く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<オダマキ(苧環)> 花の形から「イトクリソウ」の別名も

2015年04月30日 | 花の四季

【キンポウゲ科の多年草、カラフルな西洋オダマキが人気】

 キンポウゲ科オダマキ属(アキレギア属)。オダマキの名前は紡いだ麻糸を丸く巻き付ける糸巻きの苧環に花の形が似ていることから。このため「イトクリソウ(糸繰草)」や「イトクリ」とも呼ばれる。オダマキ属は北半球にひろく分布し、日本原産の野生種には北海道や本州の高山帯に生えるミヤマオダマキ(写真)と低い山に自生するヤマオダマキがある。

 花色は紫や白で、4~5月ごろ、5枚の花弁状の萼片を少しうつむきかげんに開く。わが国最初の園芸辞典『花壇地錦抄』(1695年)にも「花つりがね草のごとく下へさかりて咲く。色むらさき、葉はしやくやくのごとし」と紹介されている。単にオダマキといわれるものはミヤマオダマキを母種とする栽培改良種とみられている。

 オダマキ属は世界に約70種が分布するといわれる。最近は欧米で品種改良されたセイヨウ(西洋)オダマキの人気が高い。ヨーロッパ原産のものに北米原産の大輪種などを交配したもので、花色が黄や桃、青、茶、紫などカラフルなのが特徴。花が大きく草丈も高いため、切り花として人気な品種も出回っている。(下の写真2枚はいずれもセイヨウオダマキ)

 

 オダマキは米国コロラド州の州花。ロッキーマウンテン・オダマキ(和名ソライロオダマキ)と呼ばれるもので、花径が8cmほどもあり、花冠の付け根の距(きょ)も長い。同州では州歌も「オダマキの花咲くところ」という題名が付いており、「オダマキ州」とさえ呼ばれているそうだ。「おだまきや旅愁はや湧く旅のまへ」(水原秋桜子)。

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<切り絵> 小冊子「神農神と京都丹波の御田祭」

2015年04月29日 | 美術

【亀岡市の切り絵サークルなどが作成、丹波ゆかりの医学者も紹介】

 京都府亀岡市在住の切り絵作家、達富(たつとみ)弘之さんが講師を務める3つの切り絵サークルが共同で、小冊子「神農神と京都丹波の御田祭」を作成した。丹波地域を中心に京都府下に残る御田植祭を切り絵で紹介するとともに、丹波と医学の関わりにも焦点を当てて神農(薬祖神)や丹波ゆかりの医学者も取り上げている。

    

 冊子はA4版32ページ。亀岡市中央公民館と同市東竪町、京都府立ゼミナールハウスの3つの切り絵サークルのメンバー約20人が、各地の御田植祭を訪ねて取材し、その場面をカラーや白黒の切り絵で表現した。最初に京都府下の御田植祭分布図を掲載し、まず5~7月に行われる亀岡市の出雲大神宮や南丹市の摩気神社、美山八幡宮、京丹波町の八坂神社など丹波地域の6つの御田植祭を紹介している。いずれも手作りの温かみがあふれる作品ばかり。(上の作品は㊧と㊥出雲大神宮、㊨八坂神社の御田植祭。下は㊧美山八幡宮、㊥と㊨摩気神社の御田植祭)

   

 続いて京都北部、南部、京都市部の御田植祭。達富さん自身の手による御田植祭の様々な所作の切り絵や京都新聞に長期連載していた地域風物詩の切り絵なども交えながら紹介している。達富さんによると「京都南部の御田植祭は1~2月に集中し、その年の豊作を期す予祝行事の意味合いが強く、明らかに奈良文化圏に属す」という。その他の地域は丹波も含め4~7月が多く、「北部では端午の節句との習合、厄病退散と組み合わせたものが目立つ」。(下の作品は㊧美山八幡宮の御田植祭、㊨丹波医学の祖・丹波康頼の信仰が篤かった亀岡・磐栄稲荷のお火焚き祭)

      

 後半は「丹波亀山の医学」「京都と大阪 2つの神農祭」などに、切り絵や写真、古文書などで6ページを割く。亀岡ゆかりの医学者として有名なのが丹波康頼(912~995)が有名。「医食同源」の提唱者で日本初の医学書『医心方』を著した宮廷医として知られる。ただ、ここではこれまでほとんど知られていなかった近藤相秀=寿伯院桂安(1568~1664)を詳しく取り上げている。桂安は漢方の秘薬「赤丸子」の処方術を修得、後光明天皇の幼少時の大病を治癒し、江戸に赴いて時の将軍の姫君の疱瘡(ほうそう)も治した。それらの功績から「寿伯院」の称号を賜ったという。

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<京都地名研究会> 中国・夏王朝の始祖「禹王」の遺跡が日本各地に93件も!

2015年04月28日 | メモ

【植村善博氏「日本および東アジアの禹王遺跡と地名」の演題で講演】

 約4000年前の古代中国で夏王朝を開いたといわれる禹王(うおう)。黄河で治水事業に取り組んだ禹王は「四書」や「史記」「論語」などで聖人君子、治水神として崇められてきた。その禹王の遺跡が日本各地の河川堤防などで相次いで確認されている。その数、今年2月末現在で93件。京都地名研究会の集会(26日、龍谷大学大宮学舎で)で「日本および東アジアの禹王遺跡と地名」と題し講演した植村善博氏(佛教大学歴史学部教授)によると「年内には100件を超えるのではないか」という。

 禹王が治水神として日本でも広く信仰されていた事実を掘り起こすきっかけとなったのは、2006年に大脇良夫氏(全国禹王の碑探求家)が立ち上げた神奈川県の市民グループ「足柄歴史再発見クラブ」の活動。その後、各地の河川周辺や寺社、学校などで禹王の遺跡(禹王碑や禹を祀る廟、祭壇、彫像など)の報告が相次ぎ、2010年には同県開成町で第1回禹王まつり(禹王サミット)が開かれるまでに。今年9月12~13日には大分県臼杵市で第5回が開かれる。

  

 これまでに確認された禹王の遺跡93件は北海道から沖縄まで全国に広がる。多いのは関東31件、中部23件、近畿15件、九州・沖縄12件の順。とりわけ関東平野の利根川水系、濃尾平野の木曽三川流域、大阪~京都を流れる淀川流域に集中する。また神奈川県酒匂川流域には禹王の名である「文命」を付した碑や橋、用水、隧道、中学校名などが12件も分布する。これらの地域はいずれも水害常襲地域で、古くから治水事業が繰り返されてきたという共通点を持つ。(写真は㊧から「香川県栗林公園の大禹謨碑」「群馬県片品川の禹王の碑」「神奈川県南足柄市の文命東堤碑」)

 日本最古のものは京都・鴨川にかつてあった禹廟で、安貞2年(1228年)建立との伝承を持つ。ただ禹王遺跡が急増するのは約400年後の江戸時代に入ってから。その背景には徳川家光の時代に確立された儒学を中心とする文治政策や儒学者の強い影響があった。植村氏は「藩校や寺子屋などで中国の四書五経などが講読される中で、聖人・治水の神として禹王の名前が全国津々浦々に広まった」と話す。

 東アジアではどうか。朝鮮半島では東海岸の三陟市に禹王遺跡があり、群馬県片品村の「大禹皇帝碑」の碑文に酷似しているという。ただ国王賛辞の碑とみなされることから、朝鮮半島に治水神として禹王信仰が存在した事実は確認できなかった。台湾には航海や貿易、漁業従事者の間で海王神として大禹を主神とする「水仙尊王信仰」が存在するが、やはり日本のような河川を治める治水神としての禹王信仰は見られない。中国では19~20世紀の内乱や日本の侵略、文化大革命などで禹王廟や禹王信仰は否定され、破壊と迫害を受け続けてきた。

 日本では明治以降、合理的・技術至上主義的な河川行政の中で、治水神信仰は無視された。ただ、政治家や地元名士の貢献を顕彰する碑文の中で賞賛の比喩として禹王の名前が使われるケースが今なお多い。最新の遺跡は三重県伊賀市の正崇寺の「大禹謨碑(だいうぼひ)」で、10年ほど前の2004年に建立された。植村氏は「禹王はなお日本人の心の中で生き続けている。(長い歴史を持つ)日中の交流をこれからもしっかりと続けていかなければならない」と結んだ。

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<フリージア> 南アフリカ原産、ヨーロッパで品種改良進む

2015年04月27日 | 花の四季

【和名「浅黄水仙」、八丈島や種子島が切り花・球根の主産地】

 アヤメ科フリージア属の球根植物。原産地は南アフリカのケープ地方で、1810年代にヨーロッパに初めて紹介された。人々は香りのいい清楚なこの花に熱狂し、その後、英国やオランダを中心に盛んに品種改良が進められた。その結果、花色は白や黄のほか紫、紅、桃、橙など豊富に、花容も一重や八重、小輪や巨大輪など多彩になった。

 花期は3~5月ごろ。花茎の先が弓状に曲がり、5~10個の漏斗状の花を上向きに付ける。葉は先が尖った剣状。草丈はふつう30~40cmほどだが、温室で栽培される切り花用の品種は花軸が直立し、高さが1mを超えるものも。白や黄系統の花は芳香を出すこともあって根強い人気を保っている。

 属名のフリージアの語源には英国人の植物学者に因むといった説もあるが、ドイツ人医師フレーゼの名前に由来するという説が有力。それによると、南アフリカでこの植物を見つけたデンマークの植物学者が、親友のドイツ人の名前を学名に使ったという。和名は浅黄色でスイセンに似ているとして「アサギスイセン(浅黄水仙)」。ただ、その名で呼ばれることはほとんどない。

 日本では明治時代の後半になって小笠原諸島で球根の栽培が本格化した。今では八丈島や鹿児島の奄美大島、沖永良部島などが主産地となっている。切り花主体の八丈島では今年3月21日から4月5日まで「第49回フリージアまつり」が開かれた。種子島は年間球根生産量が約1600万個にも上る「日本一の球根生産地」。5月に入ると球根の収穫が始まり、乾燥して出荷する。「フリージアのあるかなきかの香に病みぬ」(阿部みどり女)。

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<BOOK> 岩波新書「現代秀歌」

2015年04月26日 | BOOK

【永田和宏著、岩波書店発行】

 歌人で細胞生物学者(京都大学名誉教授)でもある著者が独自の視点で「今後100年読まれ続けてほしい」と願う戦後の歌人100人の100首を選んだ。2013年出版の「近代秀歌」の姉妹編。関連する短歌も多く収録しており、それらを含めると優に250首を超える。第1章の「恋・愛」から第10章の「病と死」まで10章で構成。各章から1つずつ挙げると――。

     

 「恋・愛」―河野裕子『たとへば君ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか』▽「青春」―寺山修司『海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり』▽「新しい表現を求めて」―奥村晃作『次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く』▽「家族・友人」―島田修三『立つ瀬なき寄る辺なき日のお父さんは二丁目角の書肆にこそをれ』▽「日常」―高瀬一誌『うどん屋の饂飩の文字が混沌の文字になるまでを酔う』

 「社会・文化」―道浦母都子『ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく』▽「旅」―佐藤佐太郎『冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ』▽「四季・自然」―山中智恵子『三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや』▽「孤の思い」―浜田到『死際を思ひてありし一日のたとへば天體のごとき量感もてり』▽「病と死」―上田三四二『死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ』

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<ザゼンソウ(座禅草)> 紫褐色の苞を光背に、肉穂花序を座禅僧に見立て

2015年04月25日 | 花の四季

【「ダルマソウ」とも、自ら熱を発し雪を融かして開花!】

 サトイモ科の多年草。主に本州の中部以北と北海道の湿地帯に自生する。花期は3~5月ごろ。花は葉が伸びる前に咲く。同じサトイモ科のミズバショウやユキモチソウ、ムサシアブミなどと同様、〝仏炎苞(ぶつえんほう)〟が大きなツクシのような肉穂花序を包み込む。

 仏炎苞を仏様の光背に、花軸をお堂の中で座禅を組むお坊さんに見立てて「座禅草」の名前が付いた。「ダルマソウ(達磨草)」という別名も。これは壁に向かって9年間座禅を続けたといわれる禅宗の初祖、達磨大師に因んだもの。ザゼンソウより一回り小さいものに「ヒメザゼンソウ」がある。こちらの花期は4~6月とザゼンソウより少し遅い。

 ザゼンソウは珍しい特徴を持つ。まだ雪が残る早春、肉穂花序が自ら発熱して周囲の雪を融かし地上に顔を出して開花する。その温度は25度にもなるという。同時に異臭を発する。発熱の仕組みはまだはっきり分かっていないが、他の植物よりいち早く開花して昆虫を誘う作戦とみられる。北米太平洋側には仏炎苞が黄色で、激しい異臭のため「イエロー・スカンク・キャベジ」と呼ばれる種類があるそうだ。

 国内で群生地が多いのが信州長野県。諏訪市の「ザゼンソウの里公園」、白馬村飯盛の「ざぜん草園」、大町市の居谷里湿原など。他に北海道のサロベツ原生花園や群馬県片品村の針山や武尊(ほたか)高原なども名所として知られる。滋賀県高島市今津町弘川の群生地は県の緑地環境保全地区に指定されている。既に花の盛りを過ぎた所も多いが、兵庫県香美町のハチ北高原の見ごろは5月初めまで続くという。「座禅草眠り落つ児に母衣(ほろ)揚げよ」(小串歌枝)。

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<天理図書館> 「古典籍の至宝」展 「日本書紀乾元本」など国宝や重文も

2015年04月24日 | メモ

【新「善本叢書」刊行を記念し1日だけの限定で公開】

 天理大学付属の天理図書館(奈良県天理市)で23日「古典籍の至宝」展が開かれた。同館所蔵の貴重書を収録する「新天理図書館善本叢書」刊行を記念した催し。公開されたのは37点で、国宝の「日本書紀乾元本」「播磨国風土記」など3点や重要文化財8点を含む。この日1日だけの公開とあって終日多くの人が詰め掛け、食い入るように貴重本に見入っていた。

  

 国宝「日本書紀乾元本」(写真㊧㊥)は鎌倉時代の乾元2年(1303年)に神官だった卜部兼夏が書写したもので、全巻に朱墨で訓点が加えられている。「播磨国風土記」は平安末期の写本。風土記は奈良時代に全国62の国府によって編纂されたが、現存するのはこの播磨と出雲、常陸、肥前、豊後の5つしかない。もう一つの国宝「類聚名義抄」は平安末期の漢和辞書を鎌倉末期に書写したもの。漢字数は3万2千に及び、古代国語の研究には必須の文献といわれる。

 重文は「古事記道果本」(上の写真㊧)や「名月記 治承4・5年」「和名類聚抄」「石清水願文案」など。この他、「源氏物語 伝二条為明筆本」(下の写真㊧)、「奈良絵本」と呼ばれる室町後期~江戸前期に作られた彩色絵入りの冊子本、松尾芭蕉自筆の「野ざらし紀行」や「幻住庵記」、井原西鶴の「西鶴独吟百韻自註絵巻」(写真㊨)や「西鶴書簡下里勘兵衛宛」など。芭蕉の「『あかあかと』発句画賛」や許六の「奥の細道行脚之図」、西鶴の「世継翁画賛」なども展示され、まさに逸品ぞろいだった。

 

 旧「善本叢書」は同図書館所蔵の古代から近世までの古典籍を収録した複製本で、44年前の1971年に出版された。今回その一部を改編・追加し、高精細カラー版の新「善本叢書」を八木書店(東京)より刊行することになったもの。今月から配本が始まる第1期分「国史古記録」全6巻を皮切りに5期に分け全36巻を順次刊行していく。天理図書館は蔵書数が約200万冊に及び、国内有数の図書館として知られる。

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<BOOK> 「シベリウスと宣長」

2015年04月23日 | BOOK

【新保祐司著、「港の人」発行】

 都留文科大学教授で文芸評論家でもある著者が、愛してやまないフィンランドの国民的作曲家シベリウスの音楽の背景に潜む精神と思想に深く切り込む。タイトルにある「宣長」はもちろん江戸中期の国学者本居宣長。その宣長にシベリウスの音楽がどう結び付くのか。ちょうどシベリウスの「カレリア組曲」を繰り返し聴いていたこともあって興味をそそられ手に取った。

     

 序曲「純粋な冷たい水」に続いて第1曲~第19曲、そして終曲「屹立する巨岩」で結ぶ。シベリウスの代表曲といえば、やはり「交響詩フィンランディア」だろう。著者はこの曲を聴き終わった時「ああ、これは本居宣長の『敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜ばな』のような音楽だ、とふと思ったことがあった」という。そこで、この曲を取り上げた第11曲の見出しがそのまま本書のタイトルとなった。

 第12曲「無限と沈黙」では「風景画家という呼び方を思い浮かべるならば、シベリウスは『風景音楽家』といってもいい人である」と指摘。さらに「フルトヴェングラーがさすがに的確に道破しているように、シベリウスの音楽はシベリウス個人の表現というよりも、シベリウスという個人を通して表出された『祖国』、あるいは『北欧』の『国のささやき』であった」とシベリウス音楽の神髄を表現する。

 第13曲「東山魁夷の耳」ではこの日本画の大家が1962年に訪れた北欧の印象を綴った『白夜の旅』の中で、「私の耳にシベリウスのシムフォニー二番が響いていた」とあるのを受けてこう記す。「私の耳には東山魁夷の傑作『白夜光』を見ていると、『シベリウスのシムフォニー』の第六番の第一楽章アレグロ・モルト・モデラートが響いてくる」。また同じ日本画家川合玉堂と比較しながら「東山魁夷の日本画は、美と崇高の絶妙な平衡の上に成り立っている。それは西欧、そして北欧を通過したことによって可能であった」と分析する。

 最終第19曲は「葬送のための音楽」。評論家福田恆存が選んだ自らの葬送曲はベートーヴェンのチェロソナタ第3番、作家の八木義徳もベートーヴェンのピアノ協奏曲弟4番だったという。ある音楽家の追悼式でベートーヴェンの交響曲第3番第2楽章がかかった。第3番といえば通称「英雄」、その第2楽章「葬送行進曲」である。筆者によると、その時「身の程知らずといった批判が起こった」そうだ。ベートーヴェンとブルックナーを得意とした指揮者朝比奈隆でさえ「これはナポレオンみたいな、えらい人のためのもので、私のようなものは云々」と言っていたそうだ。

 その朝比奈が生前「私が死んだらかけてくれ」と希望していたのはベートーヴェンの第7番第2楽章。お別れの会ではその遺志通り、息子千足さんの指揮でその曲が演奏された。筆者自身が考えているのはもちろんシベリウスの曲で、シベリウス自作自演の「アンダンテ・フェスティーヴォ」という。2001年発売のCD「シベリウス名演集」に収められている1曲で「聴くうちに胸に強く迫るものがあり、涙がにじんできてしまった」そうだ。さて、クラシックファンのあなたが選ぶお別れの曲は?

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<奈良大学博物館> 企画展「発掘された古代国家」5月23日まで

2015年04月22日 | 考古・歴史

【文化財学科創設35周年記念、初めて外部から借用した展示品を中心に】

 奈良大学博物館(奈良市山陵町)で企画展「発掘された古代国家」が開かれている。奈良大学法人創立90周年と文化財学科創設35周年を記念した事業。同博物館としては初めて奈良文化財研究所や九州歴史資料館など外部から借用した出土品や史料を中心にした本格的な企画展示となっている。5月23日まで。

 

 今展は律令国家形成の歩みをこれまでの発掘調査の成果を基にたどるのが狙い。展示は「律令国家への飛躍」「古代の都―平城京の内と外」「国家存亡の危機と防衛」「国を支えた生産」の4部で構成する。まず律令国家形成への端緒を示す遺跡として、推古朝に造られた飛鳥寺や小墾田宮(おはりだのみや)などを取り上げる。飛鳥時代の小墾田宮の場所はまだ確定していない。ただ奈良時代の小治田宮は雷丘(いかづちのおか)東方遺跡に比定されており、8世紀後半の井戸から「小治田宮」と記された墨書土器が多数出土している(上の写真㊧)。石神遺跡から見つかった7世紀前半の朝鮮半島産の硯(すずり)「獣脚硯(じゅうきゃくけん)」(同㊨)なども展示している。

 

 663年、倭国は朝鮮半島の白村江で新羅・唐の連合軍に大敗する。連合軍の侵攻を恐れた中大兄皇子(天智天皇)は国を挙げて大規模な防衛対策に乗り出す。まず北部九州の守りを固めるため大宰府の北側に水城(みずき)や大野城を築いた。水城は総延長約1.2kmに及ぶ長大な土塁。日本書紀は「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」と記す(上の図は「筑紫平野の防衛ライン」)。大和や讃岐、対馬にも山城が築城された。西日本各地には吉備の「鬼ノ城」(上の写真㊨)など古文書に記述がない山城や石塁なども多く残る。さらに都を飛鳥から内陸部の近江大津宮に遷した。

 

 天智天皇没後、壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)も白村江の敗戦を教訓に、唐の巨大な軍事力や国家体制に追いつく必要性を痛感する。王宮の飛鳥浄御原宮には後の大極殿に相当する「エビノコ大殿」が建てられ、宮内には各種の役所や海外からの賓客をもてなす苑池も造られた。飛鳥時代最大の官営工房、飛鳥池工房遺跡は当時の技術水準の高さを示す。同遺跡からは「天皇……」と記された最古の木簡も見つかった(上の写真㊧=複製)。この木簡に書かれた「天皇」は天武天皇を指す可能性が高い。石神遺跡からは最古の暦が書かれた7世紀後半の「具注暦木簡」(写真㊨=複製)が出土した。当時の役所で暦が使用されていたことを示す。

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<シバザクラ(芝桜)> 北米東部原産、まさに一面〝花カーペット〟に

2015年04月20日 | 花の四季

【全国各地で「芝桜まつり」、市町村の花にも】

 ハナシノブ科フロックス属(クサキョウチクトウ属)の多年草。原産地は北アメリカ東部で、日本にはヨーロッパ経由で江戸末期~明治初めごろに渡ってきたといわれる。同属の仲間にクサキョウチクトウ(オイランソウ=花魁草=とも)やキキョウナデシコ、ツルハナシノブなど。これらも北米原産。

 シバザクラの盛りは4~5月ごろ。花期が長いのが特徴だ。径2cmほどの桜に似た小花が芝生のように地面をびっしり覆う様から「芝桜」の名が付いた。基本色は紫がかった桃色だが、園芸品種には白から紫色まで多彩。白地にピンクの縦縞模様が入ったものも。日向を好み、花壇の縁取りや傾斜地や石垣などに植えられる。

 別名「ハナツメクサ」(花詰草または花爪草)。英語では「モスフロックス」と呼ばれる。属名でもあるフロックス(Phlox)は燃え盛る「炎」を意味するギリシャ語に由来するという。モスは苔(こけ)のこと。草丈が低く、苔のように地を這って広がることによる。

 シバザクラは埼玉県秩父市や千葉県柏市、兵庫県西脇市、北海道の大空町や羅臼町などで市や町の花になっている。秩父市の羊山公園や群馬県高崎市のみさと芝桜公園、栃木県市貝町の芝ざくら公園……。花の盛りを迎え全国各地で「芝桜まつり」が始まった。北海道大空町の東藻琴芝桜公園や愛知県豊根村の茶臼山高原の見ごろは5月に入ってから。関西では兵庫県三田市の芝桜園や姫路市のヤマサ蒲鉾本社工場、奈良県宇陀市の花の郷滝谷などが有名。「芝ざくら好天あますところなし」(石原舟月)。

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<奈良県立美術館> 特別展「奈良礼賛~岡倉天心、フェノロサが愛した近代美術と奈良の美」

2015年04月19日 | 美術

【天心のひ孫・岡倉登志氏「美術教育では発想力や自主性を重んじた」】

 奈良県立美術館(奈良市)で特別展「奈良礼賛~岡倉天心、フェノロサが愛した近代美術と奈良の美」が始まった(5月24日まで)。古都奈良の文化財の価値を再発見し、近代日本美術の牽引役を務めたフェノロサと岡倉天心。同展ではこの2人とつながりが深い狩野芳崖や横山大観、下村観山、菱田春草らの作品を一堂に展示する。18日には天心のひ孫に当たる岡倉登志(たかし)氏を講師に迎え「岡倉天心と奈良」と題する講演会が開かれた。

 

 会場は第1展示室の「美の発見~見出された奈良の美」から第6展示室の「美の交流~フェノロサ、天心と奈良の美」まで6部で構成する。入ってすぐの所に掲げられているのが狩野芳崖の代表作『悲母観音』下図(重要文化財)。芳崖は明治19年(1886年)に天心が文部省から古社寺調査を命じられたときに同行、奈良の宝物類を多くスケッチした。「悲母観音」は芳崖の絶筆となった作品で、悲母観音が生まれたての幼子に温かい眼差しを向ける。この下図は4枚のうちの1枚で、制作時期は同行翌年の明治20年~21年頃とみられる(上の㊧がその下図、㊨は完成した作品=いずれも部分)。

 天心は東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の設立に尽力し明治23年(1890年)2代目の校長に就任、大観や観山、春草らを育てた。この3人は天心が学校辞職後設立した日本美術院でも活躍し〝院展三羽烏〟といわれた。模写も含め大観10点、春草7点、観山4点の作品が並ぶ。橋本雅邦も東京美術学校開設時に絵画科主任として大観や春草を指導した。橋本の作品は『唯摩居士(ゆいまこじ)』など4点。

 

 大観と春草は天心の勧めでインドに遊学した。大観の『観音』は岩上に座したサリー姿のインド女性を、春草の『弁才天』(上の作品㊧、部分)は蓮の花の上で細長い弦楽器を奏でる女性を描いている。観山の『仏誕』(同㊨)は文殊菩薩や普賢菩薩たちが取り囲んで釈迦の誕生を祝福する。他に大観・春草の共作『寒山・捨得』や竹内栖鳳・観山・大観作の『観音猿鶴図』も。

 寺崎廣業の大作『大仏開眼』(下の作品)も目を引く。天平勝宝4年(752年)の東大寺の大仏開眼会に取材した作品。内外の大勢の僧侶たちの前で繰り広げられる法会の模様を彩色鮮やかに再現している。画面左の上半分を占める大仏の蓮華座が大仏の威容を物語る。寺崎は天心率いる日本青年絵画協会の結成に参加し、後に日本美術院の創設にも加わった。

 絵画のほかには高村光雲の『観音像木型』や平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の『五浦釣人』『活人箭(かつじんせん』など木彫作品も展示中。平櫛は天心を会長として光雲門下を中心に結成された日本彫刻会に参加し、天心を生涯の師と仰いだ。『鮭』で有名な高橋由一の『写生帖Ⅶ』には宝物調査に同行した際の奈良の風物がスケッチされている。

 フェノロサは『美術真説』の中で洋画との比較から日本画の優位性を説いた。天心も英語の著作『The Book of Tea』で欧米の物質主義に対する東洋の精神主義を指摘し、平和的・内省的な茶道にこそ日本文化の神髄があると説いた。古美術保存が急務と天心が国に訴えた『美術品保存ニ付意見及び美術品目録(奈良・高野山・京都)』やフェノロサが「奈良の古物はひとり一地方の宝であるのみならず日本の宝」と話した浄教寺(奈良市)での歴史的講演の要旨も展示されている。天心が奈良での定宿としていた「対山楼」の控え帳には「岡倉覚三(天心の本名)」について相貌特徴の欄に「色黒顔丸キ方其他通常」と書き込まれていた。

 18日講演した天心が曽祖父に当たる岡倉登志氏は大東文化大学名誉教授で、天心研究会「鵬(おおとり)の会」代表も務める。登志氏によると、天心は奈良に合計17回訪れたという。天心は美術の教育者としては「発想力や自主性を重んじて、ヒントを与えずに考えさせた」。なかなか厳しかったらしく、「息子にもしっかり宿題をやるように言った。ただ娘には甘かったようだ」。このほか「『建築』という言葉を日本で広めたのが天心」「音楽ではワーグナーや(ピアノの)ルービンシュタインが好きだった」など天心の素顔について語った。

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<人見絹枝> 「非凡な選手 名文家で講演の名手でもあった」

2015年04月18日 | スポーツ

【大阪自由大学の公開講座で玉置通夫氏が講演】

 78年前のアムステルダム五輪で銀メダルに輝いた人見絹枝。日本人女性初の五輪メダリストとして知られるが、彼女はどんな女性だったのだろうか。大阪自由大学の公開講座で「人見絹枝のスポーツ人生」と題して講演した玉置通夫氏(元毎日新聞編集委員)によると、「選手として非凡だっただけでなく、名文家で講演の名手でもあった。全国各地を回って偏見の多かった女子の陸上競技普及に努めた」。玉置氏は「夭折しなければ、国際オリンピック委員会の理事などとして世界のスポーツ界で活躍したのではないかといわれ、再評価の研究も進んでいる」などと話した。

 ≪人見絹枝の略歴≫ 明治40年(1907年)1月1日生まれ。大正9年(1920年)岡山高女(現岡山操山高校)入学、同12年、県女子体育大会の走り幅跳びで日本記録、翌年二階堂体操塾(現日本女子体育大学)入学。大正15年、大阪毎日新聞に入社、第2回国際女子オリンピックの走り幅跳びで世界新を出して優勝。昭和3年(1928年)アムステルダム五輪の女子800mで銀メダル。同6年8月2日肺炎のため死去、享年24。

 近代五輪は1896年に始まったが、クーベルタン男爵の意向を受けて女子は当初参加を認められなかった。そのためヨーロッパを中心に「国際女子スポーツ連盟」が設立され、1922年に女子だけによる第1回国際女子オリンピックが開かれた。人見はその第2回(1926年)と第3回(1930年)に参加している。人見が800mで銀メダルを取った1930年のアムステルダム五輪は、初めて女子の陸上競技が認められたオリンピックだった。

 人見はその五輪直前、100mで世界記録を出しており、五輪でも照準を得意な100mに絞っていた。毎日新聞社員でもあった人見は「100m有力人見」などと自ら署名入りの予想記事を書いていたという。ところが準決勝でよもやの4位。決勝進出さえ果たせなかった。「このままでは日本に帰れない」。そこで出場したのが残る競技800m。人見にとって未経験の中距離だけに「無謀」という声もあった。だが予想を覆して見事銀メダル。ただ人見を含めゴール後全員が倒れ失神する選手も。このため女子にとって過酷すぎるとして、女子800mはこの大会限りで中止に。復活したのは40年後のメキシコ五輪だった。

 人見は身長が169cmで、当時の日本人女性としてはかなり大柄で体格に恵まれていた。ただ運動能力だけでなく「文才があり、和歌もたしなみ、文武に秀でた女性だった」。玉置氏は「恩師や先輩との良い出会いが人見の人生を左右した」とし、恩師の二階堂トクヨ(二階堂体操塾=現日本女子体育大=の創設者)や木下東作(大阪医専教授、後に毎日新聞運動部長)を挙げる。女子スポーツの良き理解者でもあった木下は人見の思いに応えて海外派遣を実現させた。

 人見の後半生は「スキャンダルとの戦いでもあった」という。多忙な講演活動などを支えるため、二階堂塾の後輩女性が一緒に住んで身の回りの世話をしていた。このことから「同性愛者ではないか」という噂が絶えなかった。大きな体格から男ではないかという醜聞にも悩まされたそうだ。

 アムステルダム五輪の銀メダルは戦時中に供出され現存しないともいわれてきた。ところが15年前の2000年、生家の押し入れの中から偶然見つかった。五輪の女子陸上で人見以来2人目の日本人メダリストとなったのは1992年バルセロナ大会でのマラソンの有森裕子。同じ銀メダルだった。実に64年ぶりのこと。有森は出身地も同じ岡山市とあって人見を尊敬するスポーツ選手として挙げている。

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<入江泰吉旧居> 静かな佇まい、ここを拠点に大和の風景・仏像を活写!

2015年04月17日 | メモ

【東大寺戒壇堂の南側、3月から一般公開中】

 奈良出身の写真家、入江泰吉(1905~92)の旧居が3月から一般公開されている。奈良市水門町。名勝依水園と東大寺戒壇堂のほぼ中間に位置する。入江は戦後、大阪から移り住んだここを拠点に半世紀にわたって大和路の風景や仏像などを撮り続けた。そのお住まいは静謐(せいひつ)な作品同様、落ち着いた風情を醸す静かな佇まいだった。

 

 旧居は入母屋造りの木造の家屋と離れの暗室から成る。敷地の広さは約540平方メートル。入江没後、奈良市が遺族から寄贈を受けていたもので、家屋に耐震補強と改修工事を施し、老朽化が進んでいた暗室は以前と同じように建て直して公開に踏み切った。

 

 入り口に掲げられた表札は東大寺の第206世別当(住職)だった上司海雲師の揮毫。玄関を入ると、その奥に8畳の客間。文豪の志賀直哉や画家杉本健吉、随筆家白洲正子ら多くの知己ともここで交友を深めたのだろう。茶室の横を通って廊下を進むと書斎とアトリエがあった。書斎には壁一面に入江の蔵書。多彩な趣味人だった入江はアトリエで多くの時間を過ごしたという。

 

 暗室は自分で棚を作って使いやすいように工夫していたという。明るい水色のタイルが印象的。ここで多くの作品が現像されて世に発表されたわけだ。室内のアトリエや渡り廊下からは眼下に吉城川を望む。垣根のすぐ向こう側を1匹の雌シカが歩いていた。没後20年以上になるが、そこかしこから入江の息遣いが聞こえてくるような気がした。奈良市写真美術館では旧居公開を記念して「入江泰吉の心の風景」展を開催中(6月28日まで)。

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<ショパン国際ピアノコンクール> 事前審査スタート、日本勢25人参加

2015年04月15日 | 音楽

【秋の本審査に進めるのは何人? 前回は本選2次で全員敗退・入賞ゼロ】

 今年は5年に1度開かれる「ショパン国際ピアノコンクール」イヤー。1927年に始まったこのコンクールは今や世界的に最も権威のあるピアノコンクールといわれる。今年で17回目。13日からポーランド・ワルシャワで、まずビデオ審査で選ばれた27カ国・地域の160人が参加して事前審査が始まった。日本人の参加者は25人。審査は24日まで続く。日本人は果たして10月の本選に何人進出できるのだろうか。

 過去5大会の国別上位入賞者

第12回(1990年) ①なし ②米国 ③日本(横山幸雄)……⑤日本(高橋多佳子)

第13回(1995年) ①なし ②フランス、ロシア ③米国……⑤日本(宮谷理香)

第14回(2000年) ①中国 ②アルゼンチン ③ロシア……⑥日本(佐藤美香)

第15回(2005年) ①ポーランド ②なし ③韓国の2人 ④日本の2人(山本貴志と関本昌平)

第16回(2010年) ①ロシア ②ロシア/リトアニア、オーストリアの2人 ③ロシア

 本選出場者は160人の半数の80人と見込まれ、事前審査終了直後の今月25日に発表される。本選は10月17日のショパンの命日を挟んで約3週間にわたって繰り広げられる。1次~3次審査で80人が40人、20人、そしてファイナリストの10人に絞られていく。この間、出場者は1次と2次で各4曲、3次で3曲のショパンの作品を披露し、ファイナルではオーケストラとの共演でショパンのピアノ協奏曲第1番または第2番を弾く。もちろん全て暗譜。入賞は6位までで、1位には3万ユーロ(約400万円)の優勝賞金が贈られる(2位2万5000ユーロ、3位2万ユーロ)。

 日本人のこれまでの最高順位は第8回(1970年)に出場した内田光子の2位。その前の第7回(1965年)には中村紘子が4位、第11回(1985年)にも小山実稚恵が4位。第12回(1990年)には横山幸雄が3位に選ばれ、その後も毎回、日本人が入賞を重ねてきた。ところが5年前の前回は2次審査までで全員姿を消してしまった。

 前回の1次~3次審査は審査員12人による100点満点の得点制と次のステージに進ませたいかを問う「YES/NO」制の2本立て。日本人出場者は審査員の「YES」を多く獲得できなかったというわけだ。一方でロシア勢はファイナルに5人が進出し、上位をほぼ独占した。第13~15回に審査員を務めた中村紘子に続いて前回初めて審査員席に座った小山実稚恵は、日本人の演奏に「タッチが浅い印象を受けた」という。同時に「自分の個性に合った曲ではなく名曲を選んでしまいがち」と日本人出場者の選曲にも疑問を呈している。

 参加資格は1985~99年生まれ。今回、日本からはビデオ審査をパスした25人(うち21人が女性)が事前審査に臨む。最も多いのは中国の27人で、日本は2番目に多く、これに韓国の24人が続く。アジアの音楽大国3カ国に続いて地元ポーランド22人、ロシア11人、米国10人。2012年の第8回浜松国際ピアノコンクールで2位だった中桐望は事前審査免除で本選に出場できる7人のうちの1人に選ばれている。

 日本勢25人の中には5年前2次予選まで進んだ片田愛理や須藤梨菜も含まれる。片田は前回出場時、日本人最年少の17歳で、今春に東京音楽大学大学院に進学したばかり。小林愛実も注目の1人だ。若くして内外のオーケストラと共演したりピアノアルバムを発表したりするなど着実に実績を積み上げている。野上真梨子は昨春、桐朋学園大学音楽学部を首席で卒業した逸材。最年少は16歳の丸山凪乃で、高校生の古海行子や近藤愛花も挑戦する。

 日本人が初めてこのコンクールに参加したのは78年前の第3回(1937年)。〝伝説のピアニスト〟といわれる原智恵子だった。「結果が発表され、入賞者に原智恵子がいないことが分かると、人々は会場で審査員とホールがどうなることかと危ぶまれるほど暴れ出し、聴衆の1人としてその場に居合わせた富豪が、すばやくその場で不当な扱いを受けた東京の少女に<聴衆賞>を寄贈することで、やっと最悪の状況を回避し嵐が静められたほどだった」(『ものがたりショパン・コンクール』イェージー・ヴァルドルフ著、足達和子訳)。

 今年は4年に1度のチャイコフスキー国際コンクールも開かれる。会期は6月15日~7月3日。ピアノとバイオリン部門がモスクワで、チェロと声楽部門がサンクトペテルブルクで行われる。このコンクールでは第9回(1990年)にバイオリンの諏訪内晶子、第12回(2002年)にピアノの上原彩子が1位に輝いている。さて、今年はクラシック界にどんな新星が出現し、どんな伝説が生まれるのだろうか。

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<バイカオウレン(梅花黄蓮)> 梅の花に似たキンポウゲ科の日本固有種

2015年04月14日 | 花の四季

【「ゴカヨウオウレン」とも、実際の花弁は黄色の蜜腺に変化】

 キンポウゲ科オウレン属の春咲き多年草。日本固有種で、主に福島県以南の本州と四国の針葉樹林の林床や林縁、渓谷沿いなどに自生。3~4月ごろ、草丈10cmほどの花茎の先端に可憐な花を上向きに付ける。5枚の花びらは蕚(がく)が変化したもので、本当の花弁は真ん中から伸びた黄色い蜜腺。キンポウゲ科に多く見られる特徴で「蜜弁」と呼ばれる。

  

 名前の由来はオウレンの仲間で、花の形が梅によく似ていることから。オウレン自体もわが国特産で、黄色い根茎が連なっていることから「黄連」(「黄蓮」とも)と名付けられたという。オウレンは古くから薬用植物として栽培されてきた。根茎を乾燥し煎じて飲む。整腸作用があり、下痢止めや二日酔いなどに効くそうだ。

 バイカオウレンには「ゴカヨウ(五加葉)オウレン」という別名も。5枚の小葉が手を広げたような葉っぱの形が、ウコギ(五加木)に似ていることによる。四国に自生するものは本州産と花の形状がやや異なっていることから、変種として「シコクバイカオウレン」と呼ばれる。屋久島には全体に大型の「オオゴカヨウオウレン」が自生する。

 オウレン属には他にミツバノバイカオウレン、ミツバオウレン、キクバオウレン、セリバオウレンなど。ミツバノバイカオウレンは中部以北の高山帯~亜高山帯に分布し、特に日本海側に多いことから「コシジ(越路)オウレン」とも呼ばれる。越路は北陸道の古称。「これからという思いありオウレンの花咲く朝の力湧きくる」(鳥海昭子)。

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