く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<小澤征爾さん> 「世界のマエストロ」巨星墜つ!

2024年02月10日 | 音楽

【ライフワークだった松本の“サイトウ・キネン”】

 世界のクラシック界を牽引してきた指揮者小澤征爾さんが2月6日亡くなった。88歳。武者修行のため貨物船でヨーロッパに向かったのは23歳のとき。ブザンソン国際指揮者コンクール(フランス)での優勝がその後の飛躍の第一歩となった。「東洋人として西洋音楽をどれだけやれるか」。そんな思いを胸に全力疾走して、“世界のオザワ”まで上り詰めた小澤さん。中学の音楽の授業で、女性教師がその活躍ぶりをわが事のように熱く語っていたのがつい最近のように思い出される。(写真はいずれも長野県松本市での「第4回サイトウ・キネン・フェスティバル」の記者会見で=1995年8月14日)

 小澤さんはブザンソン優勝後、フランスからアメリカ、ドイツ、またアメリカと欧米を渡り歩いた。26歳の時には指揮者レナード・バーンスタインの招きでニューヨーク・フィルの副指揮者に就任。凱旋帰国したのは約2年半後の1961年4月だった。JALのニューヨーク・フィル特別機に同乗して羽田に降り立ち、家族や多くの友人たちの出迎えを受けた。バーンスタインから「お前は幸せな奴だなあ」と声を掛けられた。その間の活動は自著『ボクの音楽武者修行』に詳しい。

 ブザンソンでの快挙は日本の音楽家にも多くの刺激と勇気を与えた。ピアニスト舘野泉さんは自著『左手のコンチェルト』の中で「彼のやったことに驚き、青年の冒険心と音楽的な野望とに感動した」と記す。舘野さん自身、日本を離れて音楽に向き合ってみたいと考えていた時期に重なったため、そんな思いを強くしたのだろう。舘野さんはその後渡欧し、フィンランドに拠点を構えた。 

 小澤さんは友人で指揮者・作曲家の故山本直純さんから「自分は音楽のすそ野を広げる。おまえは世界を目指せ」と言われていたという。その後、40代にボストン交響楽団の音楽監督になった小澤さんはズービン・メータ、ロリン・マゼール、クラウディオ・アバドとともに“次代の四天王”と称されるように。

 小澤さんに大きな勇気をもらった一人に指揮者の佐渡裕さんがいる。1989年28歳のとき、ブザンソンコンクールに挑戦し見事優勝。ただ審査結果の発表前、本人は失敗の指揮だったと敗北感に覆われていた。そんな時、楽屋で小澤さんから「あんた、面白いっすよ」と声を掛けられる。「小さいときからあこがれていた“世界のオザワ”にそう言われ、感激で胸がいっぱいになった」。後ろ姿を見送りながら「それにしても大きな頭やなぁ。まるでライオン丸や」と驚いた(自著『僕はいかにして指揮者になったのか』)。

 新日本フィルを指揮し日本デビューを飾ったのも「佐渡に指揮をやらせろ」という小澤さんの強い推しがあったからという。佐渡さんはバースタイン最後の愛弟子ともいわれる。1999年には大阪の年末コンサート「サントリー1万人の第九」(83年スタート)の指揮を山本直純さんから引き継いだ。そんなところからもバーンスタイン―小澤―佐渡、小澤ー山本―佐渡という、深い縁と絆につい思いを馳せてしまう。

 バイオリニスト諏訪内晶子さんは小澤さんの暗譜力に驚かされた。「『人並みすぐれた』などという言葉で表現できる水準ではない。厖大なオーケストラ・スコアが隅から隅まで頭に入っていて、しかもリハーサルや以前のコンサートでご一緒させていただいたときの問題点、会心の部分などが寸分の狂いなくメモリ-に記録されている」(自著『ヴァイオリンと翔る』)。

 実弟小澤幹雄さんは著書『やわらかな兄征爾』の中で、兄を「努力型人間」と評す。「フランス政府の留学試験に落ち…スクーター旅行を思いつき…やっと富士重工からラビットスクーターを借りて貨物船に乗り込むあたりは、得意の『当たってくだけろ』精神だが、どうみても天才型の人間の姿ではない」。

 小澤さんにとって後半生のライフワークだったのが桐朋学園時代の恩師、斎藤秀雄さんの没後10年を機に結成した「サイトウ・キネン・オーケストラ」と長野県松本市での「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(後に「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」に改称)。バイオリニスト和 波孝禧さんは自著『音楽からの贈り物』にこう記している。「サイトウ・キネンのメンバーは、皆、音楽家として一家をなす人たちであり、ライバルと呼べる人も少なくない。だが、彼らと一緒だと実にリラックスした気持ちになれるから不思議だ」。

 小澤さんは27歳のときピアニスト江戸京子さんと結婚した(その後離婚)。ブザンソンのコンクールに応募し優勝できたのも、当時フランス留学中の彼女からコンクールの情報をもらったのがきっかけだった。その江戸京子さんが1月23日逝去との新聞記事が社会面に小さく載っていた。小澤さんの亡くなるわずか2週間前のことだった。2人は離婚後も良好な友人関係を保っていたという。お2人のご冥福を心からお祈りします。

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<若戸大橋> 国の重要文化財指定から丸2年

2024年02月09日 | メモ

【吉永小百合主演『玄海つれづれ節』などの舞台にも】

 福岡県北九州市の洞海湾を跨いで若松・戸畑間を結ぶ「若戸大橋」。2022年2月9日に国の重要文化財に指定されてからちょうど丸2年を迎えた。開通は62年前の1962年。“東洋一の吊橋”ともてはやされた橋は後の関門橋や本州四国連絡橋など長大橋時代を切り開く魁(さきがけ)となった。若戸大橋はこの間、映画の舞台や背景としても度々取り上げられてきた。

 最も印象に残るのが吉永小百合主演の『玄海つれづれ節』(出目昌伸監督)。1986年の公開作品で、たまたま入手したビデオで繰り返し視聴した。吉永小百合は多額の借金を残し蒸発した夫を探す妻役。それまでの清純派のイメージとは打って変わって、気が荒い男勝りの役柄を好演した。やくざ顔負けの啖呵を切ったり、借金返済のためソープ嬢になったり。当時流行のテクノカットという髪形がよく似合っていた。

 助演に凄腕の借金取り立て屋を演じた演歌歌手の八代亜紀と幼馴染み役の風間杜夫の2人(その八代亜紀が昨年末にまさか急逝していたとは……)。他に樹木希林、三船敏郎、草笛光子ら錚々たる役者も出演していた。ロケ地は若戸大橋を間近に望む若松の旅館と映画館。吉永小百合が若戸大橋の歩道をトランク片手に颯爽と歩くシーンもあった。その歩道も映画公開の翌年には車道4車線化のため廃止に。興行的にはいまひとつだったようだが、従来の吉永小百合の殻を破る貴重な作品だったことは間違いない。

 『でっかいでっかい野郎』(野村芳太郎監督)には渥美清が大酒飲みの暴れん坊役として主演した。1969年公開で、DVDで2回視聴した。三船敏郎主演の『無法松の一生』をオマージュしたようなコメディー映画で、保護司で医院の院長を長門裕之、その夫人を岩下志麻が演じ、2代目無法松を気取る渥美が院長夫人に想いを寄せる。人力車で若戸大橋を疾走する場面もあった。私娼役の香山美子も溌剌とした演技で魅力的だった。メモ帳によると、渥美清主演作では前年68年公開の『白昼堂々』(野村芳太郎監督)にも若戸大橋の場面があったようだけど、記憶が薄れてしまって┄┄。

 『ウィニング・パス』(中田新一監督)は2004年の公開作品。若松の自宅から戸畑に通う高校生小林健太役を映画初主演の松山ケンイチが演じた。4000人を超えるオーディションで選ばれたという。バイクで若戸大橋を渡るシーンも映し出される。健太はバイク事故で半身不随となり車椅子生活を余儀なくされることに。自暴自棄になっていた健太を救ったのは車椅子バスケットとの出合いだった。父親役を矢崎滋、妹を堀北真希、恋人を佐藤めぐみが演じた。

 森繁久彌主演の『社長漫遊記』(杉江敏男監督)は東宝の社長シリーズ16作目。渡米しアメリカかぶれになった社長役の森繁が小林桂樹や加東大介、三木のり平らとドタバタ喜劇を演じる。公開は1963年1月で、若戸大橋はその前年の9月に開通したばかり。その開通式や開通を記念した博覧会「若戸博」の実際の映像も流れた。

 『神様のくれた赤ん坊』(前田陽一監督)は1979年公開で、主演は桃井かおりと渡瀬恒彦。まだ若戸大橋に歩道があった頃の作品で、2人が歩道を歩くシーンも。他にDVDで視聴した『サッド ヴァケイション』(青山真治監督、2007年)や『旅猫リポート』(三木康一郎監督、2018年)にも若戸大橋が出ていた。燃えるような鮮烈な色合いで様々な画面に登場してきた若戸大橋。次はどんな映画に彩りを添えてくれるのだろうか?

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<平城宮いざない館> 「アフター 発掘された日本列島2023」展

2024年02月04日 | 考古・歴史

【幻の都「西京」が地下に眠る大阪府八尾市の遺跡など】

 平城宮跡歴史公園(奈良市)の平城宮いざない館で「アフター 発掘された日本列島2023」展が開かれている。「発掘された日本列島」展は文化庁が最新の遺跡発掘の成果を広く紹介しようと1995年度にスタートし、以来、毎年全国5カ所ほどを巡回してきた。ただ23年度は文化庁の京都移転が重なったため山梨と長崎の2カ所に絞って開催し、そのダイジェスト版を「アフター展」として奈良で開いているもの。会期は2月12日まで。

 展示は大きく「我がまちが誇る遺跡」と「新発見考古速報」の2本立て。「我がまち」では奈良時代後半に称徳天皇と僧の道鏡が新しい都として造営を進めた「西京」が地下に眠る大阪府八尾市の遺跡など3カ所を取り上げている。道鏡はヤマト王権の軍事・祭祀を担った古代氏族物部氏一族の弓削氏出身。ゆかりの弓削の里一帯には古代寺院の由義寺(ゆげでら)跡や久宝寺遺跡、渋川廃寺、高安千塚古墳群など道鏡や物部氏に関わる遺跡が多く残る。

 同展ではこれらの遺跡からの出土品をパネルとともに展示中。高安古墳群のうち横穴式石室の大石古墳からは口縁にミニチュアの壷や鳥を配した豪華な須恵器の装飾器台なども見つかっている。久宝寺遺跡からは大型掘っ立て柱の建物群の跡が出土した。物部氏の居館跡ではないかといわれている。また7世紀前半創建と推定される渋川廃寺も物部氏との関係が指摘される。

 由義寺は長く幻の寺といわれていたが、2017年に一辺約21.6mの大規模な塔の基壇が見つかり、その実在が確認された。塔は全国各地に建てられた国分寺の塔と同様、七重塔だった可能性も。跡地は翌年、国の史跡に指定された。その北東側からは都造りが進められていたことを示す水路や船着場なども確認されている。「西京」の造営は蘇我氏との戦いに敗れた物部氏の復権という願いも込められていたのだろう。だが、その都造りも770年、称徳天皇の崩御に伴って中止され、下野薬師寺(埼玉県)に放逐された道鏡も2年後に没した。

(弓削道鏡といえば、つい頭をよぎるのが極悪人説とともに“巨根伝説”。平安初期の説話集『日本霊異記』などで広がった。髙樹のぶ子の小説『明日香さん霊異記』の中にも「道鏡みたいに、精力絶倫が明日香ちゃんのお好みなんか……トホホ」といったくだりも。巷では「道鏡は座ると膝が三つでき」という川柳も詠まれた。ただ、あくまで創作ともいわれる。海音寺潮五郎は「(中国の歴史書)『史記』の呂不韋列伝にある宦官と始皇帝の母后の話が原型」と唱えた。つい最近、秦の始皇帝とその母と野心家の商人・呂不韋の3人を中心とする壮大な中国宮廷ドラマ「コウラン伝 始皇帝の母」(62話)を全巻視聴したばかり。展示コーナーを見ているうち、そんなことが次々に思い浮かんできた)

 「我が町が誇る遺跡」では全国屈指の貝塚密集地域・宮城県の仙台湾周辺の遺跡と、日本の窯業生産の発祥の地・猿投窯など名古屋市の遺跡も取り上げている。仙台湾の中にある里浜遺跡(東松山市)は日本最大級の貝塚。南境貝塚や沼津貝塚(ともに石巻市)などとともに土器や石器、骨角器などの出土品を展示中(上の写真)。猿投窯では古墳時代中期の5世紀初頭から須恵器づくりが始まり、鎌倉時代まで陶磁器の生産が続いて、その技術は常滑窯、瀬戸窯など各地の“六古窯”に引き継がれた。

 「新発見考古速報」では全国最多の子持勾玉(こもちまがたま)45点が出土した北大竹遺跡(埼玉県行田市)や、最新の調査で墳長が270~280mで佐紀山古墳群の中で最大と分かったウワナベ古墳(奈良市)、これまで存在が知られていなかった3基の円墳が見つかった下里見天神前遺跡(群馬県高崎市)など全国各地の遺跡を紹介している。(写真は下里見天神前遺跡の円墳の周溝から出土した馬形埴輪)

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