く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<中野美術館> 近代日本の洋画・日本画を収蔵、いぶし銀のような深い味わい

2012年11月28日 | 美術

【須田国太郎、村上華岳、入江波光、富岡鉄斎、……】

 中野美術館は奈良市の近鉄学園前駅から南へ徒歩7~8分、日本最古の溜め池といわれる「蛙股池」のほとりにある。対岸には東洋美術のコレクションで有名な大和文華館。林業家の中野皖司氏(初代館長)が1984年に開館した。規模の小さい瀟洒な建物だが、明治・大正・昭和の3代にわたる近代日本の洋画・日本画のコレクションで知られる。いずれも地味ながら味わい深い作品ばかりだ。今は洋画では須田国太郎や銅版画の駒井哲朗、日本画では村上華岳や富岡鉄斎の作品を中心に展示している。

   

 入館してすぐ左手に洋画展示室、階段を下りると日本画展示室があり、常時それぞれ20点前後の作品を展示している。洋画展示室の真ん中には佐藤忠良作のブロンズ像「若い女夏」。展示中の須田作品は「牛の居る風景」(写真㊨)、「ヴァイオリン」(写真㊧)など4点だが、「須田作品は全部で14点あり、そのうち『夏の午後』はいま貸し出し中です」と2代目館長の中野利昭さん。没後50年の節目とあって各地で須田国太郎展が開かれており、西日本ではこの25日まで鳥取県立博物館で開催、12月1日からは京都市美術館で2カ月余にわたって開かれる。

 中野皖司氏が最初に買った絵は林武の「金精山」だが、まもなく須田の「大山田神社附近」に引かれたのをきっかけに須田コレクションが始まったという。皖司氏は開館5周年記念の「須田国太郎・鳥海青児展」のカタログに、須田作品の魅力をこう記した。「初めて絵の前に立った時、黒褐色の重厚な画面は一見暗い感じを受けたが、じっと見つめていると画面の底からにじみ出てくるような、何か深いものが私の心を捉えて離れませんでした」。須田寛・JR東海初代社長は国太郎の長男。洋画ではこのほかに、駒井哲朗の銅版画「R夫人の肖像」「消えかかる夢」「手」の3点や梅原龍三郎「桜島」、熊谷守一「畝傍山」、藤田嗣治「婦人像」、中川一政「林檎三つ」などを展示中。

   高村光雲の木彫「西王母」

 日本画では村上華岳の「幽山雲烟」「墨椿」「梅の図」の3点が目を引く。墨の濃淡で半開きの花やつぼみを描いた「墨椿」は実に味わい深い。白黒なのに色が見えてくるようだ。華岳は土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を結成し新日本画運動を推進するが、後に画壇との交流を絶ち、昭和14年11月11日、52歳で没した。かつての画友、土田麦僊の「松上鷹図」も展示中。鷹の白い羽、太い茶色の幹、松葉の緑という色使いが印象的だ。

 日本画展示室には高村光雲の木彫「西王母」を常設展示。高さ30cmほどの小さな像だが、その優しげな表情にはいつも癒やされる。西王母は中国・漢の時代の故事に基づく。皇帝の前に女性が現れ、3000年に1度花が咲いて実を結ぶという不老の桃花の小枝を手渡し昇天する。喜んだ皇帝は管弦を奏して待つと、庭に光が輝いて西王母が降り立って君が代を祝って舞う――。「智恵子抄」の高村光太郎は光雲の長男。

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<高校駅伝女子> 号砲まで1カ月、今年は混戦か 有力校ひしめく

2012年11月27日 | スポーツ

【豊川、興譲館、白鵬女子、須磨学園、立命館宇治、青森山田、筑紫女学園、神村学園……】

 全国高校駅伝(12月23日、京都)まで1カ月を切った。都道府県予選に続き、各ブロックの地区大会も25日の近畿、東海大会を最後に終了、参加47代表校は最後の調整段階に入った。24回目を迎える女子は記録を見る限り突出したチームはなく、混戦が予想される。豊川の連覇が成るのか、興譲館が雪辱を果たすのか、それとも須磨学園、立命館宇治など関西勢が巻き返すのか。今年も興味の尽きない大会になりそうだ。

 都道府県予選の上位チームとタイム(チーム名の後のカッコ内は昨年の全国大会での順位、タイムの後のカッコ内は地区大会のタイム) ①豊川(1位)1:08:24(1:09:17)②興譲館(2位)1:08:29(1:09:27)②白鵬女子(6位)1:08:29(1:08:50)④青森山田(14位)1:08:32(1:08:51)⑤神村学園(15位)1:09:26(1:09:09)⑥筑紫女学園(10位)1:09:28(1:08:57)⑦長野東(8位)1:09:44(1:09:59)⑧須磨学園(4位)1:10:06(1:08:49)⑧薫英女学院(9位)1:10:06(1:08:54)⑩立命館宇治(5位)1:10:11(1:08:17)

 都道府県予選で1時間8分台を出したのは4チームで、最高タイムは昨年優勝の豊川。今春、仙台育英陸上部からの集団転校を受け入れた豊川は愛知県大会を男女ともに制し、初の全国アベック出場となる。今季は留学生抜きで4回目の全国最多優勝を狙う。有力校が参加した9月の「くらよし女子駅伝」では豊川Aチームが1:07:40の大会新記録で優勝、2~3位の立命館宇治と神村学園に約1分の大差をつけた。

 予選で豊川に続く好タイムだったのは一昨年全国制覇の興譲館と昨年初めて入賞を果たした白鵬女子。興譲館は2005年の全国優勝以降、11年まで2位、3位、2位、3位、優勝、2位と常に3番以内に顔を出しており、今年も優勝争いに絡んできそうだ。白鵬女子は関東大会も1時間8分台で連覇しており、今年は初の悲願達成も夢ではない。昨年の全国大会で白鵬女子とともに初入賞した長野東は予選、北信越大会でともに9分台を出しており、昨年(8位)より上位を目指す。

 予選タイム4位の青森山田で注目を集めそうなのがケニア出身の2年ローズメリー・ワンジル。8月の全国高校総体女子3000mで高校国際新記録の8:51:97をたたき出している。ワンジルの快走で県大会では大会記録を2分以上更新、さらに東北大会では最終5区で先行する学法石川をとらえ逆転優勝の立役者になっている。ただ東北大会での5区区間賞は仙台育英のメリー・ワイディラに奪われた。ワイディラは昨年の全国大会の5区区間賞。今年の全国総体でもワンジルと激しく競り合って2位に入っており、全国大会でも2人のアンカー勝負が見ものだ。

 関西勢は昨年、須磨学園が4位、立命館宇治が5位に終わって優勝争いに絡めなかっただけに、巻き返しが期待される。薫英女学院も含め3チームは府県予選では1時間10分台だったが、近畿大会ではそろって8分台を記録し順調な調整ぶりを見せた。中でも立命館宇治の1:08:17は全国の予選・地区大会を通じてベストタイム。須磨学園は昨年の全国大会で2~3区で区間賞を取った横江里沙と福田有以が今年どんな快走を見せてくれるか。

 九州勢の奮起にも期待がかかる。筑紫女学園は県予選のタイムを九州大会で約30秒縮め1時間8分台を出して、4年ぶり9回目の優勝を果たした。全国大会では木村友香と由水沙季の走りに注目したい。神村学園では九州大会で筑紫女学園との45秒差を最終5区で12秒差まで追い上げた西山のぞみの走りに期待がかかる。九州大会では筑紫女学園のライバル、北九州市立が1:10:28の好タイムで3位に入ったが、全国大会に出場できないのが残念。

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<近畿大学・里山学講座> シカ被害広がる奈良の森 稚樹の食害・樹皮剥ぎ

2012年11月26日 | メモ

 巨木が茂る春日山原始林に、亜高山帯針葉樹林が広がる大台ケ原や大峰山脈の弥山・八経ケ岳……。奈良は屈指の森林県だが、近年ニホンジカによって荒らされ、森林の〝更新〟が停止状態に追い込まれているという。近畿大学農学部(奈良市)で25日開かれた「里山学連続講座」で、講師の奈良教育大学教授・松井淳氏は「シカと森と人の関係を見直し、新たな折り合いを見出すため早急に行動を起こす必要がある」と警鐘を鳴らし、猟師歴25年の垣内忠正氏は「獣害対策には狩猟による個体数の適切な維持と肉の利活用の一体的推進が不可欠」と強調した。

【松井淳氏「新たな〝折り合い〟づくりへ早急に行動を」】

 松井氏の専門は植物生態学で、奈良県自然環境保全審議会委員や環境省大台ケ原自然再生推進計画評価委員会委員などを務める。この日の講演テーマは「奈良の森~その魅力と直面する課題」。まず古都奈良の文化財として世界遺産にも登録されている春日山原始林の現状に触れ、「低地に残された貴重な照葉樹林だが、最近シカが食べないナギやナンキンハゼなどがはびこってきた」と指摘する。

 

 健全な森林なら親木が寿命や自然災害で枯れ死して林間ギャップ(上に穴が開いて明るくなる)ができると、若木が育って森林の世代交代(更新)が進む。だが、春日山原始林ではそこに本来の自生種ではない樹木が侵食しているというわけだ。大台ケ原ではトウヒ林の立ち枯れが目立ち、弥山ではシラビソ林の縞(しま)枯れ現象(写真㊨)が拡大している。

 松井氏は「これらの地域に共通するのはニホンジカが高密度で生息するようになったこと。シカによる〝採食圧〟で実生の若木が食べられ、親木も剥皮によって枯れ死している。この状況が続くと草地化・裸地化が広がり、斜面崩壊につながる恐れもある」と指摘する。大台ケ原では一昨年から下草のササを取り除いてトウヒの稚樹を植樹し柵で囲む再生事業が試験的に始まった。

【垣内忠正氏「狩猟と肉の利活用一体的に!」自ら処理施設開設へ】

 垣内氏(写真㊧)は1961年生まれで京都府福知山市在住。田舎暮らしをサポートする不動産会社「ART CUBE」を経営する傍ら、京都府認定の「京の田舎ぐらしナビゲーター」も務める。この日は長年の猟師歴を踏まえ「有害獣を獲ることと食べることをどうつなぐか」の演題で講演した。猟師の役割は「鳥獣保護・管理の担い手であり森の番人」という。

 

 最近の里山の現状については「林業の不振もあって森林が荒廃し下草がない山ばかりになって、野生動物が急速に人里へ生息域を広げている」と指摘する。農林水産省の統計では2008年、シカによる被害額が初めてイノシシを上回った。それ以降、差は拡大中。こうした中で京都府は今年のシカ捕獲数を昨年の2倍の1万8000頭に引き上げた。今後、猟師の出番がますます増えそうだ。

 だが、垣内氏は①猟師の高齢化②若者の無関心③銃刀法の強化④狩猟のインセンティブ不足(あまり収入が見込めない)――などから担い手不足が深刻になっていると話す。2009年の環境省統計によると、全国の狩猟免許所持者約18万人のうち60歳以上が61.5%を占める。シカを狩猟で間引いても、その処理の問題も残る。

 垣内氏は「食肉としての調理法や加工品の開発、販路の開拓など課題が多い」と指摘する。来年1月には「捕獲したシカ・イノシシを地域資源として活用するため」、自ら肉処理施設「京丹波自然工房」を立ち上げる計画だ。「シカ肉はヘルシーで高蛋白」。すでにシカ肉のソーセージやカレー、シシ肉ハムなどのほか、ドッグフードアイテムも試作中という。

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<奈良奉行・川路聖謨と文化財> 甲冑・刀剣に高い関心、仏像は「モノ」として評価

2012年11月25日 | 考古・歴史

【帝塚山大学考古学研究所市民講座、講師:森下恵介氏】

 最後の奈良奉行として今なお親しまれている川路聖謨(かわじとしあきら、1801~68年)。奉行の仕事には大和一国の治安維持のほか「寺社の巡見」があった。公儀(幕府)が宝物として認定した文化財がしっかり保存されているかを確認するわけだ。では川路は寺社の宝物をどう評価していたのだろうか。奈良市の帝塚山大学で24日「奈良奉行と文化財―川路聖謨が見た寺社の宝物」をテーマに市民講座が開かれた。講師は奈良市埋蔵文化財調査センター所長の森下恵介氏(写真)。

   

 川路は奈良在任中(1846~51年)のことを日記「寧府記事」に書き残している。それによると、赴任間もない46年4月9日の興福寺、東大寺、春日社を皮切りに、5月にかけて三倉(正倉院)、元興寺、百毫寺、唐招提寺、薬師寺などを次々に巡見、9月には法隆寺を訪ねている。さらに48年3月には5日間かけ長岳寺、長谷寺などを経て吉野地方を巡見した。

 東大寺では大仏そのものより蓮華座の細密な線刻に驚嘆し、正倉院では警備が手薄な中で蘭奢待(香木)などの宝物が盗難に遭わないのが不思議であると記す。仏像への評価は「仕方なきもの」「銭にならぬ仏」など総じて低い。信仰の対象というよりも「モノとして評価している」(森下氏)。多くの寺院が仏舎利を祭っていることについては本物の舎利がそんなにあってたまるものかと率直な意見を記しているという。

 一方、甲冑や刀剣類へは高い関心を示した。法隆寺の峰薬師(西円堂)には昔から刀剣や銅鏡が奉納されてきたが、山路は「武器売る肆(店)のごとく、且小間物やにも似たり……とても四五日もかからずして、みること不能」と記した。名刀などに魅入られて、気がついたら夕方になっていたという。山路は名筆・書跡も高く評価し、工芸品の材質・技術・希少性についても詳細に書き記した。

 奈良の年中行事であるお水取りや薪能、おん祭りには奈良奉行が将軍名代として参加した。だが、こうした祭事に対しても手厳しい。おん祭りの「ヨヤマカセ」の行列については「何のことに候や」「噴飯の極み」「関東には無きこと」。当時7日間続いたという薪能については「見物は難行苦行」「耳に謡曲移りたるが如し」「能ぜめも今日にて相すみたり」。お水取しに至っては「火を粗末にする法会」「去年の水を今年出して人にくるる也泥水也」とボロクソである。

 奈良公園の神鹿殺害はかつて石子詰め(罪人を穴に入れ小石を詰めて圧殺)などの厳罰に処せられた。赴任から4カ月ほどして角切りのため集めた鹿のうち1頭が誤って死ぬという事故があり、興福寺から奉行所に吟味申し立てがあった。これについて山路は「石子づめ、首切るというのは戦国以前のことなるを…」「鹿殺しの罪、死に及ぶというは梨園の戯曲に演義せしもの」として、処分を求めた興福寺の対応に驚きを隠さなかった。

 山路は在任中、古都の美しい景観を取り戻そうと町民と共に植樹活動を展開し、御陵の盗掘対策にも力を注いだ。こうした山路の文化財や景観などに対する接し方について、森下氏は「幕末の知識人に共通する〝古物観〟があった」とみる。「武士の学問の基本である儒学的価値観、漢学的素養、さらに近代的合理主義につながる考証学が底流にあったのではないか。それがその後の神仏分離、廃仏毀釈につながったのだろう」。幕臣の川路は江戸城開城決定直後、割腹ピストル自殺して果てた。

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<倭国女王ヒミコとその時代> 水野正好氏「邪馬台国の王都は大和神社辺り」

2012年11月24日 | 考古・歴史

【奈良市立一条高校人文学科・市民公開フォーラム】

 邪馬台国所在地論争が続く中、奈良市の学園前ホールで23日「倭国女王ヒミコとその時代」をテーマに、市立一条高校人文学科主催の市民公開フォーラムが開かれた。桜井市の纒向遺跡が王都で、箸墓古墳が卑弥呼の王墓なのでは? 関西ではこんな説も飛び交う。だが「大和説」を採る前奈良大学学長の水野正好氏(元興寺文化財研究所所長、写真㊧)はそれらの見方には懐疑的で、「卑弥呼の王都は天理市の大和(おおやまと)神社辺りにあったのではないか」とみている。

  

 所在地論争の鍵となるのが三国志・魏志倭人伝の中の「南至投馬国水行二十日」の解釈。水野氏は他の「畿内説」と同様、「南至」は「東至」の記述ミスで投馬国は吉備(岡山)に当たると主張。そこから「水行十日陸行一月」で邪馬台国があった大和に達するとして、北部九州・吉野ケ里・西都原などにあったとする九州説を否定する。記述ミスの論証の1つとして挙げるのが帰国する小野妹子に付いて中国からやって来た使者裴世清(はいせいせい)の動静。「裴世清は南ではなく東に向かっているのを不審に思い、本当に東でいいのかと何度も念を押している」。

 

     (水野正好氏が推測する卑弥呼の王宮㊧と居館㊨)

 では卑弥呼が王位に就いていた頃、王宮はどこにあったのか。卑弥呼の居館と注目を集めているのが3世紀前半の遺構が見つかった纒向遺跡。だが、水野氏は魏志倭人伝が「楼観城柵」で厳かに守られ1000人の侍女がはべっていたとする卑弥呼の居館にしては「簡素すぎ、信じがたい」として否定的。水野氏は大和神社周辺が居館の有力地とし、中国の古代皇帝が政治や儀式、祭祀を行った「明堂」のような施設を居館としていたのではないかと推測する。そして卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳は卑弥呼を継いだ「台与」の墳墓とみる。

 水野氏に先立ち「邪馬台国の研究はいかに…」をテーマに講演した奈良大学文化財学科教授の酒井龍一氏(上の写真㊨)は「弥生社会は北部九州と畿内を両極とし、北部九州が大陸・半島からの先進的な人・物・情報を入手し、弥生街道を経由して終着点の畿内に到達した。その東にはまだ縄文世界が広がっていた。弥生~古墳時代の過渡期における遺跡の分布状況などから、邪馬台国は畿内にあった」と話した。

 水野氏は文献を基とする歴史考古学、酒井氏は遺跡・遺物を基にした先史考古学の立場から、お二人とも「邪馬台国=畿内説」を主張する。ただ、それでも吉備から卑弥呼の王宮まで「水行十日陸行一月」という魏書の記述が気になる。船で10日はともかく、陸路1カ月もかかるというのはどう解釈したらいいのだろうか。

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<オキザリス> 語源はギリシャ語の「酸性」 葉や茎をかむと酸っぱい!

2012年11月23日 | 花の四季

【カタバミ属の観賞用園芸品種、太陽が出ると開花】

 カタバミ科カタバミ属の園芸品種をまとめてオキザリスと呼び、世界で800種を超える。オキザリス(Oxalis)はギリシャ語で「酸性」「酸味」を意味するオクシス(oxys)に由来し、葉や茎に蓚酸(しゅうさん)を含む。オキザリスやカタバミの葉で10円銅貨をこすると黒ずみが取れてピカピカに。蓚酸はカタバミ科のほかタデ科のスイバ、イタドリ、ギシギシなどにも含まれる。

 花の色はピンク、赤、白、黄、紫と多彩。花の大きさや花期もバラエティーに富む。日本で流通するオキザリスには南アフリカのケープ地方原産のものが多い。「ハナカタバミ」とも呼ばれる大きなピンク花の「ボーウィー」をはじめ、小花の「マルチアーナ」、黄花の「セルヌア」、秋~冬に咲く「ヒルタ」「ハリアビリス」など。このほかにブラジル原産「ブラジリエンシス」やチリ原産の黄花「ロバータ」、メキシコ原産で四つ葉のクローバー型の「ディッペイ」など。

 日本のカタバミは別名「ゼニミガキ」のほか「カガミグサ(鏡草)」「スイモノグサ」「ショッパグサ」などとも呼ばれる。「カガミグサ」は昔、女性がカタバミの葉をすりつぶして鏡を磨いたため。カタバミ属の植物は光に敏感で、太陽に向かって花を咲かせ、夜間や雨天・曇天時には閉じる。ギリシャ伝説の中にも太陽神アポロンが愛した花としてオキザリスにまつわる言い伝えがあるそうだ。

 カタバミは繁殖力が旺盛で、種を弾き飛ばして路地や田畑などに群生する。その生命力と整った葉形からカタバミを家紋に定めた戦国大名や武将も多い。「片喰紋」「酸漿草紋」(かたばみもん)は日本十大紋の1つともいわれる。長宗我部家は「七つ酸漿草(ななつかたばみ)」、宇喜多直家は「剣片喰」を家紋とした。このほかにも「菱に片喰」「丸に片喰」「四つ片喰」などさまざまな形がある。

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<平城宮第一次大極殿院> 巨大な柱をくり抜いて、排水用の木樋にリサイクル!

2012年11月22日 | 考古・歴史

【奈文研60周年を記念し、平城宮跡資料館で特別展】

 奈良文化財研究所の創立60周年を記念した特別展「地下の正倉院 平城宮第一次大極殿院のすべて」(12月2日まで)が、奈良市の平城宮跡資料館で開かれている。これまでの発掘調査で第一次大極殿院地区から出土した木簡や瓦、土器類などを展示、2010年の第一次大極殿復元に至る発掘の成果を凝縮して示す。出土品の中でひときわ目を引くのが、会場入り口に飾られた直径73cmもある大きな「柱根」(写真㊧)。巨大な木をくり抜いて排水溝に下水管として埋設されていた「木樋」(写真㊨)にも注目が集まる。

 

 大極殿は元日朝賀や外国使節の謁見など重要な国家儀式の際に天皇が出御する場所。奈良時代前半の平城宮にはこの大極殿を中心とする壮麗な第一次大極殿院があった。築地回廊で囲まれ、広さは甲子園球場のほぼ1.5倍。だが740年の恭仁京遷都に伴って大極殿と回廊の一部は恭仁京に移築される。745年、再び平城京に戻ると新しい大極殿院が第一次の東隣に設けられ、元の場所には「西宮」と呼ばれる宮殿が造られた。

 第一次大極殿院地区の発掘調査は1959年以来47回にわたる。会場入り口の「柱根」は南門の脇にあった楼閣建物「東楼」から出土した。樹種はコウヤマキで、平城京でこれまでに見つかった建築部材としては最大。大極殿など他の建物が礎石建ちの中、東西の楼閣建物は内側の柱が礎石建ち、外側が柱を地面に埋める掘っ立て柱という特殊な構造だった。この「柱根」は外側の掘っ立て柱の根元にあった。

 大極殿院は北側の大極殿から南側に向かって緩やかに傾斜、南北の高低差は5mほどあった。難題は排水で、頻繁に排水工事が行われたという。排水溝には下水管代わりに大きな木をくり抜いた「木樋」が設置された。展示中のものは長さが7.4mもある。樹種は柱根と同じコウヤマキ。第一次大極殿院の建物は藤原宮から移築されたものが多いが、この木樋も藤原宮の大垣の掘っ立て柱を転用したものと推測されている。

 木簡からも大極殿院造営の過程や役人の仕事の内容など、さまざまな手掛かりを得ることができた。年月が記された一片の木簡からは710年の遷都時に大極殿院は未完成だったという予想外の事実が明らかになった。大極殿の使用が記録上最初に確認されるのは5年後の715年の元日朝賀という。

  

 出土した木簡は荷札として使われたものが多いが、ユニークなものも。報告書の下書きのような木簡の片隅に「常食菜甚悪(じょうしょくのな はなはだあし)」と記されたもの(写真㊧)もあった。「給食のおかずがまずい」というわけだ。「此所不得小便」(ここは小便禁止)と書かれた木簡(写真㊥)も。これらの木簡は楼閣の掘っ立て柱の抜き取り穴から出土した。

 木簡のほかにもさまざまな木製品が約2500点出土した。箸・杓子・角鉢などの食膳具、桧扇、人形(ひとがた)や鳥形、斎串(いぐし)などの祭祀具、糸紡ぎ用とみられる有孔小円板、実際の建物寸法の10分の1で作られた建築部材の雛形……。四つ葉のクローバー状に人名や呪句を記した木簡(写真㊨)も見つかった。病気平癒か疫病除け祈願のまじない札とみられる。

 奈文研ではこの特別展と同時に、飛鳥資料館(明日香村)でも創立60周年記念展「花開く都城文化」(12月2日まで)を開催中。当初は日中韓3カ国の研究機関で共同開催の予定だった。ところが中国から借りるはずだった文化財の借用が中国当局の意向で困難に。そのため開幕がずれ込み(当初予定の10月19日が11月1日に)、日韓2カ国展としての開催を余儀なくされた。尖閣諸島の国有化の影響だろう。それにしても、なんと度量の小さいことか。人口は日本の10倍、国土面積は25倍、GNP(国民総生産)は日本を抜いて今や世界第2位。図体ばかり大きくなって……。

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<山口華楊展> 動物画・花鳥画で日本画壇に新風吹き込む

2012年11月20日 | 美術

【京都国立近代美術館で回顧展開催中】

 動物画や花鳥画で日本画壇に新風を吹き込んだ日本画家、山口華楊(1899~1984年)。その回顧展(12月16日まで)が京都国立近代美術館で開かれている。父方は曽祖父の代から友禅染の職人、母方は絵の具商。華楊は幼い頃から粘土や筆で動物を写すことを好んだという。尋常小学校卒業と同時に竹内栖鳳、谷竹堂の弟子だった西村五雲に入門、1916年の時に第10回文展に入選するなど早くから非凡な才能を発揮した。

 

 会場を入ると正面に代表作3点。左に「獅子」、右に「虎」、中央に「樹」。「虎」(写真㊧)は悠然と寝そべって斜め前方を凝視し、「樹」は老樹の幹が地上にどっしり根を張る。いずれも存在感が際立つ。華楊は動物や花、鳥を多く描いたが、老木も好んで描いた。「角とぐ鹿」(写真㊨)は1918年、19歳の時の作品。「耕牛」は茶色の牛が水田の中で顔だけこちらに向けてじろり。その重量感が伝わってくる。

 「黒豹」(写真㊧)は華楊の動物画の到達点ともいえる代表作の1つ。55歳の時の作品で第10回日展に出展した。真っ黒な2匹の豹のうち1匹は寝そべり、もう1匹はこちらに向かってゆっくり歩を進める。その眼光の鋭さに吸い寄せられる。寝そべった豹の体の一部は画面からはみ出す。その構図の妙。

        

 華楊は虎やライオンなどもよく描いた。京都の動物園に通って写生したのだろうか。ライオンは会場正面の「獅子」のほか同じタイトルの「獅子」や「凝視」、虎も子どもの虎を描いた同じタイトルの「虎児」2点も出展されていた。「仔馬」は黒と茶の子馬が寄り添う構図で、1955年度日本芸術院賞受賞作品。動きの少ない動物画が多い中で、若い雌鹿2頭がジャンプし疾走する「飛火野」や雄鹿2頭が角をからみ合わせた「深秋」は躍動感に満ちていた。

 「木精(こだま)」は地上をうねる巨木の根元に止まったミミズク(?)が顔を180度回転させてこちらをじっと凝視する構図。この巨木は京都・北野天満宮にある樹齢400年のケヤキがモデルという。物音1つしない森閑とした中で、悠久の時の流れと力強い生命力を感じさせる作品だ。赤い花が咲き誇る椿の木に1羽のウグイスが止まった「春盡(はるづくし)」、黒猫が緑陰で休む「青柿」(上の写真㊨)、3羽の丹頂鶴が雄飛する「丹頂の里」なども印象に残った。

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<鴨長明「方丈記」> 「断捨離のルーツ」東日本大震災を機に再び脚光!

2012年11月19日 | 考古・歴史

【京都産業大・小林一彦教授「完成800年、自らの意志で蘇ってきた」】

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし」――。鴨長明が「方丈記」(1212年)を著して丸800年。昨年の未曾有の大災害「3.11」を機に、「方丈記」が改めて注目を集めている。京都府精華町で15日開かれた「断捨離のルーツ 方丈記を読む」をテーマにした図書館文学講座。講師の京都産業大学文化学部の小林一彦教授(写真)は「大震災で安全神話が崩れ、人間の力の小ささを思い知らされた。方丈記は自らの意志をもって蘇ってきたという気がする」と話す。

   

 鴨長明は1155年、下鴨神社の禰宜の次男として誕生、7歳の時には従五位下(じゅごいのげ)に叙せられる。いわば貴族である。とても裕福な恵まれた中で育ったわけだ。だが、安元の大火、治承の辻風(竜巻)、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震などに遭遇するうちに人の世のはかなさを痛感し、晩年は日野山に「広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり」という4畳半ほどの簡素な庵を結び、隠遁生活を送る。そして1216年、62歳で没した。

   「方丈」の推測図

 「長明が生まれたときはいわばバブルの最盛期。しかし、その後の天変地異や人災によって人も住まいも翻弄されていく。そのうえ鎌倉に新興勢力が台頭し、京都中心の時代が終わるのではないかという不安に包まれていた。今の時代に非常に似ているのではないか」(小林教授)。方丈記は天変地異について詳しく記し、同時に「すなはちは、人みなあぢきなき(はかない)事をのべて、いささか心の濁り(欲望や邪心)もうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし」と、風化と心持ちの変化を指摘する。

 そして数々の災厄の体験を通じて次のように記す。「財あれば、恐れ多く、貧しければ、うらみ切なり。人をたのめば、身他の有なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したかはねば、狂せるに似たり」。この部分から思い起こされるのが夏目漱石の「草枕」の一節「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。

 小林教授によると、漱石は学生時代に「方丈記」を初めて英訳、世界に紹介しており、「方丈記」は「草枕」に明らかに影響を与えているという。このほかに鴨長明に心酔、尊敬していた作家として芥川龍之介、無頼派と呼ばれた坂口安吾や檀一雄、中原中也、内田百らを挙げる。檀一雄はエッセー「流れる」の中で「身のまわりには、何もないがいい。……火事だの、泥棒だの、地震だの……と、おびえるのは、みんな、そのガラクタのオ化ケと、心中の気でいるからだ」と記した。

 長明は「方丈記」にこう記す。「かむな(ヤドカリ)は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人を恐るるがゆゑなり。我またかくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず(走らず)、ただ静かなるを望みとし、憂へ無きを楽しみとす」「それ三界(欲界・色界・無色界)はただ心一つなり。……おのづから都に出でて、身の乞丐(こつがい=乞食)となれる事を恥づといへども、帰りてここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ」。そして「仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり」と、何事にも執着心を持ってはならないと説く。

 小林教授は「長明は方丈記を通して、生きていくうえで本当に大切なものは何だろうかと問いかけている」という。「毎年3万人もの自殺者を生む日本は生き方、暮らし方がどこかおかしいのではないか。(方丈記などの)古典から学ぶべきことは多い。つまらないものはごっそり捨て、心を大事に生きていきたい。捨てるには勇気がいる。だが捨ててはいけないものもいくつかある。それが何かを考える日が1年に1日あってもいいのではないか」。今年から11月1日が「古典の日」と制定された。

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<初代吉田奈良丸> 明治の浪曲界の大家、後継者育成や台本作りに貢献!

2012年11月17日 | 音楽

【法隆寺の南に立派な石碑、だが近づくには柵を乗り越えなくては……】

 法隆寺の南大門(国宝)から南へ参道の松並木を抜けると、車の往来が絶えない国道25号にぶつかる。さらにその南側にも松並木が数十メートル続く。ふと右手を見ると大きな石碑があった。だが、不思議なことにすんなりとは近づけない。松の植樹帯に上がり、柵を乗り越えて行くしかないのだ。石碑が立派な割には〝冷遇〟されている感じ。巨大な自然石には「初代奈良丸之碑」とあった。

     

 説明文によると、奈良丸は嘉永4年(1851年)に現在の広陵町で生まれた。本名は竹谷奈良吉、浪曲(浪花節)界の芸名を吉田奈良丸といった。大阪・千日前で大道芸「チョンガレ(弔歌連)」を聞いて感動、芸で身を立てることを決心する。チョンガレは鈴や錫杖(しゃくじょう)を振りながら早口でうたうもので、当時大流行し浪曲の前身ともいわれた。奈良丸は吉田音丸という浪曲師に弟子入りする。だが、そのうち台本のほとんどを自分で創作するようになり、優美な語りが評判を呼んで奈良丸の下に60人余りの弟子が出入りするようになった。

 その門生の中に広橋広吉(芸名「小奈良」)という優秀な弟子がいた。奈良丸はその小奈良に芸名を譲り、自らは引退し「竹廼家養徳斎」と名乗って門生の養成と台本作りに励む。一方、2代目奈良丸は関西の雄として明治末期から大正時代にかけて、東の桃中軒雲右衛門とともに人気を二分する。妻は浪曲師の初代春野百合子(後に離婚)。養徳斎は1915年元旦に逝去、享年65歳。石碑はその13年後の28年、2代目吉田奈良丸を中心に知人や弟子たちによって建立された。その場所が選ばれたのは40代半ばに法隆寺の近くに転居していたことから、この場所が選ばれた。吉田奈良丸は現在5代目に引き継がれている。

 浪曲に不案内な私にとって、浪曲で思い浮かぶのはせいぜい森の石松の「寿司食いねえ」のフレーズで有名な広沢虎造と、東大卒で芸能界から転進した異色の浪曲師、春野恵子ぐらい。その春野恵子は2代目吉田奈良丸と初代春野百合子の娘である2代目春野百合子の楽屋に押しかけて弟子入りさせてもらったという。演歌歌手の中村美律子もかつて2代目春野百合子の下で浪曲を教わった。そのおかげで歌謡浪曲と呼ばれる「壷坂情話」「瞼の母」といったヒット曲も生まれた。

 たまたま法隆寺周辺を散策する中で目にした初代吉田奈良丸の碑だったが、その初代の存在が時を経て今の春野恵子や中村美律子にもつながっていたというわけだ。そんな過去の経緯や浪曲界の系譜などを垣間見て、この「初代奈良丸之碑」はもう少し温かく見守ってやってもいいのではないか、ふと、そんな気がした。

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<古事記・日本書紀とやましろ> 南山城の地名の起源にまつわる伝承、古事記に多く記述!

2012年11月16日 | 考古・歴史

【波布理曽能→祝園、懸り木→相楽、堕国→乙訓】

 京都府立山城郷土資料館(木津川市)で開館30周年と古事記編纂(へんさん)1300年を記念した特別展「古事記・日本書紀とやましろ」(12月9日まで)が開かれている。南山城は崇神天皇の時代のタケハニヤスヒコの反乱など、記紀に様々な出来事の舞台として登場、地名の起源についての伝承も多く記述されている。同展では南北朝時代に書写された重要文化財「日本書紀・神代紀下巻」(向日市の向日神社所蔵)などの記紀や、椿井大塚山古墳、久津川車塚古墳などから発掘された、記紀が描く時代の遺物などが展示されている。

 向日神社所蔵の重文「日本書紀」神代紀下巻

 反乱を起こしたタケハニヤスヒコは平定に向かったヒコクニブクに木津川を挟んだ戦いで討ち取られる。タケハニヤスヒコの兵士たちが斬り捨てられた場所「波布理曽能(はふりその)」が今の精華町の「祝園(ほうその)」の起源といわれる。「波布理曽能」は死体が「はふれる(あふれる)」からの変化したものともいう。

 斬首されたタケハニヤスヒコの首が飛んだその祝園の祝園神社と、胴体が残った山城町平尾の湧出宮では、霊を慰めるために始まったという居籠祭(いごもりまつり)が今も行われている。「松明の儀」では大松明が燃やされるが、その松明はタケハニヤスヒコの胴体をかたどったものとも。南山城を代表する古墳、椿井大塚山古墳の被葬者はタケハニヤスヒコとも、ヒコクニブクともいわれている。

   

 椿井大塚山古墳は卑弥呼が中国の皇帝から下賜された銅鏡ともいわれる30枚を超える三角縁神獣鏡の発見で有名。今回の特別展の資料調査の過程で、思わぬ発見もあった。館蔵の三角縁神獣鏡の破片(写真右下)がCG(コンピューターグラフィックス)検査などの結果、同古墳からの出土鏡(写真上)の一部(修復部分)であることがほぼ確実になったのだ。

 古事記の「丹波の四女王」によると、垂仁天皇の妃として丹波のミチノウシノミコの娘4人が召される。姉2人は妃とされたが、下の2人は「姿醜き」により帰されることに。2人のうちマトノヒメはそれを恥じ、帰路の途中、山城国で縊死しようとした。だが死に切れず深い淵に落ちて死ぬ。最初に縊死しようとした場所「懸(さが)り木」が今の「相楽」の地名に、深い淵があった「堕国(おちくに)」が今の「乙訓」」の地名の起源になったといわれる。

 南山城の郷土史研究団体には記紀にちなんだ会誌名をつけたところも多い。精華町の「自然と歴史を学ぶ会」の会誌は「波布理曽能」、京田辺市郷土史会は「筒城(つづき)」。筒城は継体天皇の筒城宮があったとされる場所。記紀には仁徳天皇の皇后の磐之媛命が留守中、天皇が八田皇女を宮中に入れたことに嫉妬し、熊野から難波宮に戻らず、木津川を遡って筒城に入ったことも記されている。

 それにしても地名の起源になっている山城の伝承には「波布理曽能」にしろ「懸り木」「堕国」にしろ、不吉な死などを連想させるものが多い。同資料館の森島康雄さんは「山城にはいい伝承が少ない。そのため山城は大和から嫌われていたのではないかと指摘する学者もいます」と話していた。

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<絹谷幸二展> 圧巻! 学生時代から今日までの〝絹谷ワールド〟を体感

2012年11月15日 | 美術

【古事記編纂1300年記念の連作も】

 鮮やかな色彩、あふれるばかりの躍動感、口からは劇画のような吹き出し――。奈良市出身で日本を代表する洋画家、絹谷幸二(69歳)の作品は自由奔放な独創性で、見る者を独自の〝絹谷ワールド〟に引き込む。いま奈良県立美術館(奈良市)で特別展「絹谷幸二~豊饒(ほうじょう)なるイメージ」(12月16日まで)が開かれている。展示作品は東京芸大在学中の初期の作品から最新作までの約80点。絹谷芸術の神髄を年代ごとにたどることができる。

    立体像「モンマルトルの恋人」

 会場は第1部絹谷芸術の形成(1960~70年代)、第2部開花(80~90年代)、第3部飛躍(2000~11年)に分かれ、最後に古事記編纂1300年を記念して新しく制作された「古事記シリーズ」が並ぶ。第1部には漆喰壁に壁画を描くアフレスコ技法による作品を展示。絹谷は学生時代、古美術研修旅行で法隆寺を訪れ、そこで焼けた金堂壁画を目にした。「焼け焦げても見る人の琴線を震わせる壁画の存在感と訴求力に圧倒された」という。それが古典技法習得につながったのだろう。稲妻のように走る線表現の「アンセルモ氏の肖像」、あふれる涙と木偶(でく)の体、青空を飛ぶ戦闘機が描かれた「アンジェラの蒼い空Ⅱ」などが印象に残る。

    98長野五輪「銀嶺の女神」

 第2部では輪郭線を消去した点描表現の作品が増えてくる。劇画のような奔放な表現も目立ち、第19回日本芸術大賞受賞の「チェスキーニ氏の肖像」も口元から文字があふれ出る。1987年の奈良県置県100年記念のアフレスコ画「大和遠望」は旭日に照らされた古都を、原色の赤を基調に南洋的な明るさで描いた。会場には98長野冬季五輪のポスター原画「銀嶺の女神」や立体木像「ニューヨークの天使」「モンマルトルの恋人」なども展示されていた。

 第3部に入ると、日本的・東洋的なモチーフが増えるとともに、動と静の対照的な作品が並ぶ。「蒼穹夢譚」は点描で風神雷神を描いたもの。「蒼天富岳龍宝図」はそびえる富士の前で雄飛する龍がまるで織物のような風合いで描かれていた。「自画像・夢」は口から般若心経の「色即是空」が唱えられ、自画像「発火激情」も口から「平和」と「Peace」の言葉が飛び出す。

   「蒼穹夢譚」

 2011年作の「富嶽飛龍日月」には東日本大震災の鎮魂と復興への願いを込めた。「波乗り七福神」は七福神が満面笑みをたたえて水上スキーを楽しむもので、そのユーモラスな構図に観覧する人たちもついニコニコ。古事記シリーズは自ら古事記にまつわる日本各地を巡ったうえで制作したという。「黄泉比良坂」「天の岩戸 曙光」「天孫降臨Ⅰ、Ⅱ」など200号の大作のほか、大きな立体作品の「天の岩戸」「神武ヤタガラス」「ヤマトタケル」などを音響付きで展示していた。

 絹谷の作品については「まるで劇画」などと一部で批判にもさらされてきたが、その自由奔放さと果てしない創造力がまさに絹谷芸術の真骨頂だろう。来年1月に古希を迎えるとは思えない若々しい感性と精力的な姿勢はただ感服するばかり。会期中にもう一度、会場を訪ねて絹谷ワールドにどっぷり漬かってみようかな。

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<バレー「V・プレミアリーグ」女子> 17日開幕 久光・東レ・岡山など混戦必至!

2012年11月14日 | スポーツ

【来年3月まで8チームで4回戦総当たり】

 バレーボールのV・プレミアリーグ女子はいよいよ17日、2012/13シーズンが開幕する。今季は前季の8チームによる3回戦から4回戦総当たりに変わり、来年3月までのレギュラーラウンドで各チームは28試合を戦い上位4チームが決勝ラウンドに進出する。久光製薬への狩野舞子の復帰と元日本代表セッター中田久美の監督就任、木村さおりの東レ退団と竹下佳江のJT退団、栗原恵の岡山シーガルズ加入など今季は話題も豊富。バレーファンにとっては目の離せないシーズンになりそうだ。

2011/2012シーズン女子プレミアリーグ・レギュラーラウンド順位表

1位東レ(18勝3敗)、2位久光製薬(15勝6敗)、3位デンソー(14勝7敗)、4位岡山(11勝10敗)、5位JT(11勝10敗)、6位パイオニア(7勝14敗)、7位トヨタ車体(5勝16敗)、8位NEC(3勝18敗) ※4~5位はセット率による

 前季のレギュラーシーズンを振り返ると、第2節までは東レとデンソーが12勝2敗と並んでトップ争いを繰り広げ、続いて久光とJTが9勝5敗で3位争いを展開していた。だが最終節で東レが独走、デンソーは息切れし最終戦で久光に抜かれて3位に後退。またJTは岡山に勝敗数で並ばれ、セット率で岡山が4位となった。V・プレミアリーグ唯一の市民クラブチームである岡山は2010/11シーズンではわずか1勝(25敗)と惨敗していただけに、その健闘ぶりが光るシーズンだった。

【東レ、木村の穴をどう埋める? 久光は復帰した狩野がセッター転向】

 昨年首位だった東レも今季は安穏としてはおれない。チームの要だった木村さおりが退団、トルコ1部リーグに移籍したためだ。木村は2005年東レに入部以来、4回のV・プレミアリーグ優勝に大きく貢献してきた。東レにとって戦力ダウンは否めず、その穴をどう埋めるかが今季の大きなテーマとなる。期待がかかるのが迫田さおりと新外国人のエンライト・ステファニー(プエルトリコ出身)。21歳181cmで、速攻や力強いサーブが持ち味という。

 戦力が充実し優勝候補の一角と目されるのが中田新監督率いる久光。今季は「Winning! 勝つこと、それがすべて」をスローガンに掲げる。岩坂名奈、新鍋理沙など生きのいい選手がそろい、2年ぶりに狩野舞子も復帰する。その狩野が中田監督の意向でウイングスパイカーからセッターに転向するという。185cmという大型セッターの誕生だ。もちろん狩野にとっては初挑戦。セッターとしてスパイカーの能力をどう自在に引き出すか。今季の久光は狩野にかかっているといっても過言ではない。

【岡山は栗原加入で攻撃に厚み、デンソーは鍋谷ら若手の活躍が見もの】

 岡山は前季、目標の4位以内を達成したものの〝大砲〟不足が指摘されていた。そこに加入したのが栗原恵。2004~11年パイオニアに所属し、05/06シーズンには最高殊勲選手にも選ばれている。サーブにも定評があり、栗原の加入で山口舞ら攻撃陣も厚みを増す。岡山は将来の日本を代表するセッターとして注目される宮下遥(18歳)ら若手選手の成長も著しい。三洋電機のチーム解散に伴って移籍してきた新アタッカー佐々木侑、萌姉妹にも期待がかかる。他チームが外国人選手を擁する中で、岡山だけは今季も〝純和製〟の布陣。優勝争いに絡む戦いぶりを見せてほしいものだ。

 デンソーは11/12シーズンの得点王でベスト6のデラクルス(ドミニカ共和国)が退団、代わりにイヴァナ・ネーショヴィッチ(セルビア)が加入した。24歳190cmのウイングスパイカーで、昨年まで所属した韓国リーグではベストプレーヤーに選ばれている。春高バレーで活躍し昨年入部した鍋谷友里枝と大竹里歩も2年目。2人は今年9月のアジア選手権(準優勝)の日本代表メンバーにも選ばれている。今季の活躍を期待したい。

【JTは竹下退団、新セッター山口に大きな期待】

 JTは長くチームの要として活躍した竹下佳江が退団したため、新セッターの山口かなめに期待がかかる。2011年全日本インカレでは東海大主将として優勝に貢献し、大会MVPにも選出された。攻撃陣には大友愛、位田愛に加え、新戦力としてヤネヴァ・エヴァ(ブルガリア)が加わる。27歳186cmで昨季までロシアの強豪チーム「ディナモ・モスクワ」で活躍した。

 トヨタ車体は今季から泉川正幸が新監督に就任するなどスタッフの体制を一新した。デンソーからミドルブロッカーの矢野美子が移籍し、ハワイ大学でウイングスパイカーとして活躍したカナニ・ダニエルソン(米国)が新加入した。パイオニアにはセッター横田千里(パイオニア川越事業所の9人制バレー部からの移籍)が入団。今季は「リーグ4強」を目標に掲げる。NECには新外国人としてトルコリーグに在籍していたイエリズ・バシャが新加入した。

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<ローズマリー> 地中海地方原産のハーブ 長く咲き続ける薄紫色の小花

2012年11月13日 | 花の四季

【葉は香料や肉料理の臭み消しに、古くは魔除けの聖草】

 シソ科の常緑低木。原産地は地中海沿岸地方で、日本には文政年間(1818~30年)の頃、渡来したという。名前はラテン語の「ロス・マリヌス」に由来する。ロスは「露・しずく」、マリヌスは「海」。海に面した崖などに多く自生し、花の淡いブルーが海の色を連想させることによる。「ローズ・オブ・マリア(聖母マリアのバラ)」からという説もあるが、これは俗説といわれる。和名はマンネンロウ(迷迭香)。

 ローズマリーは英国のバラード曲「スカボローフェア」の歌詞に「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」と繰り返し出てくるように、代表的なハーブ(香草)の1つ。強い香りから葉を肉料理の臭み消しに使うなど、香料や防臭剤として幅広く利用されてきた。イタリアの肉屋さんではラム(子羊)肉を買った人にローズマリーをサービスする店もあるそうだ。花はジャムや砂糖漬けの菓子などにも。フランスやイタリアなどではローズマリーの蜂蜜が特産の1つにもなっている。

 花の色は淡紫が多いが、白や青、ピンクのものもある。株の形を大別すると上にまっすぐ伸びる直立型と、地面を這うように横に伸びる匍匐(ほふく)型、それらの中間タイプに分かれる。直立型にトスカナブルーやミス・ジェサップ、匍匐型にプロストラータス、サンタバーバラなどがある。サンタバーバラは四季咲き性で寒さにも強く、花期が秋から翌春までと長い。

 ローズマリーは古くから若返りや魔除けの力があると信じられてきた。古代エジプトのファラオ(王)の墓からは副葬品としてローズマリーの小枝が見つかっている。フランスでは伝染病患者を収容した病院で伝染予防のためローズマリーが焚かれたという。このほか古代ローマ人は神々をローズマリーの花で飾った▽中世ヨーロッパでは葬儀の会葬者が棺のそばに小枝を投げ入れた▽14世紀のハンガリー王妃エリザベートはローズマリーを主成分とする香水の「ハンガリー・ウオーター」で美貌を取り戻し、70歳を過ぎて隣国の若きポーランド国王から求婚された――など多くの伝説がある。

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<大和郡山市の石造美術> 古代中国の〝碑制〟に基づいた本多忠常公の墓碑

2012年11月12日 | 美術

【亀の背中の上にそびえ立つ石碑、上部には2匹の龍】

 奈良県大和郡山市の薬園(やくおん)八幡神社参集殿で11日、「大和郡山市の石造美術」をテーマにした歴史講演会があった。大和郡山市まちづくり会議(砂川正興代表)の主催で、講師は同市文化財審議会の長田光男会長(写真)。奈良県内の石造美術としては古くは明日香村の猿石、亀石や飛鳥大仏などがあるが、郡山市内で石造美術と呼べるものが残っているのは鎌倉時代中期以降のもの。長田氏はその中でも注目すべきものとして歌ケ崎御廟の本多忠常公の墓碑、矢田寺の十三仏、額安寺の宝篋(ほうきょう)印塔、薬園八幡神社の石燈籠2基などを挙げる。

   

 大和郡山藩主・本多忠常公の墓碑(下の写真)は養子忠直公が1709年に建立した。菩提寺の発志禅院のそばにある小高い歌ケ崎丘陵に立つ。墓碑は古代中国の碑制に則ったもので、「亀趺(きふ)」と呼ぶ大亀の上に碑文が刻まれた「碑身」が乗り、上部に龍2匹の飾りを付けたもの。高さは台座を含めると約3.5m。碑文は徳川幕府の儒官大学頭として有名な林信篤の手によるもので、格調の高い漢文で藩主の功績が刻まれている。

   

 亀趺に乗る碑の建立は中国で随・唐代に流行、日本には江戸時代に入って伝えられ、黄檗宗系の墓所に多く建立された。ただ中国では前代の業績を記した碑文を削ったり、壊したりする風潮もあって、完全な形で残っているものはあまりないという。長田氏は「現在、市の文化財に指定されているが、国指定でもいいくらい貴重なもの」と指摘する。

 矢田寺の十三仏は1997年、大門坊の墓地の地下に埋まっていたところを発見された。像身は高さ1.5mで、虚空蔵菩薩など12仏が配置され、左下に「光秀」と刻まれている。この銘から明智光秀が建立したのではないかとの説もあるが、長田氏は郡山城主、豊臣秀長(秀吉の弟)の室(奥方)だった尼僧の光秀(こうしゅう)の銘とみる。光秀はしばしば矢田寺を訪ねており、秀長をはじめ郡山豊臣家の菩提を弔うために奉納したのだろうとしている。

   

 薬園八幡神社の石燈籠2基(上の写真)には安政4年(1857年)の刻銘がある。竿の部分には「安政元年六月十四日夜大地震遁危難依有信他カ建」。安政元年の大地震では大和郡山の町にも甚大な被害が及んだが、かろうじて難を免れた町民が感謝の念を込めて寄進したという。「江戸時代後期の特徴が笠の反りや竿のくびれなどによく表現された優作である」(長田氏)。

 長田氏によると、石燈籠は上部の「笠」や柱部分の「竿」の形で、製作された時代がほぼ判断できるという。笠の形は八角形や六角形など角が多いほど古く、時代が新しくなると簡素化された四角形のものが増えてくる。竿が直立したものは鎌倉時代など古いもので、江戸時代の後期になると竿のくびれが次第に深くなってくるそうだ。

 そうした傾向の中で八幡神社(薬園とは別の神社)の石燈籠は建立が1852年と比較的新しいが、竿が直立した四角形という古風な形なのがユニークという。額安寺の宝篋印塔は鎌倉時代の1260年、「大蔵流」石工の祖といわれる大蔵安清の作。今春、市指定文化財から県文化財に格上げされた。蛭子神社の獅子一対は安政年間(1854~60年)のもので、長田氏は作風から孝明天皇が「日本一の石大工」と讃えた丹波佐吉の作ではないかとみている。

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