く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市写真美術館> 入江泰吉記念写真賞受賞展「紡ぎ音 岩波友紀」

2021年02月27日 | 美術

【ならPHOTO CONTESTの受賞作品展も同時に】

 奈良市写真美術館で第4回入江泰吉記念写真賞と第4回ならPHOTO CONTESTの受賞作品展が開かれている(3月28日まで)。新たな写真家の発掘を目的とする入江泰吉記念写真賞にはコロナ禍にもかかわらず全国から過去最多の103点(前回95点)の意欲的な応募があった。その中から福島県会津美里町在住の岩波友紀さん(44)の99枚組写真「紡ぎ音(つむぎね)」が大賞に当たる写真賞に選ばれた。

 長野県出身の岩波さんは大学卒業後、全国紙のスタッフフォトグラファーを経てフリーの写真家に。現在は福島県を拠点に東日本大震災と福島第一原発事故の〝その後〟をテーマに発信を続けている。これまでの受賞作品に「DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」審査員特別賞などがある。今回の応募作も福島~岩手の被災地でお祭りの継承、復活に取り組む人たちの姿を追ったもので、地域の担い手となる若者や少年少女たちが多く登場する。

 一連の写真の中でとりわけ印象に残ったのが娘さんの墓前で「鵜住居虎舞」の笛を奏でる男性の後姿。娘さんも笛吹きだったが津波で亡くなったという。父親はその娘さんの月命日のたびに笛を吹いているそうだ。「崎浜念仏剣舞」の舞手の一人が両手を広げ岩場から三陸の海を見つめる姿、「愛宕青年会八木節」の若者たち数十人が列を成して巨大な堤防脇を練り歩く光景、震災後初めて「村上の田植踊」を奉納するため崩れ落ちた鳥居をくぐって神社に向かう女性たちを撮らえた作品などにもついじっと見入ってしまった。多くを物語る一瞬の写真の力を教えられる作品群だった。

 ならPHOTO CONTESTにもこれまでで最も多い563点(前回392点)の応募作品が寄せられた。その中で<一般の部>ではバンビの愛らしい姿を切り取った川口重一さんの「新たなる季節」(3枚組)が「なら賞」に、楽器の演奏に興じる若者たちの和やかな光景を撮った乾井義實さんの「大きな樹の下」(同)が「日本経済新聞社賞」に選ばれた。このほか入選作22点も展示中。<学生の部>は会期中に来場者の一般投票で優秀作品が選ばれる。

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<喜光寺> 南大門、行基堂に続き仏舎利殿も完成

2021年02月25日 | 考古・歴史

【〝いろは写経〟などで伽藍を次々に復興・整備】

 奈良時代の高僧行基(668~749)ゆかりの古刹喜光寺(奈良市菅原町)が創建1300年を記念して建立していた「仏舎利殿」が完成した。伽藍の復興・整備としては南大門(2010年)、行基堂(2014年)に続くもの。この寺院は法相宗大本山薬師寺の別格本山。約30年前に当時の薬師寺管主(かんす)高田好胤師の命で送り込まれた現住職の山田法胤師(薬師寺長老)によって、かつて荒れ放題だった境内は見違える姿となって輝きを取り戻した。

 喜光寺の創建は721年。古くは「菅原寺」と呼ばれていたが、参詣した聖武天皇から喜光寺という寺号を与えられたという。行基はこの喜光寺を東大寺の大仏建立の勧進の拠点として全国を行脚した。行基が東大寺造営に当たって喜光寺本堂を参考にしたという伝承もあって、本堂は〝試みの大仏殿〟とも呼ばれている。現在の本堂は室町時代の1499年の再建で、国指定の重要文化財。行基はこの寺で82歳の生涯を閉じた。喜光寺はその命日の3月2日に毎年「行基會大祭」を開いており、今年もご遠忌法要や柴燈大護摩供養、相撲甚句の奉納などを予定している。

 南大門は朱塗りの楼門様式で、450年ぶりに復興された。左右に祀られた阿形と吽形のブロンズ像(高さ3.3m)は彫刻家中村晋也氏(文化勲章受章者)の作。仏舎利殿はこの南大門を入って左手の境内西南角に位置する。黄金色の宝珠がまばゆいばかりの輝きを放つ。殿内中央にインドで製作された釈迦像が祀られ、壁面は「千佛」として信者の位牌や遺品などを安置する「永代供養室」に当てられる。当初3月20~21日に落慶法要を予定していたが、コロナ禍により延期されることに。ただ開眼の法要はひと足早く2日の行基會大祭のときに行うそうだ。

 創建当時の本尊は不明で、今は平安時代の木彫寄木造りの阿弥陀如来坐像(重要文化財)が本尊として祀られている。像高は2.33m。脇侍は観音菩薩と勢至菩薩。傷みが激しい本尊は保存修理に出されていたが、昨年5月、坐像本体の修復が終わって本堂に戻ってきた。台座の蓮台は来年、光背は2025年に修理が完了する見込み。寺復興の浄財集めの一環として続くのが「いろは写経」の奉納(納経料2000円)。山田法胤住職の発案で始まったもので、写経は南大門上層の内陣に収められる。

 境内には万葉歌碑に続いて2010年には会津八一(1881~1956)の歌碑も立てられた。「ひとりきてかなしむてらのしろかべに 汽車のひびきのゆきかへりつつ」。八一は大正時代に二度一人でこの寺にやって来た。その時、荒廃した寺の惨状を目の当たりにし深く嘆いてこの歌を詠んだという。八一が100年後の今の姿を目にしたら、どんな歌を詠むのだろうか。喜光寺はハスとミズアオイの栽培にも取り組んでおり、花の寺としての知名度も高まっている。

【山田法胤著『ブッダに学ぶ とらわれない生き方』】

 薬師寺長老で喜光寺住職の山田法胤師は「薄墨桜」で有名な岐阜県根尾村(現本巣市)のご出身。7人きょうだいの上から6番目。父親は戦後まもなく事故で亡くなっていた。「男の子が5人もおるんやったら、一人ぐらい坊さんにしてもらったら」。母親へのそんな勧めもあって、中学3年のとき薬師寺に入山した。1956年のこと。当時の薬師寺管主は橋本凝胤師、その一番弟子が高田好胤師だった。67年から約30年間管主を務めた好胤師は〝アイデア和尚〟として修学旅行の誘致や写経勧進による伽藍復興などに尽くした。

 

 この間、山田師も伽藍担当主任として生徒たちの案内役を担当し、執事長、副住職を経て2009~16年、法相宗管長・薬師寺管主を務めた。本書は管主時代の11年7月に出版された。この年3月には東日本大震災が発生、福島第一原発事故で安全神話はもろくも崩れ去った。その時繰り返し使われた言葉が「想定外」。これに対し山田師は「想定外とは人間の理解不足にすぎない」とし、「人間はもっと謙虚に自然の叡智に学ばなければならない」と指摘する。

 出版の直前、薬師寺では国宝東塔の大修理着工の法要が営まれた。列席者には白いご飯に梅干が一つのった日の丸弁当が配られた。「大震災の復興を願いつつ、私たちの心も復興したい。そのことを噛み締めるために、みんなで60年前のご馳走だった日の丸弁当を食べました。西洋的文明でいくのか。自然のなかにかたよらない尊い生き方を考え、動物も鳥も魚も共存する生き方をするのか。とらわれない心で、日本の未来を考えたのです」。それから10年。東塔は大修理を終えた。コロナ禍で落慶法要の日程は未定だが、それに先立って3月1日から内陣の一般公開が始まった。

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<ペアルケア・ヒポキルティフローラ> 目を引く珍妙な花姿

2021年02月23日 | 花の四季

【原産地はエクアドルなど南米北部の熱帯雨林】

 イワタバコ科ペアルケア属の常緑多年草。学名は「Pearcea hypocyrtiflora」で、日本の園芸界ではその名前のまま流通している。ペアルケア属は南米を中心に20種ほどが分布する。このヒポキルティフローラも南米北西部に位置するエクアドルやコロンビア、ペルーなどの標高700~2500mの熱帯雨林に自生している。

 最大の特徴は何と言っても風船のようなユニークな袋状の花の色と形。その姿は一見エノキダケに着色したキノコの仲間のようにも見えてしまう。草丈は15~20cmほど。花の色は鮮やかなオレンジ色で直径1~2cm。表面は短い毛で覆われ、中は空洞になっている。葉は楕円形で濃緑色~赤褐色。葉脈がくっきりと美しい縞模様を描いており、観葉植物としても楽しめそうだ。

 鳥媒花で、南米に多いハチドリに花粉の送粉・受粉を行ってもらう。ハチドリはハチのように羽をブンブンと高速で羽ばたかせホバリングしながら蜜を吸う。その羽ばたきは1秒間に50~80回にもなるそうだ。空中で静止したまま長いくちばしを球状の花の中に挿し込み、奥に蓄えられた甘い蜜を吸うのだろう。

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<菅原天満宮> 恒例の盆梅展、今年は室内展示取り止め

2021年02月21日 | 花の四季

【「菅原八宝梅」など約70種100鉢がずらり】

 暖かい陽気に誘われて20日、菅原道真ゆかりの菅原天満宮(奈良市菅原町)で始まった「盆梅展」に出かけた。前回訪ねたのが2013年なので8年ぶり。例年の展示会場は本殿の建物内と隣接する境内だが、今年は新型コロナで密を避けるため室内展示を取り止め屋外展示だけになっていた。会場には丹精込めて育てた約70種100鉢の盆栽が並ぶ。

 入り口手前に「思いのまま」という白梅の古木があった。チラホラ咲き始めたばかりだが、黒くて太い重厚な幹が存在感を放つ。天満宮の法被姿で水やりしていた男性に尋ねると、樹齢は約100年とのこと。そして「野梅系の梅には早咲きのものが多いが、この梅のような豊後系は遅咲きが多い」と教えてくれた。今年は暖かい日が続いたため例年より開花がやや早く、全体としては「七分咲きぐらい」という。

 菅原天満宮に因んで命名された「菅原八宝梅」という大きな盆栽があった。8種類の梅を接ぎ木したとのことで、よく見ると枝ごとに咲く花の色や大きさなどが微妙に異なっていた。「菅原の早乙女」は実生から育てたもので、枝の切り口が赤い紅梅系の1種という。このほかにも「雲竜梅」という枝が上へ上へと伸びる白梅や、花弁が退化しシベばかりが目立つ「黄金梅」や「テッケン」など珍しい鉢植えが展示されていた。盆梅展の会期は3月7日まで。同天満宮は五穀豊穣を祈願する「おんだ祭り」(例年2月25日)でも有名だが、今年は規模を縮小し関係者のみによる式典とするという。

【4日後に再訪すると…】 蕾だった枝垂れ梅が満開に

 24日の昼過ぎ、菅原天満宮の近くまで来たのでまた立ち寄ってみた。すると、4日前20日にはまだほとんど蕾だった地植えの枝垂れ梅が満開でピンク色に染まって、盆梅展の会場を一層華やかに彩っていた。入り口そばの鉢植えの銘木「思いのまま」も先日のちらほらからほぼ満開に。ここ数日のぽかぽか陽気で一気に開花が進んだようだ。

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<硫黄島> 米軍上陸・開戦からちょうど76年

2021年02月19日 | BOOK

【昨秋には21回目の日米合同慰霊祭】

 2月19日。太平洋戦争末期の1945年のこの日、南海の孤島硫黄島(東京都小笠原村)に米軍の海兵隊が上陸を開始した。沖合には約800隻にも上る米軍の艦船。その数日前から日本陣地に激しい空爆と艦砲射撃を繰り返していた。米軍の中には「占領は時間の問題」という楽観論もあった。事実4日後には南部の摺鉢山山頂に星条旗が翻る。だが日本軍は長期持久戦で対抗、戦闘は3月25日まで続いた。日本軍は約2万1900人が戦死したとされる(生還は約1000人)が、一方の米軍の死傷者も約2万8700人(うち死者約6800人)に達した。

 日本軍を陣頭指揮したのは栗林忠道陸軍中将(1891-1945)。梯久美子著『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官栗林忠道』によると、指揮官に指名したのは首相の東条英機で、その際「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったという。アッツ島の戦いは日本軍初の〝玉砕〟で知られる。しかし栗林は自ら起草した「敢闘の誓」の一項に「最後の一人となるもゲリラに依って敵を悩まさん」と記し〝万歳突撃〟を厳禁した。栗林が米軍を迎え撃つため練り上げた戦術が島全体の地下要塞化。手作業で掘った地下壕の全長は約18kmにもなった。だが1カ月余に及ぶ抵抗もむなしく最後を迎える。栗林は大本営宛ての決別電文に辞世の句を添えた。「国のため重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」。最後の生存兵2人が投降したのは終戦から3年半後49年1月のことだった。

 日本守備隊の中に竹西一(1902-45)という軍人がいた。男爵だったため〝バロン西〟という愛称で呼ばれた。馬術障害飛越競技で1931年のロス五輪に出場し金メダルに輝いた国民的英雄だ。硫黄島には戦車第26連隊長として派遣された。西にとって総指揮官栗林は陸軍士官学校騎兵科の大先輩。城山三郎は短編『硫黄島に死す』で西の栄光の軌跡と壮絶な最期を描いた。「城山三郎 昭和の戦争文学」(全6巻)の第1巻冒頭に収められている。

 米軍上陸から6日目の2月25日、西部隊の兵士が逃げ遅れた米兵を撃った。西は倒れた米兵を「軍医の手に渡すと共に、自ら訊問に当たった。彼は母親からの手紙を持っていた。(母は、お前が早く帰ってくることだけを待っています)と、あった。西は、ふっと泰徳のことを思った。軍医に最善を尽くしてくれるようにたのんだ」。泰徳というのは西の長男。その米兵は翌朝死んだという。約1カ月後の3月20日、西部隊は火焔放射器による襲撃を受け、西は顔に重いやけどを負い片目を失った。2日後、西はその異様な形相で「突撃!」と壕を飛び出すと、300m先で機銃掃射を受け両足に貫通銃創を負った。西はそばにいた見習士官に「おれを宮城に向けてくれ」と命じた後、銃口をこめかみに当てると「隻眼でいたずらっぽく笑い、ついで、引金を引いた」。

 1974年秋、200人余の大型墓参団を乗せた大型船が東京・竹芝桟橋から硫黄島に向け出航した。船には西連隊長の長女も乗っていたという。この墓参を企画したのは元硫黄島警備隊司令だった和智恒蔵(1900-90)。戦闘が始まる前に本土帰還を命じられた和智は僧侶となって、残りの人生を日米両軍の慰霊のための活動に捧げた。その和智を主人公にノンフィクション作家上坂冬子は『硫黄島いまだ玉砕せず』を書いた。和智は「硫黄島協会」を設立したり、アイゼンハワー、ケネディ両大統領に日本兵の遺骨収集の嘆願書を送ったりした。和智の元に米兵が記念に持ち帰った日本兵の髑髏(どくろ)が郵送されてきたこともあった。和智と米国側の退役海兵隊員の尽力で、1985年2月には硫黄島で日米合同の式典が開かれた。和智の発案で「名誉の再会」と名付けられた。昨年秋には21回目の合同慰霊祭が行われている。

 硫黄島の戦いは文学作品の題材となったほか映画化も相次いだ。最初の映画はジョン・ウェイン主演の『硫黄島の砂』(1949年)。近年では2006年にクリント・イーストウッド監督の2本の米国映画が公開された。『父親たちの星条旗』では摺鉢山に星条旗を掲げた6人の家族や生還者のその後の姿を追っている。6人のうち3人は戦死し、生還者3人は帰国直後、戦争の経費を捻出する戦時国債の宣伝に駆り出された。ただ生還者の1人は家族に硫黄島について口にすることなく、一時は毎晩涙を流し続けた。別の1人はアルコールに溺れ何回も逮捕された。

 もう1つの映画『硫黄島からの手紙』は日本側からの視点で描かれた作品で、渡辺謙が総指揮官の栗林中将を演じた。上官の体罰を受ける西郷という若い日本兵を栗林が助ける場面から始まる。西郷を演じたのは二宮和也(嵐)。オーディションで監督の目に留まり、準主役に抜擢された。パン屋をやっていた西郷は身重な妻を残して召集された。栗林のメッセンジャー役として奔走した西郷は栗林から最後に「誰にも分からないように埋めてくれ」と託される。クリント・イーストウッドはこの2つの作品を通して何を描こうとしたのか。それは狂気というほかない戦争の愚かさや若者を送り出した家族の悲痛な叫び、そして生還者たちの癒えることのない心の痛みだったのではないだろうか。

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<キバナアマ(黄花亜麻)> 「雲南月光花」という美しい別名も

2021年02月17日 | 花の四季

【原産地は中国南西部~インド北部、パキスタン】

 アマ科キバナアマ属の常緑小高木(高さ0.5~1.5m)で、中国南西部からインド北部、パキスタンにかけて分布する。日本には明治初期に庭植えや鉢植えの観賞用として入ってきた。晩冬から早春にかけ、鮮やかな黄色の5弁の花を付ける。花冠の径は4~5cmほど。株立ち性で株が地際から叢生する。

 その明るい花の色や原産地の地名から「雲南月光花」という別名を持つ。和名は花姿が青紫色のアマに似ることから。アマは古くから種子や茎が亜麻仁油、繊維リネンの原料として利用されてきた。英名は「イエロー・フラックス」(フラックス=アマ)。早春に咲き、小枝が長く伸びると枝垂れ状になることから、中国では「迎春柳」とも呼ばれている。

 学名は「Reinwardtia indica(レインワルティア・インディカ)」。属名はドイツ生まれのオランダの植物学者カスパー・カール・ゲオルク・ラインヴァルト(1773~1854)への献名。種小名は「インドの」を意味する。ラインヴァルトは当時オランダ領のインドネシア・ジャワ島の「ボゴール植物園」初代園長。園内に多くの植物を植栽して東洋最大規模の植物園への礎を築いた。

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<アリドオシ(蟻通し)> 枝に細長く鋭いトゲ

2021年02月15日 | 花の四季

別名「一両」、洒落に「千両万両有り通し」】

 アカネ科アリドオシ属の常緑小低木。高さは30~60cmで、山地のやや乾いた林の下に生える。国内では関東以西から沖縄にかけて自生し、海外では朝鮮半島南部や東南アジア、インドなどに分布する。枝に針のように尖った長さ1~2cmのトゲを持つ。和名はこのトゲが小さなアリさえ突き通すほど鋭いことから名付けられた。学名は「Damnacanthus indicus(ダムナカンサス・インディカス)」。属名はギリシャ語の「立派な、優れた」と「トゲ」の合成語、種小名は「インドの」を意味する。

  5月頃、先端が4つに裂けた長さ1cmほどの漏斗状の白花を付ける。その後、秋から冬にかけて小さな球果(径約5mm)が赤く熟す。別名に「一両」。これは同じような赤い実を付けるセンリョウ(千両)やマンリョウ(万両)に比べると、実付きが悪くて印象が地味なことから。上には別名「百両」のカラタチバナ、「十両」のヤブコウジもある。ただアリドオシは実が長く枝に残るため、赤い実と白い花を同時に観賞できることもある。

 縁起のよい植物とされ、関西などでは正月の床飾りに使われることもあった。洒落に「千両万両有り通し」。縁起を担いで庭にアリドオシをセンリョウ、マンリョウとともに植えると、年中お金に困らないというわけだ。都道府県のレッドリストでは山梨や埼玉、福井県などで絶滅危惧種に指定されている。変種に葉が大きいオオアリドオシ、樹高が低いヒメアリドオシ、日本固有種でトゲのないリュウキュウ(琉球)アリドオシなどがある。

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<蝶々> 2月半ばに早くもヒラヒラと!

2021年02月13日 | アンビリバボー

【開花まもないリュウキンカの花に】

 春めいた暖かい陽気になった2月13日のお昼前。ぼんやり庭を眺めていると、蝶が一匹ヒラヒラと舞っていた。やがて鉢植えのリュウキンカの花へ。早速蜜を吸い始め、花から花へ移っていた。近づいて見ると羽にはぽつぽつと小さな斑点。羽は白っぼいが少し黄みがかっている。昆虫図鑑をめくると、どうもキチョウの秋型の可能性が大きいようだ。一足早い春の使者の訪れに心がほっこり温かくなった。

 蝶を招いたリュウキンカは1週間前の6日に咲き始めたばかり。キンポウゲ科の多年草で、「立金花」の名の通り直立した茎の先に黄金色の鮮やかな花を付ける。寒さに強く、冬から初春にかけハート形の艶やかな葉を展開、花の期間はかなり長い。こぼれ種で増殖するため、今では庭のあちこちで芽を出している。

 今年の啓蟄は3月5日。虫たちはその頃目覚めて活動を始める。それにしてもまだ2月半ば。蝶が舞うにはちょっと早すぎるのでは? 全国の気象台は毎年「生物季節観測」として動植物の開花日や初見日、初鳴きなどを調べてきた。そこで奈良気象台のモンシロチョウの初見日をネットでチェック。すると2018年が3月29日、19年が3月28日、20年が3月24日で、平年の初見日は3月27日となっていた。あくまでもモンシロチョウの場合だが、1カ月半近くも早いことになる。過去で最も早かった初見日を教えてもらおうと気象台に電話したが、週末ということで残念ながらつながらなかった。

 この生物季節観測、動物ではモンシロチョウのほかアブラゼミ、ホタル、ウグイス、ツバメ、ヒバリなど23種が対象だった。ところが気象庁が観測の大幅縮小の方針を打ち出し、動物の観測は今年から全て廃止されることになった。34種が対象だった植物も梅、桜、アジサイ、ススキ、イチョウ、カエデの6種に限定されるという。全国統一基準で観測が始まったのは今から約70年前の1953年。長い歴史を持ち、季節の移り変わりを表す指標の一つとして定着していただけに、誠に残念というほかない。

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<中島みゆき> ライブ映像をたっぷり2時間!

2021年02月12日 | メモ

【コロナ禍でとんとご無沙汰のカラオケ店へ】

 数年前から暇を見つけてはカラオケ通いを続けてきた。ところがこの新型コロナウイルスのせいで昨春以降はほとんど巣籠もり状態。外出も図書館や書店、DVDのレンタル店、それに食品スーパーと近隣ばかりで、カラオケ店はすっかりご無沙汰していた。そこで祝日の2月11日久しぶりの一人カラオケに。中島みゆきの歌と映像を存分に堪能してきた。

 カラオケ店発行の会員カードのスタンプを数えたら、3年前2018年には20回も通っていた。友人知人との同伴もあったが、ほとんどはお一人様。翌19年は「伊庭の坂下し祭り」(滋賀県東近江市)の見物で不覚にも転倒して足首を骨折。そのため春から秋まで入院やリハビリ、松葉杖生活が続いたが、それでも1年間に12回行っている。

 入院・手術中に同年輩のKさんと“同病相憐れむ”仲に。退院後も見舞いを兼ね度々拙宅を訪ねてくれ、そのうち彼も大の中島みゆきファンと分かった。彼女のレコードはほとんどそろえているという。そこで19年秋カラオケに初めてご一緒。以来ほぼ2週間に1回のペースで通うようになり、二人カラオケは2020年春3月まで続いた。ところがまさかのコロナ龍来。緊急事態宣言は出るし、志村けんさんや岡江久美子さんは亡くなるし、カラオケ店も一時臨時休業になるわの大騒ぎ。Kさんとはコロナ終息後の再会を約しているのだが……。

 久しぶりの一人カラオケでの選曲はやっぱり中島みゆき。「本人歌唱」の映像をあいうえお順に次々と入れる。「浅い眠り」に続いて「糸」「with」「歌姫」「この空を飛べたら」「時代」「空と君のあいだに」「宇船(そらふね)」「地上の星」「ヘッドライト・テールライト」「麦の唄」など。数えたら21曲もあった。力強く伸びやかな歌唱と味わい深い歌詞、凛とした立ち姿と目力。映像に見入ったり、本人の歌に合わせデュエットしたりするうち2時間があっという間に過ぎた。

 〆の1曲は威勢よく軍歌の「空の神兵」(作詞梅木三郎、作曲高木東六)。作詞家なかにし礼は「(軍歌に多い)七五調で詞を書かない」ことを鉄則とした。多くの兵士が「扇情的な魔性のリズムに追い立てられ死を美化されて死んでいったことを忘れないため」という。この「空の神兵」も七五調。「藍より蒼き大空に大空に たちまち開く百千の 真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り 見よ落下傘空を征(ゆ)く 見よ落下傘空を征く」。高峰秀子は生前「涙節はいや。軍歌もだめ。だけど“空の神兵”だけは名曲」と話していたそうだ。

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