く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ペン画・三村威左男氏> 京都・寺町で「日本文化遺産・奈良」展

2014年04月30日 | ひと模様

【東大寺・興福寺・春日大社・薬師寺・法隆寺など27点】

 0.1ミリの細字のサインペン1本で各地の五重塔や京都、奈良の社寺を描き続けているペン画家がいる。京都府長岡京市在住の三村威左男さん(70)。デザイン会社や印刷会社でグラフィック・デザイナーなどとして活躍する傍ら、在職中からライフワークとしてサインペンによる描画に取り組んできた。その三村さんが世界遺産、古都奈良の仏教建造物などを描いた「日本文化遺産 奈良周辺エリア」展が29日、京都・寺町の「ギャラリーヒルゲート」で始まった(5月4日まで)。

 

 三村さんは1944年4月、大阪・船場生まれで、ちょうど古稀を迎えたばかり。三十年余をかけて全国に点在する五重塔を描き続け、2005年には当時現存した74基全てを描き終えた。いずれも現地を訪ね塔の前で、ケント紙を水張りしたパネルに鉛筆などで下書きせず直接ペンで描いた。それらの作品を、1991年の「五重塔 五十景」展を皮切りに数年おきの個展で発表してきた。著書に「日本の五重塔総覧―紀行文を添えて」(文芸社刊)がある。

               

 2006年からはテーマを「古都京都の文化財17の社寺・城」に移し、08年にPart1として8カ所、11年にPart2として残り9カ所の作品を発表。続いて今回は古稀記念として「古都奈良の文化財」と「法隆寺地域の仏教建造物」に絞った作品を発表した。

 三村さんは京都と奈良の違いを「京都は見る町、奈良は歩く町」と表現する。奈良ではいいアングルを求めて、借りた自転車で対象物の周辺を何度も走り回った。五重塔と同じ手法で、現地で写生し、帰宅後、写真を参考に仕上げていく。ただ「写真と同じようにならないように私なりの〝細工〟をしています」と話す。

 

 『春日山原始林 飛火野に鹿の群れ』(上の上の作品㊥)では陽光が光の太い筋となって降り注ぐ。それが作品のスケールの大きさに繋がっている。『春日大社 中門と釣灯籠』(同㊨)では社殿の上に大きな釣灯籠を描いた。灯籠に込めた様々な願いや歴史の重みを感じさせる作品。『元興寺 浮図田(石塔石仏群)と屋根瓦(行基葺き)』(上の作品㊧)では実際には他の場所にある世界遺産を示す石碑を画面の右下に配した。(上の作品㊨は「東大寺 二月堂・法華堂」)

 三村さんの作品はいずれも黒の濃淡だけで描いたモノトーンの世界。それが見る者の想像力をかき立てる。自身も「黒一色で(様々な)色を感じてもらえる書き方を目指してきた。それがこのペン画の魅力でもあると思う」と話す。一時は水彩画のように色をつけるべきか迷った。しかし15年ほど前、ある著名画家の「やがて伝わってきます」との一言で吹っ切れたそうだ。

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<書家・小筆凰外さん> 鞍馬寺花供養に合わせ「墨心書芸展」

2014年04月08日 | ひと模様

【恩師の遺墨や仏リヨン教室の生徒さんの作品も含め70点余】

 京都市左京区の鞍馬寺修養道場で、書家・小筆凰外さん主宰の「墨心書芸展」が始まった。「第34回鞍馬寺花供養慶讃 心をみがくつどい」の一環。ふだん同道場で教室を開いている書道、華道、水墨画の先生や生徒の作品を一堂に展示している。会期は花供養期間中の20日まで。

 

 「墨心書芸」は1970年代前半に書家・安井吾心さんが鞍馬寺先代貫主の依頼に応じて書道教室を開いたのが始まり。安井さん没後は助手の立場にあった田中心外さんが継承し、墨に託す心の重要性から「墨心書芸」と名付けた。田中さんは京都書道連盟会長を務める傍ら、フランス・リヨンにも拠点を設け書道の海外普及に尽力したが、2007年に病没。その後を小筆さんが引き継いだ。

 小筆さんは5歳から安井さん、7歳からは田中さんの手ほどきを受けてきた。1990年代の半ば以降、フランスやチェコ、中国など海外の書道展に積極的に出品しており、2012年にはフランス・ロアールで個展を開催した。今年の夏も渡仏し、リヨンの教室を訪れるとともにまた個展を開く予定という。

 

 今回の書芸展の展示作品は全部で70点余。小筆さんは4点を出品している。教養道場の入り口正面に横長の力強い大作「心機一転」(上の上の写真)。与謝野鉄幹の歌「下にはふ鞍馬の山の木の根見よ 堪へたるものはかくの如きぞ」の書(上の写真㊧の左手前)は、まさに鞍馬~貴船の生命力みなぎる〝木の根道〟を連想させる。他に師・安井さんの遺墨「雲」や田中さんの遺墨「宇宙ハウスの子供達」、リヨン教室のフランス人生徒の作品6点なども展示している。

 小筆さんに京都で初めてお会いしたのは今から数年前。その時、書家で「小筆」ということなので、ついお名前について伺った。てっきりペンネームの雅号と思ったから。ところが「本名です」とのこと。伝え聞いたという小筆さんのお話によると、天皇家に昔、筆を納める製造元に「大筆」「中筆」「小筆」があったという。つまり小筆家は名前の通り、小筆を作っていたというわけだ。

  

 「書道インターネットギャラリー」をのぞくと小筆さんの作品「女皇皇」があった(上の作品)。「女」という字を構成する3本の線で女性の様々な表情や感情を表現してみたという。実に生き生きとした味わい深い作品。今年は師・安井さんが亡くなって丸40年。このため師を偲んで11月にお墓がある法然院で個展の開催を予定しているそうだ。

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<やなせなな> 〝歌う尼さん〟生駒で「コンサート&トーク」

2014年02月01日 | ひと模様

【東日本大震災復興支援歌「まけないタオル」など7曲披露】

 奈良県高取町にある浄土真宗本願寺派「教恩寺」の第6世住職で、シンガー・ソングライターのやなせななさん(38)の「コンサート&トーク~心から心へと伝えられるあいのうた」が31日、生駒市コミュニティセンター内の文化ホールで開かれた。生駒市人権教育推進協議会の主催。会場を埋め尽くした300人近い観客は透明感あふれた歌声や、ご自身の病気や東日本大震災のボランティア活動などを踏まえた優しい語り口の〝お説教〟に聞き入った。

    

 やなせさんが歌手デビューしたのは約10年前の2004年。だがCDは全く売れなかった。厳しい現実に直面していたとき、追い討ちをかけるように子宮体がんを発症、子宮と卵巣の摘出手術を受けた。術後の経過は良好だったが、今度は所属していた音楽事務所が倒産。「体の痛みは我慢できるが、心の痛みはなかなか踏ん張るのが難しい」。

 そんなやなせさんの前に「2人の仏様が現れた」。1人は「何さぼってんねん。(がんは)言い訳にはならない」と叱咤してくれたピアニストの男性。もう1人は初めてのお寺でのトーク&ライブの終了後「私も同じ病気だから(悲しみ・痛みが)分かる。あなたは1人ではないよ」と背中を優しくさすってくれた中年の女性。「私はがんに甘えていた。誰でもみんな苦しいこと、つらいことがある。その痛みは誰も代わってやれない。だからこそ支え合うことが大切だと気づかされた」。

 そんなトークを交えながら、やなせさんは自作曲を中心に7曲披露した。「はじまりの日~あいのうた」に続いて「夕焼け小焼け」、「人魚」、「おやすみ」、そして東北支援活動中に知り合った宮城県山元町にある徳本寺の住職早坂文明さんが作詞し、やなせさんが作曲した「ひとつの心」と「まけないタオル」。最後は自作の「Magical Drops(マジカル・ドロップス)」で締めくくった。

    

 やなせさんのコンサートを聴くのは昨年2月8日以来ほぼ1年ぶり。相変わらずの透明感あふれた伸びやかな歌声。中でも復興支援歌「まけないタオル」は聴くたびに元気がもらえる。長さが50cmで首にも頭にも、そして震災にも「まけないタオル」。このプロジェクトは1口1000円以上で協力者にタオル1本を渡し、被災地に義援金とタオル1本を送る。これまでに7万本以上が出て、いま泉州のタオルメーカー(やなせさんの親戚とか)で増産中という。「まけないタオル」の歌と運動がもっと全国に広がることをただ願うばかり。

 この日のコンサートの後、久しぶりにやなせさんのHPを覗いたら「お寺コンサートの受付停止」というお知らせが目に飛び込んだ。なぜ? 「ここ数年あまりの多忙さ故、体調不良が増えた」ことと「楽曲の制作等の活動がままならない」ことを理由に挙げていた。そう言えば、この日もお寺とその他の会場を合わせたコンサートが「多い月には27回も」と確か話していたなあ。

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<原田千賀子さん> 「化生童子」や「飛天童子」の絵の制作に励む

2013年09月09日 | ひと模様

【水彩画教室主宰、「震災でお子さんを亡くした方々の慰みになれば」】

 2011年の東日本大震災では可愛い盛りの子どもも多く犠牲になった。親の悲しみは深い。その親たちに絵の特技を生かして寄り添えないかと、天国で安らかに過ごす童子の絵を描く女性がいる。奈良市の町なかギャラリー「散華(さんげ)美術館」館長で、各地で水彩画教室を開いている原田千賀子さんだ。絵がある程度たまるたびに被災地で会場を借りて展示し、絵を差し上げたいという。3年程度続けたい考えで、その資金集めに知恵を巡らせている。

   

 原田さんは1948年、鹿児島県の奄美大島生まれ。自ら「鉄ちゃん」というほどの鉄道ファンで、この25年間、大手進学塾に勤める傍ら、青春18きっぷを使って国内をくまなく回った。日本画を以前、約10年間習ったこともあって「車窓からの風景を山ほど描いた」という。1996年には〝全線踏破〟の記念に「ポエム画紀行 各・駅・停・車(長野 岐阜)」を自費出版。これが注目され、JR西日本からの依頼で宝塚線複線電化10周年記念に「ポエム画紀行 JR宝塚線」を出版し、最近では奈良、大阪、東京で「ヨシミチガ」の名前で水彩画教室を開いている。

 

 原田さんがこれまでに描いた童子の絵を数枚見せていただいた。天国に逝った子どもが空を浮遊したり、蓮の花の上で遊んだりしている構図(上の写真2枚=一部)。いずれも穏やかな色調で柔らかいタッチだ。「私自身も最初の子どもを亡くしているので、親の悲しみ、苦しみはよく分かります。絵をぼかしているのは、親御さんに天国に逝った子どもへのイメージを膨らませてもらいたいとの思いからです」。

 これらの絵を見た美術の研究家から「これは仏画の化生(けしょう)童子、飛天童子と同じ」と指摘を受けたという。化生童子は極楽浄土で蓮華の中から生まれ出た童子。原田さんはそれまでその言葉も知識もなかったそうで、「何か奇跡めいたものを感じているところです」。館長を務める「散華美術館」の一角にも原田さんが童子たちを描いた小さな陶器片がたくさん飾られていた(下の写真㊧)。

 

 原田さんはこの構想とは別に、約2年前から宮城県多賀城市のベビーサロンからの依頼で、1歳児の絵を描いてプレゼントする活動も続けている。パソコンに送られてくる赤ちゃんの写真を参考に水彩で描き、サロン側で額縁を付けて1歳の誕生日に贈っているという。これまでに描いた赤ちゃんは既に100人を超える。原田さんの元には8月に送った分の返礼として、「子どもたちも絵を受け取るととても喜ぶんですよ~♪」という一文を添えた、絵を持つ子どもの写真が届いていた。

 散華美術館は原田さんの自宅でもある古民家を改造して2011年秋に開館した。運営母体はNPO法人美術散華保存会(岡村元嗣代表)。原田さんはこのNPOの事務局長も兼ねる。散華は寺院の法要で仏の供養や場の清浄のために撒かれる蓮弁をかたどった紙片。芸術性の高いものは〝美術散華〟と呼ばれる(上の写真㊨)。同館では収集した散華や保存会が制作した散華を展示・販売しており、同時に「ヨシミチガ ギャラリー」として水彩画教室の生徒さんの作品も展示している(開館は土日祝)。

  

 原田さんの活動には無料奉仕のボランティア的なものが多い。その点について原田さんは「小さい頃から人に喜んでもらうのが大好きで、その性分は今も変わりませんね」とにこやかに話す。一方で「これまで苦労も随分してきました。その苦労を拭い去るものが欲しくて、いわば〝自分探し〟をやっているようなものです」とも話してくれた。この10年間ほど、毎日欠かさず早朝、東大寺二月堂にお参りしているという。

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<戸畑祇園大山笠・青木勇二郎さん> 名司会で最終日を盛り上げて35年!

2013年07月31日 | ひと模様

【「粋な法被姿が神さんの〝足〟になって進みます。ヨイトサ、ヨイトサ」】

 福岡県3大夏祭りの1つで国指定の重要無形民俗文化財「戸畑祇園大山笠」が今年も26~28の3日間、北九州市戸畑区で熱く繰り広げられた。昼の幟山笠が夜になると光のピラミッドに大変身。大山笠・小若山笠の全8基がそろう中日の競演会に続いて、最終日には東・西・中原・天籟寺の4地区ごとに地域内を巡行した。そのうち東地区では司会35年目という青木勇二郎さん(写真)の名調子が今年も千秋楽を盛り上げた。

 

 東地区は午後6時、太鼓や鉦などによるお囃子の披露から始まった。男女の小学生たち5チームが力強く「おおたろう囃子」などを演奏すると、観客からやんやの喝采。続いて、男子中学生が担ぐ小東山笠と高校生以上が担ぐ東大山笠の囃子方が演奏を披露した。山笠の運行は7時すぎから、まず幟の姿で始まった。

 「神さんの足になる男たちです。遡上する魚の群れのように進んでいます」。担ぎ手の足がそろった様はまるでムカデ競走。そして見どころの提灯山笠への姿変え。最上段の〝5段上げ〟に続いて1段ずつ組み立てていく。12段・309個の提灯が組み上がると高さ10m、重さ2.5トンの大山笠の完成だ。小東山笠は大山笠より少し低いが、それでも1.5トンもある。それを80~100人で担ぐ。小東山笠ができて今年はちょうど30周年の節目という。(下の写真は㊧と㊨は27日、㊥は28日)

  

 山笠が動き出すと提灯のろうそくの灯もゆらめく。1年前には大山笠が燃え上がり上5段分ほどが全焼するというハプニングがあった。「男たちはそんなことではひるみません。おやじが子どもの背中を押すように2つの山笠が進みます」。司会の青木さんは1937年生まれ。長年、競演会場のそばで眼鏡店を経営していた。今は戸畑郷土史会の事務局長を務める。東大山笠では〝中老代表〟で、今年喜寿のお祝いに濃紺のチャンチャンコを贈られた。

 以前、青木さんから戸畑祇園にまつわる〝秘話〟を教えてもらったことがある。戦後、進駐軍の高官が山笠の幟や幕などを母国への手土産として持ち帰ろうとした。それを関係者が懸命に説得、実際に祭りを見てもらうことで思いとどまらせた。ただ中には「青い目の前でなぜ担がないとダメなのか」と抵抗した熱血漢もいた。その男性はMPのジープで連行されたという。(下の写真は㊧26日の飛幡八幡宮への〝大上り〟㊨27日の競演会)

 

 戦後には〝針金事件〟もあった。山笠の運行中にろうそくが倒れて燃えないように提灯を針金で固定したことがあった。ところがその山笠は燃え上がる提灯を叩き落とせず、丸焼けになってしまった。今は麻のひもで提灯を括りつけており、燃えたら叩き落とし新しい提灯に替える。「幟も提灯のピラミッドも神様の依り代。その美しさこそが各山笠の誇りでもあるのです」。

 昨年の千秋楽に続き今年も思いがけないハプニングが起きた。「救急車が通ります」。青木さんのアナウンスに会場は一瞬静まり返った。小東山笠を担いでいた中学生たちが転んで足などを痛めたらしい。やがて2台の救急車が来て2人を搬送していった。その間約30分間の中断。残念な出来事だが、2人とも意識がしっかりしていたのは不幸中の幸いだった。「千秋楽はまだまだ続きます」。この後、陸上自衛隊小倉駐屯地所属の自衛官約40人が飛び入り。大山笠の前後の担ぎ棒を〝若中老〟たちと分担し、一緒に担ぎ上げて会場を往復した。

 戸畑祇園の全8基はこの後、8月3日に小倉北区で開かれる「わっしょい百万夏祭り」にも参加する。この数年はその年の当番山だけが参加していた。さらに9月には西と天籟寺の大山笠が60年に1度の〝平成の大遷宮〟を終えた出雲大社に遠征し山笠の勇壮な姿を奉納する予定という。

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<水彩画家・寺田みのるさん>「大衆画家の道を邁進! 小説・作詞・落語の台本も」

2013年03月09日 | ひと模様

【画廊飛鳥での個展初日に「66歳の青春」トーク】

 旅の情景を描き続ける水彩画家でエッセイストの寺田みのるさん(大津市在住)の個展が8日、奈良県明日香村の「画廊飛鳥」で始まった。初日にはご本人が「66歳の青春」と題してギャラリートーク、「人生はいつまでも青春。大切なのは感動・感激・感謝する気持ち。これからも多くの方々に楽しんでもらうため、大衆画家として旅を続け描き続けていきたい」などと語った。個展は14日まで。

      

(「毎日夫人」に連載中の「あなたと歩きたい街。」㊧は2月号掲載の「川口基督教会(大阪市西区)、㊨は3月号掲載の「東京駅」)

 寺田さんはこれまでに内外で80回を超える個展を開いており、この画廊飛鳥での開催は4回目。新作の水彩画や書19点を含む作品約50点が並ぶ。これまでに取材で訪ねた都市は世界48カ国に上るという。新作にも英国やドイツ、イタリアなどを描いた作品が含まれていた。そのうち「テームズ川薄暮」は墨のぼかしが効果的。新作の書の1つに「ローマの夜 スペイン階段で酔いざまし サンピエトロが笑っている」。短歌調で語呂がいい。情景が目に浮かぶようだ。

 寺田さんは幼児から絵と書に親しんだ。大手家電メーカーに就職後も勤めの傍ら絵を描き続け、28歳のときに初個展。その後、企画部長や営業部長を経て51歳で早期退職した。「36年間のサラリーマン生活で経験した営業や商品企画、人脈が今に生きている」と話す。絵は全くの独学。だからこそだろう、旅情が画面いっぱいに広がる寺田さん独自の世界があるのも。

 フランス・リヨン芸術祭に出品したり、アジア国際水彩画連盟展に招待されたりするなど、今や旅の水彩画では第一人者の寺田さん。意外だが、20代半ばまではもっぱら油絵を描いていたという。「だが体質に合わないと感じたため水彩に転じた」。2001~08年、毎日新聞の夕刊に水彩スケッチを長期連載。さらに「毎日夫人」に長く「あなたと歩きたい街。」を連載中ということもあって、寺田さんには女性ファンが多い。

 画風は静かで優しい。「私自身は口八丁手八丁ですが、絵は性格とは真反対で静かでしょ」とご本人も。今年1月には体調を崩して10日間入院したという。「私は欲張りでやりたいことだらけ。心と体のバランスをどう取っていくかがこれからの問題」。絵のほか今後力を入れたいものとして小説の執筆、作詞、それに落語や漫才の台本づくりの3点を挙げた。このうち作詞についてはすでに7~8曲を作っているという。滋賀県をもっとPRしたいと「知らんか滋賀」という詞も作ったそうだ。寺田さんのポジティブ人生に乾杯!

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<やなせななさん>〝歌う尼さん〟感動のトーク&ライブ 奈良県南部復興支援で

2013年02月08日 | ひと模様

【「千年眠れ」「まけないタオル」…東日本大震災支援ソングなど8曲披露】

 一昨年の紀伊半島大水害の被災地を応援しようと「岐阜県南部地域復興支援コンサート」が8日夜、奈良市の南部公民館であった。奈良教育大学生による熊野古道・道普請活動の報告に続いて、〝歌う尼さん〟として人気を集めるシンガーソングライター、やなせななさん(本名梁瀬奈々)が唱歌「ふるさと」や自作の東日本大震災支援ソング「まけないタオル」「千年眠れ」など8曲を披露。優しい語り口と歌声が会場を温かく包み込んだ。

   

 やなせさんは1975年奈良県高取町生まれの37歳。99年に龍谷大学文学部真宗学科を卒業後得度し、現在は実家でもある浄土真宗本願寺派教恩寺の第6世住職を務める。その傍ら、シンガーソングライターやラジオのDJ、エッセイストとしても活躍中。2011年3月の東日本大震災を機に被災地東北の支援活動にも積極的に取り組んできた。

 シングル1作目「帰ろう。」でデビューしたのは2004年。だがCDは売れず発表の場も少ない。そんな時、宮城など東北地方から声が掛かった。頻繁に出かけるうち、多くの友達や歌仲間の輪が広がった。2011年3月、その東北を大震災が直撃する。テレビで惨状を目にしたやなせさんは「応援した人に恩返しをしなくては」と度々東北に向かった。その年5月福島、6月宮城、9月岩手……。一昨年9月、台風12号による大水害で紀伊半島が被災した時も岩手県で復興支援のコンサート中だった。

 東北での支援活動の中で知り合った一人に宮城県山元町の徳本寺住職、早坂文明さんがいた。山元町は太平洋を望む宮城県東南端にある。大震災では600人を超える犠牲者が出た。その中には檀信徒も多くいた。住職を兼務する徳泉寺は津波に襲われ伽藍も仏具も全て流失した。早坂さんは寺院復興のため「はがき一文字写経」を呼び掛ける一方、遺族や被災者を励まし支えたいとの思いから詞を作った。それにやなせさんがメロディーをつけた。

 こうして鎮魂歌「千年眠れ」や「ほんとうの空の下で~フクシマを想う時」、復興支援歌「まけないタオル」などが生まれた。「眠りなさい きのうの想い出 忘れて 哀しみ抱いて 私はずっと祈ります だから千年経ったら目覚めなさい……」。その優しい歌詞と目を閉じて歌うやなせさんの透明感あふれる歌声が胸に迫ってくる。

 今でこそ知名度もアップし幅広い支持を集めているが、ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。メジャーレビューを目指し、レコード会社にデモテープを持ち込んだ回数は百回を超える。だが、ことごとく落選。そのうちに所属事務所も閉鎖してしまった。追い討ちをかけるように30歳目前に子宮体がんを発症、卵巣と子宮の摘出手術を余儀なくされた。

 当時のつらい思いをいま販売中のPHP3月号にも綴っている。「シンガーソングライターとしての夢に破れ、ガン闘病によって自身の命の儚さを痛感した当時の私は、心身ともに疲れ果て、将来への希望を失いかけていました」。しかし鬱々としながら自宅にこもっていても仕方がない。発想を変えて挑戦していこうと考え直したという。この日のコンサートでも「自分だけでなくお隣の人も何がしか苦しいものを抱えている。東北で支えあうことの大切さを改めて教えられました」と話していた。

  

 コンサートを締めくくった曲は明るく元気な「まけないタオル」。やなせさんは支援活動の一環として「チームまけない!タオル」プロジェクトに参加してきた。このタオルの長さは約50cm(写真)。首にも頭にも「巻けない」と震災に「負けない」の語呂合わせから生まれた。募金1000円で支援者と被災者にタオルを1本ずつ送り、残金を被災地支援に充てる。山形県最上町のお寺の住職が編み出したという。

 「まけないぞ まけないぞ 首にも頭にも まけないタオル 半端じゃないぞ……」。震災には決して負けないという強い思いがこもる。コンサートが始まる前には来場者全員でピアノの伴奏に合わせて繰り返し練習、本番でもやなせさんと一緒に「まけないぞ まけないぞ」と声を合わせた。終了後には「まけないタオル」を求めて長蛇の列。ただ、この日の募金は奈良県南部の被災地支援に充てる。東北からも了解を得ているという。

 やなせさんは2007年ごろから宗派を超えて全国の寺院を中心にコンサートを開いてきた。これまでの公演回数は250回を超える。「これからも一人でも多くの人の悲しみや痛みに寄り添う歌を作り、届けたい」「挫折の先にも、数々の新たな出会いが生まれるものです。命ある限り、道は続いています」(PHP3月号から)。

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<ジュディ・オング倩玉> 今や版画界の第一人者 「日本家屋は無駄を削ぎ落とした最高傑作」

2012年11月07日 | ひと模様

【1983年から日展入選13回、2005年には特選にも!】

 大ヒット曲「魅せられて」で有名な台湾出身の歌手・女優のジュディ・オングには木版画家というもう1つの顔がある。雅号は「ジュディ・オング倩玉(せいぎょく)」。25歳の時、棟方志功門下の井上勝江の個展で版画に魅了されたのがこの世界にのめり込むきっかけとなった。これまでに日展入選回数は13回(うち特選1回)に上る。いま堺市立東文化会館文化ホールで開催中の「ジュディ・オング倩玉 木版画の世界展」(18日まで)はそんな彼女の画業の足跡を余すことなく堪能させてくれる。

      

 初めての日展入選作は1983年の「冬の陽」。モデルは飛騨高山の合掌造り。1979年の「魅せられて」のヒットの4年後で、「ジュディ・オング」と知られないように日本帰化名の「翁玉恵」で応募した。入選の知らせが届いた時には思わず万歳をしたそうだ。85年の入選作「揚屋」では京都の「角屋」の紅色の漆喰壁にヒントを得て、それまでの白黒の世界に臙脂(えんじ)色を持ち込んだ。以来、臙脂色を配した伝統的な日本家屋の作品が増える。

 そして2005年「紅楼依緑」(上の写真)でついに特選を受賞した。名古屋の老舗料亭をモチーフとしたもので、漆喰壁の臙脂色と木々の緑色のコントラストが際立つ。翌06年には日展無鑑査作品として「銀閣瑞雪」(下の写真㊧)を出品する。静かな佇まいの銀閣に降り積もった雪をめでたい瑞雪として描いた。

  

 日本の伝統家屋や建物の素晴らしさに目覚めたのは22歳から京都に時代劇の撮影に行くようになってからという。「日本家屋は日本の気候風土、食文化、生活文化の全てに適応し、無駄を全て削ぎ落とした最高傑作。魔除けの鬼瓦、夏涼しく冬暖かい茅葺き屋根、格子窓、障子、襖、縁側……どれも本当に美しい」。

 作品の中には京都ゆかりのものが目立つ。2003年日展入選の「鳳凰迎祥」では池面に映る宇治・平等院の鳳凰堂を切り取った。この作品はその後、平等院に奉納している。08年には南禅寺近くの豆腐屋の玄関口を描いた「涼庭忘夏」、10年には国の名勝・渉成閣の回棹廊を描いた「廊橋浅秋」で日展に入選した。昨年の入選作は長崎・丸山の料亭を題材にした「華燈翠園」(上の写真㊨)で、正面の大きな提灯が印象的。右側の緋毛氈の風合いもさすが。展示作品の中には珍しく奈良をテーマにしたものもあった。奈良公園の浮見堂を描いた「湖光亭影」(2010年白日会展出品、下の写真)。御堂の背後の紅葉が実に鮮やか。

   

 作品の大小に限らず、彫り始めるまでに最低3回は同じ絵を描くという。まず現地でスケッチ、次にそのスケッチや撮影した写真を参考に墨と水彩絵具で下絵を描き、最後に版木にトレースする。しかも白黒でなく色刷りの場合は使う色の枚数分だけ版木を彫ることになる。「私の部屋の壁に掛けたいという思いで作品づくりに取り組んできた。だが、回を重ねるほどに一層難しくなってくる。でも出来上がったときの喜びはなんとも言えない」。会場には「私の永遠のモチーフ」というツバキをはじめ多くの花の作品も彩りを添えていた。

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<ひらかたパーク菊人形祭> 人形31体で源平の盛衰を華やかに彩る!

2012年10月30日 | ひと模様

【菊の衣を巧みな技で着せ替える菊師2人】

 源平の盛衰を描いた菊人形展が大阪府枚方市のひらかたパークで開かれている。タイトルは「ひらかたの秋 菊人形祭―時代を変えた男 平清盛と源頼朝」(11月25日まで)。菊人形30体と衣装人形1体で「平家の栄華」「源氏再興の道」「一の谷合戦」など13場面を表現している。同園の菊人形展は1912年(大正元年)に開園とともにスタート、「枚方菊人形」は秋の風物詩として長年呼び物の1つになっていた。しかし、職人(菊師)の後継者不足などもあって2005年に終了したが、今年は開園100周年の節目ということで復活した。

 

 今回の菊人形づくりは男女2人の菊師が担当している。安井恵子さん(写真㊧)と福田実さん(写真㊨)。安井さんは同園初の女性菊師で「大々的に取り組むのは今回が初めて」、福田さんは菊師として約17年の経験を持つ。菊人形1体の寿命は7~10日間。2人は花が傷んでくると新しい菊で丁寧に着替えをさせる。

 「胴殻」と呼ぶ人形の胴体に、根の付いた生菊を2~3株ずつまとめ水ゴケで巻いた「玉」を差し込み、茎が折れないように気遣いながらイグサで縛っていく。この作業を「菊付け」と呼ぶ。1体に40玉から80玉程度の菊の玉を使う。「1体仕上げるのに大体1日から1日半かかります」と福田さん。鳥羽院の着せ替え作業中だった福田さんは時々手を止め、少し離れて人形全体の仕上がり具合を確認していた。

(左上から時計回りに「平清盛」「平敦盛と熊谷直実」「武蔵坊弁慶」「源義経」)

 

    

 安井さんはちょうど主役の1人、源頼朝の菊付け中だった。手際よく玉を胴体に差し込み固定していく。「教えてもらうというよりも、見て覚えろという感じだった」とこれまでを振り返る。長く修業を積んできたが、それでも菊付けはなかなか大変という。「中でも襟元や肩の緩やかな線をきちっと出すのが難しいですね」。着替えが完成してもこれで終わりではない。毎日1~2回、玉の1つ1つに水やりを行う。

 鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝、平清盛の嫡男重盛と義弟の時忠、一の谷合戦での平敦盛と熊谷直実、頼朝の従兄弟に当たる木曽義仲と愛妾の巴御前、悲運の武将源義経と家臣の弁慶、尼将軍北条政子、幼い頼朝の助命を清盛に懇願した池禅尼……。いずれの菊人形も色とりどりの菊で飾られ、表情が生き生きしていた。そこには菊師の安井さん、福田さんの人形1体1体への熱い思いが込められている。

(写真左上から時計回りに「木曽義仲と巴御前」「白河院」「平知盛と二位尼・安徳天皇」「池禅尼」)

 

 

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<川路聖謨を讃える会> 日露和親条約の交渉で、川路を支えた洋学者・箕作阮甫

2012年10月28日 | ひと模様

【儒学・医術・蘭学を習得、津山藩医から幕府の外交交渉翻訳係に】

 最後の奈良奉行として善政を行い、奈良の恩人として今なお親しまれている川路聖謨(としあきら)。その後、幕府の勘定奉行となった川路はロシアとの粘り強い交渉で、北方四島を日本の領土と定めた日露和親条約を締結する。「その交渉の裏で箕作阮甫という1人の男が深い教養と語学力で川路を支えた」。歴史学者で大和郡山市・川西町文化財審議会会長、長田(おさだ)光男氏は27日行われた「川路聖謨を讃える会」(孝田有禅会長)主催の歴史講演会(会場・奈良県経済倶楽部)で、箕作阮甫(みつくり・げんぽ、1799~1863年)の功績をこう讃えた。

    

 阮甫は今の岡山県津山市生まれ。父の後を継いで藩医となり、殿様お付きの御匙代(おさじだい)として参勤交代のたびに江戸に行く。当時、幕府は飢饉や悪疫の蔓延に加え、外国船の出没という内憂外患に悩まされ、対応に苦慮していた。阮甫は医学の傍ら、儒学や蘭学を学んでいたが、「こうした外国からの圧力がもっと洋学を究めなくてはと阮甫を刺激した」。

 阮甫は「医療正始」を皮切りに外国の医学や地理、天文、造船、兵学、歴史、宗教、語学など、ありとあらゆる分野の書物を次々に翻訳し出版する。その語学力が幕府にも伝わり、海外の文献を翻訳する「蕃書和解(ばんしょわげ)御用」を命じられる。最初の大仕事は嘉永6年(1853年)のペリー来航の時。開港や太平洋で操業する捕鯨船への水・食糧などの補給を要求する米大統領親書の翻訳を担当した。

        箕作阮甫肖像 

 続いてロシア使節のプチャーチンが長崎に来航する。阮甫は幕府使節の1人、川路聖謨から「翻訳随一」として選ばれ、随行して江戸から長崎に赴く。「学者や医者などの随行者をすべて合わせると300人にも上った。東海道では宿場が対応できないため、遠回りになる中山道を選んだため、長崎まで37日を要した」。阮甫の先祖の出身地は近江国箕作城(現在の滋賀県五箇荘町)。駕籠に乗っていた阮甫は関ケ原の辺りで居眠りして付近の様子を見過ごしたことが非常に残念だったと日記「西征紀行」で振り返っているそうだ。

 長崎で阮甫は要求文書の翻訳とともに川路から交渉のやり方などの相談を受けた。「いわば顧問役のような仕事もこなした」。ロシアとは6回交渉したが最終決着までいかず、翌年の下田での交渉に持ち込まれる。ところがちょうど「安政の大地震」が発生、下田の町は地震と大津波に襲われ壊滅状態、プチャーチンが乗ってきた艦船も沈没したという。

 そのため日露交渉は下田の山の上にある長楽寺で行われた。そして9か条から成る日露和親条約が結ばれた。それを翻訳したのはもちろん阮甫。その第2条にはこう記されている。「今より後、日本国と魯西亜(ロシア)国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫れより北クリル諸島は魯西亜に属す」。

 阮甫はもともと体が弱く、喘息の持病もあった。このため大仕事を終えた後、安政2年(1855年)いったん隠居するが、幕府の状況はこれを許さなかった。翌年には「蕃書調所教授職」に登用される。その中には勝海舟もいて、一緒に翻訳の仕事に携わったという。この蕃書調所は洋書調所、開成学校と変わり、後の東京大学となる。一方、ロシア使節応接掛だった川路はその後、西丸留守居という閑職になったのを機に蘭学の学習を始める。蕃書調所の教授らに出前講義をしてもらったが、その中には阮甫もいた。「阮甫は川路の師匠となり、勉学を通じて師弟関係が結ばれた」わけだ。

 阮甫はその後、文久2年(1862年)に洋学者としては初めて幕府直参に取り立てられる。しかし翌年、65歳で没した。阮甫には4人の娘がいたが、孫の多くが理学博士や医学博士、人類学者、統計学者など著名な学者になっている。長田氏は阮甫の功績として3つ挙げる。「1つ目は深い教養と語学力で外交交渉を支えたこと。2つ目は膨大な外国の書物を翻訳し、洋学の発展に貢献したこと。そして3つ目は一族一門から多くの学者を輩出し、明治以降の学問・教育に尽くしたこと」。阮甫はいま多磨霊園に眠る。

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<孝田有禅・川路聖謨を讃える会会長> 「外交官は川路の巧みな交渉術を学べ」

2012年08月27日 | ひと模様

【プチャーチンと対峙、「北方四島=日本領」明記の日露和親条約を締結】

 川路聖謨(かわじ・としあきら、1801~68年)は幕末、奈良奉行を務めた役人。在任中、緑化運動や民主的な施策を展開するなど善政を行い、今なお〝奈良の恩人〟と慕われている。その川路が幕府の勘定奉行になった後、ロシアとの領土境界問題の交渉を担当した。「川路がいなかったら、北方四島はロシアのものになっていたに違いない。竹島や尖閣諸島も含め領有権問題で揺れている今こそ、日本の外交官は巧みな川路の交渉術を学んでほしい」――。「川路聖謨を讃える会」会長の孝田有禅さん(86)はこう力説する。

   

 孝田さんは1945年、奈良師範学校本科(現奈良教育大学)卒。約40年間の小中学校での教員生活の後、西吉野村教育長。現在は曹洞宗雲洞山禅龍寺(五條市西吉野町)の第28代住職を務める。奈良市立椿井小学校在任中に初めて「植桜楓之碑」(下の写真)を見て川路聖謨の存在を知ったという。この石碑は川路が展開した緑化運動を記念し嘉永3年(1850年)に建立されたもので、猿沢池から興福寺につながる石段(通称五十二段)を上がった左手にある。孝田さんが「五十二段のさくら」と題してまとめた一文は小学道徳の副読本「美しい心」に掲載され、大きな反響を呼んだ。その後、もっと多くの人に川路の功績を知ってもらいたいと「讃える会」を立ち上げた。

   

【集会所の設置、貧民救済、家内産業奨励、天皇陵の整備……】

 幕府の普請奉行だった川路が奈良奉行に任じられたのは1846年、45歳のころ。当時、奈良では百姓一揆や打ち壊しが続発して荒れ果て、奉行所内も腐敗・堕落していた。川路は「荒廃した古都にまず緑を取り戻そう」と緑化運動を進め、同時に思い切った施策を次々に打ち出した。孝田さんはその功績として①集会所づくり②病人・老人・貧民の救済制度の創設③墨作りや革製武具の製作など家内産業の奨励④天皇陵の整備や盗掘対策⑤河川の整備⑥拷問の廃止や罪人への思いやり⑦強盗・賭博の取り締まり強化――などを挙げる。「とりわけ庄屋での会合をやめ、自由にモノが言える集会所をつくった意義は大きい」という。

 川路は1851年、大坂町奉行を命じられ奈良を離れる。別れを惜しんだ人々は餞別として町々から奈良晒し2反ずつを贈ろうとしたが、川路は町名を記した熨斗紙だけを受け取って品物を返した。このため町民は春日社に川路の「武運長久」を祈る石灯篭を奉納したという。川路は大坂赴任の前にまず江戸に帰るが、その時にも何百人もが名残を惜しんで京都の木津川まで見送りに行ったそうだ。

【鋭い舌鋒。一方でユーモア精神も】

 川路はその後1853年、幕府の「露使応接掛」を命じられロシア全権プチャーチンとの領土境界問題の折衝を任される。53年といえばペリーの浦賀来航の年。この年の長崎での交渉は物別れに終わるが、翌年、下田で再会談がもたれた。川路は「択捉(えとろふ)は番所を設けて管理しており、我が国の領土であることに疑いはない」と粘り強く指摘。その結果、択捉島以南が日本領土であることが画定され、54年(安政元年)12月21日、日露和親条約が締結された。新暦に直すと2月7日。この日はいま「北方領土の日」になっている。

 領土交渉に当たった川路の印象を、プチャーチンに随行したゴンチャロフが「日本渡航記」に書き留めている。「川路は非常に聡明であった。その一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウイットと炯敏(けいびん)と練達を示していた」。川路はこんな話もしたそうだ。「我が妻は江戸でも一、二を争う美人である。今、妻を思うや切なるものがある。ましてや何年も故郷を離れているプチャーチン殿も同様の思いが強かろう。切りのいいところで妥結して愛する妻の元へ帰ろうではないか」。ユーモアを交えた話に双方笑って打ち解け合ったという。

 川路は奈良の恩人だが、「今の北方四島が日本領土であると必死に交渉に当たって、日本領土に決定させた大恩人でもある」と孝田さん。竹島や尖閣諸島を巡り日韓、日中がぎくしゃくしているが、孝田さんは「感情をぶつけていくやり方はどうにかならないものか。礼節をわきまえて、もう少し大人の対応をしてほしい」と苦言を呈する。経済だけでなく外交面でも閉塞感に覆われている時だけに〝第二の川路〟の登場を期待したいところだが……。(奈良市生涯学習センター26日開催の「奈良偉人伝」の講演から)

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<宮大工棟梁・瀧川昭雄さん> 朱雀門、大極殿に次いで興福寺中金堂復元へ

2012年08月26日 | ひと模様

【62年の宮大工人生の集大成。後進の育成にも全力】

 興福寺の中金堂復元工事が2018年秋完成を目指して進められている。宮大工としてその指揮を執るのが株式会社瀧川寺社建築(奈良県桜井市)の会長兼棟梁の瀧川昭雄さん(79)。その瀧川さんが25日、奈良市生涯学習センターの「天平の匠シリーズ~古都奈良の名工を訪ねて」の一環として「宮大工から見た古建築」をテーマに約2時間にわたって講演した。

  

 瀧川さんは桜井市出身で、中学卒業後に明治時代から続く宮大工の家系の3代目に。19歳の時、薬師寺東塔の解体修理に携わったのをはじめ、長谷寺五重塔、当麻寺本堂、室生寺五重塔など多くの古建築の修復を手掛けてきた。会社組織にしたのは20年前の1992年。その後、平城京の朱雀門、第一次大極殿を復元。この間3年にわたって、ユネスコの要請を受けモンゴルでラマ教寺院の修復を指導した。2007年には宮大工としての実績と後進の育成が認められ、第2回ものづくり日本大賞の内閣総理大臣賞を受賞している。

 瀧川さんは宮大工にとって最大の仕事は材料の調達という。「材木確保のめどがつけば、仕事の8割をこなしたも同然」。朱雀門では1000立方メートル、大極殿では2150立方メートルの材木全てを国産材で調達した。今回の興福寺中金堂復元ではそれらを上回る2320立方メートルが必要。だが、国内でヒノキの大木などを入手するのはもはや困難。このためカナダのバンクーバー島やアフリカのカメルーンなどで調達することになったという。バンクーバーでは飛行機で上空から森林を観察し、伐採する木材にめどをつけたそうだ。

 古建築に使われた木材(柱)を振り返ると、飛鳥・奈良時代はヒノキ、平安時代に入るとヒノキに加えスギ、鎌倉時代にはこの2種にケヤキが加わり、さらに室町・安土桃山・江戸時代にはこの3種のほか栂(ツガ)も使われた。植林といえば戦前・戦後と思われるが、実は平安時代から吉野ヒノキやスギが植林されていたという。瀧川さんは「種木まで切ってしまったので、国産材で巨大建築を造るには何百年も待たないとできなくなった」と嘆く。

 古建築の修理は約300年ごとの解体修理、200~300年ごとの半解体修理(柱を残して解体)、約100年ごとの部分修理(屋根替えなど)に分かれる。「解体修理の際には技術的に教えられることも多いが、さまざまな失敗の痕跡などが見つかれることも少なくない」。例えば、長谷寺ではケヤキの柱の長さが1尺分短かったため、礎石の上にさらに石をかませた部分があるそうだ。

 

 技術の継承方法には「一子相伝」と「多子相伝」がある。一子相伝は優秀な弟子1人だけに秘伝を伝えるもの。薬師寺西塔の再建で有名な棟梁の故西岡常一さんは小川三夫さんが唯一の内弟子だった。一方、瀧川さんの後継者育成法は多子相伝。ただ「宮大工の世界はきつい・汚い・危険の3K職場だけにどれだけ辛抱できるかがカギ」。これまでに約100人を採用したが、残っているのは30人ほどで、中には入社1週間で辞めた若者もいたそうだ。

 「社寺大工は2軒納めて半大工。塔・多宝塔を建てて一人前」。宮大工の世界にはこんな言葉があるという。棟梁になるには小工―大工―副棟梁というステップを踏む。大工の前は「小工」と呼ばれるというのを初めて知った。瀧川さんが経営する瀧川寺社建築では「主に規距(きく)術と修理方針・方法を5年間教え、その修業を完了した後、初めて職人として扱う」。

 規距術とは曲尺(かねじゃく)などを使って木材の継ぎ手や仕口など接合部分を加工する技術。古建築の修復や復元に欠かせないもので、講演会場にもその一部を展示していたが、まさに木材の立体パズル(写真㊨)。古墳時代や奈良時代の大工道具、ヤリガンナなども展示していた(写真㊧)。「〝国費〟で学んだ私の使命は技術の伝承。宮大工を志す若い人たちの育成に残りの人生を捧げたい」。瀧川さんにとって興福寺中金堂の復元は技術継承のためのこの上ない実地教育の場になりそうだ。 

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<切り絵作家・達富弘之さん> 親子で切磋琢磨、京の風景や祭りの一瞬を切り取る!

2012年08月24日 | ひと模様

【娘さんと2人で京都新聞に『切り絵エッセー』を丸10年連載】

 この数カ月の間に藤城清治さんや久保修さんら影絵、切り絵の第一人者の作品に触れ、切り絵はまさに創造力とともに集中力、忍耐力が問われる世界であるということを痛感させられた。その世界に親子で挑戦し続けている父と娘がいる。京都府亀岡市の達富(たつとみ)弘之さんと長女の睦さん。地元の風物や祭り、童話の世界などを切り取った2人の切り絵の作品には温かさがあふれ、描かれた人の息遣いまで伝わってくる。

  

 達富さんは1944年亀岡市生まれ。切り絵を始めたのは京都府立園部高校の数学の教諭をしていた約40年前の1971年。クラブ活動の一環として生徒と共に始めた。独学だったが、その後2000年には娘の睦さんと共にウクライナ青年芸術連合の招きでキエフ市内の画廊に出展するまでに。こうした実績から京都新聞から声が掛かり、翌01年11月から2人で毎週交互に「切り絵エッセー」の連載を始めた。題材は主に丹波や丹後、京都市内の風景や祭り、生活の一こまなど身近な話題を取り上げ、それにエッセーを添えた。

 親子交代の切り絵は男と女、親と子の見方が作品に反映されて、それぞれに味わいがあったのだろう。連載は好評で丸10年、昨年の11月まで続いた。この間、読者や知り合いからは「先生(達富さん)のもいいが、娘さんの作品はもっと素晴らしい」といった声も。「先生のはどんくさいけど、飽きない」と言ってくれる人もいた。そう言われるのがうれしかった。写真は「お月見」と「京北町の百年桜」。2枚とも弘之さんの最新作だが、いずれも「ほっ」とさせてくれる温かみがある。

  

 達富さんは2008年から毎年「切り絵 日本むかしばなし」をテーマとするカレンダーの製作を依頼されている。月めくりで12枚。取り上げる題材は全て任せてもらっているが、近畿発祥の昔話の後は関東もの、その後は中国地方と順番にも気を使うそうだ。今製作中のものは何と再来年の「2014年版」カレンダー。しかも8月末が締め切りという。「いつもギリギリになって気分が乗った時に一気に仕上げる」そうだ。

 その傍ら長年、地元亀岡市東竪町の切り絵サークルの指導にも当たっている。毎年秋の「亀岡祭」に合わせ色鮮やかな切り絵灯籠を製作、町内に並べてきた。過去5年間にサークルで製作した灯篭は全部で100基。今年は「宵山」をテーマに11種22基を新たに製作中という。それらの新しい灯篭は10月24日夜(亀岡祭宵宮)の「第3回あかりの祭典」に参加し、JR亀岡駅前から会場の南郷公園までを灯す予定だ。

 達富さんは現在68歳。8年前、府立桃山高校を最後に教員生活にピリオドを打ったが、その後も毎年年末には「PTA研修」と称して、翌年の干支の切り絵作りを指導してきた。チェス・オリンピアード(五輪)への2年連続参加、五目並べを競技化した「連珠」の海外普及、ボルネオなど海外での緑化活動……。これまで多方面で精力的に活動してきた。切り絵については「ここまで長く続くとは思っていなかったが、これからも楽しい切り絵を作っていきたい」。達富さんにとって切り絵は自己表現とともに地元の魅力再発見、住民同士の交流などの大切な手段にもなっているようだ。

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<草笛演奏家・岡内章二郎さん> 被爆樹木の葉っぱに平和の祈りを込めて

2012年08月09日 | ひと模様

【哀愁帯びた迫力ある響き、演奏会は年間200回】

 プロの草笛演奏家、岡内章二郎さんの講演と演奏会「平和の祈りを草笛にのせて…」が8日、奈良県生駒市主催の「平和のつどい」の中であった。岡内さんは1951年広島県生まれ。広島市原爆被害者の会2世部会運営委員も務めており、被爆樹木の葉っぱを使って奏でる草笛を通じ、平和の大切さと核兵器の廃絶を訴え続けてきた。各地で開く草笛演奏会は年間約200回に及ぶ。2007年には日本音楽フェスティバルで審査員特別賞、08年には東久邇宮文化褒賞を受賞している。

   

 岡内さんの父親が大切にしていた観葉植物のベンジャミンが原爆で枯れた。父は一生懸命水やりを続けたが、新芽を見ることなく亡くなった。ところが岡内さんが遺志を継いで世話をしていると、父の逝去から50年目、被爆後62年目にして再び芽が出てきたという。草笛は主にその被爆ベンジャミンの葉っぱで奏でる。この日は観葉植物のカポックも加え2種類の葉っぱで、「涙(なだ)そうそう」「原爆を許すまじ」「アメージンググレース」「戦争を知らない子どもたち」「上を向いて歩こう」など12曲を演奏した。

 作務衣姿の岡内さんが目を閉じ、左手の指で葉っぱを口に押し当てると、哀愁を帯びた草笛の大きな響きが会場を包み込んだ。その迫力は想像をはるかに超える。1枚の小さな葉っぱから出てくる音とは到底信じられないような音色に圧倒された。「音楽には全世界に平和を伝える力があると信じています。被爆樹木の葉っぱにこだわって、いつも魂を込めてふいています」。岡内さんは演奏の合間に、原爆を体験した人たちが作った詩も朗読した。「信じられない、信じられない。多くの死者を出したあの戦争を人間がしたこと。また人間が始めているということ。信じられない、信じられない」――。

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<100歳の詩人 柴田トヨ> 著名人36人が直筆した「くじけないで」展

2012年08月07日 | ひと模様

【片岡鶴太郎、日野原重明、小原宏貴、三国連太郎、佐藤可士和……】

 「著名人がつむぐ100歳の詩人 柴田トヨ くじけないで展」がいま、大阪高島屋で開かれている(14日まで)。トヨさんは1911年(明治44年)6月26日栃木市生まれ。一人息子健一さんの勧めで90歳を過ぎてから詩を作り始め、3年前に「私の葬式代で作ってほしい」と詩集「くじけないで」を自費出版、半年で1万部を完売した。これに着目した飛鳥新社が2010年に改訂版の「くじけないで」、さらに昨年には第2弾の詩集「百歳」を出版したところ、大きな反響を呼んで合計200万部を超えるベストセラーに。同展は著名人にお気に入りの詩を選んで揮毫してもらったものだが、いずれも筆使いの巧拙を超えて、トヨさんのほのぼのとした温かい詩の世界が1文字1文字に刻まれている。

   

 作品は揮毫した方々の名前の五十音順に並ぶ。小原宏貴(いけばな小原流家元、以下敬称略)が書いたのは『先生に』と題した作品(下の写真㊧)。「私をおばあちゃんと呼ばないで 『今日は何曜日?』『9+9は幾つ?』 そんなバカな質問もしないでほしい 『柴田さん 西条八十の詩は好きですか? 小泉内閣をどう思います?』 こんな質問ならうれしいわ』。トヨさんの作品について「一切の無駄な言葉を省くことによってストレートに想いを表現しており、一枝一枝の美しさや力強さを表現するため余分なものを省いていく、いけばなの〝引き算の美学〟とどこか共通している」という。

 

  片岡鶴太郎が揮毫した作品は最も多い20点が展示されていた。その中の『忘れる』(上の写真㊨)の後半はなかなか味わい深い。「忘れてゆくことの幸福 忘れてゆくことへのあきらめ ひぐらしの声が聞こえる」。トヨさんの詩については「1人の女性が歩んだ一本道 その道の季節の色が 匂いが私の心に迫り 切なく暖かく包む」と詩的な表現で印象を寄せている。三国連太郎も同じ『忘れる』を書いた。「迷わずこの詩を選ばせていただきました。人生の道しるべとでも言いましょうか。私なぞまだまだだなあと」。

 遠藤保仁(プロサッカー選手)が揮毫した作品は『被災地のあなたに』。「最愛の人を失い 大切なものを流され あなたの悲しみは計り知れません でも生きていれば きっといい事はあります お願いです あなたの心だけは流されないで 不幸の津波には負けないで」。菊池雄星(プロ野球選手)は堂々とした筆使いで『幸来橋』を揮毫。「奉公先でいじめられ 幸来橋のたもとで泣いている私を ふーちゃんががんばろうねって笑いかけてくれた 巴波川(うずまがわ)のせせらぎ 青い空 白い雲 幸せが来るという橋 やさしいふーちゃん がんばれる気がした 八十年前の私」。この詩の感想「80年前ということで今の自分と同じ年齢。自分も何気ない一言で救われたことがある。一期一会。自分も周囲と真剣に向き合っていきます」。

 佐藤可士和(アートディレクター)が揮毫したのは『貯金』という作品。「私ね 人からやさしさを貰ったら 心に貯金をしておくの さびしくなった時はそれを引き出して元気になる あなたも今から積んでおきなさい 年金よりいいわよ」。日野原重明(聖路加国際病院理事長)はトヨさんと同い年でトヨさんが3カ月余りお姉さん。トヨさんが100歳になる前年に作った作品『百歳』を揮毫した。「……両親も夫もお友だちも みんな逝ってしまった でも次の世で会えるわ 私 笑顔で会いたい そして いろいろなこと 話してあげたい 百歳のゴールを胸を張って駆けぬけよう」。トヨさん、百歳になって「人生、いつだってこれから!」。励まされるなぁ~、この言葉。

【柴田トヨさん101歳 老衰のため1月20日死去】(2013年1月21日記)以下は毎日新聞から。「栃木市出身。92歳で新聞の投稿欄に詩を送り始め、09年に平易な言葉で日常をつづった『くじけないで』を自費出版。10年に飛鳥新社から出版され、前向きな作風が中高年女性らの共感を集め、詩集では異例の150万部突破のベストセラーとなった。100歳を迎えた11年には『百歳』を出版、両作で計200万部を超えた」

 

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