを長崎の地名と思ったらしい。それが愛人名と分かって「神聖な学名に情婦の名をつけるとはけしからん」とカンカン。ところが、当の牧野博士本人も後に発見した新種の笹に、妻の寿衛子にちなんで「Sasa Suekoana(スエコザザ)」と名付けた。

 これを「学問に私情を差し挟むことは考えもの」と痛烈に批判したのが牧野を恩師と仰いでいたという故中村浩。著書「植物名の由来」の中にこう書き記した。「愛妻や恋人や情婦の名を残しておきたいというのは人情であろうが、後世の人にとっては無縁の人の名を憶えさせられることは全く迷惑なことといわなければならない」。

 

 

    

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<愛媛県西条市>日本名水百選 地下水の自噴井「うちぬき」約2000本

2012年06月20日 | 旅・想い出写真館

【1日の自噴量9万立方メートル、生活・農業・工業用水に】

 

 

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<バレー女子ワールドグランプリ> 予選残り3試合、五輪代表入りへ熾烈な戦い

2012年06月19日 | スポーツ

【大阪大会後の25日にも代表12人発表 大友は?栗原は?】

 ロンドン五輪バレーボール女子の前哨戦、ワールドグランプリは予選ラウンドも22~24日の大阪大会(大阪市中央体育館)の3試合を残すだけ。真鍋監督はワールドGPの狙いを「五輪に出場する12人の絞り込み」とし、これまでの6試合でも控えや出場機会が少なかった選手を積極的に起用してきた。大阪大会直後には代表候補17人の中から12人が発表される予定。大阪大会は代表入りが微妙な選手にとって生き残りをかけた最後のアピールの舞台となる。

 中でも注目されるのがミドルブロッカーの代表選出。五輪世界最終予選では荒木、岩坂、平井の3人が起用され、大友は右膝のけが、井上は肩の故障もあって代表から外れた。この2人は2010年世界選手権での銅メダル獲得に貢献し、経験も実績も豊富なベテラン。世界最終予選で日本は外国勢の高いスパイクとブロックにうまく対応できずに苦戦した。五輪でも高さ対策がカギを握るとみられるだけに、ミドルブロッカーの役割は極めて重要。

【真鍋監督「井上、大友とも持ち味を発揮」】

 大友は第2戦のキューバ戦に先発起用された。試合は1―3で敗れたものの、得意の移動攻撃やブロックなどでチーム最多の16点を挙げ、スパイク決定率も55%と活躍した。結婚―引退―長女出産―復帰―離婚を経験し、一回り大きくなって戻ってきたという印象だ。井上も6戦中4戦でスタメン起用された。代表でのプレーは10年の世界選手権以来。第5戦のプエルトリコ戦後、真鍋監督は「井上、大友は世界最終予選には間に合わなかったが、2人とも順調に回復し持ち味を出してくれている」と評価していた。

 最終予選出場組の平井、岩坂の2人も要所でブロックを決めるなど役割を果たしている。ミドルブロッカー5人のうち、代表入りが確実なのは今のところ荒木だけ。大友、井上のベテラン勢が復活をアピールする中で、誰を代表に選ぶか真鍋監督も頭が痛いところだろう。外国勢への高さ対策としてミドルブロッカーの代表を3人から4人に増やすという選択肢も考えられる。

【栗原、厳しい立場に。山口、石田、新鍋の代表入りは?】

 ウイングスパイカーの世界最終予選メンバーは木村、江畑、山口、狩野、迫田、新鍋の6人だった。代表候補にはベテランの栗原や石田もいる。果たして入れ替えはあるのか? 栗原と石田は第4戦のドミニカ共和国戦にスタメン起用され、石田が12点、栗原が11点を挙げた。真鍋監督が重視するのがスパイクの効果率(決定数から失点数を引き総打数で割った数字)。監督は試合後「栗原の出来は普通。石田は効果率が高く素晴らしい活躍」と微妙に評価は分かれた。しかも栗原は16日のタイ戦で左足首を痛め途中交代。なかなか厳しい立場に追い込まれているが、岩坂とともに身長187cmというチーム一の長身スパイカーだけに代表入りが期待される。

 ウイングスパイカーの中で代表選出が確実なのはエースの木村。爆発力の江畑、バックアタックが武器の迫田、第3戦の韓国戦でチーム最多の20点を挙げた狩野もほぼ間違いないだろう。変幻自在の動きで外国勢から〝忍者〟と嫌がられている山口も捨てがたい。新鍋は6戦中4戦でスタメン起用されてきた。栗原、石田が世界最終予選組の中に割って入ることができるのか? セッターは竹下とサブの中道の2人が代表入りか。守備の要リベロは第1戦から第6戦まで座安が先発起用されてきたが、本命はやはり佐野だろう。五輪への生き残り戦は大阪でいよいよ最終段階を迎える。

【ワールドGP決勝ラウンドは27日から中国・寧波で】ワールドグランプリには16カ国が参加しており、予選ラウンドで9試合を戦う。日本は控え主体の選手起用ということもあって、6試合終わったところで3勝3敗の勝ち点10。22日からの大阪大会の相手はドイツ、トルコ、韓国。決勝ラウンド(中国・寧波、27日~7月1日)には開催国中国と、中国を除く上位5カ国の計6チームが進出する。

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<ダリア> 原産地はメキシコなのに和名は「天竺牡丹」

2012年06月18日 | 花の四季

【品種は3万以上、奈良県が球根生産日本一!】

 キク科ダリア属の球根植物。ダリアの語源はスウェーデンの植物学者アンドレアス・ダールにちなむ。原産地はメキシコやグアテマラなど中南米の高地で、メキシコの国花になっている。日本には天保年間の1840年ごろ、オランダ人によってもたらされた。和名は「天竺牡丹」。名前の「牡丹」は花がボタンに似ていたためということで分かるが、ではなぜ「天竺」(今のインド)? 江戸時代の命名者が天竺から渡来してきたものと勘違いしたのだろうか。

 18世紀にメキシコからヨーロッパに渡り、19世紀に入って各地で品種改良が進められた。その結果、新品種が相次いで生まれ、王侯貴族の間でもブームとなった。フランス皇帝ナポレオンの妻ジョセフィーヌも一時熱中し、社交界で珍しい品種を自慢していたという。品種は今では3万以上といわれる。花の色が多彩なうえ花の形も実に多様。一重のシングル咲き、花びらの縁が反り返った八重のカクタス咲き、球状のポンポン咲き、大輪のショー咲き、平たい花びらが2~3列並ぶアネモネ咲き……。背丈も15cmほどから、皇帝ダリアのように3~5mになるものもある。

 花の期間が長いのもダリアの特徴だ。初春に芽を出して花をつけ、真夏前に切り戻し休ませておくと、秋になってまた花を楽しめる。切り花は仏花や生け花の稽古用のほか、最近ではブライダル需要も増えてきた。ダリアは奈良県の特産品の1つで、球根生産量は日本一という。主な産地は県北東部の山添村や宇陀市榛原区。毎年10月ごろ、ダリア展も開かれている。

 原産地が高地ということもあって、強い日差しとともに涼しい気温を好む。少し寒冷のほうが花の色も鮮やかになるそうだ。このため国内有数のダリア園も東北地方に多い。秋田市の「秋田国際ダリア園」、山形県川西町の「川西ダリア園」、福島県塙町の「湯遊ランドはなわ・ダリア園」……。このうち山形県川西町は町の花にも指定、ダリアによる町おこしに取り組んでいる。

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<BOOK> 「ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか」

2012年06月17日 | BOOK

【田中敏恵著、小学館刊】

 今年の正月頂いた年賀状の中に男性のツーショット写真があった。左隣に見覚えのある若い男性。あっ、ブータン国王だ!「10年前、縁あってロンドンで娘の結婚披露宴にご出席頂き懇親の場を持ちました。愉快で上品な素晴らしい方でした」。写真の下にこう書き添えられていた。ブータンのワンチュク国王は東日本大震災後初の国賓として11月に来日、爽やかな言動で熱狂的なブームを巻き起こしたばかり。国王は10年前、ちょうど英オックスフォード大学に留学中だったらしい。

 大国インドと中国に挟まれたブータン。人口はわずか70万人で、西隣のネパールの40分の1にも満たない。その小さな国が「国民総幸福」という大きな理念を掲げ、世界から注目を集めている。そこからやって来た国王夫妻は被災地福島や京都などを訪れ大きな感動を残した。本書はブータン王室の素顔、日本皇室との交流、国民総幸福のことなどを、写真やエピソードを交えながら紹介している。著者はワンチュク国王の父、第4代国王が譲位を宣言した2006年からこれまでに8回ブータンを訪ね取材を重ねたという。

   

 昨秋の来日は日本ブータン国交樹立25周年を記念したもの。国王夫妻はその1カ月前に結婚したばかりだった。ワンチュク国王31歳、ペマ王妃21歳。当初は昨年5月に国王1人で来日の予定だったが大震災のため延期になっていた。2人の仲睦まじいご様子が印象的だったが、出会いは国王17歳、王妃7歳の時だったそうだ。その時、王妃は「大きくなったらお嫁さんにしてください」と無邪気に話していたという。

 ブータン王室は歴代、親日家として知られる。1989年昭和天皇の大喪の礼に参列した先代国王は帰国後1カ月間喪に服した。ワンチュク国王は英国留学中、自ら「日本ブータン協会」を設立している。来日中、国王は歓迎レセプションで数百人の参加者1人1人と握手し、JICA(国際協力機構)や青年海外協力隊のメンバーとの懇親会では「ブータンのどんな山奥に行っても、日本人ボランティアの方々に出会います」と挨拶。国王の気遣いに参加者はみんな感激していたそうだ。

 国民総幸福は先代国王が初めて提唱した。40年近く前の1976年、国際会議での記者会見の席上「国民総幸福は国民総生産よりも重要である」と発言している。それを一言でいうと「ブータン人として生きることを誇りに思い、人生に充足感を持つこと」。ブータンでは教育費や医療費は無料。「登山永久禁止条例」というものもある。1980年代登山を解禁したところ海外から登山隊が殺到。ネパールのシェルパのような山岳ガイド兼ポーターがいないため農民が動員された。だが登山シーズンが農民にとって大切な農繁期に重なることから不満が続出。条例は農民からの直訴を受けて制定された。寺院の「内部撮影禁止」も国民の祈りの場として、観光資源という認識より重く捉えたための措置という。

 ブータンでは意外なことに離婚率、再婚率が結構高いそうだ。筆者は「消費に関しても恋愛に関しても禁欲的というわけではない。では何が私たちと違うのか。それはやはり『幸福のあり方』ということになるだろう」という。「ブータンでは幼い頃から『隣人の幸福を妬むのではなく、良かったねと褒めましょう』と親に言われて育つ。他者を羨むわけではないから『それに比べて自分は』などと卑下するようなこともない」。チベット仏教の教えによるところも大きいという。ブータンでは家族や親戚の中に必ず1人は僧侶になった人がいる。僧侶は独身・無所有が原則。「僧侶たちの生活が人々の生活のお手本でもあり、価値観に大きく影響を与えている」。

 国民の圧倒的多数が「幸福です」と答えるブータン。だが課題も。国家財政の3割は日本やインドなど他国に依存している。今も南部に5万人いるというネパール系ブータン難民の問題もある。インターネットやテレビ放送の解禁(1999年)で世界中から大量の情報も押し寄せてきた。困難も少なくないが、ブータンにはこれからも国民総幸福という理念を維持・発展させてほしいと思う。

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<ナンテン(南天)> 「難を転じる」縁起植物

2012年06月16日 | 花の四季

【鞍馬の竹伐り会式、魔除けとして小枝を腰に】

 南天は漢名の「南天燭(なんてんしょく)」を略したものといわれる。「南天」はもともと中国の中部以南に自生していたことから、「燭」はその実が燭火(しょっか=ともし火)のように赤いことによる。平安初期に弘法大師(空海)が唐から日本に持ち帰ってきたという説もあるが、それより前の奈良時代編纂の「出雲風土記」に南天燭の表記が出てくる。いずれにしろ、日本には薬用としてかなり早く入っていたということだろう。

 

 メギ科。「難を転じる」といわれる縁起植物で、鬼門に植えるといいという俗信がある。葉には殺菌・防腐効果があり祝儀用の赤飯などに皆敷として使う。以前は米櫃に入れたり、安産を願って床の下に敷いたりしたという。葉は生薬「南天葉」として解熱や健胃、乾燥した実は咳止めに利くそうだ。実が白いナンテンは「シロミナンテン」と呼ばれる。

 ナンテンは京都・鞍馬寺の「竹伐り会式」(毎年6月20日)に欠かせない。僧兵が2組に分かれ大蛇に見立てた青竹を切る速さを競うが、僧兵たちは腰にナンテンの小枝を差す。由岐神社の「鞍馬の火祭り」でも松明を担ぐ若者の腰には魔除けのナンテンの小枝が差される。山梨祇園祭り(袋井市)では御輿渡御の時、天狗様(猿田彦)がナンテンの棒で沿道の人の頭をたたく。たたかれると1年間無病息災に過ごせるという。

 大きく育ったナンテン材は床柱として使わることも。有名なのは金閣寺(鹿苑寺)の茶室「夕桂亭(せっかてい)」。当時の琉球王国(沖縄)から取り寄せたともいわれる。お正月の縁起物ナンテンの出荷量が最も多いのが、夏の「郡上踊り」で知られる岐阜・郡上八幡。「郡上南天」として人気が高く「ふるさと南天まつり」は奥美濃の冬の風物詩にもなっている。

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