く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市写真美術館> M・ピアソン収集作品展

2020年12月02日 | 美術

【3期に分け紹介、第1回は「日常生活」テーマに】

 奈良市写真美術館で英国出身の写真収集家マーク・ピアソン氏のコレクション展「忘却の彼方へ―日本写真の黎明期から現在まで」が始まった。ピアソン氏は約30年前に来日し、日本をはじめ東アジア各地の著名写真家の作品を収集しながら活動を支援してきた。これまでに出版した写真集は約130冊に上り、写真文化を広く発信してきた功績が認められて、2020年日本写真協会賞国際賞を受賞したばかり。

 同展では2万点に及ぶ収集作品の中から自身が厳選した作品を3期に分け400~500点ずつ紹介する。1回目のテーマは「日常生活1850―1985」(来年2月14日まで)。写真が日本に伝来した幕末から明治期に内外の写真家が撮った古写真をはじめ、庶民の暮らしや風景、観光地などを切り取った約30人の作品がずらりと並ぶ。

 イタリアの写真家フェリーチェ・ベアト(1832~1909)は江戸末期の1863年頃に来日し各地の風景や風俗とともに大名、商人、旅芸人、魚売りなど様々な職業の人々をカメラに収めた。展示作品の中には「大」の字に磔にされ息絶えた青年の姿が写った残酷なものもあった。その説明文には「木曽村で主人とその息子を殺した罪で処刑された壮吉23歳」とあった。「下層階級 街の一群」と題された写真には粗末な綿入れの着物姿で幼子を背負う少女たちが写っていた。これは1867年の光景。

 日下部金兵衛(1841~1934)はベアトの助手を務めた後、横浜で写真館を開業。江戸初期に撮った大阪・戎橋や京都・金閣寺などの風景写真が展示されている。桑原史成(1936~)の「筑豊」という作品群の中ではボタ山でまだ使えそうな石炭のボタを拾う母親と少女の後姿を撮らえた写真が印象に残った。ピアソン氏は先祖の数人が英国北東部の炭鉱で働いていたということもあって、この一連の「筑豊」の写真について「最も直接的に私に訴えかけてくる」と記している。

 他に木村伊兵衛(1901~74)や入江泰吉(1905~92)、三里塚闘争を撮り続けた浜口タカシ(1931~2018)、在日韓国・朝鮮人などをテーマとした井上青龍(1931~88)、写真集『人間の記憶』で土門拳賞を受賞した須田一政(1940~2019)、映画監督としても活躍中の荒木経惟(1940~)らの作品も並ぶ。会場の奈良市写真美術館館長を務める百々俊二(1947~)の1980~85年の作品「新世界むかしも今も」16点も展示されている。

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<中尾山古墳> 三段築成の八角墳、外周も三重の石敷き

2020年12月01日 | 考古・歴史

【文武天皇陵か 明日香村教委が現地を一般公開】

 奈良県明日香村平田にある終末期古墳「中尾山古墳」の規模や構造がこれまでの発掘調査で明らかになり、明日香村教育委員会は11月28~29日現地見学会を開いた。墳丘は飛鳥時代後半の天皇陵に特徴的な八角形で、外周も三重の石敷きで化粧されていた。考古学者の間では「文武天皇陵」との見方が高まっている。

 中尾山古墳の場所は国営飛鳥歴史公園高松塚古墳周辺地区内の一角。極彩色の壁画で有名な高松塚古墳の約200m北側に位置する。高松塚古墳の南には宮内庁により文武天皇の陵墓と治定されている檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)もある。中尾山古墳は陵墓指定から外れているため、明日香村教委などによる発掘調査が可能だった。

 

 調査によると墳丘は三段築成の八角墳で、高さは4m以上、幅(対辺長)は約19.5m。一段目と二段目は拳大~人頭大の石材を垂直に積み上げた基壇状の石積み、最上段の三段目は版築の盛り土で整形されていた。三段目の墳丘東側で鎌倉時代の盗掘孔が確認されている。また墳丘の裾部から外周の石敷きが三重に巡らされていることも分かった。その石敷きの三重目の対辺長は約32.5mだった。

 

 埋葬施設は10個の切石で構成される横口式石槨で、内法の規模は高さ、幅、奥行きのいずれも約90cm。床面中央の60cm四方が深さ1cmの凹状に削られており、そこに火葬骨を納めた蔵骨器を安置する台が設置されていたとみられる。石室内部の壁面は丁寧に磨かれており、全面が赤い顔料の水銀朱が塗布されていたことも確認された。

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