く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ニラ(韮)> 中国原産、古くから栽培され食用や薬用に

2019年08月26日 | 花の四季

【古事記や万葉集にも登場、古名は「みら」】

 ヒガンバナ科ネギ属の多年草。原産地は中国西南部といわれ、古い時代に渡来し食用や薬用として栽培されてきた。ギョウザやニラレバ炒めなどによく使われる。8~9月頃、根元から高さ40~60cmの花茎を伸ばし、先端に白い小花を半球状に多数付ける。花は径1cmほど。星形の6弁花に見えるが、実際は花弁3枚とその下の苞3枚から成る。春に咲くハナニラ(花韮)は南米原産の帰化植物で、ニラとは全く別の植物で食用にはならない。

 古名は「美良(みら)」。万葉集に1首詠まれている。「伎波都久(きはつく)の岡のくくみらわれ摘めど籠(こ)にも満たなふ背なと摘まさね」(巻14―3444)。「くくみら」は「茎韮」でニラの花茎を指す。このみらが「にら」に転嫁したのではないかといわれる。古事記にも「加美良(かみら)」として登場する。中世に宮中で使われた女房詞(にようぼうことば)ではネギを表す「葱(き)」が「一文字」と呼ばれたのに対し、ニラは「二文字」と呼ばれた。

 ニラは栄養価が高い。漢方では葉が「韮白(きゅうはく)」、乾燥した種子は「韮子(きゅうし)」として強壮・健胃・整腸・風邪予防などの生薬として用いられる。匂いの原因物質は硫化アリルなどの硫黄酸化物。国内では高知県香南市やギョウザの町として有名な栃木県宇都宮市周辺が主産地になっている。ただニラはその強い匂いからニンニクやタマネギなどとともに精進料理では「五葷(ごくん)」と呼ばれ忌避されることが多い。禅宗のお寺の門前で見かける石碑「不許葷酒入山門」も、修行の妨げになる臭気の強い野菜類や酒の持ち込みを禁じることを示す。「足許にゆふぐれながき韮の花」(大野林火)

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<奈良市写真美術館> 「石内都 布の来歴―ひろしまから」展

2019年08月25日 | 美術

【入江泰吉が晩年に撮った大和路の「はな」展も同時開催】

 奈良市写真美術館で6月下旬から開催中の「石内都 布の来歴―ひろしまから」展も9月1日の閉幕まで残り僅か。つい最近広島平和記念資料館を訪ねたこともあって、ぜひ国際的な女性写真家石内都の作品を見なければ、と写真美術館に向かった。原爆犠牲者の衣服の写真には着物をほどいて縫い直したものが多い。まずその文様の美しさと風合いに見とれ、次いで親から子へ受け継がれた衣服の長い時の流れ、それをその時生身の人間が身に着けていたことにしばし思いを馳せた。

 石内都は1947年群馬県桐生市生まれ。79年に写真家の登竜門、木村伊兵衛写真賞を「Apartment」で受賞、2007年からは広島の原爆被爆者の遺品を撮影した「ひろしま」シリーズに継続的に取り組んでいる。14年には〝写真家のノーベル賞〟ともいわれるスウェーデンのハッセルブラッド国際写真賞を受賞した。作品は国内の主要美術館のほかニューヨーク近代美術館など世界各地の美術館にも収蔵されている。

 会場に入ってすぐ右手に丹前(どてら)のような厚手の明るい衣服の写真が展示されていた。着物をパッチワーク状に縫い直したのだろうか。その暖かそうな立体的な風合いはまるで実物を額の中に収めたよう。つい顔を壁に寄せて横から眺め実物でなく写真なのを確認してしまうほどだった。「ひろしま」シリーズの展示写真は衣服に加え布製の手提げかばんなどを合わせて14点。緑地に白い襟が付いた長袖の上着は女学生の通学服だろう、左腕の部分に「学徒隊」と縫い付けられていた。ピンク地に小さな花が散りばめられた可愛いワンピースは一部が焦げたり裂かれたりしていた。

 石内はこの展示会の開催にこんなコメントを寄せている。「広島に遺されている被爆死した人達が身にまとっていた衣類達のたたずまいは、痛々しい風貌よりも布の質感や色彩やデザインが戦前、戦中の時代にもかかわらずさほど古臭いとも貧相とも思わず、むしろ上質な布で仕立てられた手仕事の細やかな創意工夫の跡が人の手のあたたかさを充分感じさせた」

 展示会には「ひろしま」のほか「Rick Owens′kimono」「幼き布へ」「阿波人形浄瑠璃」などのシリーズ写真も展示中。展示点数は計45点。「Rick Owens′kimono」はファッションデザイナー、リック・オウエンスの父親の形見で、2年前に遺品の絽の着物などが石内の元に送られてきた。その父親は終戦の1945年に米軍兵士として来日して着物を買い求め、帰国後も着物を愛用していたそうだ。石内はコメントの中に「衣布は人間よりもはるかに長い時間を静かに過ごしている」と記す。

 同時開催の入江泰吉の「はな」展では1980年頃から亡くなる91年までに撮影した大和路の草花を中心に68点を展示。その中には長谷寺のボタン、室生寺のシャクナゲなど有名寺院の花のほか、ヒトリシズカ、ヒメユリ、ササユリ、ムラサキ、キキョウ、ワレモコウ、ナンバンギセル、ユキワリソウなど野山や路傍に人知れず咲く花の写真も多い。ヘクソカズラ(別名ヤイトバナ)はその汚名が気の毒だが、花の拡大写真の美しさにはつい目が引き寄せられた。

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<大山祗神社> 悠久の歴史を物語るクスノキの巨樹群

2019年08月18日 | 旅・想い出写真館

【38本が国の天然記念物に一括指定!】

 全国にある山祗(やまづみ)神社、三島神社の総本社「大山祗神社」は、瀬戸内海しまなみ海道の大三島(愛媛県今治市)に鎮座する。祭神は天照大神の兄神に当たる大山積大神。古代から〝日本総鎮守〟として崇められてきた。境内や原生林の社叢には悠久の歴史を物語るように巨大なクスノキの古木が多く、38本が一括して「大山祗神社のクスノキ群」として国の天然記念物に指定されている。

 中でも有名なのが境内の中央で石玉垣に囲まれた御神木「乎知命(または小千命、おちのみこと)御手植の楠」。乎知命は大山積大神を大三島の地に勧請したといわれ、このクスノキは推定樹齢が2600年とされている。これより古く日本最古といわれたクスノキもある。推定樹齢3000年の「能因法師雨乞の楠」。平安中期の僧侶・歌人能因法師はこの大木の前で「天の川苗代水にせきくだせ 天下ります神ならば神」と詠じて雨乞いを行った。すると伊予の国中三日三晩雨が降り続いたという。ただ、このクスノキは今では枯れ死して残骸だけが姿を留めている。

 

 奥の院に向かう途中には「生樹(いきき)の御門」と呼ばれる大木もある。こちらは愛媛県指定の天然記念物で、国指定には含まれていない。だが、根上がりで大きな空洞がぽっかり口を開けて参道を貫く様子は迫力があって参拝者の人気を集めているという。その存在を知ったのは残念ながら後日になってから。境内からさほど遠くなく、案内板もあったようだが、参拝後まっすぐ「国宝館」に向かったこともあって見逃したらしい。国宝館そばの「大三島海事博物館」の前には巨大なプロペラが展示されていた。直径5.9m、重さ約20トン。約5000台積載の自動車運搬船に使われていたという。今治造船グループが2007年に奉納した。

 

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<サッコウフジ(醋甲藤)> 紅紫色の総状花序を上向きに

2019年08月16日 | 花の四季

【ナツフジの仲間、「ムラサキナツフジ」の別名も】

 マメ科ナツフジ属のつる性の低木。日本の奄美群島から沖縄、台湾、中国南部にかけて分布する。和名は漢名「醋甲藤」の音読みから。江戸時代末期には観賞用の盆栽として栽培されていたそうだ。ナツフジの花色が白いのに対し、サッコウフジは濃い紫や紅紫の花を付けることから「ムラサキナツフジ」とも呼ばれる。

 花期は7~8月。フジは長い房状の花が垂れ下がるが、サッコウフジは上向きに咲く。葉はやや肉厚で光沢のある小葉7~9枚からなる奇数羽状複葉。花色や葉の形が変化に富み、分布域から「サツマサッコウフジ」(写真)や「タイワンサッコウフジ」と地域名を冠して呼ばれることもある。サツマは葉が丸みを帯び、花は紫がかった紅色なのに対し、タイワンは葉が細長く花は濃い紫色。秋になると長さ10cmほどの長い扁平状の豆果を付ける。

 学名は「Millettia reticulata(ミレッティア・レティクラタ)」。名付け親は英国の植物学者ジョージ・ベンサムで、18世紀に中国で活動したフランスの植物学者J.A.Millet(ミレー)への献名。種小名レティクラタは「網目状の」を意味するラテン語に由来する。

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<奈良県立美術館>「富本憲吉入門―彼はなぜ日本近代陶芸の巨匠なのか」

2019年08月15日 | 美術

【全162点、楽焼・白磁・染付・色絵磁器・金銀彩・墨画…】

 陶芸家富本憲吉(1886~1963)は奈良県安堵町の生まれ。ほぼ半世紀にわたる陶業の中で金銀彩技法を確立し、連続する4弁花(しべんか)や羊歯(シダ)など独自の模様を考案した。まさに日本近代陶芸の巨匠、人間国宝(重要無形文化財保持者)にも認定された。その富本の足跡と功績を辿る企画展がいま奈良県立美術館で開かれている。題して「富本憲吉入門―彼はなぜ日本近代陶芸の巨匠なのか」(9月1日まで)。

 富本が陶芸の道を歩み始めるのは留学先の英国から帰国後の1913年。自宅の裏庭に窯を造って楽焼の製作に着手した。親交のあったバーナード・リーチの影響が大きい。その後の陶業は創作の拠点から大きく大和時代(1913~26)、東京時代(26~46)、京都時代(46~63)の三つに分けられる。企画展は「はじめに、富本憲吉ってどんな人?」から始まり、3時代に「生い立ち」と「くらしを彩る―日用品の制作と量産の試み」を加え全5章で構成する。出品作品は陶器・磁器に書や墨画の屏風、額装なども合わせ計162点に上る。

 富本は大和時代、楽焼から白磁、染付と次第に幅を広げ、東京時代には色絵磁器、そして京都時代には金銀彩の技法を完成させた。富本は仕上がった壷20~30個を外に一列に並べては、最も形の整ったもの3分の1を白磁に、次の3分の1を染付に、残り3分の1を色絵の素地としたそうだ。それは「白磁の形は一切ゴマカシのない純一なものでなければならない」との考えによる。一方、形がいま一つのものを色絵用に回すのは、色彩や模様の装飾で〝一種の調整〟ができるからという。企画展にも「白磁八角壷」や新収蔵の「白磁壷」など、ボリューム感にあふれた美しいフォルムの白磁作品が多く並ぶ。

 「模様から模様を作るべからず」。富本はそれを信念とし、生活の中でふだん目にする自然から模様を作り出そうと心掛けた。そのため富本の作品にはアザミや竹、柳、スベリヒユなど身近な植物をモチーフにしたものが多い。4弁花模様はその延長線上で生まれた。発想の元になったのは奈良から苗を東京に運び玄関脇に植えていたつる性植物テイカカズラ(定家葛)。本来は5弁花だが、連続模様として使いやすいように4弁とし、花びらの捩れは花弁の形やシベの向きで表した。色絵4弁花模様の展示作品には明るい彩色が目を引く「飾壷」など新収蔵品も含まれている。

 京都時代のコーナーには代表作の一つ「赤地金銀彩羊歯模様 蓋付飾壷」(1953年)も並ぶ。富本はその前年の1952年頃、適温が異なるため不可能とされていた金と銀の同時焼き付けに成功し金銀彩技法を確立、同じ頃、連続する羊歯模様も考案した。金彩、金銀彩の作品群の周りには格調の高い華やかな雰囲気が漂う。最終第5章「くらしを彩る」には富本が手掛けた食器類や装身具の帯留、カフスボタン、ネクタイピンなども展示されている。1階ギャラリーでは安堵町による連携展示「憲吉が訪ねたぬくもりのある焼物」も開催中。

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<本薬師寺跡> 今年もホテイアオイの季節が到来!

2019年08月12日 | 花の四季

【畝傍山を借景に一面薄紫に、ハスの花との競演も】

 奈良県橿原市城殿町にある国の特別史跡「本薬師寺跡(もとやくしじあと)」。その周辺で今年も群生するホテイアオイの開花が始まった。2000年に地元の農業グループが休耕田を活用し植え付けを始めてから丸20年。一面を薄紫の花で埋め尽くすホテイアオイは、今では観光客にも人気の真夏の風物詩になっている。8月下旬から9月にかけて本格的な見頃シーズンを迎える。

 場所は近鉄畝傍御陵前駅から東へ約500m。ホテイアオイは本薬師寺跡を取り囲むように広がる。本薬師寺は天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願って建立したもので、藤原京の4大寺の一つといわれた。跡地に残る大きな礎石などが往時の壮大な伽藍を偲ばせる。平城京遷都に伴って奈良に造られた薬師寺は、規模や堂塔配置などを本薬師寺に倣って建立されたといわれる。

 ホテイアオイ畑の広さは約1.2ヘクタール。地元の小学校の生徒たちに手伝ってもらって毎年6月下旬に植え付けを行っている。朝開き夜に萎む一日花だが、次々に新しい花が咲き続ける。すぐ東側にはハス畑も広がっており、この時期はホテイアオイとハスの花を同時に楽しむことができる。若い女性が畦道を歩きながら大和三山の畝傍山などを借景にしきりに写真を撮っていた。

  

 ホテイアオイは熱帯アメリカ原産で、日本には明治中期に入ってきた。その名は浮き袋の役割を果たす大きく膨らんだ葉柄を、七福神の布袋様の太鼓腹に例えたもの。ただ繁殖力があまりにも旺盛なため「世界の侵略的外来種ワースト100」に選ばれ、環境省も「要注意外来生物」に指定している。ただ一面を薄紫に彩るホテイアオイの花には、そんなことを忘れさせてくれる美しさと涼やかさがあった。

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<飛鳥京跡苑池> 天皇の祭祀用? 北池に流水施設

2019年08月11日 | 考古・歴史

【現地説明会、1300年前の往時の姿が眼前に!】

 奈良県明日香村の国の史跡・名勝「飛鳥京跡苑池」の北池から湧き水を流す石組みの流水施設が見つかり、10日、県立橿原考古学研究所による現地説明会が開かれた。苑池には南北2つの池があり、島などを配した南池が観賞用として造られ、北池は貯水機能などを持つ付属的な池とみられていた。流水施設の出土により北池は天皇の禊(みそぎ)など神聖な祭祀の場だった可能性が高まってきた。

 同苑池は飛鳥川の右岸に位置し、飛鳥時代に断続的に4つの宮殿が置かれたとされる飛鳥宮跡の内郭のすぐ北西側にある。遺跡の範囲は南北約280m、東西約100m。北池の規模は南北で最大52m、東西で最大36m、広さは約1500㎡。流水施設は池の北東隅の張り出し部で見つかった。その施設は2つの石組み枡(ます)と石組みの溝、階段状の遺構、石敷きから成る。

 

 湧水点に設けられた最初の枡は一辺0.8~1.0mのほぼ正方形で、深さは約0.5m。ここから長さ2.1m・幅0.8mの溝を通って、2つ目のやや大きな枡に流れ込む。規模は一辺1.2~1.5m、深さ0.2m。その後、長さ7.0m・幅0.2mの溝で西側に進んで南北方向の石組み溝に接続する。湧水部と流水部を合わせた総延長は約11.5m。2つ目の枡の敷石は中央付近が緩やかに凹んでいた。ここで禊が行われたのではないかとみられる。

 石敷きは湧水部の西側に広がり、主に40cm大(最大70cm大)の石が敷き詰められていた。そばを流れる飛鳥川の川原石とみられる。石敷きの広さは約100㎡で、南北13m、東西8.5m。階段状遺構は湧水部の北側に位置し、最上段から石敷き面までの6段分が出土した。ただ当初は8段以上あったとみられ、下側の少なくとも2段分が石敷きの敷設に伴って壊されていた。

 

 発掘担当者によると、遺構の状態から湧水部や階段状遺構は7世紀中頃の斉明天皇(在位655~661)の時代に築かれ、流水部や石敷き、南北方向の石組み溝などは7世紀後半の天武天皇(在位673~686)の時代に改修されたとみられる。南北方向の石組み溝の北側延長線上からは平安時代以降の木樋も見つかっている。今回の発掘調査によって湧水部付近から水が湧き出し、きれいな水が飛鳥時代の溝を伝って流れていた。1300年余の時を経て、遺構に再び息が吹き込まれた。

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<宮島> 「龍髯の松」真横に伸びた幹は長さ30mにも!

2019年08月08日 | 旅・想い出写真館

【樹齢約200年、五重塔・千畳閣そばの茶店の前に】

 広島・宮島の厳島神社を見下ろす「塔之岡」に五重塔と〝千畳閣〟とも呼ばれる豊国神社が立つ。そこに向かう途中、茶店のすぐ前に「龍髯(りゅうぜん)の松」と呼ばれる目を瞠るような松の木があった。クロマツ2本で、五重塔方向に横に伸びる幹は総延長が約30mに達する。立て札には「植樹 西暦1800年頃 四代目育ての親 塔之岡茶屋」と記されていた。

 松の名は1926年に当時の厳島神社の宮司が横に長い松の樹形を龍の頬髯になぞらえて名付けたという。茶店の主人が代々丹精込めて世話をしており、毎年約10cmずつ伸びているそうだ。この茶店で観光客に人気なのが黄な粉をまぶした「太閤力餅」。ただ訪れた日は運悪く休業日で、口にできなかったのが少々心残りだった。

 

 「塔之岡」の名前の由来になっている五重塔(重文)は1407年の建立で、高さ27.6m。塔之岡は毛利元就と陶晴賢が戦った厳島合戦(1555年)の古戦場として知られる。五重塔は禅宗様に和様を加えた建築様式で、屋根の軒先の反り具合が大きく柱や垂木の朱塗りが美しい。内部は非公開だが、心柱は上から2層目で止まり地面まで達していないそうだ。塔内に安置されていた本尊三尊像は明治初年の神仏分離令により大願寺に移された。

 五重塔のすぐ前にある豊国神社(重文)は宮島最大の建造物。豊臣秀吉が1587年、大経堂(読経所)として安国寺恵瓊に命じて建立した。建物の総面積は縁を含め約1300㎡。俗に千畳閣と呼ばれるのも畳857枚分の広さがあることによる。建設途中に秀吉が逝去し工事が中止となったため、天井や板壁がなく未完成のままになっている。こちらの本尊木造釈迦如来坐像などの仏像も明治の初め大願寺に移され、1872年に秀吉を祀る豊国神社となった。

 

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<大四日市まつり> 大入道、鯨船、からくり山車…

2019年08月07日 | 祭り

【3日おどりの日、4日郷土の文化財と伝統芸能の日】

 三重県四日市市の中心街で3~4日「大四日市まつり」がにぎやかに繰り広げられた。1964年にスタートし今年で56回目。初日の3日は「おどりの日」、そして2日目は「郷土の文化財と伝統芸能の日」として市内各地に伝わる伝統芸能などが披露された。まつりの一番人気は首がなが~く伸びる巨大な「大入道」だが、昔の鯨漁の様子を再現した「鯨船」など多彩な出し物があって見応え満載の祭りだった。

 大入道は高さ1.8mの山車の上に身の丈4.5mの大入道を載せたもの。大入道は首が伸び縮みし最長2.7mになるため、最も高くなると全体で9mにも達する。山車が製作されたのは江戸後期の1805年といわれ、狸の悪事に困り果てた町民が大入道を作って狸を退散させたという民話もあるそうだ。この大入道、山車や人形の中で人形師6人が太鼓などの音に合わせて操っているという。首を長く伸ばし赤いベロを「あっかんべー」と出すと、見上げる観客から大きなどよめきと歓声。ただ、その異様な姿に母親にしがみついて「もう、帰る」と泣き喚く幼児もいた。


 鯨船は昔の捕鯨の様子を山車の船と張りぼての鯨で再現したもの。三重県北部の北勢各地に伝わり、富田地区の「鳥出神社の鯨船行事」は「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されている。今回は4隻のうち中島組の鯨船神徳丸が出演した。鯨船を生で見るのは今回が初めてだったが、鯨船の豪華な装飾や彫刻、張りぼての鯨の俊敏な動き、船上からモリを突いて鯨を仕留めた少年の誇らしげな所作などは見応えがあった。鯨船を曳く時に歌われる〝流し歌〟や大漁を祝って歌われる〝役歌(やくうた)〟の張りのある美声も印象に残った。鯨船はもう1隻、5年前に復活したという中部地区の鯨船勢州組も登場した。

 

 愉快で笑いを抑えられなかったのがからくり山車の「岩戸山」。日本神話で天岩戸の前で踊ったアメノウズメを題材としたもので、女神に化けた狸が大きな鉦鼓の音に驚いて正体を現す。そして腹鼓を打つうちに、なんと睾丸が大きな風船のように膨らむ。その後、狸が目にも留まらない早変わりでアメノウズメに変身した。からくり山車「甕破り(かめわり)」は命の尊さを説いた中国の故事「破甕救児」の様子を再現したもので、高価で貴重な甕の中に落ちた子どもを甕を割って救い出す。1945年の空襲で焼失した山車を四日市商店連合会が1980年に再建したという。

 

 からくり山車「菅公」に登場するのは菅原道真と2人の子どもで、子どもが筆で書いた文字を道真が褒める様子を再現する。この日書いた文字は「望」だった。この山車も空襲で焼失したが、2年後には再建され、からくり人形などもその後復元されたそうだ。ほかにも源頼朝が富士の裾野で催した狩りの様子を再現した仮装行列の「富士の巻狩り」、大小2基の神輿を担いで練り歩く「御諏訪神輿」、消防団による伝統技「はしご登り」、「諏訪太鼓」の演奏などもあって、祭り会場の三滝通りなどは夜遅くまで人の波でにぎわった。祭り翌日の5日早朝、商店街などにはごみ拾いする中学生や年配者たちの姿があった。

 

 

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<広島・原爆資料館> 入り口に被爆し佇む少女の大きな写真

2019年08月02日 | メモ

【長男「私の母では?」73年を経て身元が判明!】

 広島の暑い夏にまたあの日が近づいてきた。米軍による原爆投下から74年目。8月6日、広島平和記念公園では今年も恒例の平和記念式典が開かれる。公園内にある広島平和記念資料館(原爆資料館)はこの春、大規模な改修工事を終えてリニューアルオープンした。前回の見学は思い出せないほど遠い昔。館内では原爆の悲惨さを伝える展示物を熱心に見つめる修学旅行生や海外からの旅行者の姿が目立った。

 エレベーターで東館3階まで上ってから本館に向かう。本館は「被爆の実相」をテーマに「8月6日の惨状」「放射線による被害」「魂の叫び」「生きる」の4つのコーナーで構成する。入り口正面には「焼け跡に立つ少女」の巨大写真。毎日新聞のカメラマンが原爆投下の3日後に撮影した。右手を負傷した当時10歳の少女が正面を向き何かを訴えるような眼差しを投げかける。長い間、少女の身元は分からなかった。だが昨年8月、毎日新聞の「広島原爆アーカイブ」で偶然少女の写真を見た東京在住の男性が「母親ではないか」と名乗り出た。

 専門家が少女の写真と男性提供の写真を鑑定した結果、目や鼻、眉毛、前歯などの位置や形に加え負傷部位も一致して、少女は「藤井幸子(ゆきこ)さん」と判明した。幸子さんは爆心地から約1200mの自宅で被爆し、火災の直前に倒壊した家から脱出。成人後、結婚して2人の子どもに恵まれた。30代になってがんを患い、手術で持ち直したものの、がんの転移で体調不良が続いた。そして1977年に亡くなったという。享年42。本館出口に小さな少女の写真と男性提供の20歳の頃の幸子さんの写真が一緒に掲示されていた。

 

 東館の〝導入展示〟コーナーには被爆前後の町の変貌ぶりを対照的に示す巨大なパノラマ映像が壁面いっぱいに広がる。原爆投下のCG映像の周りには絶えず人垣ができていた。本館には遺族から寄せられた被爆者の遺品や惨状を示す写真などが所狭しと並ぶ。その中に当時3歳だった坊やが乗って遊んでいたという三輪車があった。被爆したのは爆心地から約1500mで、全身に大怪我と大火傷を負い、その晩「水、水…」とうめきながら亡くなったという。父親は頭に鉄兜をかぶせ三輪車とともに庭に埋めた。そして40年後、遺骨をお墓に移すため掘り起こすと、鉄兜の中に男児の丸い頭の骨がまだ残っていたそうだ。

 

 黒焦げの弁当箱は〝建物疎開〟の作業現場で被爆した中学1年の男子生徒が持参していたもの。母親が見つけた息子の遺体の下にあった。弁当は米・麦・大豆の混ぜご飯とジャガイモの千切りの油炒めだったが、中身は真っ黒に炭化していた。焼け焦げボロボロになった衣服が多い中で、まだきれいな女学生の制服があった。胸の名札には「廣島第一縣女 中島正子 血液型A型」。学徒動員先の建物疎開作業現場の近くに、きちんと折り畳んで置かれていたという。「原爆の子の像」のモデルにもなった佐々木禎子さんの折鶴も展示中。禎子さんは「折鶴を千羽折ると願い事が叶う」という言い伝えを信じ、入院中の1955年にひと月足らずで折り上げたそうだ。

 

【追記】(2023年12月10日) 冒頭の焼け跡に佇む少女の写真は、他の広島の被爆写真や映像とともに、ユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)登録候補として日本政府によって推薦されることになりました。政府は被爆80年にあたる2025年の登録を目指します。

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