く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<チングルマ(稚児車・珍車)> 白梅に似た花 一見草花、実は歴とした落葉低木

2015年07月30日 | 花の四季

【花後の冠毛が風車状に、別名「チゴノマイ」「イワグルマ」】

 バラ科ダイコンソウ属(チングルマ属などとする説も)の高山植物。7~8月頃、白い梅の花に似た5弁花を上向きにつける。高さ10~20cm、花径は2.5cmほど。中央部分は無数の雄しべ、雌しべで鮮やかな黄色。その可憐な花姿から一見〝草本〟と思われがちだが、歴とした〝木本〟の落葉低木で、枝が地面を這って広がってお花畑を形成する。

 本州中部以北の高山帯から北海道、カムチャッカ半島、アリューシャン列島にかけて分布する。雪田植物の1つで、雪渓の縁や砂礫地などに生える。群落地として有名なのは大雪山旭岳、八甲田山、秋田駒ケ岳、白馬八方尾根、立山室堂平、木曽御嶽山など。立山周辺などに自生し、花びらがうすいピンク色を帯びたものは特に「タテヤマチングルマ」と呼ばれる。

 花が終わった後、雌しべの花柱は伸び続け、赤紫色を帯びた綿毛状になる。長い綿毛が風にそよぐ様を稚児(子どもたち)が遊ぶ風車に見立てて「稚児車」となり、それが「チングルマ」に転訛したといわれる。一方で、「稚児車」は縁が丸くてかわいらしい花弁が車輪のように5枚並ぶ様子に由来するとも。

 別名「チゴノマイ(稚児の舞)」「イワグルマ(岩車)」。長い綿毛を持つ種子は風で遠くまで飛ばされ、紅葉の時期を迎えると山肌を赤く鮮やかに染める。それもチングルマの見どころの1つ。「チングルマむらがり咲いて未知の夜へ」(飯田龍太)。「チングルマほおけて風にゆれていき 父がめんごい花だと言いき」(鳥海昭子)。(写真は愛知県のS・Eさん提供。㊤北アルプス穂高・涸沢カール、㊦御嶽山)

コメント

<五條市「藤岡家住宅」> 「南方熊楠からの手紙」展を開催中

2015年07月27日 | メモ

【藤岡家先々代当主への手紙やはがきなど、初公開18点】

 奈良県五條市の旧家で登録有形文化財になっている「藤岡家住宅」で、「『南方熊楠からの手紙』展~新発見18の資料など」が開かれている。同住宅を管理するNPO法人「うちのの館」が昨年10~12月、藤岡家所蔵の書簡類を調査したところ、民俗学者南方熊楠(1867~1941)が先々代当主の藤岡長和(1888~1966)に宛てた直筆の封書やはがきなど18点が見つかった。その中には珍しい自画像が描かれたはがきも。会期は9月25日まで。

 藤岡長和が熊楠と知り合ったのは和歌山県理事官として和歌山に赴任した1918年(大正7年)。そのとき熊楠52歳、藤岡30歳。藤岡は熊楠の研究活動の良き理解者で支援者でもあった。その後、神戸、金沢、長野、岐阜などに転勤するが、1934年に官選知事として和歌山に戻ってきた。藤岡は俳人としても知られ(俳号・玉骨)、与謝野鉄幹・晶子とも交流があった。

 新発見の18点は1920年(大正9年)から22年(同11年)までの3年間に送られてきたもの。21年4月2日付の手紙では細かい字で闘鶏神社(田辺市)の社叢保全を切々と訴えている「凡そ此神林ほど天然記念物に富たる例なき……私人や私営会社の利益の為にかく迄よく保存し来りし神林を荒さる々は実に惜しむべきの至りに御座候」。

 そのひと月ほど前の3月9日付の手紙(上の写真)では「最も困るのは不意に色々のことを起す隣家のやり方にて、小生は妻子の為に少しも外出するを得ず」とぐちをこぼす。隣家とは「鶏小舎(とりごや)事件」で一悶着あった。熊楠は庭先の境界いっぱいに鶏舎を建てようとする隣家に対し、日陰になって粘菌の発生条件が変化して研究に支障が出ると抗議した。しかし隣家は聞く耳を持たなかった。下の写真㊧の短冊はその鬱憤晴らしのため「犬の糞の仇討」として描いたユーモラスなもの。

  

 藤岡が和歌山を離れてからも手紙のやり取りは続いた。1922年4月23日付の封書は「日本植物研究所」設立のために上京中の熊楠から神戸在住の藤岡に宛てたもの。その中で熊楠は「総理大臣其他諸大臣歴訪種々厚配に預かり……」「数日内に頭山満、三宅雪嶺二氏と談し致すつもり」と記す。当時の総理は高橋是清、頭山は右翼の超大物、三宅は哲学者・評論家で国粋主義団体「政教社」設立者の1人。熊楠の政界などとの幅広いつながりを示す。

 自画像のはがきは1920年11月、高野山滞在中の熊楠から送られてきた。黒い着物姿で、上部に「おや方がおや方那(な)くて暮の秋」と書かれていた。財布が空になったとして藤岡に資金援助をお願いしたものとみられる。水墨で雌雄のシオマネキとみられるカニを描いたものもあった。熊楠は採集した植物や菌類の綿密な写生画を大量に残しているが、これらの手紙や短冊に描かれた絵からも熊楠の鋭い観察眼と手慣れた筆致がうかがわれる。(下の写真は「藤岡家住宅」の外観と室内の広間)

 

 

コメント

<コマクサ(駒草)> 花の形を面長の駒(馬)に見立てて

2015年07月26日 | 花の四季

【高山植物の女王、ウスバキチョウの幼虫の食草】

 本州中部以北から北海道にかけて分布するケシ科の多年草。高山帯の砂礫地や岩の間など、他の植物が生息できそうにない厳しい環境下で、地中に長い根を張って群落をつくる。その可憐な姿から〝高山植物の女王〟と呼ばれている。

 7~8月ごろ、高さ10cmほどの花茎の先に紅紫色の花を数個、下向きにつける。花の色はうすいものや白っぽいものも。白花はシロバナコマクサと呼ばれる。4弁花。外側2枚は袋状で先端が大きく反り返り、内側2枚は合着して突出する。花の長さは2cmほど。その形を面長な馬の顔に見立ててその名が付いた。(上の写真は愛知県のS・Eさん提供、御嶽山三の池で)

 田中澄江著『花の百名山』はコマクサを白馬岳(長野)の代表的な花の1つとして挙げている。御嶽山(同)ではその花の汁で母の病気を治したという娘のお駒の伝説にちなんで「お駒草」と呼ばれる。霊薬「お百草」の原料として乱獲されて一時は絶滅寸前に。主な自生地は他に大雪山(北海道)、岩手山(岩手)、本白根山(群馬)、八ケ岳連峰硫黄岳(長野)など。11日には硫黄岳山荘で「駒草祭」、19日には群馬・万座温泉で「コマクサ祭り」が開かれた。

 ただ秋田、福島、群馬、岩手、山形など東北地方を中心に自生地域の多くの県が絶滅危惧種としてリストアップしている。北海道でも準絶滅危惧種。大雪山にはここだけに生息するウスバキチョウ(薄羽黄蝶)というアゲハチョウ科の蝶がいる。別名キイロウスバアゲハ。国の天然記念物だ。この蝶にとってコマクサは幼虫の大切な食草。大雪山でコマクサが絶滅すると、この蝶も絶滅してしまう。「駒草や朝しばらくは尾根はれて」(望月たかし)。

コメント

<山口祇園祭> 八坂神社ご神幸祭とお旅所で「鷺の舞」を奉納

2015年07月24日 | 祭り

【四角・六角・八画のお神輿3基、〝裸坊〟に担がれお旅所へ】

 山口七夕ちょうちんまつり、山口天神祭と並ぶ山口3大祭りの1つ、八坂神社(山口市上竪小路)の「山口祇園祭」が20日の御神幸祭を皮切りに始まった。京都の祇園祭を取り入れる形で祭礼が始まったのは約550年前の室町時代から。市内中心部では御還幸の27日まで様々な行事が繰り広げられる。

 御神幸祭は四角、六角、八角の3つのお神輿に祭神の素盞鳴尊や稲田姫命をお乗せして山口駅通りのお旅所までお送りする神事。地元の小学生の女の子4人が巫女さんの装束で「浦安の舞」を優雅に奉納した後、境内の一角で3台のお神輿を前に「鷺の舞」が奉納された。この舞は白鷺の作り物を身に着けて舞う風流(ふりゅう)芸能の1つ。京都・八坂神社から山口の八坂神社に伝わり、さらに山口から島根県津和野町の弥栄(やさか)神社に伝わった。

 

 本家の京都では早くに絶えてしまったが(近年復活)、山口の「鷺の舞」と津和野の「鷺舞」は今も続く。山口の「鷺の舞」は県指定、津和野の「鷺舞」は国指定の重要無形民俗文化財。「鷺の舞」には鷺役2人、小鼓を胸に下げた鞨鼓(かっこ)役の少年2人らが登場し、伝統の舞を披露した。古典芸能らしく単調な中にも雅な一面を感じさせる舞だった。この後、お神輿は約580人の〝裸坊〟に担がれ守られて、中心商店街を経由しお旅所に向かった。

 

コメント

<黒崎祇園山笠> 豪華絢爛な人形飾り山8基、電飾きらびやかに巡行

2015年07月24日 | 祭り

【ぐるぐる回転したり蛇行したり「けんか山笠」の異名も】

 戸畑祇園、小倉祇園とともに北九州3大祭祭りといわれる「黒崎祇園山笠」が17~20日の4日間にわたって北九州市八幡西区黒崎地区で繰り広げられた。春日神社、岡田宮、一宮神社の氏子によって約400年前から行われてきた伝統行事。今年は台風の影響で17日の山笠競演会が中止になったものの、その後の山笠8基が勢ぞろいする山笠大集合や太鼓競演会、街中巡行などは予定通り行われ、JR黒崎駅前の中心商店街などは多くの見物客でごった返した。

 黒崎祇園の山笠は豪華な人形飾り山で有名。ただ祇園祭に先駆けて行われる「お汐井取り」の神事だけは昔ながらの笹山笠の姿で行われる。この神事は山を清めると同時に祭りの無事を祈願するもの。笹山笠は福岡県の無形民俗文化財に指定されている。お囃子は関ケ原の合戦の陣太鼓の勇ましさを取り入れたものともいわれ、大太鼓・小太鼓・鉦(かね)に法螺貝が加わる。

 

 今年の山笠は大坂夏の陣や冬の陣、姉川の合戦、倶梨伽羅峠の戦いなどをテーマに、勇壮な戦国武将の人形などで飾り立てていた。山笠の動きは激しい。車輪を軸にして猛スピードで回転したり、蛇行したり、疾走したり。そのため「けんか山笠」の異名を持つ。19日夜、駅前商店街のアーケードが切れる四つ角で「熊手一番山笠」が回転を始めた。太鼓の連打と法螺貝に鼓舞されるように、時計回りにぐるぐる、ぐるぐる。10分間以上も続いただろうか。連続して回った回数は優に100回を超えた。日が落ち暗さが増すにつれ、各山笠は明るい電飾で一段ときらびやかさを増した。

 

コメント

<小倉祇園太鼓> 競演大会に約80団体出場、威勢よく〝暴れ打ち〟

2015年07月23日 | 祭り

【福岡県指定の無形民俗文化財、4年後は400周年の節目】

 福岡県の無形民俗文化財「小倉祇園太鼓」が17~19日、小倉城内の広場や目抜き通りを舞台に繰り広げられた。映画『無法松の一生』(稲垣浩監督、主演三船敏郎・高峰秀子)でも知られる小倉祇園は、全国的にも珍しい太鼓の両面打ちが大きな特徴。「太鼓祇園」とも称される。祭りの期間中、小倉のまちには威勢のいい太鼓の音が夜遅くまで鳴り響いた。

 小倉祇園は小倉城を築城した細川忠興が元和3年(1617年)、無病息災と城下町の繁栄を願って京都から祇園社(現在の八坂神社)を招請し、その翌年から始めた祇園祭が起源といわれる。2019年には400周年を迎える。江戸時代にはご神幸に趣向を凝らした山車や踊り屋台、人形引き車、笠鉾、踊り子などが繰り出す豪華なものだったという。

 

 今の形式となったのは明治以降。山車に太鼓を据え付け、調子を取るジャンガラ(摺り鉦)も加わってまちを流すようになった。両面打ちといっても、太鼓の表と裏では革の張り具合が異なり、音の高さも打法も違う。「小倉名物 太鼓の祇園 太鼓打ち出せ 元気出せ あっやっさやれやれ」。バチを手にした若衆たちはこのお囃子歌に合わせて勇壮に太鼓を打ち鳴らす。

 

 18日には小倉城大手門前広場で3時間半にわたって「第68回小倉祇園太鼓競演大会」が開かれた。出場したのは各町内会単位の「大人組」(31チーム)と「少年組」(35チーム)、それに主要企業の有志などでつくる「一般」(17チーム)の合計83チーム(うち6チームは模範団体)。山車が観覧席の前に差し掛かると、見事なバチさばきに大きな拍手が送られていた。

 

 観覧席脇の本部席のすぐ裏側には審査結果の一覧表が貼り出されていた。チームごとに「服装態度」「太鼓技術」の点数とその合計点が次々に書き込まれていく。演技を終えた法被姿の人たちは表を覗き込んでは一喜一憂。ある男性は高い点数に満足したのか、Vサインをしながら表の前でカメラに収まっていた。翌日19日には小倉城東側の小文字通りで、山車約70台が参加して「第41回太鼓広場『廻(まわ)り祇園』」も繰り広げられた。

 

 

コメント

<若松みなと祭り> 幼児や中学生たちも「五平太ばやし」を競演

2015年07月22日 | 祭り

【威勢よく樽太鼓、「ハァーわたしゃ若松みなとの育ち~」】

 洞海湾を挟んで若戸大橋で戸畑とつながる若松では17~19日に「若松みなと祭り」が繰り広げられた。その主な行事の1つが郷土芸能「五平太ばやし」。船の形をした山車が樽(たる)太鼓の音と囃子歌に合わせて商店街などを練り歩く。特設ステージでは幼児五平太ばやし発表会や中学生の競演会なども行われた。

 

 若松はかつて日本一の石炭積出港として栄えた。五平太とは石炭のこと。石炭を運ぶ船は川ひらたや五平太船と呼ばれた。船頭たちは激しい仕事の合間、船縁を叩きながら民謡やはやり歌を口ずさんだ。それが五平太ばやしの始まり。若松が生んだ芥川賞作家の火野葦平が作詞した。「ハァーわたしゃ若松みなとの育ち 黒いダイヤに命を賭ける わたしゃ若松五平太育ち」。6番まである。

 

 18日の幼児発表会には若松区内の保育所・保育園9チームが出場した。木樽の太鼓を木槌で叩きながら、囃子歌を声を張り上げて歌うちびっ子たち。そのほほえましい姿に会場から大きな拍手が送られた。幼児たちは演奏後、舞台での記念撮影に続いて五平太船に乗せてもらってニコニコ顔でまた写真撮影。幼児の発表会が終わると、続いて中学生や社会人グループによる競演会も行われた。

 この日夜には台風で1日順延になった「くきのうみ花火の祭典」もあって洞海湾の夏の夜を彩った。最終日19日には市民が松明を手に高塔山(124m)の「河童封じ地蔵」を目指して登る火まつり行事。これも火野葦平の発案で約60年前の1954年に始まった。今年は約1700人の市民が参加した。

コメント

<戸畑祇園ばやし競演会> 子ども山笠16チームが力強くお囃子を披露!

2015年07月22日 | 祭り

【今年で57回目、女の子たちも勇壮に「おおたろう囃子」】

 「戸畑祇園ばやし研究競演会」が19日、福岡県北九州市の戸畑市民会館「ウェルとばた」で開かれた。戸畑祇園大山笠は国指定の重要無形民俗文化財。祇園ばやし競演会は祭りの伝統やお囃子の技術を子どもたちに継承していく目的で1959年に始まった。今年で57回目。子どもたちにとって競演会はまさに晴れ舞台。今年は子ども山笠の小学生16チームが参加して日頃の練習の成果を存分に発揮してくれた。

 戸畑の祇園まつりは毎年7月の第4土曜日を挟んで3日間繰り広げられる。最大の見どころは中日の大山笠競演会(今年は25日)。古式ゆかしい昼間の幟(のぼり)山笠が、日が沈むと高さ10mの提灯山笠(重さ2.5トン)に姿を変え、これを約80人で担いで速さを競う。区内4地区から「東」「西」「天籟寺」「中原」の大山笠と中学生が担ぐ小若山笠の計8基が繰り出す。

 

 祭りの間、幟や人形で飾り立てた子ども山笠も小学生や幼児たちによって引き回される。その際、太鼓と鉦(かね)、チャンプク(合わせ鉦)で奏されるのが勇壮なお囃子「おおたろう囃子」。祇園ばやし競演会の舞台中央にはで~んと今年の当番山「東」の幟山笠。その前でこのお囃子が約2時間にわたって次々と披露された。中には大きな太鼓に姿が隠れるほどの小学2年生や3年生も。だが、おなかに響く太鼓の迫力はそんなちびっ子とは感じさせない力強さだった。司会者も演奏が終わるたびに「すごい」「うまい」を連発していた。

 

 参加した子どもたちの中には女の子の姿も目立った。太鼓も鉦もチャンプクも全員女の子という場面も。その息の合った演奏ぶりに司会者も思わず「3人とも女の子ですよ」と目を白黒させていた。子どもたちに続いて中学生による小若山笠4組が「獅子舞」「居神楽」「おおたろう囃子」「大上り」などを披露(写真㊨)。最後に大山笠の囃子方による模範演技が行われた。本番を1週間後に控えて熱い力演の連続。ただ、ひとつ残念なことが。小学生の指導者の一人が「最近はマンションが増えて、太鼓の音がうるさいといった苦情が寄せられることも。練習もままならなくなってきた」とこぼしていた。200年以上の長い歴史を持つ伝統行事。地域全体で温かく見守り育ててほしいものだ。

コメント

<ゲットウ(月桃)> ショウガ科の常緑多年草 大形の葉には防虫・防菌効果

2015年07月18日 | 花の四季

【沖縄名「サンニン」、葉で包み蒸す草餅「ムーチー」】

 ショウガ科アルピニア属(ハナミョウガ属)の常緑多年草。熱帯~亜熱帯性植物で、日本では沖縄や九州南部の大隅半島、屋久島、奄美大島、八丈島などに自生、海外では中国南部から台湾、マレーシア、インドなどにかけて分布する。ゲットウの名前は漢名の「月桃」の音読みから。属名から「アルピニア」と呼ばれることもある。英名は「シェルジンジャー」。

 背丈は2~3mほど。7月頃、長さ20~30cmの穂状の総状花序を下垂させて、20~30個の白花を次々に開いていく。その花の蕾(つぼみ)が桃に似ていることから「月桃」になったとも。花の内側は黄色で赤い縞模様が入る。葉は長さが40~50cm、幅が10~15cmほどもある大きな長楕円形。葉に黄色の斑(ふ)が入る「キフゲットウ」は観葉植物として人気が高い。台湾には背丈が4m以上になる「タイリンゲットウ」がある。

 沖縄などでは昔から「サンニン」や「サニン」などと呼ばれてきた。台湾産のゲットウから作られる生薬「砂仁(さじん)」に由来するともいわれる。奄美では「サネンバナ」として親しまれている。沖縄では古くから旧暦12月8日にゲットウの葉で包んで蒸した餅菓子を作って食べる習慣がある。この餅を食べることで1年の厄を払い、同時に家族の健康を祈願するもので、この日は「ムーチー(鬼餅)の日」と呼ばれている。

 葉の鞘部分は丈夫な繊維質からロープや漁網、草履などの材料として活用されてきた。最近では葉の爽やかな芳香や防虫・防菌・防カビ効果が改めて見直され、村おこしなどにつなげようとする動きも出てきた。既に様々な商品が開発されている。乾燥した葉を粉末にして練り込んだ沖縄そばやカステラをはじめ、化粧水、アロマオイル、石鹸、芳香剤、消臭剤、線香、障子紙・壁紙などの和紙……。大きな可能性を秘めた有用植物の1つといえそうだ。

コメント

<ぐるっと南紀⑥> 紀三井寺に国内最大の木造立像、見る者を圧倒する粉河寺本堂前の石庭

2015年07月17日 | 旅・想い出写真館

【興国寺の天狗堂、海亀の甲羅のような貴石が鎮座】

 能や歌舞伎、浄瑠璃の「安珍清姫物語」で有名な道成寺(日高川町)。蛇に化身した清姫が、鐘の中に身を隠した安珍を鐘もろともに焼き尽くす。石段を上って朱塗りの仁王門へ。能「道成寺」の乱拍子はこの石段62段を上る姿を表すという。安珍と釣鐘を葬ったという場所に「安珍塚」が立つ(写真㊧)。焼け落ちた鐘は数百年後再興されるが、清姫の怨霊によって再び落とされ、その鐘は京都・妙満寺の寺宝になったと伝えられる。「安珍塚」の近くには「鐘巻之跡」の石碑(㊨)があり、ここが初代の鐘楼があった場所といわれてきた。ただ最近、言い伝えは間違いで場所は全く違う所ともいわれる。

  

 興国寺(由良町)は鎌倉3代将軍源実朝の菩提を弔うため1227年に建立された。その後、真言宗から禅宗に宗旨替え、「関南第一禅林」として栄えた。わが国の径山寺(きんざんじ)味噌、醤油の発祥地として有名だが、虚無僧の普化(ふけ)尺八の本山としても知られる。今も8月15日の火祭りなどでは虚無僧による尺八が奏される。本堂で手を合わせた後、裏手の天狗堂へ。巨大な天狗様の左手前に「天狗命根石」という黒光りする石があった。まるで海亀の甲羅。由来書きによると「地球創成期の頃、地殻の噴出による火山岩でできた世界最大の大きさを誇る貴石」で、この石をなでながら天狗様にお願いすれば必ずかなうそうだ。

 

 長保寺(海南市)は長保2年(1000年)一条天皇の勅願により創建された。一条天皇といえば皇后2人のうち定子皇后のお付きの女官が清少納言、彰子皇后の女官が紫式部。本堂、大門(下の写真㊧)、多宝塔(㊨)は鎌倉~室町時代に再建されたものだが、いずれも国宝に指定されている。3つそろって国宝の寺は法隆寺とこの長保寺だけという。江戸時代には紀州徳川家の菩提寺となった。背後の山の斜面には歴代藩主の廟所が置かれ、国指定の史跡になっている。ただ5代藩主吉宗(後の8代将軍)と13代藩主慶福(後の14代将軍家茂)の廟所は江戸にあり、ここにはない。

 

 紀三井寺(和歌山市)は西国三十三所観音霊場の第2番札所。200段を超える長い石段は紀伊国屋文左衛門にちなんで「結縁坂」と呼ばれる。母を背負って観音様にお参りしていた文左衛門はここで宮司の娘かよと出会い、宮司の出資で始めたミカン船で財を成す。石段下の朱で縁取りした立て札には「登段最速記録は二一・九秒(元陸上100m日本記録保持者・青戸慎司選手)」と書かれていた。石段の途中には「見上ぐれば桜しもうて紀三井寺」という芭蕉の句碑。本堂正面にある仏殿では木造の立像としては国内最大という「大千手十一面観音像」が公開されていた。高さ12mの総漆金箔張り。現代日本を代表する京都の大仏師、松本明慶さんの作で8年前の2007年に紀三井寺へ納められた。

 

 紀三井寺に続く西国3番札所は紀ノ川北岸にある粉河寺(紀の川市)。西国札所の中で最大級の規模を誇る本堂の前面崖地を利用した石庭は桃山時代の築庭で、国指定の名勝。茶人としても知られる上田宗箇(1563~1650)の作庭といわれる。豊臣秀吉の家臣だった宗箇は関ケ原後、僧籍に入るが、後に還俗して紀州・浅野家に仕えた。用いた石は雑賀崎の青石(緑泥片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)など。これらの巨石をふんだんに使って作り上げた豪快な石組みの世界は見る者をただ圧倒する。

 

 

コメント

<ぐるっと南紀⑤> 博物学の巨星の足跡を辿る「南方熊楠記念館」

2015年07月16日 | 旅・想い出写真館

【太古の石灰岩が織り成す景観「白崎海岸」】

 和歌山が生んだ世界的な博物学の巨星、南方熊楠(1867~1941)。その生涯を紹介する「南方熊楠記念館」(和歌山県白浜町)は京大白浜水族館のすぐそば、番所山の山頂近くにあった。番所山の名は江戸時代に異国船監視のため「白崎遠見番所」が置かれたことにちなむ。記念館に至る急な坂道にはベンケイガ二の写真と「私たち散策中です! 踏まないようお願いします」と書いた立て札が所々に置かれていた。

 入り口の手前に昭和天皇のお歌が刻まれた石碑が立っていた。「雨にけふる神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」。熊楠は1929年6月1日、生物調査(粘菌)のため田辺湾内に浮かぶ神島(かしま)を訪れた昭和天皇をお迎えし、粘菌などについてご進講した。この歌は1962年、南紀行幸中に神島を遠くから眺められた昭和天皇が33年前を回想し熊楠をしのんで詠まれた。

 

 展示室に入る前にまず「森羅万象の巨人」(語り・故米倉斉加年)と題したビデオを見学。展示室は青少年時代から晩年までを6つのコーナーに分けて紹介する。熊楠は「読むということは写すこと」を信条とした。『和漢三才図会』『本草綱目』『大和本草』……。こうした百科事典や植物学などの主な和漢の書物を15歳頃までに全て筆写したという。細かい文字でびっしり埋め尽くされたノート類。それら写本の数々が熊楠の類まれな集中力と粘り強さを物語る。

 展示品の中に昭和天皇へのご進講の際、粘菌の標本を収めて進献した大きな森永ミルクキャラメル箱と同型のものがあった(下の写真㊧参照=記念館紹介パンフレットから)。当時、その箱に天皇も一瞬驚かれたが、「これが真の学者だ」とねぎらわれたという。ご進講の約1週間前、県から熊楠に届いた「進講決定の通牒」もあった。その「記」の末尾に「服装ハ相當御留意相成度」という1項目が加えられていた。ふだん軽装の浴衣姿などで、着るものに無頓着だったのを懸念したのだろう。館内の一角に熊楠がご進講当日着用した黒のフロックコートも展示されていた。

 

 ほかに、在米時代に特注で作った植物標本トランク、ロンドン時代に大英博物館に通って閲覧した文献の抄写「ロンドン抜書」、同博物館で知り合った孫文から贈られた帽子、民俗学者柳田國男と交わした手紙類なども展示されている。柳田との文通は熊楠から160通超、柳田から74通に達したという。ここからも熊楠の筆まめな一面が垣間見える。

    ☆☆☆☆☆☆     ☆☆☆☆☆☆     ☆☆☆☆☆☆

 白崎海岸(由良町)にはその名の通り、白一色の世界が広がっていた。海岸に落ち込む白い絶壁、氷山のように海中から顔を出す白い巨岩……。紀伊水道に突き出した岬全体が白い石灰岩で覆われる。この石灰岩、なんと2億5000年以上も昔の古生代ペルム紀のものという。日本の渚百選、日本の夕陽百選にも選ばれている景勝地。岬の先端にはオートキャンプ場やログハウスなども備えた「白崎海洋公園道の駅」があった。

 

 湯浅町の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのは10年ほど前の2006年。その湯浅を今回初めて訪ねた。来訪者駐車場脇の案内図を眺めていると、地元の中年男性がやって来て見どころなどを丁寧に教えてくれた。さらにそばの「老人憩いの家」で、展示中の写真パネルや歴史年表をもとに湯浅の歴史などについて説明してくれた。この後、北町通りを中心に散策。「行灯ミュージアム」には春の行灯アート展の入賞作品のほか、紀州名物の手まり、一筆書きの龍の墨絵なども飾られていた。ここでも親切な店主に巡り会えた。今度は町全体が温かい灯りに包まれる行灯アート展の時期に合わせて再訪したいものだ。

コメント

<ぐるっと南紀④> エビとカニに特化した〝日本一貧乏な水族館〟

2015年07月15日 | 旅・想い出写真館

【「すさみ海立エビとカニの水族館」9月には道の駅にお引っ越し】

 「すさみ海立エビとカニの水族館」は枯木灘を望む公園「日本童謡の園」内の高台にある。開館は16年前の1999年。鳥羽水族館でジュゴンの世界最長飼育などの実績を積んだ森拓也さんが退職後、「南紀熊野体験博」に合わせて開館した。自他共に認める〝日本一貧乏な水族館〟だが、今年9月の「道の駅」移転を機に飛躍を期す。

 入り口に係員はいない。入館者は料金箱に自ら入館料300円を投入する。迎えてくれるのは脚の長い世界最大のカニ・タカアシガニ。小さい水族館だが、他にも世界一がいっぱい。世界最大のエビ・アメリカンロブスター、世界一甲羅の大きいカニ・オーストラリアンキングクラブ、世界最大のヤドカリ・ヤシガニ……。アンボイナも「世界一危険な殺人貝」として展示されていた。矢舌(やぜつ)という猛毒の管を槍のように使って目にも止まらない速さで魚を捕らえる。沖縄では「ハブ貝」と呼ばれ、人の死亡事故も起きているそうだ。海水温の上昇に伴って近年は南紀の海でも生息が確認されており、展示中のアンボイナも3年前、地元すさみのイセエビ刺し網漁で採取したという。

 

 同じ1つの水槽に巨大なウツボと、イセエビの仲間で色が鮮やかなニシキエビが入っていた(最上段の写真)。ウツボは獰猛なため〝海のギャング〟とも称される。ニシキエビは大丈夫なのだろうか? そこにはタコが大きく関わっていた。タコの大好物はイセエビ。ウツボはタコが大好き。そこで同じ岩穴に潜むことで、ウツボはイセエビを狙って近づくタコを襲い、イセエビはウツボに身を守ってもらう。つまり両者は共生関係にあるというわけだ。(下の写真は㊧オーストラリアンキングクラブ、㊨ヤシガニ)

 

 館内の一角に「ヤドカリつり」のコーナーがあった。餌のスルメを付けた釣り糸を垂れると、早速数匹のヤドカリが餌の周りに集まってきた。そばにはクロナマコやサザエなどを自由に触れる「タッチングプール」も。「クリスタルヤドカリ」(下の写真㊨)は透明の樹脂が殻代わりで、普段目にできないヤドカリの殻の中が透けて見える。各水槽にはサポーター名が添えられていた。1口5000円で半年間、好きなエビやカニの仮親になることができるという。アイデア満載のアットホームな水族館だ。(下の写真㊧は〝殺人貝〟アンボイナ)

 

 今年9月には近畿自動車道紀勢線の延伸でIC近くにできる「道の駅」に引っ越す予定。すさみ町から誘致話があったもので、建物の規模は3倍、水槽の数は2倍になり、飼育する甲殻類も約150種と大幅に増える。これを機に水族館の名前も「すさみ町立エビとカニの水族館」と、「海立」が「町立」に変わる。ただ補助金ゼロの独立採算性は今後も変わらないそうだ。

コメント

<ハクサンコザクラ(白山小桜)> 白山~飯豊山の夏を彩る高山植物

2015年07月14日 | 花の四季

【サクラソウ属 仲間に桜草、九輪草、雪割草など】

 本州中部以北の日本海側の高山に分布するサクラソウ科サクラソウ属の多年草。7~8月頃、雪解け後の湿った草地などに群生して径2cmほどの可憐な花をつける。草丈は5~20cm。花色は紅紫色で、同じ仲間のサクラソウよりやや濃いめ。白花もある。一見花びらが10枚のように見えるが実際は5弁花で、花びらにハート形の深い切れ込みが入る。

 ハクサンコザクラは北海道に自生するエゾコザクラの変種とみなされている。その名は加賀(石川県)の白山で最初に見つかったことにちなむ。「ハクサン」を冠した植物は実に多い。ハクサンイチゲ、ハクサンオミナエシ、ハクサンシャクナゲ、ハクサンフウロ、ハクサントリカブト……。これは高山植物の研究が早くから白山を中心に行われ発見が早かったことによるもので、白山だけに自生する固有種を意味するわけではない。

 白山は自生の西限。山形・新潟県境にある飯豊山(いいでさん)が北東限となっている。その間の白馬岳、越後駒ケ岳、会津駒ケ岳などでも群落が見られ、青森県の岩木山には「ミチノクコザクラ」という大型の変種が自生する。田中澄江著『花の百名山』は火打山(新潟県)の代表的な高山植物としてハクサンコザクラを挙げている。

 別名「ナンキンコザクラ(南京小桜)」。日本固有の植物で、中国の南京から渡ってきたわけではないのに、なぜ南京? この南京という言葉。地名のほかに珍奇なもの、小さくて愛らしいものを意味する接頭語としても使われてきた。「南京玉すだれ」も日本発祥の伝統芸能なのに、頭にわざわざ「南京」がくっつく。ナンキンコザクラも「遠来の珍しい植物」として、こう呼ばれるようになったのではないかといわれる。(写真は愛知県のS・Eさん撮影)

コメント

<ぐるっと南紀③> 日本・トルコ友好の架け橋「トルコ記念館」「遭難慰霊碑」

2015年07月13日 | 旅・想い出写真館

【串本町5年に1回追悼式典、トルコの2つのまちと姉妹交流】

 大島の「トルコ記念館」はひと月ほど前の6月4日リニューアルオープンしたばかり。入館券には「№000654」という番号が刻まれていた。再オープン後の入場者数を表しているのだろうか。今から125年前のこと。トルコの軍艦エルトゥールル号が親善訪問した日本からの帰途、大島の樫野埼灯台直下の岩礁で難破、587人もの尊い命を失った。記念館に入ると、正面に犠牲者1人1人の名前が刻まれた銘板が飾られていた。

 沈没したエ号からはこれまでに7000点を超える遺品が引き上げられている。展示品の中に銃や巨大な調理鍋などとともに楽器のクラリネットのキーがあった。軍艦には24人の楽団員が乗っていたという。他に日本の皇室を表す菊花紋入りの磁器、当時ヨーロッパで最高級品といわれた有田焼(伊万里焼)、オスマン帝国皇帝から生存者を送り届けた日本海軍大尉に贈られた勲章なども。館内の小窓からは遭難現場の「船甲羅」と呼ばれる岩礁を見ることができた。そのあまりにも近いことに驚くとともに、胸を締め付けられる思いがした。(下の写真㊨がトルコ記念館)

 

 30年前のイラン・イラク戦争の渦中、日本政府が手をこまねく中でトルコ政府が2機の特別機を飛ばし置き去りにされたイラン在住日本人200人余を救出した。なぜトルコが日本を助けてくれたのか。当時の日本政府もマスコミもよく分からなかった。展示していた全国紙の新聞記事も「理由は明らかでない」と断ったうえ、「①日本もトルコもイラン・イラク両国にほぼ等距離外交姿勢をとっている②日本が対トルコ経済援助を強化している」ことなどを挙げていた。(下の写真は㊧遭難慰霊碑、㊨樫野埼灯台)

 

 その後、駐日トルコ大使が背景をこう明らかにした。「特別機を派遣した理由の1つがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは1890年のエルトゥールル号の海難事故です」。当時、大島の島民は言葉が通じない中、懸命に負傷者の救出と遺体の収容に当たった。その結果、乗組員69人が祖国に戻ることができた。展示品の中にトルコの小学校の教科書があった。そこには日本から遭難直後多くの義援金が届けられたこと、大島に慰霊碑や記念館が設けられていることなどが細かく紹介されていた。

 串本町は5年に1度、駐日トルコ大使館との共催で追悼式典を開いている。その5年目に当たる今年は日本・トルコ協会総裁の彬子女王をお迎えして6月初めに式典を行った。同町はトルコの2つのまち、ヤカケント町とメルシン市と姉妹都市提携を結んで相互に訪問し合うなど交流を続けている。

コメント

<ぐるっと南紀②> 「橋杭岩」串本から大島に向かって奇岩が林立

2015年07月12日 | 旅・想い出写真館

【捕鯨発祥の地・太地町は一見平穏だが……】

 なにかと話題を集める和歌山県太地町のイルカの追い込み漁。ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」で矢面に立たされたり、国際組織の圧力で日本動物園水族館協会が追い込み漁で捕獲したイルカの入手を禁止したり……。「わが国捕鯨発祥の地」ともいわれるだけあって、町に入るとクジラ一色。車で町内に入ると、実物大というザトウクジラ親子の巨大なモニュメントが出迎えてくれた。今は追い込み漁のシーズンオフ。ということもあって、町の様子も表面的には平穏だった。

 

 くじら浜公園内には「くじらの博物館」や「捕鯨船資料館」「海洋水族館」などがある。熊野灘を一望する梶取崎園地には「くじら供養塔」(写真㊧)があった。その前で毎年4月供養祭が行われるという。シカはここにも現れるらしい。園地の草むらに黒いコロコロとしたシカのフンの固まりがあり、若木は幹を保護するためか金網で囲まれていた。梶取崎灯台は日本最古の石造り灯台。岬の突端には「古式捕鯨梶取崎狼煙場(のろしば)跡」という記念碑(㊨)が立っていた。

 太地町に別れを告げた後は一路、橋杭岩へ。その景観はこれまで電車内から眺めるだけで、間近で見るのは今回が初めて。大小40余りの岩の柱が幅15m、長さ900mにわたり、大島に向かってまっすぐに伸びる。熊野灘の荒波が造りだした鬼ケ城とはまた一味違う不思議な奇岩・怪石の造形美。その雄大なスケールには、京都の有名な石庭も足元にも及ばない。この橋杭岩が生まれた背景には自然界のダイナミックな営みがあった。

  

 弘法大師にまつわるこんな伝説がある。天邪鬼と一晩で橋を架ける賭けをした大師が一夜にして立てた――。だが、実際には地下から上昇したマグマによる〝傑作〟という。マグマが泥岩層に入り込んで固まった後、波の浸食で軟らかい泥岩層が削られ硬い部分だけが残った。長く眺めていると、1つ1つの岩が個性を有し自己主張しているように見えた。お坊さんが大島に向かって手を合わせているような姿のものもあった。橋杭岩の周りにはあちこちに大きな岩、岩、岩。それらは橋杭岩の〝かけら〟という。朝焼けをバックに橋杭岩の写真を! 曇天でその願いはかなわなかったが、堂々と屹立する姿をしっかり目に焼き付けることができた。

コメント