く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<高校ラグビー> V候補の東福岡、20トライ・139点で圧勝!

2016年12月31日 | スポーツ

【Bシードの秋田工と国学院栃木は2回戦で姿消す】

 東大阪市花園ラグビー場で開催中の第96回全国高校ラグビー大会は30日、2回戦16試合が行われ、シード校(A3校・B10校)が初登場した。Aシードでは優勝候補の筆頭、東福岡が浜松工(静岡)相手に20トライをあげ大会最多得点の139―0で圧勝、御所実(奈良)と前年準優勝の桐蔭学園(神奈川)も順当に元日の3回戦に進んだ。Bリードでは秋田工が報徳学園(兵庫)に敗退し、国学院栃木は日本航空石川と引き分け抽選の結果、3回戦進出を阻まれた。(写真は浜松工相手に縦横に走り回りトライを量産した東福岡の選手たち)

 東福岡がスピードとパワーで圧倒的な力の差を見せつけた。1年前は準決勝で東海大仰星(大阪第1)に22―24で決勝進出を阻まれており、2大会ぶり6回目の全国制覇を目指す。今シーズンは4月の全国高校選抜大会と7月の全国高校7人制を制しており、今大会で3冠達成も狙う。秋の福岡県予選では4戦で被トライは僅か1つだけ、総得点は445点と1試合平均100点を超えた。この日の浜松工戦でも平均体重約100キロの強力なFWとBKが一体となった速攻が光った。3回戦の相手は山形中央、山口を破った松山聖陵(愛媛)。

 

(上の写真は㊧御所実―尾道、㊨東海大仰星―光泉)

 御所実は2年ぶり10回目の出場。毎年奈良県予選で天理と熱い戦いを繰り広げており、今年は天理を18―7で破って花園に駒を進めた。Aシードは今回で2回目。初戦はノーシードとは思えない尾道(広島)の力強い攻撃に手を焼き再三ゴール近くまで攻め込まれたが、ゴールを割らせない粘り強い堅守が目を引き26―0で零封。桐蔭学園も33―7で流通経大柏(千葉)を退けた。3回戦では御所実は大分舞鶴、青森北を撃破し勝ち上がった茗渓学園(茨城)と、桐蔭学園は鹿児島実、明大中野(東京第2)を破った新潟工と対戦する。

 

(上の写真は㊧東京―岡谷工、㊨深谷―長崎北陽台) 

 Bシードでは前回優勝の東海大仰星が光泉(滋賀)を61―5と寄せつけず、春の選抜ベスト4の東京(東京第1)も岡谷工(長野)を73―5で退けた。京都府予選で伏見工・京都工学院を僅差で破って花園出場を果たした京都成章も高鍋(宮崎)に46―5と圧勝。秋田工は後半の追い上げも及ばず報徳学園に19―24で破れた。国学院栃木は後半終了間際のトライで日本航空石川に追いつき19―19で引き分けたが、抽選で日本航空石川の3回戦進出が決まった。このほか常翔学園(大阪第2)、大阪桐蔭(大阪第3)、中部大春日丘(愛知)、深谷(埼玉)、石見智翠館(島根)も3回戦に駒を進めた。(写真は上段㊧松山聖陵―山口、㊨大阪桐蔭―朝明、下段㊧常翔学園―佐賀工、㊨日本航空石川―国学院栃木)

 

 

 

コメント

<BOOK> 「外国人がムッとするヤバイしぐさ」

2016年12月29日 | BOOK

【ジャニカ・サウスウィック、晴山陽一共著、青春出版社発行】

 ジャニカ・サウスウィックさんは米国のユタ州出身。上智大学を卒業後、15年以上にわたってNHKの「基礎英語」「えいごリアン」などに出演する傍ら、タレント事務所、キッズ英会話教室なども経営。著書に『ジャニカの5秒で返信!英会話』などがある。共著者の晴山陽一氏は早稲田大学卒業後、出版社に入り英語教材の開発を手掛け、1997年に執筆活動のため独立。著書に『たった100単語の英会話』『英単語速習術』など。

       

 ジャニカさんは本書執筆の狙いを「はじめに」の中で「日本のよさを知らない外国人たちから、いわれのない誤解を受けないための『必要最小限のアドバイス』をしたいと思い」と記す。ジャニカさんが英語で書いたそれらのアドバイスを晴山氏が訳し編集した。誤解を招きやすい日本人の「ヤバイしぐさ」全73項目を、危険度別に「絶対ダメ!」レベルから「私なら許すけど!」レベルまで5段階に分けて紹介する。

 危険度レベル5の「絶対ダメ!」は全部で15項目。その一部を列挙すると――「中指使い」は見るのもイヤな危険なしぐさ▽鼻をすする日本人に、心の中で「オェ~」▽弱々しい握手は印象最悪…ホントに気持ち悪いんです▽ゲップをするくらいなら、オナラのほうがまし!▽日本人の「OKサイン」にドキッ!▽外国人の子どもの頭は、なでてはいけません!▽約束の時間より前にやってくるのは迷惑です!――など。危険度レベル4の「やめてください!」には▽なぜ、笑うとき口を手でふさぐの?▽写真を撮るときに、ピースサインって…▽声をかけずに、人の前をスッと横切る▽「すみません」「すみません」と言いすぎ!▽愚妻や愚息など、家族のことを悪く言う▽下ネタ連発もNG! まだまだ見かけるセクハラ行為――など。

 レベル3の「以外かもしれないけれど!」、レベル2の「気をつけて!」には▽プレゼントをもらっても、その場で開けないのはナゼ?▽ブランドものを見せびらかしすぎます▽パーティーなどに夫婦同伴で来ない▽「つまらないものですが」は日本人同士に限って▽音を消すためにトイレの水を2回流す▽なぜ日本人は、人前であんなに酔っ払うの?▽目が合ったのに、挨拶せずにスルーって…▽混んだ電車の中で人に触れてもダンマリ――などが並ぶ。「私なら許すけど!」のレベル1は、▽乾杯するとき、グラスをカチンッと合わせる▽会席のとき、座る位置に異常にこだわる▽食べるとき皿や器を持ち上げる――など。

 本書を通じて何気ない日本人の仕草や行動の中に、欧米人の目には奇異や不快に映るものが実に多いことに改めて気づかされた。日本人の美徳の一つとされてきた謙遜する態度も欧米人には分かりにくく、逆に自信のなさや弱々しさを感じさせているようだ。日本と欧米の文化や風習、生活習慣などの違いもあるけど、率直な指摘にはやはり謙虚に耳を傾けるべきだろう。

コメント

<ヤマガラ> 餌の少ない真冬に備えヒマワリの種をあちこちに〝貯食〟

2016年12月28日 | 小鳥たち

【隠した場所98%も記憶! かつてヒマワリが発芽したことも】

 わが家の庭にやって来る小鳥のヤマガラ(シジュウカラ科)がせっせと〝貯食〟に励んでいる。軒先に吊るした給餌籠からヒマワリの種を1個くわえては、数メートル離れた木々の根元や幹・枝の隙間、草花の鉢の内側など、あちこちに打ち込んだり差し込んだり。この貯食の習性はオナガやコガラ、ゴジュウガラ、カケスなどにも見られるという。木の実など餌が少なくなる真冬に備えているのだろう。

 ヤマガラは隠したヒマワリの種を後で取り出して食べるのだが、何十カ所にも分散した貯食場所を覚えているのだろうか。貯食に触れた本をめくっていると「隠した種や実が忘れられて発芽することもある」という記述をたまに目にする。実際、わが家でも草花の鉢の隅から急にヒマワリが発芽し、ひょろひょろと高さが40~50cmにもなったことがあった。

 

 ただ、柴田佳秀著『鳥の雑学がよ~くわかる本』によると、鳥類学者の樋口広芳氏(元東京大学教授)が伊豆諸島の三宅島でヤマガラの貯食行動を観察したところ、ヤマガラは種や実を隠した場所をなんと98%もの高い確率で覚えていたという。わが家でヒマワリが発芽したのもヤマガラが忘れたのではなく、たまたま暖かい日が続いて取り出す前に芽が出てきたのかもしれない。小鳥たちの脳は実にちっぽけ。だけど、その記憶力には人智を超えるものがあるようだ。

 

コメント

<橿原考古研付属博物館> 特別陳列「十二支の考古学 酉」

2016年12月22日 | 考古・歴史

【年末年始恒例の干支シリーズ、鶏の埴輪や最古の「酉年」木簡など】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)で特別陳列「十二支の考古学 酉」が始まった。年末年始恒例の干支シリーズで、今回の展示で一巡する。新年2017年は十干十二支の呼称では「丁酉(ひのとのとり)」に当たる。今展では県内各地から出土した鶏の埴輪をはじめ、「酉年」の文字が記された日本最古の木簡、つがいの鶏が刻まれた古墳時代の鏡など「とり」に関する考古資料26点を展示中。会期は新年1月15日まで。(下の写真は㊧掖上鑵子塚古墳から出土した大型の鶏の埴輪、㊨一町西遺跡出土の板絵に描かれた鶏)

 

 日本で現存する最古の「酉年」の紀年銘木簡は7世紀後半の藤原宮跡の基幹排水溝跡から見つかった。左半分が欠けているが「辛酉年三月十日」と読める。その「辛酉年(かのとのとりどし)」は斉明天皇7年(661年)に当たるとみられる。伝金庾信墓と伝真徳王陵(いずれも韓国慶州市)の「十二支獣首人身像」のうち酉像拓本も展示されている。

 鶏は稲作とともに大陸から持ち込まれたとみられ、弥生時代の遺跡から鶏の骨が出土している。3世紀前半の纏向石塚古墳(桜井市)出土の「鶏形木製品」は鶏冠(とさか)部分に半円形の孔があり、紐を通し吊り下げて使われたとみられる。全体が赤く塗られているのは邪悪なものを祓う意味が込められていたと考えられている。古墳時代には鶏の埴輪が形象埴輪の一つとして古墳の周囲に並べられた。

  

 鶏埴輪は県内9カ所から出土したものを展示中。そのうち掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(御所市)から出土した大型の埴輪は家・水鳥・蓋(きぬがさ)・冑(かぶと)などの埴輪とともに見つかった。尾の形は横に平たい「横尾」。蹴爪があることから雄とみられる。四条1号墳(橿原市)出土の鶏埴輪の尾はアーチ状に曲がっていることから「筒尾(つつお)」と呼ばれる。鶏埴輪の尾にはほかに「縦尾」という形もある。(上の写真は㊧纏向石塚古墳出土の鶏形木製品、㊥奈良教育大学付属中学校の敷地内から出土した鶏埴輪、㊨領家山古墳出土の鶏埴輪)

 国内で鶏が食用として大量飼育され始めるのは19世紀以降。それ以前は主に食用ではなく、闇にまぎれて近づく魑魅魍魎(ちみもうりょう)を退散させ、朝を告げる役割を担う鳥として雌雄つがいで飼われていた。4世紀前半の前方後円墳、佐味田宝塚古墳(河合町)から出土した「家屋文鏡」には、刻まれた4棟の建物のうち3棟にひとつがいの鶏とみられる鳥が2羽ずつ屋根の上に止まる。

 11世紀の一町西(かずちょうにし)遺跡(橿原市)からは人形(ひとがた)や斎串(いぐし)などとともに4枚の板絵が出土した。長さ33.5cm、幅11cm、厚さ0,2cmのヒノキの薄板に馬・牛・羊・犬とともに鶏が墨で描かれている。この板絵についてはお祓いに使用する御贖物(みあがもの=罪や穢れをあがなうため神に差し出すもの)として使われた動物形代の可能性が指摘されている。

コメント

<奈良市埋文センター> 秋季特別展「奈良を掘る―奈良の遺跡のモノ語り」

2016年12月09日 | 考古・歴史

【約30のテーマに沿って発掘の成果を一堂に】

 奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺西)で秋季特別展「奈良を掘る―奈良の遺跡のモノ語り」が開かれている。同センターが発足したのは今から33年前の1983年。以来、平城京地域での発掘調査を中心に多くの成果を上げてきた。特別展は約1年半にわたって奈良新聞に連載した「奈良を掘る」の企画記事をもとに、約30のテーマを立てて出土品とパネルで紹介するもの。〝地下の正倉院〟とも形容される平城京跡の埋蔵文化財の奥深さを改めて感じさせてくれる。12月28日まで。

・「陶製井戸枠」(上の写真)=1999年、平城京左京三条五坊(大宮一丁目)から出土した。直径約1m、高さ1.1mの円筒形で、上下両端の厚さが約6cmもある。平城京で発掘される井戸の大半は木組みで、陶製は他に出土例がない珍しいもの。搬出には大変苦労したそうだ。市立大安寺西小学校の建設前の発掘調査(左京五条二坊)では井戸の中から祭祀具や独楽(こま)、桧扇などとともにくりぬきの釣瓶(つるべ、下の写真㊧)が出土した。

 

・「大安寺の風鐸」(上の写真㊨)=旧境内の西塔発掘調査で大小2種の風鐸が出土。小形品は長さ約30cmで漆金が残っていた。南都七大寺で初となる完形の出土品。大型品は破片で見つかったが長さ45~55cmに復元でき、復元可能な風鐸としては国内最大。小形品は塔の相輪部に、大型品は軒隅に吊られていたとみられる。塔本体の最下層の平面規模は約12m四方と判明した。現存する興福寺五重塔が8.85m、京都の東寺五重塔でも9.48mなので、大安寺の塔がいかに大きかったかが分かる。

 

・「イスラム陶器とココヤシの実」(上の写真㊧)=イスラム陶器は2009年に西大寺旧境内から出土した。青緑色の光沢のある輝きが美しい。遣唐使が唐の揚州や明州といった港湾都市で入手したか、新羅の中継貿易を通じて持ち込まれたとみられる。ココヤシの実は平城京内の井戸から見つかった。正倉院の宝物の中には香木、象牙、夜光貝など南方からの交易品も多い。イスラム陶器やココヤシも海上交易のネットワークを通じてもたらされたとみられ、平城京が〝海のシルクロード〟の終着点だったことを改めて示す。

・「胞衣壷(えなつぼ)」(上の写真㊨)=出産時に排出される胞衣(胎盤)を納めた容器。左京五条五坊十坪(西木辻町)で出土した須恵器で、中から銭貨5枚も見つかった。日本最古の医学書『医心方』(984年)には胞衣の埋納方法として▽新品の容器を使用▽銭貨5枚を底に納める▽男子には新品の筆一つを添えるとよい――などが記されているという。出土した壷はふたが割れて土砂が流入しており、「筆は胞衣とともに腐ってしまったのかもしれません」とのこと。胞衣壷の埋納は出産後の重要な儀礼の一つとして江戸時代には一般化していたそうだが、もともとは奈良時代に始まったようだ。その習俗もほとんど絶えてしまったが、わが子を思う親心は昔も今も変わらないということだろう。

 

・「壷形と笠形の錘(おもり)」(写真㊧)=壷形の錘は西九条町にある工場内の奈良時代の井戸から見つかった。銅製で高さ4.8cm、重さ329.1g。奈良時代の重量を示す単位には斤・両・分などがあり、1斤(671g前後)が16両だった。それに照らすと、この錘はほぼ半斤(8両)に相当する。上部の突起には吊り下げるための紐を通す孔も。市指定文化財。平城京跡からは2カ所で笠形の銅製の錘が1点ずつ出土している。こちらは174.3gと40gあまりで、それぞれ4両と1両の錘だった可能性が高い。

・「蛭藻金(ひるもきん)」(写真㊨)=北室町の「中近世奈良遺跡」から出土した。江戸時代の小判の原形ともいえる戦国時代の貨幣。金を打ちたたいて板状にした〝延金(のしきん)〟で、水生植物のヒルムシロ(蛭蓆)の葉の形に似ることからその名がある。量目は不定で、必要な量に切って使った。織田信長の安土城下や戦国大名朝倉氏の城下、越前一乗谷遺跡からも出土しているが、奈良県内ではこれが唯一の出土例。

コメント

<大和文華館> 特別企画展「朝鮮の絵画と工芸」

2016年12月07日 | 美術

【5世紀以降の金工・陶磁・漆器・絵画など約80点】

 奈良市学園南の大和文華館で特別企画展「朝鮮の絵画と工芸」が開かれている。新羅時代の精緻な飾り金具や高麗時代の青磁、朝鮮時代の螺鈿漆器、李郭派山水画など、同館所蔵の工芸品を中心に5~19世紀の逸品約80点を一堂に展示、洗練された朝鮮美術の魅力を紹介する。12月25日まで。

 

 会場の入り口正面に展示された「青磁九龍浄瓶」(写真)は全羅南道康津郡出土の高麗時代12世紀の作品で、国の重要文化財に指定されている。高さ33.5cm、胴径12.5cm。上部で極めて精巧な作りの9つの龍頭がにらみを利かせ、胴部では龍身が波涛で躍動的にうねる。「粉青象嵌蓮池三魚文扁壷」は李氏朝鮮時代初期の15世紀の粉粧灰青沙器(粉青沙器)3匹の魚が蓮華、エビとともにユーモラスな文様で描かれている。粉青沙器は灰色の素地にヘラなどで文様を描き白土で化粧し透明釉をかけて焼いたもの。日本名では「三島手」とも呼ばれ、今企画展ではこの作品も含め7点が出品されている。

 「白磁青花彩陽刻十長生文六角瓶」は高さ26.3cmの白磁の瓶。〝十長生文〟は鶴、亀、鹿、松、竹など10の長寿の吉祥文様で、朝鮮時代の絵画や工芸品に好んで取り上げられた。朝鮮中期の絵画「群鹿図」にはその1つの鹿が黒鹿2頭も含め20頭近く描かれている。中国・北宋時代に編纂された古書『太平御覧』(977年成立)には、鹿は長寿で500年生きると白鹿に、1000年生きると玄鹿(黒い鹿)になり、玄鹿の肉を食すと2000年の命を保つことができると記されているという。この作品もそうした信仰を受け長寿の祈りを込めて描かれたとみられる。

 十長生文とともに朝鮮時代の水墨画や陶磁器などに吉祥文として好まれた題材に葡萄文がある。葡萄は実を多く付けることから子孫繁栄を象徴するめでたい文様とされた。今企画展にも「鉄砂青花葡萄文大壷」や漆工「螺鈿葡萄文衣裳箱」、李継祜筆の「葡萄図」などが出展されている。李継祜(1574~1645)の作品は葡萄の蔓が大きく弧を描き、墨の濃淡で葉と房を立体的に表現した。

コメント

<BOOK> 「江戸時代人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀の描いた庶民の姿」

2016年12月06日 | BOOK

【小林淳一編著、朝日新聞出版発行】

 江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人医師・植物学者シーボルト(1796~1866)。在日中に多くの植物を採集し『日本植物誌』を著したが、その写生原画の多くを描いたのは川原慶賀(1786~没年不詳)らのお抱え絵師だった。川原は〝シーボルトの眼〟になって風俗画や風景画、肖像画なども描いた。本書は1826年にオランダ使節の江戸参府に同行した川原が描いた109点の人物画を、服飾史や民俗学の学者、シーボルト研究家たちの解説付きで1点ずつ詳しく紹介する。

       

 オランダ商館長らの江戸参府は11代将軍徳川家斉に拝謁するのが目的で、1826年2月15日に江戸に向けて長崎を出発した。総勢57人の日本人の随員も同行した。往路55日、江戸滞在37日、復路51日という全143日の旅程。この間に川原が描いた人物画109点は全て紙本着彩で1冊の画帳に閉じられていた。描かれたのは女房、花魁(おいらん)、花嫁、力士、農夫、猟師、獅子舞、人形遣い、大道芸、煙草売り、醤油売り、老若男女の旅姿など実に多彩。ただ武士は一人も登場しない。

 109人の中に大井川の「川越人足」の刺青(いれずみ)姿を描いたものが6点もある。刺青はシーボルト来日前後の文化・文政年間(1804~30)に最も隆盛を極めたという。シーボルトにとってもとりわけ興味深いものだったのだろう。描かれた刺青の絵柄は雲竜・雷神・桜など様々だが、中でも「幽霊と卒塔婆」の刺青は不気味でおどろおどろしい。右腕に墓石と卒塔婆、左腕に南無阿弥陀仏、尻に髑髏(どくろ)、背中に笑う幽霊が彫られている。熊の毛皮をまとって小熊を連れた行商の「熊の胆(くまのい)売り」や「鯨取り」「鳥刺し」「盲目の三味線弾き」などもシーボルトの目を引き付けたのだろう。

 女性の帯に蝙蝠(こうもり)の図柄が描かれたものが2点ある。「身づくろいをする遊女」と「長崎の髪結い」。蝙蝠は西洋では不吉な動物。ただ日本ではかつて蝙蝠の蝠の音が福に通じることから吉祥の意味を持つとして浴衣などの模様として好まれ、錦絵などにも描かれた。シーボルトはこの蝙蝠の模様を珍しく思って川原に描かせたのだろうか。シーボルト研究家の宮坂正英氏が「人物画帳」の中で出色の出来栄えと評するのが「長崎の芸者」。左手に三味線を持ち極上の着物を身に着けた芸者が優美に描かれている。江戸時代唯一貿易を許された長崎には高価な嗜好品や贅沢品が多く運び込まれ、特に織物は豊富で長崎の遊女や芸者の装いは流行の先端を行く豪華なものだったという。

  「川原慶賀は時として多分に想像を交えた絵をシーボルトのために描いた」(民俗学者の小林淳一氏)。画帳の中に着物を盗み出した黒覆面・黒装束姿の「泥棒」があるが、この絵についても「盗賊を見つけて写生したのではなく、(当時の人々に共有されていた)そのイメージを描いたと考えるべきである」(日本近世演劇研究者の武井協三氏)。裕福な商家の若い女性を描いた「娘」では晴れ着の裾から赤い蹴出しと素足がのぞき、美しい年増の女性を描いた「女房」では裾がはだけ不自然な形で赤い色が見える。「子守の娘」や「古着屋の女」には日傘が描かれているが、「この時代、贅沢をするのは禁止されていて、日傘もその例外ではなかったのだが」(民俗学者の近藤雅樹氏)。川原が描いた「109態」は190年前の庶民の姿を振り返るうえで貴重な資料だが、専門家の目にはちぐはぐな点が気にかかる〝研究者泣かせ〟の作品も多く含まれているようだ。

コメント

<橿原市博物館> 秋季企画展「シリーズ『千塚』① 巨勢山古墳群」

2016年12月05日 | 考古・歴史

【国内最大級の群集墳、御所市の丘陵に800基超!】

 奈良県橿原市の「歴史に憩う橿原市博物館」で秋季企画展として「シリーズ『千塚』① 巨勢山古墳群」が開かれている。「千塚」は狭い範囲に小規模な古墳が密集する群集墳のこと。同館も古墳約600基が集まる「新沢千塚古墳群」に隣接する。そこで各地の千塚を紹介するシリーズを企画、その第一弾として御所市にある国内最大級の「巨勢山(こせやま)古墳群」を取り上げた。12月18日まで。

 

 巨勢山古墳群(上の写真㊧)は御所市南東部の巨勢山丘陵にあり、東西3.3キロ、南北3.5キロの中に800基を超える古墳が分布する。直径10~20mの円墳が多いが、方墳や全長30~40mの前方後円墳もある。古墳群を造営したのは葛城山・金剛山の山麓を本拠地に絶大な勢力を誇った葛城氏に関係する人々と考えられている。古墳群のすぐ北側には全長約238mの前方後円墳「宮山古墳」がある。その被葬者は葛城氏の盟主である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)とする説が有力視されている。(上の写真㊨は「巨勢山408号墳」のミニチュア土器出土状況)

 

 巨勢山古墳群が造られたのは古墳時代の中期前半(5世紀前半)~終末期中頃(7世紀中頃)。古墳群は尾根筋ごとに支群(小さなまとまり)を形成し、支群ごとに造営時期や埋葬施設の構造、副葬品などに特徴がある。副葬品には鍛冶関連品など朝鮮半島との関わりを示すものも。408号墳からは馬具やミニチュア炊飯具形土器が出土、773号墳からは土器や武器、馬具、玉類のほか銀製指輪なども出土した。371号墳は埋葬施設が2基あり、一方の被葬者は顔面が赤く塗られ、もう一方では棺蓋が赤く塗られていた。(上の写真㊧「巨勢山371号墳」、㊨「巨勢山773号墳」の遺物出土状況)

 

 古墳群の北側には宮山古墳(室大墓)や掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳、條ウル神古墳といった大きな前方後円墳がある。宮山古墳(上の写真㊧)は葛城地方最大の古墳で国史跡に指定。後円部の竪穴式石室(写真㊨)の中には長持形石棺が納められ、墳頂には石室を方形に取り囲むように家形や武具形の埴輪が幾重にも立てられていた。掖上鑵子塚は宮山古墳と同じ5世紀前半の築造で全長約149m。被葬者については葛城氏とする説や巨勢氏との関連を想定する説もある。條ウル神古墳は1世紀以上後の6世紀後半の築造。全長は70mほどで、被葬者は当時一帯で大きな力を持っていた巨勢氏の盟主と考えられ、許勢臣稲持(こせのおみいなもち)や巨勢比良夫(こせのひらふ)とする説もある。

コメント

<葛城市相撲館> 1幅の掛け軸に歴代横綱17人の手形!

2016年12月03日 | アンビリバボー

【42代鏡里から61代北勝海まで、1987年の「横綱会」のときに製作?】

 奈良県葛城市当麻にある「葛城市相撲館〝けはや座〟」。相撲の始祖といわれる当麻蹶速(たいまのけはや)を顕彰するため1990年にオープンした。これまで何度も訪ねたが、そのたびつい見入ってしまうものがある。17人もの歴代横綱の手形が押された1枚の掛け軸。大相撲ファンにとってはまさに垂涎の的に違いない。その右側にはそれぞれの手形に対応するように横綱の写真と経歴、成績などが掲げられている。

  

 大相撲の世界には年に1回、元横綱の親方と現横綱が一堂に会して親睦を深める「横綱会」がある。歴史は古く60年ほど前の1953年から始まった。1年を締めくくる九州場所の直前に福岡市のホテルや料亭で開かれる。この手形の掛け軸には北勝海や朝潮の手形も含まれ、北勝海の横綱昇進が1987年、朝潮が亡くなったのが翌年の88年のため、87年の「横綱会」のときに製作されたのではないか、と推測されている。

 手形は6段にわたって右から左に3人ずつ押されている。最上段右側の42代横綱鏡里から、最下段左側の61代北勝海(八角親方、現日本相撲協会理事長)まで。最上段には栃錦と若乃花の手形も。2段目には朝潮、柏戸、大鵬、3段目には27代木村庄之助(在位1977年11場所~1990年11月場所)の書「平常心」を挟んで栃ノ海と佐田の山、4段目には北の富士、琴桜、輪島、5段目には北の湖、若乃花(2代目)、三重ノ海、そして最下段には千代の富士、隆の里、北勝海。2013年以降、昭和を代表する名横綱の大鵬や北の湖、千代の富士が相次いで亡くなった。この掛け軸に手形を押した元横綱17人のうち存命中は7人にすぎない。

 「横綱会」自体もこのところ中止に追い込まれる年が増えている。2011年は隆の里(鳴戸親方)の急逝で中止となり、15年は北の湖理事長の体調不良で中止に(その直後に逝去)。そして今年16年も2年連続中止になった。表向きの理由には夏の千代の富士の逝去が挙げられるが、話はそう単純でもないようだ。一番の問題は元横綱の親方が全部で5人と少なくなってしまったこと。しかもそのメンバーの中では八角理事長と貴乃花親方の主流・反主流派の確執が激しい。おまけに現役の横綱は全員モンゴル勢――。1年後「横綱会」は果たして再開されるのだろうか。

コメント

<BOOK>中公新書 「ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く」

2016年12月01日 | BOOK

【青柳いづみこ著、中央公論新社発行】

 5年に1回ショパンの故郷ポーランドのワルシャワで開かれる「ショパン国際ピアノコンクール」。ポリーニ、アルゲリッチ、ブーニン……。優勝者には錚々たる名ピアニストが名を連ねる。ただ日本人は内田光子の第2位(第8回=1970年)が過去最高。直近の2015年の第17回では小林愛実が10人のファイナリストに残ったが、残念ながら入賞(6位以内)を果たせなかった。著者はピアニスト兼文筆家で、日本ショパン協会の理事も務める。第17回コンクールでは春の予備予選から秋の3週間にわたる本大会まで、現地で世界中から集まった若きピアニストたちの熱演に耳を傾けた。本書はその観戦記。

       

 著者がこのコンクールに興味を持ち本書執筆のきっかけにもなったのが2010年第16回大会での〝予備予選追加招集事件〟。この年は書類・DVD審査でいったん予備予選参加者が応募者のほぼ半数に当たる160人に絞られた。ところが実力者が含まれていないというある審査員の抗議で、その人物を含め55人が追加された。審査員たちの言い訳は「DVDの画質・音質が良くなかった」。そして激戦を制し優勝したのはこともあろうにその実力者、ユリアンナ・アヴデーエワ(ロシア)だった。女性としてはアルゲリッチ以来2人目という快挙。スポーツのような客観的な勝敗の基準がない音楽の審査の難しさを象徴する出来事だった。

 第17回は下馬評の高かった韓国のチョ・ソンジンが優勝した。15歳の若さで「浜松国際ピアノコンクール」を制した実力者。日本での知名度も高い。ところが結果発表の数日後に明らかになった審査員の採点表が物議を醸した。ある審査員がチョに対し10点満点で最下位の1点しかつけていなかった(他の審査員は10点2人、9点12人、8点1人、6点1人)。しかもこの審査員は第3次予選(セミファイナル)でもチョに対し唯一人次のファイナルには進めないという「NO」の裁定を下していた。ファイナルの1位と2位の合計得点の差は僅か5点。不当に低い点数をつける審査員が複数いたら、どう転んでいたか分からなかった。

 ファイナリスト10人はオーケストラとの協演でショパンのピアノ協奏曲第1番か第2番を弾く。第2番を選んだのは2位のシャルル・リシャール=アムラン(カナダ)だけ。そのリハーサルのとき、第1楽章を通したところでオーケストラの部分練習が始まったという。著者は「コンテスタントにとって貴重なリハーサルの時間をオーケストラの練習に使うとは、権威あるコンクールの場で起きることだろうか」と疑問を呈す。そして本番は「オーケストラに気を使うあまりソロのときの伸びやかさをやや欠く演奏になった」。もしアムランがみんなと同じ第1番を選んでいたら……。

 入賞にいま一歩届かなかった小林愛実については「ラウンドごとに進化した姿をみせ、ファイナルの協奏曲では、小さな身体でオーケストラを包みこむような演奏を聴かせてくれた。ツボにはまったときのアイミ・コバヤシのすごさを見る思いだった」。昨年秋、著者は横山幸雄(1990年の第12回に3位)とコンクールを振り返った。そこで2人は「楽譜に忠実」であるのは必要だが日本人はもっと自分の解釈に積極的に関わる努力も必要、手が小さいことを悟られないような奏法や選曲を工夫する必要もある――などで意見が一致したそうだ。「あとがき」の書き出しがおもしろい。「よく仲間うちで冗談に、もしショパンがショパン・コンクールに出場していたとしても絶対に一次予選で落ちるね……と言い合うことがある」

コメント