く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良県立美術館> 今週のお宝は北斎の『瑞亀図』

2022年08月19日 | 美術

【「美術・解体新書」展、後期展示作を集中鑑賞】

 奈良県立美術館で開催中の企画展「美術・解体新書」の会期(~8/28)も残すところ約10日となった。所蔵品の中から選りすぐりの名品約150点を展示中だが、一部作品は前後期で展示替えが行われた。今回約1カ月ぶりに再訪したのも後期展示作品に絞って鑑賞するため。その中には縁起のいい画題の浮世絵が多く含まれていた。

 この企画展の見どころの一つが、会場入り口正面に週替わりで飾られる“今週のお宝”。これまでに伝雪舟筆『秋冬山水図屏風』、曽我蕭白の『美人図』などが展示されてきたが、第5週目のいま展示中の作品は『富嶽三十六景』などで知られる江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎の『瑞亀図』。泉から亀が現れたのを長命のしるしと白髪の老夫婦が喜んで亀に酒を飲ませる光景がユーモラスに描かれている。画面に「北斎宗理画」と記されていることから、宗理(そうり)の号を用いた北斎30代後半の作品とみられる。

 北斎より少し年長で「美人大首絵」で人気を博した喜多川歌麿の作品は、初夢に見ると縁起がいいといわれる『一富士二鷹三茄子』を展示中。富士と松原を背景に船上の男女と鷹を手に乗せた若者、ナスが入った籠を持つ少年が描かれている。江戸中期の浮世絵師、磯田湖龍斎の『七福神乗宝船』は横約12cm、縦約69cmの縦長の柱絵。七福神信仰は室町時代から広まり、江戸時代になると木版印刷の七福神図が多く制作された。江戸後期の窪俊満の『初鰹図』(写真㊦、部分)は青光りするカツオ一尾の周りに、蜀山人(大田南畝)らが狂歌を書き添えている

 明治時代に活躍した小林清親(1847~1915)は江戸の名所や事件、出来事を多く描き残した。『浜町より写両国大火』は1881年1月に東京の下町を焼き尽くした両国の大火を描いたもの。小林は“最後の浮世絵師”といわれ、光と影を効果的に用いた技法は「光線画」として人気を集めた。後期展示作品の中には東洲斎写楽『市川男女蔵の奴一平』や江戸初期に描かれた美人画『伝吉野太夫画像』なども。館を後にする前、上村松園の『春宵』と竹内栖鳳の六曲屏風『保津川図』=いずれも通期展示作品=をもう一度じっくり観させてもらった。

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<小倉昭和館> 旦過市場の大火災で焼失した老舗映画館

2022年08月13日 | メモ

【10年前ふらっと入って観た『ローマ法王の休日』】

 北九州市に帰省したとき、時間さえあれば立ち寄る市場がある。若松の「ゑびす市場」や小倉の「旦過(たんが)市場」など。昔と変わらないレトロな風景が懐かしく「帰ってきた」との思いを新たにできるからだ。以前、旦過市場を訪れ周辺を歩き回っていたとき小さな映画館に出合った。「えっ、こんな所に映画館?」。上映中のタイトルの一つに『ローマ法王の休日』とあった。オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』をもじったようなタイトルについ導かれて館内へ。確か10年ほど前の2013年のことだった。以来、その映画館「小倉昭和館」のことはすっかり忘れていた。今回の旦過市場の大火災による焼失までは……。(写真は2016年7月に旦過市場で)

 旦過市場は小倉の中心商店街魚町銀天街の延長線上にある古い市場。青果・鮮魚・惣菜などの小さな店が軒を連ね「北九州の台所」として親しまれてきた。ところが今年に入って相次ぎ火難に襲われる。まず4月に新旦過横丁付近から出火し42店を焼失。このとき小倉昭和館はどうにか延焼を免れた。だが、つい先日8月10日夜の火災で猛火にのみ込まれ無残に焼け崩れた。わずか4カ月に2度の「まさか」の大惨事だった。

 小倉昭和館は1939年創業。今月20日には創業83年を記念したイベントも企画していたという。同館は福岡県出身の故高倉健さんをはじめ多くの俳優とも交流があり、手紙やサインなどが残されていた。それらも全て焼失してしまった。今回の火災に伴う報道で昭和館がいかに多くの映画ファンに愛されていたかがよく分かった。同館が苦難を乗り越えて再起し、良質の映画をまた提供してくれる日が訪れることを心から願うばかりだ。

 今回の火災では出火から鎮火までに22時間も要した。焼失面積は前回とほぼ同じ広さの約2000㎡、焼損店舗も約40店に及ぶ。市場を南北に貫くアーケード東側の店舗も被災した。6年前に撮った上の写真の右側中央に「大學堂」という看板の店が見える。ここは地元の大学生たちが運営する交流スペースだが、ここを含め十数店舗が焼損したという。(P.S. 今回の火災での焼失面積は後に3300㎡、焼損店舗は45店と判明。また「大學堂」の1階店舗部分はどうにか延焼を免れていたことも分かった)

 映画『ローマ法王の休日』はその気がないのに選挙で法王に選ばれた枢機卿が失踪してしまうという痛快なコメディーだった。改めてネットで検索すると、イタリア・フランスの2011年の合作映画で、日本では2012年に公開されている。小倉昭和館が二番館だったため翌13年の上映になったのだろう。確か2本立てで、もう1本はロバート・レッドフォードが監督を務めた米国映画『声をかくす人』だったはずだが、残念ながら内容をよく思い出せない。

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<桑名石取祭㊦> 江戸末期建造の祭車も!

2022年08月10日 | 祭り

【花車「堤原」が楼門前に一番乗り】

 石取祭の山車「祭車(さいしゃ)」は終戦間際の1945年7月17日未明の空襲で多くが焼失したという。ただ焼失を免れ建造から100年以上経つ年代ものも。一番古いのが「西舩馬町」の祭車。江戸末期の1856年(安政3年)建造といわれ、桑名市有形民俗文化財に唯一指定されている。他にも「田町」(建造1887年)、「宮北」(1900年)、「西馬道」(1902年)、「羽衣連」(1920年)などが100年を超える。

 「西舩馬町」の祭車をじっくり観賞させてもらった。ただ最古の割には幕類が新しく、車体全体もピカピカ。それもそのはず、5年前に水引幕や胴幕を復元新調し、漆の塗り替えも行ったとのこと。彫刻は名工として名高い三代目立川和三郎冨重の作で、前面の階段脇には2頭の鹿が彫られていた。この祭車以外にも鹿を彫刻した祭車が目立った。春日神社は奈良の春日大社から春日四柱神を勧請合祀している。そのため“神の使い”として鹿を彫った祭車が多いのだろう。他の祭車の彫刻には著名な高村光雲や森丹渓らの作品もあった。

 この祭りでは法被姿の小学生以下の男女を数多く見かけた。祭車が所定の場所に整列すると、ちびっ子たちが次々に太鼓打ちに挑戦していた。中には両親たちが手を取って打ち方を教える場面も。“送り込み”の際も多くの子どもがお囃子を任されていた。ゆっくり進む祭車の後ろで懸命に鉦を叩く女の子が目に留まった。車輪が巨大なだけに小さな女の子の健気な姿が印象に残った。「祭りの伝統を次の世代に確実に伝えたい」。そんな関係者の思いが随所に溢れていた。

 各祭車は午後5時すぎ、1番くじの「堤原」を先頭に待機場所から神社に向けて出発した。江戸前期の1667年創建という青銅の鳥居に達すると、まもなく楼門前で神職や祭事長らによって「渡祭始式(とさいはじめしき)」が執り行われた。「堤原」の祭車には「花車」と赤い文字で書かれた木札。人形の神功皇后も誇らしげだ。花車町は紅白の鏡餅とお神酒を奉納するのが習わしになっているという。

 午後6時半、赤提灯を合図に「堤原」の祭車が楼門の前へ。いよいよ祭りのクライマックス渡祭の開始だ。太鼓と鉦の音が周囲の空気を振動させる。まさに大音響。その祭車の背後では同じ法被姿の子どもたちが前後左右に飛び跳ねながら囃し立てていた。祭車は約8分間隔で入れ替わった。鳥居の下で待機していた次の祭車が「めでた、めでたの若松様よ」と歌いながら楼門前に進む。会場は熱気むんむん。「3年ぶりなので盛り上がりがすごいね」「みんな気合いが入ってる」。隣の熟年夫婦のこんな会話が耳に入ってきた。

 気迫あふれるお囃子が続く中、とりわけ印象的だったのが紋付袴姿で太鼓を打つ男性。腰を落とし見事なばちさばきで打ち込む光景は、まるで『無法松の一生』のような映画の一場面を見ているようだった。楼門前から祭車が去るとき町内の関係者らが100人、200人と後に続いた。どこからこんなに多くの人が、と思うほど次々に溢れ出てきた。渡祭の間、祭車後部の天幕が立ち上がった。そこには鯉や虎、鳳凰、雷神などが刺繍や綴れ織りで表現されていた。曳き回しの際、この天幕は太鼓の上で庇(ひさし)のように横に張り出している。このためよく分からなかったが、渡祭では一般の観客側から図柄がよく見えた。

 石取祭は「日本一やかましい祭り」といわれる。確かに最初は腹に響く太鼓と耳をつんざく鉦の音が轟音のように聞こえた。だが半日あまり音の洪水に身を任せるうち次第に馴染んできたのか、最後の方では5拍子と7拍子が合わさったリズミカルなお囃子がむしろ心地良く聞こえてきた。匠の技が詰まった祭車に、正装姿の風流な“送り込み”の行列、勇壮な太鼓と鉦のお囃子……。実に見どころの多い祭りだった。

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<桑名石取祭㊤> 祭車27台、3年ぶりに曳き回し!

2022年08月09日 | 祭り

【江戸時代から続く“日本一やかましい祭り”】

 三重県桑名市の総鎮守桑名宗社(通称春日神社)の祭礼「石取祭(いしどりまつり)」(重要無形民俗文化財)が8月7~8日に執り行われ、市内は祭り一色に包まれた。“祭車(さいしゃ)”と呼ばれる山車の曳き回しは3年ぶり。この2年間は新型コロナ禍で神社での神事のみとなっていた。本楽(ほんがく)日の8日には祭車27台が旧東海道沿いにずらりと整列した後、列をつくって神社に向け出発した。クライマックスは神社楼門前での“渡祭(とさい)”。一台ずつ順番に乗り入れ、太鼓や鉦を打ち鳴らしてお囃子を奉納すると、大勢の観客から大きな拍手が送られた。

 石取祭は江戸初期に始まったといわれる。祭り名は市内の町屋川(員弁川)の川原で白い栗石を拾って春日神社に奉納することに由来する。8日昼すぎ神社にお参りすると、拝殿の前に「献石 ○○町」と書かれた“献石俵”がいくつも並べられていた。俵の中には7月17日の「川原祓式」で集めた栗石が収められているという。渡祭会場となる楼門周辺にはまだ人影はまばらだったが、実況中継の準備か、テレビ関係者の姿が目立った。

 祭車は小さな前輪1つと大きな後輪2つから成る3輪車。その上に組んだ櫓に下から6・4・2の提灯12張りが立つ。その提灯は電線などを避けるため、下の6・4の間で折れ曲がり、提灯柱全体を90度回転することもできる仕組みになっていた。提灯の代わりに作り物の人形を乗せた祭車も。6月6日の御籤占式(みくじうらないしき)で「花車」と呼ばれる1番くじを引き当てた「堤原」の祭車の上にも神功皇后が飾られている。

 祭車は各地区に1台、計41台ある(このほか石取会館などの2台を含めると43台)。1つの神社の祭礼でこれほど多くの山車が出るのは全国でも珍しい。ただ今年は新型コロナへの感染懸念や人手不足などからやむなく参加を断念する地区も。それでも参加する祭車は27台に上った。直径が1m近い太鼓が祭車の真後ろに据えられ、その両側に直径40cmほどの鉦が4~6個吊り下げられる。

 祭車はくじ引きの順番に従って整列するため、午後2時すぎ頃から所定の場所に向かった。これを“送り込み”と呼ぶそうだ。その光景は祭り情緒たっぷり。祭車を先導する人々は紋付袴姿の正装、綱を曳く人たちも涼しげな和傘とそろいの浴衣姿。長い伝統からの誇りもあるのだろう、格式を重んじる祭りという印象を受けた。祭車は神社での渡祭に向けて、午後4時すぎまでにほぼ整列を終えた。

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<大府市歴史民俗資料館> 企画展「紙のぺてん師あいばまさやすペーパーアート展」

2022年08月03日 | 美術

【昭和の名車厚紙で再現、「えっ、これが紙製?」】

 愛知県大府市桃山町の「大府市歴史民俗資料館」を初めて訪れた。お目当てはいま開催中の企画展「紙のぺてん師あいばまさやすペーパーアート展」。内外の名車がまるでブリキ製のように厚紙で精巧に再現されているという。制作者の“紙のぺてん師”という言葉にも引かれた。実際に作品を目の前にすると、それらはまさに芸術品といえる見事な出来栄えだった。

 あいばさんは1953年大府市生まれ。大府は自動車産業が盛んで、あいばさんも地元に本社を置く自動車部品製造・販売の愛三工業に長く勤め、2013年に定年退職。その後、同資料館の非常勤職員として展示業務などに携わっている。その傍ら絵本を自費出版したり、創作紙芝居の制作に取り組んだりしてきた。これまでに作った紙芝居は100話に上るという。

 企画展の会場には約90台の車やバイクなどがずらりと並んでいた。これらを約3年という短い期間に制作したというから驚きだ。その中には富士産業のラピット、ホンダのスーパーカブ、トヨタのトヨエースなど戦後まもない頃の車も。ある車の前で高齢の男性が孫とみられる男の子に「これに乗ってたんだよ」などと懐かしそうに説明していた。ポルシェ、ルノー、フィアット、シトロエンなど外車も多く展示されていた。

 あいばさんが厚紙で車づくりを始めたのは3年ほど前から。最初に手掛けたのは「M1ウォーカーブルドッグ」という陸上自衛隊軽戦車。「ダンボールの波板を見ていて戦車のキャタピラーに使えそうと思ったのがきっかけ」という。新型コロナ禍で在宅時間が長くなると制作スピードも一段とアップし、3日間で1台の割合で作っていたそうだ。

 目を凝らして一台一台見て回ったが、いずれもまるでブリキ製のような輝きだった。「本当に紙製?」。多くの来館者がこう話すというのも納得。あいばさんが作品を手に取り裏返して見せてくれた。すると、裏側は素地の厚紙のままで、そこには制作年月日が書かれていた。一番お気に入りの作品は?と伺うと、まっすぐ赤い車の前に向かった。「ミニクーパー ラリー仕様」だった。「きれいに仕上がっているので」。ご自身でも納得のいく会心作だったようだ。

 展示会場の一角に「ペーパーアート制作過程および基本材料」というコーナーがあった。そこに並ぶのは厚紙のほかに木工用ボンド、網戸の押さえゴム、ストロー、100均のくるみボタンキット、割り箸など身近なものばかり。網戸のゴムは丸めてハンドルに、くるみボタンはライトに、ストローはバイクのマフラーに使うそうだ。中には焼きそばが入っていたプラスチック容器も。こうした食品トレーは車の窓ガラスとして活用する。廃棄物を再利用しているわけだ。

 あいばさんは資料館の常設展示や企画展示用として、ジオラマや食品サンプルなどの制作にも取り組んできた。会場にも「大府飛行場」「日本家禽研究所」などのジオラマや、スイカ・ミカン・ごはんなどのサンプルが並ぶ。中でも目を引いたのがおせち料理。重箱に詰められたエビや黒豆、かまぼこなどの一つひとつが本物と見紛うほど。車やバイクはもちろん、その他もまさに職人技といえる作品の数々だった。8月14日まで(月曜休館、入場無料)。

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<一宮七夕まつり> 本町商店街に無数の吹き流し

2022年08月01日 | 祭り

【盆踊りも人数制限で3年ぶりに復活!】

 日本三大七夕まつりといえば、仙台と平塚(神奈川県)、それに一宮(愛知県)が挙げられることが多い。その一宮市で7月28日から31日までの4日間「おりもの感謝祭 一宮七夕まつり」が中心街で繰り広げられた。今年で67回目。例年人気の「御衣(おんぞ)奉献大行列」や「コスプレパレード」「ワッショーいちのみや」などは密を避けるため今年もやむなく中止に。しかし駅前通りでの「盆踊り大会」は人数制限ながら3年ぶりに復活し、中心街の本町商店街などは連日大勢の見物客でにぎわった。

 一宮七夕まつりは地場産業の織物工業の振興を願って1956年(昭和31年)に始まった。主催は市や商工会議所を中心につくる「一宮七夕まつり協進会」。一宮には氏神として古くから篤い信仰を集める真清田(ますみだ)神社がある。市名もこの神社が尾張国の一の宮であることに由来する。祭神天火明命(あめのほあかりのみこと)の母神、萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)は織物の神様。七夕まつりは境内摂社の服織(はとり)神社に祀られているその祭神に感謝を捧げる意味合いも込められているという。

 JR尾張一宮駅で降りると、早速色とりどりの吹き流しの七夕飾りが出迎えてくれた。駅前の銀座通りの両側にもずらりと吹き流し。その真ん中辺りに盆踊りの櫓が組まれていた。盆踊りは参加者の人数を毎日先着250人に制限して午後7時開始とのことだった。銀座通りを抜けると、アーケードが一直線に伸びる本町商店街へ。そこには目を瞠るほど無数の吹き流しが延々と吊るされ、時折風に吹かれてはサヤサヤと涼しげな音を奏でていた。

 吹き流しの下には小中学生たちが七夕に因んで書いた毛筆の作品も掲げられていた。「宇宙銀河」「天の川星月夜」「惑星探査」「南十字星」……。ずばり「織物感謝祭」というものも多かった。アーケードを抜け国道155号を越えると、正面に真清田神社が見えてきた。一宮の繁華街がこの神社の門前町として形成されてきたことがよく分かる。鳥居の前にも、楼門にも、拝殿前にもカラフルな吹き流しが飾られ、境内全体が華やかな雰囲気に満ち溢れていた。

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